2008年8月27日水曜日

医師の刑事告訴は現状医師不足の原因とは言えない

医療ミスの刑事告訴について」に書きましたが、いまだに小倉弁護士のblogはこの問題が取り扱われています。

最近まとめっぽいエントリがあったのでご紹介。
la_causette:デマの効果

前の日記にも書いたとおり、私も医師の刑事告訴は医師のなり手をますます減らしてしまうと思ってましたが(TVなどでそう主張されるので)、その考えを一部あらためました。

医師の数が足りてないのは、あきらかに医師自身のせいなのです。訴訟が起きるかどうかは間接的なものにすぎません。

小倉弁護士のblogであきらかにされているように、医学部卒しか医師になれず、かつ医学部を卒業して医師にならないひとが統計上かなり少ないことから、医師の数不足の原因はまずは医学部学生数の少なさにあります。
そして、医学部学生数を現在の数のまま増やしてこなかったのは、まさに医師のロビー活動のせいなのです。何十年も前から定期的に国会で医師の数の問題がとりあげられると医師会かどっかの医者が証人に立って、医師の数を増やす必要はないという答弁を繰り返しています。これは記録が残っているのでたしかなことです。
次の原因は、開業医が勤務医に比べて条件がよすぎることです。同じ医者でも、街の老人世間話相手にしている人(失礼)と、高度な医療を扱いかつ 24時間体勢で勤務環境が厳しい勤務医とでは、報酬に差があって当然です。勤務医の方に経済的メリットをつけるべきですがそうはなっていません。

専門職分野であり単純に経済効率を追い求めるわけにはいきませんが、一般的な経済の問題として考えると、医師不足の原因はあきらかに、参入障壁の高さであり、かつ医師の中でも規制や専門の移動の制限によって、勤務形態や担当科といった労働内容に見合った需給のバランスがとれていないことのように思えます。

だからといって規制を完全撤廃しろというのは違うと思いますが、でも、現時点では医師の刑事告訴が医師不足を招いているという事実はないという正しい認識は必要に思いました。もっとも、今後そうなる可能性はありますが。

なので、医師の刑事告訴のことをもって医師不足と労働環境の悪化をうったえるのは筋違いもいいところで、医師不足と医師の労働環境改善については、別途取り組むべき施策がたくさんありそうです。

2008年8月13日水曜日

レコード店と共同体的記憶

去年まで、渋谷にCiscoというレコード店があったのですが閉店になりました。HouseやTechno、Hip-hopのアナログ盤を専門に扱うレコード店でした。
最近、YouTubeをあさっていたら、その閉店前夜のゲリラライブの映像がありました。SEEDAがrapしてるようですね。



閉店当日の様子は、スペアザのblogで。
閉店大パーティー

どうして今更これを取り上げたかというと、フロッグマン・レコーズやエレ・キングのKen=Go→さんのblog記事を見つけたからです。

消えゆく宇田川町の灯り CISCO全店クローズ

このblogを読んで書きたいことが2つ。

まず、ここ数年で急速にプロのDJたちもアナログ盤を使わなくなってきているという事実。みんなデジタル化していっているようです。
CDでさえもいまや斜陽産業になりつつあるのですから、当然と言えば当然なのかもしれませんが。

そして、もう1つ。

指摘されているとおり、(マニアックな)レコード店にはレコードを売るだけではなくて、コミュニティを形成するという重要な役割があったのでした。

レコード店の壁に書かれている有名DJのサイン、店にかかる音楽、ちらし、そういうものを通じて所属意識とまではいかないまでも、共通の共同体的記憶を共有するという機能を果たしていたのでした。

以前、「マスメディアと共同体的記憶とYouTube」にも書きましたが、昨今急速に進むデジタル化は、人々から共同体的記憶を奪っていっているように思えます。

共同体的記憶を形成させるメディアとしては、マスメディアもそうですし(力道山、巨人戦、金どん)、建築や都市も共同体的記憶を作るメディアだと言えます。つねにそこにあるものとして、多くの市民の目の前に存在するものとして、建築が一種の象徴となり、市民の共同体的記憶に役立っているのです。たとえば、わかりやすいものでは広島の原爆ドーム。そんな大きなものでなくても、神社や寺、ふとした街角や公園にも、(複数人がそこで遊んだなぁというようなレベルのものでも)共同体的記憶は宿るのです。
Ciscoレコード店もまさにこのような建築的な共同体的記憶の機能を果たしていたのでした。

たしかに、デジタル化/オンライン化により、SNSなどのWeb2.0的な新たな共同体形成機能が提供されていますが、それがマスメディアや建築による共同体的記憶にとってかわれるようなものになるのでしょうか。
それとも、今後、共同体的記憶というものはなくなっていくのでしょうか。あるいは、まったく別のものとなっていくのでしょうか。共同体的記憶のないところに、人々が共有できる"常識"や"共通感覚"というものが成り立ちうるのでしょうか。

グローバリズムは世界の都市を同じ景観にしていっているという批判があります。たしかに、どこに行っても同じような店があり、同じように人々が生活するようになってきています。
逆に言うと、グローバルな共同体的記憶や共通感覚が形成されつつあるとポジティブに捉えることができるのかもしれません。はたしてそれが可能なのかは疑問ですが。

そういえば、まだ十五歳くらいのころの奥菜恵を見たのも渋谷のCiscoでした。ほんとうにキラッキラと輝いていました。初めて芸能人のオーラを感じた瞬間でした。
オンラインではこういう体験も難しいですねぇ。

2008年7月30日水曜日

アメリカの経済不調について書こうとしつつも書けず小ネタをTumblrに

最近、また更新できていません。
あまり、ビビッとくるニュースがないのもあるのですが、最近のアメリカの経済を見てそれについて書こうとしながら自分には荷が大きすぎて筆が止まっているというのが実際です。

以前読んだ

人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか
1997年――世界を変えた金融危機

などの本には、ざっくりまとめると、90年代後半以降、世界の資本主義のルール(パラダイム)が変わってしまっており、アメリカが財政赤字を膨らませつつ、ドルをうまく操作することと(住宅などの)内需拡大により資金(オイルマネー等)をどんどん吸い込みかつ世界へと投資していくことで、いわば世界のアメリカ銀行として機能する新しい時代になっている(日本もその時代に合わせて行動しないといけない)、というようなことが書いてありました。
私なりに解釈すると、世界が経済(貿易)に関して国家間もしくは国際的に(協定などで)協調していくというよりも、アメリカ銀行という信用機関を通して経済活動を行っているということになります。

ほんとうにパラダイム変換してしまっているのか、それともやっぱりただのバブルなのか、専門家にも賛否両論だと思いますが、少なくとも以前はパラダイム変換側が圧倒的優勢だったもののここ数カ月のアメリカ経済不調でその立場が危うくなりさらに賛否両論になってきているように思えます。

パラダイムは変わってしまったが、変換直後の初期幸福状態が持続するわけではないということでしょうか。

というようなことを最近のニュース記事を交えて描こうとしていましたが、筆が折れたままです。。。

その間も、Tublrの方は気軽に更新していて、こっちの方が更新頻度的には本体っぽくなってきました(笑)。
qog's tumblelog

Tumblr、気軽に引用できるのはいいですね。

2008年7月21日月曜日

フリービジネスの6類型

CNet:今こそ求められるフリービジネスのデザイン・スキル

クリス・アンダーソン氏による、無料で使えるインターネット・サービスのビジネスモデル類型化です。6パターンにまとめられています。

  • Freemium(無料簡易版+有料完全版)
  • Advertising(広告)
  • Cross-subsidies(相互補完)
  • Zero marginal cost(ゼロ限界費用)
  • Labor exchange(労働交換)
  • Gift economy(贈与経済)
オリジナルは、"Free! Why $0.00 Is the Future of Business"。

今となっては、かなりの部分がAdvertisingに収束しつつあるように思えます。後は少数のFreemiumと、WikipediaなどのGift economyでしょうか。
その意味で、インターネットでのAdvertisingでかなりのシェアを握っているGoogleがいかに強いかがわかります。

ただ、インターネット・ビジネスも広い意味でのブロードキャスティングと考えると、それほど革新的なビジネス・モデルだとも言えないかもしれませんね。

とくに無線の世界では、地上波TV局が広告モデルですでに情報配布を行っていますし、個人(ハム)無線では贈与的に情報のやり取りがなされ、BSなどの一部無料放送ではFreemium的ビジネスモデルが採用されています。

今までの"もの"や"サービス"と比較すると対価を払わないインターネット・ビジネスが革新的に見えますが、そもそも情報をばらまくという意味で(無線)ブロードキャスティングと同じ枠組みで考えればそのビジネスモデルも不思議でもありません。

初期のインターネット・ビジネスは、情報を"もの”としてビジネスを捉えようとしていたので失敗したのかもしれません。あるいは従量課金が成立してきていた"通信サービス"として考えていたので失敗したのかもしれません。
今となっては、昔から情報を取り扱ってきていたブロードキャスティングビジネスをお手本とすべきだったことがよくわかります。

2008年7月16日水曜日

8割が死刑賛成という調査の偏り

今は、『「社会調査」のウソ』という本を読んでいます。
いかに巷に溢れる「社会調査」なる統計調査やアンケート調査があやしいものかがよくわかります。メディア・リテラシーを鍛えるためによさそうです。Amazonでの評価も高いですね。

これで思い出したのが、「日本人の8割が死刑に賛成」という世論調査結果です。(またまた、死刑の話ですみません)

他国で拮抗しつつも反対の方が多いテーマが、ある国で8割以上賛成となると、ちょっと訝しいものを感じないでしょうか。まるで中東諸国や社会主義国での得票率のようです。
洗脳されているか、情報操作されているのではないかと感じてしまいます。

これにはからくりがあります。

おそらく「日本人の8割が死刑に賛成」というのは、内閣府が実施している世論調査の結果(下にリンクを列記)だと思うのですが、死刑に関する調査は、最近では5年に1回ほどの「基本的法制度に関する世論調査」の中で行われています。この調査での死刑の賛否に関するアンケート文言は、次のどちらかを選ばせるようになっています(それ以外という選択肢もある)。

  • 「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」
  • 「場合によっては死刑もやむを得ない」
「どんな場合でも~べきである」と問われたら強い信念を持つ場合以外はたいてい逡巡します。「場合によっては~やむを得ない」と限定的に言われればそちらの方が賛成しやすいです。
死刑反対論者でさえ、国家転覆等の場合はやむ得ないと考えている人もいるでしょうから、このアンケートではそういう人はその他か賛成側に回ります。

このような質問文言から、賛成81.4%、反対6.0%(平成16年)という数字が抽出されメディアを踊っているわけです。

この調査は、内閣府で実施されていますが、関係省庁が法務省とされているとおり実際の作成は法務省でしょう。

ちなみに、類似の調査は昭和31年から行われているようですが、その頃からはアンケート文言のニュアンスが変わってきていて興味深いです。

1980年ごろまでは、死刑廃止という意見もあるがそれをどう思うか?というようなアンケートの問いかけ方でした。
たとえば、1980年の調査では、「あなたは,重い罪を犯した人の場合でも,実際にはなるべく死刑にしない方がよいと思いますか,そうは思いませんか」というアンケートがあり、死刑にしない方がよいが25.3%、そうは思わないが41.7%です。
圧倒的に死刑賛成ですが、この数字であれば直観的にまだ民意を反映していると思えます。
ちなみに、1967年も同じ質問がなされていますが、なんと死刑にしない方がよいが41.6%、そうは思わないが40.0%でした。

もちろん、最近は厳罰化の流れにあるので、1980年よりももっと死刑賛成が増えているとは思います。

ただ、どうして民意が厳罰化の流れにあるのかは注意深く考えないといけないでしょう。
犯罪や殺人事件自体は戦後ずっと減ってきているのです。
また、興味深いことに、1956年の最初の調査のときから、「最近凶悪事件が多いと思いますか?」という質問に対して76%もの人がそう思うと答えています。1967年も「凶悪事件は増えているか?」に73.9%もの人がそう思うと答えています。1980年は84.1%、1989年は90.8%とたしかにパーセンテージは上がってきていますが、少なくとも1956年当時から凶悪犯罪が増えているという意識は国民の中にあったと思われます。つまり、いつの時代も「物騒な世の中になったなぁ」とみんな獏と感じているということです。

世界が、中国でさえ死刑執行数を減らしているのに、日本だけが増やしているという現実はどう捉えればよいのでしょうか。

あと、死刑は日本の文化だという話もありますが、ヨーロッパでさえも昔は見せしめ的に死刑執行されていました。ギロチンとか有名ですね。死刑は世界中に存在しました。が、今は多くの国で執行しなくなってきています。多くの国は死刑を文化として持っていましたが、それを捨ててきました。
なので、問題の立て方としては、日本はどうしてその文化を固辞するのかですね。
[Update]
自分も偏りのある表現だったかもしれません。より正確には、どうして死刑廃止国は死刑という文化を捨てたのか、日本はその理由に追随する必要はあるのか、でしょうか。

【死刑に関する世論調査リンク】
昭和31年:死刑問題に関する世論調査
昭和42年:死刑に関する世論調査
昭和50年:犯罪と処罰等に関する世論調査
昭和55年:犯罪と処罰等に関する世論調査
平成元年:犯罪と処罰に関する世論調査
平成6年:基本的法制度に関する世論調査
平成11年:基本的法制度に関する世論調査
平成16年:基本的法制度に関する世論調査

リスクと資産のアンバンドル

池田信夫blog:なぜ、アメリカ経済は崩壊に向かうのか

「リスクと資産をアンバンドルする証券化のメカニズム自体に落とし穴がある」という指摘になっとくです。

もしこの落とし穴をほんとうに防ぐためには、株式を含めた証券化をすべて禁止し資金が必要な場合にはすべて負債で調達するということにすればよいことになります。負債の場合は、リスクが顕在化したときに借り手にとってすべての資産が奪われてしまうため、無責任な借金はできません。

でも、それではリスクの高い事業は実現できなくなってしまいます。リスクが高いものに貸すときはそれなりの高利にしないといけないでしょうから、そうなると事業を行う借り手はお金を借りることができなくなってしまいます。

リスクが高いものにも資金が回るようにした方が経済的発展のためにはよいけれども、そうするとリスクをとらない危なっかしい資金提供が出てしまうというジレンマです。

ただ、素人的には、派生証券はやはりリスクと資金のアンバンドルが直接投資より強まるように思えるので、それに対する対応は有効な気もしますがそうでもないのでしょうか。

XMLの今後の運命

CNet:グーグル、XMLに代わるデータ交換ツール「Protocol Buffers」をオープンソース化

先週のニュースですが、GoogleがProtocol Buffersをオープンソースとしてリリースしています。

Protocol Buffersは、Google内で利用されているというデータ交換の仕組みで、専用の言語でデータ・フォーマットを定義してコンパイルすると、JavaやPython、C++用のクラスが生成され、そのクラスを使ってset/getやserializeができ、ネットワークやディスクに書き出せるというものです。

異なる言語やバージョンでのデータ交換で互換性を持たすために、今まではXMLを使おうという流れでしたが、Googleのようにデータの大量処理が必要なシステムだとXMLでは捌ききれなかったために、新しい仕組みを用意したということのようです。

たしかに、WebServiceしかり、一時期データのやり取りはなんでもかんでもXMLだという時代がありましたが、必ずしも成功していないところがあるように思えます。
XMLを導入することで柔軟性が増すということだったのですが、けっきょく最後はRDBに格納するためにデータ定義を柔軟に変更するなどということには対応できず、また、XML Parserが非常に重たいためにつねにパフォーマンス上の問題を抱えていました。

異なる言語間での相互運用性が高まったのは事実ですが、けっきょく柔軟性は高まらず重たい処理が増えただけで、相互運用性のメリットの割に払われるコストが高すぎたようです。

また、柔軟性を高めるため、XML DBを利用することも重要な検討項目になっていますが、XMLありきでデータの格納もXML DBにしようということであれば本末転倒な気がします。

XMLというツールが目的として一人歩きし、なんでもかんでもXMLということになって自滅していったようにさえ見えます。

そうこうするうちに、Web2.0の世界ではRESTが使われだし、XMLの出番は減ってきているように思えます。
さらには、Webの世界では、単純な"変数=値"を束ねたセットでデータとして事足りることが多く、複雑に対応できるXMLやさらにはRDBでさえ不要だという流れさえ部分的には見えます。

RDBの世界は、データ運用や厳密なACIDの実現で豊富な実績やノウハウがあるため、今後も使われていくでしょうが、なんでもかんでもRDBに入れておくということではなくなっていくかもしれません。
XMLはなおさら使われる場所が少なくなるように思えます。

GoogleのProtocol BuffersやHadoopは、XML(やRDB)ありきではなく、データを適材適所に取り扱うためにどうすればよいかということをもう一度考え直させるきっかけを与えてくれているのではないでしょうか。

2008年7月15日火曜日

自動車のモジュラー化の行方

日本のもの造り哲学』藤本隆宏でも書かれているように、モジュラー化され水平統合されていくエレクトロニクス業界と、系列業者間の擦り合わせで垂直統合されている自動車業界は、一見好対照なイノベーションの起こし方をしている業界です。

中国やインドの自動車業界は、自動車のモジュラー化を進めて低価格な自動車を製造し始め急成長しているようですが、そんな中国の自動車業界に急ブレーキがかかってきているという記事(書籍の紹介)がありました。

Tech-ON:転機に立つ中国の民族系自動車メーカー

中国の自動車が安全試験で低い評価をとったことがきっかけのようです。

自動車のような人の命に関わる製品のモジュラー化はどのようにどこまで進むのかが今注目されていると思いますが、この記事では、中国発でのこの方向の進化には一定の限界があるだろうとしています。それよりも自動車先進国でもっと抜本的なイノベーションが起こり、一気に世界が中国化することの方があるのではないか、という指摘です。

クラウド・コンピューティング現状図解

media pub:クラウドコンピューティング市場/技術を俯瞰する図

media pubにクラウド・コンピューティングを図解した絵が引用されていました。
わかりやすいかというと、うーんというかんじですが。

去年〜今年のbuzzワードとして。

2008年前半におけるクラウンド・コンピューティングというキーワード

ITPro:実録:クラウド・コンピューティング特集記事ができるまで

すでにニュースとして流れている情報ばかりですが。
この第2四半期にクラウド・コンピューティング関連の発表がいかに多くなされたかがよくわかります。
なんでもかんでもこのキーワードに結びつけられる傾向がありますね。
一方で、確実にSaaSやPaaSといった方向への動きがあることも事実です。

資本主義はどうしてヨーロッパで起こったのか

池田信夫blog:資本主義という奇蹟

池田信夫さんの考える資本主義なるものについて端的に述べてありたいへん参考になります。
曰く、

  1. 資本蓄積(Marx)
  2. 近代的個人の成立(Weber)
  3. 財産権の確立(North-Thomas)
  4. 法の支配(Hayek)
  5. 科学と技術の融合(Mokyr)

その上で「神の前で孤独な個人というキリスト教的な自己意識」(つまり、後の2か)がもっともコアとなるとされています。私も同感です。
2と3は密接に関係するとされていますが、4も2と密接に関係します。(明文)法の支配のためには前近代的な部族社会(法ではなく因習の支配する社会)から抜け出した近代的個人が必要です。

5も非常に重要でしょう。高度な技術は西欧以外にも存在しましたが(中国や日本でさえも)、西欧の技術は科学(学問)と結びつくことによって抽象化が可能となり、世界を単純に捉えられるようになることで、漸進的な発展ではなく爆発的な発展が可能になったと思います。

こう整理してきてやはり疑問なのは、
  • 「神の前で孤独な個人」 というのは一神教であるユダヤ教やイスラム教でも発生しえたが、どうしてキリスト教(あるいはヨーロッパ)なのか
  •  科学の発展のためには、ギリシャ哲学という資産(遺産)が非常に重要だったと考えられるが、ギリシャ哲学を知っていたのはヨーロッパだけでなくイスラム圏でもよく知られていた、どうしてイスラムではなくヨーロッパで科学と技術が融合したのか
ということです。

宗教学ではよく指摘されることですが、一つには、ユダヤ教やイスラム教では、教典に非常に具体的な日常のルールまで記述してあって、教典が具体的な生活の指針にもなっていたし、法にもなっていたということがあります。ユダヤ教やイスラム教では、教典に書かれていることはまさに法(近代的なものではなく)だったのです。

それに対して、キリスト教では、教典は神の教えをイエスが伝えたものとなっており、教えは絶対だがそこに具体的に書かれているとおり生活しなければならないというものではなかったと考えられます。そのため、キリスト教では、ローマ法の伝統もあり、教典とは別に教会法という普遍法が整備されていきます。
つまり、世界を抽象化しやすい素養があったということになります。

また、その過程では、極めて排他的に正統を定義し他を排除することで(他宗教のみならず自宗教内分派まで) カトリック教会のヒエラルキーが構築されました。逆に中世以降は、このカトリックに反発する形でプロテスタントや世俗国家が発生してきます。
部族社会から人々を切り離すという意味で、こうしたカトリックやその対抗のプロテスタントや世俗国家という社会のあり方は効果的だったのではないでしょうか。
逆に、キリスト教以外の世界宗教は、部族社会の中に取り込み溶け込むことで浸透していったようにも思えます(もちろん、キリスト教世界にもきわめて非正統的なローカル社会が存在したことが知られていますが)。

部族社会から切り離された普遍世界(当時はキリスト教)を持つヨーロッパに、イスラムからギリシャ思想が逆輸入されてくることで、ヒューマニズム(人文主義)が発生します。以降、普遍的な"人間"というきわめて抽象的な自己表象や世界表象が成り立つようになり、人間を中心にした世界観から科学が発達定着し、技術と融合していったのではないでしょうか。

近代的個人が成立するとは、部族の慣習や細かい宗教教義に囚われることなく、論理的抽象的な世界観をもって自ら違う方へ決断できるということです。今までと違う方へ、大勢と違う方へと判断し、行動し、説得していくことができるということです。

と、ここまで勝手な解釈で、リンク先記事に触発されてざっと思いついたことを書きなぐってみました。

近代がどうしてヨーロッパから発生したのか、資本主義がどうしてヨーロッパなのか、ということは多くの議論を読んでいる非常に興味深いテーマです。「私たちはどこから来てどこへ行くのか」につながるテーマでもあると思いますので、けっして最終結論が出ないようにも思います。

2008年7月14日月曜日

社内SNSのWeb進化論的導入事例

社内SNS導入成功事例が当事者の方から分析されています。

ロサンゼルスMBA生活とその後:社内SNSに関するウェブ進化論的考察

『Web進化論』的な事業を大企業内で実施できたのではないかという自己評価で、読んでいてたいへん参考になりますし、刺激にもなります。

大荒れの私的録音録画小委員会

ダビング10は開始されましたが、あいかわらずもめているようです。
延期されていた文化審議会 著作権分科会の私的録音録画小委員会の第3回会合が行われたようです。が、権利者とメーカの意見は真っ向対立。

指摘されているように、消費者の観点はすっぽり抜け落ちているようです。
このままだとまた、官僚による妥協案が調整されて、本質的な部分で前進することなくものごとが進みそうです。

TechOn:「パンドラの箱を開けてしまったようだ」,大荒れの私的録音録画小委員会

TechOn:「きちんと議論するのが先」,JEITAが私的録音録画補償金に対する見解を説明

2008年7月12日土曜日

AppleTVがUpdateされMobileMe対応(パスワード対応)

日本ではほとんど評価されていませんが、自分はAppleTVの大ファンです。

引っ越しを契機に大型TVに買い替えました。同時にAVアンプとスピーカー(3.1ch)も買いそろえました。
これにAppleTVをつなぐと、

  1. iTunesで買った/取り込んだ音楽をAVアンプ+スピーカーから聴くことが可能です
    ちなみに、あまり知られてませんが、MacのiTunesからAppleTV経由で出力するよう操作することが可能です(素直にAppleTVのリモコンを使えばよい話ですが)。
  2. iPhotoに取り込んだ写真を大型TVでスライドショートして見ることが可能です
  3. iMovieで作成したムービーを大型TVで見ることが可能です
とくに、2と3は、小さい子供のいる家庭だと家族にたいへん喜ばれます。Macを覗き込んでみるよりも、大型TVでみんなで見た方がそりゃあ楽しいです。思った以上に。スライドショーに付ける音楽もスピーカーから出せますしね。

前置きが長くなりましたが、こんなAppleTVがMobileMeの登場とともにUpdateされました。

で、今までも、Wireless LAN+インターネット経由で、.Macにあげた写真や動画を見ることができたのですが、対象はパブリックなコンテンツだけでした。つまり、パスワードをかけたコンテンツは見ることができませんでした。
家族の写真などをパスワードかけて.Macにあげていると、PCやMacからは見えたのですが、AppleTVでは見れなかったわけです。

で、今回のUpdateはセキュリティパッチがメインのようなのですが、なんとMobileMe対応として上のようなパスワードをかけたコンテンツも見ることができるようになっているではありませんか。
これは、.Mac(MobileMe)+AppleTVユーザには非常にうれしい知らせではないでしょうか。

どこにもこの情報を見つけることができなかったので、ここに書いておきます。

内閣官房発の有害情報共有ネットワーク機関

政府のIT戦略本部の下に置かれた「IT安心会議」で、官民協力のもと違法情報や有害情報を共有するためのネットワークを作るということが発表されたようです。

CNet:ネット上の違法・有害情報を共有--官民ネットワーク機関が創設へ

あまりニュースになっていないようですが、メモとして書いておきます。
先日のネット規制法でのフィルタリング業者などとどのような関係になるのでしょうか。

3Dバーチャルワールドのいくつかの発表

先週は、3Dバーチャルワールド系の発表がいくつかまとまってありました。

まず一番大きかったのが、GoogleがSecond Life的なバーチャルワールドを始めたというニュースです。

TechCrunch:Googleがバーチャルワールド「Lively」を始動

まだ部屋の中と間を行き来できるだけで、屋外は存在しないそうです。また、リンデンドルのような通貨もありません。

次に、SecondLifeがIBMと相互運用を開始したというニュースがありました。

TechCrunch:IBMとセカンドライフが相互運用を発表。しかし、バーチャルワールド同志の橋渡しは不正解だ

SecondLifeは外の世界に閉ざされたクローズドな環境であることが指摘されていましたが、バーチャルワールド間での相互接続の第一歩が踏み出されました。
ただし、TechCrunchの記事で指摘されているとおり、SecondLifeがオープンにすべきなのは、他のバーチャルワールドに大してではなくて一般のWebに対して、つまり、一般のWebコンテンツをSecondLifeから利用できたりSecondLifeを一般のWebの中に埋め込んだりできることなのかもしれません。

一般のWebとの連携という意味では次の記事で紹介されているVivatyの方が進んでいるのかもしれません。

TechCrunch:Vivatyがブラウザ上での3Dを実現。まずはAIMとFacebookから

実際に、今年バーチャルワールドに対する投資も増えているようです。

TechCrunch:バーチャルワールドに大ブーム―今年だけですでに$345Mの投資

SecondLifeは一時期の話題性を過ぎ去って加入者数や利用者数が伸び悩んでいると聞きますが、バーチャルワールド自体についてはまだまだ投資が続いているようです。

また、Googleがバーチャルワールドに進出したことに伴い、次にGoogleが狙うのはどこだ?というおもしろい分析がなされています。

media pub:Googleの次の進出分野,「仮想世界」に続いて「音楽」か「旅行」か「車」か?

2008年7月9日水曜日

iPhoneまであと3日なのに

iPhoneの日本発売まであと3日、まさかのX02NK(Nokia N95)買いをしてしまいました。


元々業務用で使用していた携帯の充電池がもたなくなってきていて(見た目も薄汚くなってきたし)、そろそろ買い替えたいなぁと考えていました。

そこに、日本でのiPhone発売のアナウンスがあったので、これはもうiPhoneでしょとiPhoneを買う気満々でいました。
なにせ、家ではMac使いで、AppleTVも、.Macもフル活用していて、去年のジョブズのiPhone発表プレゼンに聞き惚れていた人間だからです。

ところがiPhone買おうと思ってからいろいろライバル製品を調べだすと、こちらもなかなか魅力的。そんなこんなでずっと悩んでいました。

そして、なんとiPhone出る3日前にSoftbankのX02NKを買ってしまいました。

X02NKは、海外ではNokia N95と呼ばれ、2006年に発表され2007年第1四半期に出荷されています。つまり、iPhoneより早く出ています。
スペック的にはiPhoneにまったく劣っていません。むしろ、すでに3G対応でGPSを備えており、カメラもオートフォーカス付きの500万画素のカールツァイスレンズで、優れている部分もあります。ただ、あのするするっと動くユーザ・インタフェース、そしてディスプレイの大きさでは完敗です。見た目もやっぱりiPhoneの方がいい(でも、N95も他の携帯に比べて見た目はかなりいいと思いますが)。

Mac+.Macユーザとしては、実はiPhoneで一番いいなぁと思っていたのがMobileMeとの連携機能です。記事を読む限りはプッシュ的にデータが同期されるようで、これはいいなぁと思っていました。
あとは、今後いろいろ楽しそうなアプリが出てきそうだなぁというのも。

では、どうしてNokia N95にしたかというと、最大のポイントは片手で操作しやすいかどうかです。自分は、携帯は(通話以外は)歩きながらか電車の中で使うことが多く、iPhoneも片手でも操作できるのでしょうが、どうしても両手が塞がってしまうイメージがありました。その点Nokia N95は片手で操作することが前提になっています。
あとは、iPhoneは初回出荷数が少なそうで、いつ手に入るのかもよくわからなかったからというのもあります。もう、今の携帯の充電池は弱弱なのです(一回話すだけで目盛りが減る)。
さらには、WirelessGateがX02NKに対応したというニュースにも影響されています。これで、月800円で山手線少し外側くらいまで無線LANつなぎ放題になるからです。

というわけで、今はN95をカスタマイズ中。
 
実は、N95は、既に海外ではN95 8Gというマイナーバージョンアップ版が去年末に出ていて(マイナーと言いながらメモリが増えるだけでなくディスプレイも大きくなっている)、さらにはN96が今年中に出るというニュースが流れています。N95自体が日本で出るまでに1年以上かかっているので、これらがいつ日本に出てくるのか、すぐ出てきたらどうしようというのがN95を買うのを躊躇する原因となっていました。
こればっかりは今後どうなるかわかりませんね。でも、もう買ってしまいました。

毎日.jpが自社広告だらけになっているそうです

ITPro:「毎日jp」が自社広告だらけに、ネット上に深いつめ跡残る


英文サイト「毎日デイリーニューズ」(Mainichi Daily News)の「WaiWai」というコーナーで低俗な記事を載せ続けていたとして批判されている毎日新聞ですが、なんと毎日新聞の運営する毎日.jpから事実上広告が消えてしまっている(自社広告のみ)ようです。

情報をアグリゲートして広告で儲けるというビジネス・モデルが定着しつつある中、広告を集めるという意味で自社のブランドイメージがより重要になってきていますね。

自分は京都出身なのでこのニュースを聞くとKBS京都(近畿放送)という放送局の倒産を思い出します。1994年、KBS京都はイトマン事件に巻き込まれて倒産してしまうのですが、ちょうどその頃、KBS京都にチャンネルをあわせると、テレビコマーシャルがすべて自社広告になっていました(あと、ゴールデンタイムに「宇宙戦艦ヤマト」の再放送していたり)。何月何日になんという番組を放送しますとか、何月何日にKBS京都でこういうイベントが行われますとか、そういうCMばかり。当時、ああもうこの放送局ダメなんだなぁと思ったものでした。ただ、その後倒産したものの廃局にはならず現在まで放送を続けていますが。

毎日.jpは毎日新聞社にとって一事業なのでKBS京都のようにはならないと思いますが、今後どこまで影響が及ぶでしょうか。
(記事にも指摘されているとおり、デジタルメディア担当者がその後昇格したりしていて、事件後の対応もよくないようです。)

2008年7月8日火曜日

韓国での市民騒動

韓国BSE騒動、政権批判へ変質・・・政治の力学とメディア

司法とメディアの馴れ合い」でも紹介したLivedoorのPJNewsに韓国のBSE騒動について、"マスメディアが煽る市民暴動"という観点からの記事がありました。

アメリカ産牛肉の輸入反対を学生がネットで訴え始めたところ、労組や宗教団体が関わるようになりすごい規模の抗議運動にふくれあがっています。いまやBSEは脇役で単なる政権批判運動になっていっているようです。

PJNewsの記事では、日本の60〜70年代の状況もひきつつ、マスメディアによって煽られる市民暴動について述べられていますが、もともと今回の騒動の発端は、PJNewsと同じような韓国で強い市民記者によるネット報道だった側面もあります。マスメディアだけでなく市民報道もまた今回の問題には関わっているのではないでしょうか。

一般市民の間にはつねに鬱屈した情動がうごめいていて、景気がいいときにはいろいろな形でガス抜きされますが、社会的に沈んだ雰囲気状況でメディアに憎悪や嫌悪が流れるとそれにのっかって一気に噴出するように思えます。

もちろん不正を暴いて指摘することや弱者の主張を取り上げることはメディアの重要な機能の一つですが、タイミングややり方を誤るといろいろな問題も生じてしまいます。その意味でも、メディアというのは責任の重い難しい役割です。

医療ミスが刑事罰に値するなら司法ミスはどうなのでしょうか

日曜深夜に日本テレビのドキュメンタリーで"富山冤罪事件"が取り上げられていました。

警察が自供を文字通りでっち上げ、被告は検事や裁判官に無罪を主張したにもかかわらずその後警察に「もう調書と違うことは言いません」と一筆書かされ、供述調書通りに裁判で有罪となり、3年弱懲役刑を服したというものです。
出所後、別件で逮捕された犯人がこの事件を自供したためより大きな問題となり、その後の再審で無罪判決を受けるものの、既に服役した後で(当然職も失い)、かつ再審ではなんら真実が明らかにされることなく警察が証人に呼ばれることもなく事務的に手続きされただけだったというものです。

富山県警は捜査に落ち度はなかったとして処罰等は一切なし。もちろん、立件した検事も判決した裁判官にもなにも処罰なしです。
その後明らかにされた捜査内容をみると、明らかにアリバイがあり数々の状況証拠の食い違いがあったにもかかわらずなぜか立件されていたのでした。素人目にみても杜撰なミスにもほどがあります。

で、少し前に「医療ミスの刑事告訴について」を書きましたが、医師がミスにより患者を亡くしてしまったときに刑事罰を受けるのであれば、警察や司法関係者には、ミスで無罪の人に刑罰を受けさせてしまったときになんらとわれることはないのだろうか?と素朴に疑問に思いました。富山の事件では国選弁護人の対応にも問題があるようにも思えます。

それこそ冤罪死刑になった場合は、業務上過失致死なんじゃないでしょうか?

なお、現在、賠償請求での告訴が検討されているようです。

規制のパラドクスと企業文化

オープンとクローズドを使い分けるGoogle」で、Googleの株式会社としてのあり方を少し書きましたが、以前、池田信夫blogにも株式会社についてのエントリがありました。

池田信夫blog:株式会社の本質

また、最近のエントリで、

池田信夫blog:Web2.0はもうからない

というものもあり、そこでは、この第2四半期にアメリカでIPO件数が30年ぶりに0件になったのはたまたま不景気だからではなくてもっと本質的な問題で、インターネットでの儲け方(monetize方法)が固まりつつあり、しかもそれがGoogleをはじめとする数社に握られだしているため、起業のゴールはIPOではなく買収によるexitになりつつあるのではないかという指摘がなされています。

起業/企業のあり方は刻々と変わりつつあります。

規制で透明性を高めようとすると逆に直接投資が減る?」では、株主のための透明性を規制で高めることが株主を遠ざけるというパラドクスがあるかもしれないと書きました。
かつて労働組合が強くなりすぎて結果企業は労働組合の言うことをそのまま聞く(福利厚生を厚くする)かわりに労組に加われる正社員を減らしていったように、株主のための規制が強くなりすぎると企業はそこを避けるようになるかもしれないし、消費社保護が規制でいきすぎると企業はそこからもなんらかの形で逃れるようになるのかもしれません。

日本でも、

isologue:今時のインディーズ映画制作と金商法(規制のおさらい編)


に、ちょっとお金を調達して映画を撮りたいというときにも金商法の対象となるようになってしまって非常にやりづらいということが紹介されていました。これも透明性を高めて詐欺などをなくそうという施策が別のところに弊害をもたらしているというパラドクスです。

制度設計の難しさですね。

話は戻って1つ目のエントリで、Googleが設けたChief Culture Officerというのはやはり興味深いです。

企業とは何だろうと考えるときに、提供するサービスや技術、経営者、株主や債権者、従業員などなどいろいろあると思いますが、ここにあげた要素はすべて代替可能と言えます。ところが、企業文化というものは変わりにくいものとしてあるようです。(もちろん、カリスマ経営者が牛耳っていて、辞めたとたんがらっと変わってしまうような企業もあるとは思いますが。)
経営者にとっても、企業文化をいかに醸成するかは大きな課題でしょう。

Googleが自社の企業文化にこそ企業の価値(会計的な意味ではなくて)をおいている証拠ですね。どれだけ成果を上げているのか(いないのか)は不明ですが。

2008年7月7日月曜日

オープンとクローズドと使い分けるGoogle

更新中断している間にあったGoogle関連の話題を中心に。

Googleはオープンな企業だと思われているけれども、実際には技術上も企業上も重要な部分はクローズドに保った非常にしたたかな企業だと言えます。

たとえば、携帯プラットフォームAndroidやOpenSocialなどの活動をみていると、Googleはすべてオープンな企業のように見えますが、実際には検索アルゴリズムやサーバの仕組み等はけっしてオープンにしていません。最近でこそ論文等を通していろいろ内部がわかりつつありますが、自社のCompetencyとなる部分については情報箝口令をひいていると言ってよいでしょう。
逆に、携帯やSNSなど遅れて参入したエリアについては徹底してオープンにし、既存企業にプレッシャーを与えています。

そういう意味では、逆にGoogleに攻め返す最良の手段は、オープンな検索エンジンなのかもしれません。一定のルールで外部からも自由にアルゴリズムをくめるような検索エンジンを出せばGoogleをぎゃふんと言わせられるかもしれませんね。

まずは、最近、少しずつGoogleの内側が公開されていっている点から。
1ヶ月前の記事ですが、Googleのデータセンター内部についての記事がありました。

CNET:グーグルデータセンターの内側--明らかにされた独自性

非常に興味深い内容です。

Tech-ON:Google社の基盤技術「MapReduce」についてエンジニアに聞く

では、Hadoopの仕組みの一つであるMapReduceについてのインタビューが出ています。

また、以前書いた「巨大システムでのプログラム修正(Googleでは年に450回だそうです!)」では、Googleの検索アルゴリズムがどうメンテナンスされているかが明らかにされていましたが、

CNET:検索サイトの舞台裏--グーグル幹部が明かす改善手法

という記事では、ユーザによって少しずつ見せ方を変えて、どれが一番ユーザにとってよいかをテストしながら運用していく方法が紹介されています。

Google内部事情とは違いますが、Google Geers改めGeersに関して、単純にオフラインでもWebアプリケーションが操作できるようになっただけではなくて、ブラウザが新たなOSになっていく(すべてがブラウザ上で動く)という状況を見据えての戦略的展開ではないかという指摘がありました。
とくに新標準であるHTML5を、ブラウザが実装する前にGeersで提供してしまって、(ブラウザを壱から開発することなく)そのエリアの先鞭を付けようというものです。

TechCrunch:新プラットフォーム戦争に備えよ。Google GearsはMicrosoftの利益を直撃する

一方で、Googleのオープンソース戦略には非常にきわどいものがあるという指摘もありました。

CNET:グーグルのオープンソースは綱渡り--クリス・ディボナ氏インタビュー

Googleはオープンソースの恩恵をたくさん受けているのに、オープンソース業界への見返りはほとんど行っていないという批判です。
オープン携帯プラットフォームAndroidで採用されているJVMも標準ではなく独自なものだという批判もありました。


また、企業運営という意味でも、Googleは種類株の仕組みで創業者3名に優先的に議決権を割り当てて50%以上を確保しています。つまり、市場という観点からみてもGoogleは、極端な言い方をすれば、公開(オープン)企業よりもオーナー企業の方に近いとさえ言えます。

日本Google社長の村上さんも、「株主より企業理念を優先する」とはっきり言っていて明快です。

池田信夫blog:グーグル:迷い込んだ未来

つまり、いかに見た目上オープンに見えるようにしつつ、自社に有利なところはクローズドにいくかということに関して、非常にしたたかに行動していることがよくわかります。
当然のことですが、何でもかんでもオープンにしたり、世の中の流れに乗っかってしまったりする必要はないということですね。

2008年7月5日土曜日

データベース的時代における工学的帝国化

うう、、長文書いたら消えてしまった。。。よって覚えている範囲のみはしょって。

Tumblrで、「フリーズする脳―思考が止まる、言葉に詰まる - 情報考学 Passion For The Future」を紹介しましたが、以前に池田信夫blogで、"Is Google making us stupid?"という記事が紹介されていたのを思い出しました。

グーグルでバカになる?

いずれもインターネット時代のデジタル化が人間の記憶や思考に影響(それもマイナスの)を与えているのではないかという指摘です。

まず、デジタルで読んだり書いたりすることに比べての本を読むことやノートに書くことについては「読み書きインタフェース」で少し書きました。

また、"ググりバカ"については「Googleが奪う本質を考える力に膝を打つ」に書きました。

今回はそれ以外のもう少し幅の広い話について。

インターネット時代、情報の摂取は非常に広範囲かつ容易になりました。今までは眼に留まることのなかったようなマニアックな情報まで入手可能です。その反面、一定のパターンの情報のみが、つまりは人気のある情報ばかりが大量に消費されるようになっていることも事実です。
インターネットでは通常、Googleなど検索エンジンやニュース・アグリゲータなどなんらかのサービスを経由して情報を取得することが増えたわけですが、そこでの情報は、一定のアルゴリズムで優先順位を処理されたもので、多くの場合SEOされたか人気の高いものになります。こうしたものに群がることが増えたため、より本質的で深い記事が埋もれてしまうことも起こりえる状況になってきています。

また、ネット上にある記事は断片的で、リンクで次々飛んでいくように読むことが多いため、じっくり文脈をふまえての情報の読み取りにはなりにくいです。

かつて、 東浩紀さんが『動物化するポストモダン』で「データベース的」という概念を提示しました。当時は、IT分野に身を置く人間からみてその用語の使われ方や図解に違和感があり,真剣に読んでませんでしたが、今となっては東さんとは少し違った意味で「データベース的」な時代になってきていると言えるのではないかと考えています。

 東浩紀さんの『動物化するポストモダン』については、
2003年6月26日(木)多文化ゼミ
宮台・東対談 〜『動物化するポストモダン』を読む〜

東さんの「データベース」概念は、ボードリヤールのシミュラークル論への対概念として提示されました。

自分の考える「データベース」というものは、工学的に情報を断片化し、アクセスしやすくする情報とともに格納した情報源というような意味で、もっぱらそのような情報源からのみ情報を取得するような状況を「データベース的」と考えています。
必ずしもシミュラークルと対になりません。 すぐ後に述べるとおり、「歴史」などと対になります。

本を読むことが主要な情報源だった時代、本を読むことはすなわち、本の論理展開の文脈と、自分の思考の文脈と、本の向こう側の著者の思考の文脈が交差しながら情報を取得することでした。それぞれの文脈は大きな物語を成し、他の物語と接続されていきます。それら物語の集合は歴史となり,伝統となっていきます。
対立する文脈と遭遇すると、それはイデオロギー闘争となり、しばしば社会的対立にもなりました。そうして歴史も動いていきました。

一方でインターネットが情報源の時代、工学的に処理され、大きな物語という文脈からは切り離された情報を取得していくことになります。その情報は一定のアルゴリズム処理や統計処理によって意味論的文脈からは切り出されて提供されます。したがって、大きな物語と接続されませんし、イデオロギー闘争にもなりません。
人々が工学的に処理され抽出された情報に従属し,それを垂れ流し反応し消費するだけになると、東さんの言うように「動物化」された社会となるでしょう。実際にその傾向も強いです。
方や、たまに大きな物語と接続されると、大きな論争となります(炎上)。 といっても論争程度ですが。

メディアの変遷と関連してまとめてみると、

  • 文字を保管するものが無かった時代…口頭伝承による社会化
  • 紙はあるが印刷が無かった時代…知識の抽象化と知識の独占による帝国化
  • 印刷されるがデータベース化されていない時代…知識の大衆化と知識の物語(イデオロギー)化
  • データベース的時代…知識の断片化と工学的帝国化
のようになるのではないかと考えています。

20世紀までは、知識を物語と接続することで、大衆をも巻き込んだ国家闘争が繰り広げられていたのですが、インターネット時代では知識はデータベース化され、情報の工学を支配するものがそのバーチャルな帝国を作り上げていくのではないでしょうか。

2008年7月4日金曜日

ネット規制法成立

更新を中断している間に、2008年6月11日、ネット規制法案が成立しました。
1年以内に施行となります。

ITPro:青少年にはフィルタリングを——有害サイト規制法案が成立


保護者の判断によりフィルタリングの解除は可能で、フィルタリングのデータベースは民間で作成するということになっています。

早くも、ネット事業者や民放連は"表現の自由"から反対を表明しています。


それに対してか、総務省は、多くの国民がフィルタリングに賛成しているというアンケート結果を公表しています。

CNET:40.9%がフィルタリングサービス加入の義務化に賛成--総務省調査


民間での自助努力を議論する暇もなくあっという間に成立してしまったという話です。

NBonline:“骨抜き”ネット規制法でも、業界と溝 −国家管理にマイクロソフト、ヤフー、楽天の隠せぬ不安

以前に書いたこのフィルタリング法案についてのエントリは次のとおり。
ネット規制法案まとめ:フィルタリングと情報アクセスの自由
フィルタリング実現のためには

医療ミスの刑事告訴について

かなり古いのですが、「医療費のコスト削減策はこんなにある 」という森永卓郎さんの記事に、おそらく医療関係者と思われる方々からの大量のコメントがつきました。

森永さんは、医師の数が足りないのであれば町医者と最先端医療では求められるレベルが違うのだから一種二種のように資格を分けて医師になりやすくすればよいのではないか(そして診療費も差をつければいいのではないか)という提案でした。

それに対して、「お前は準医師みたいな(質の低い)のに診てもらいたいか?」というようなコメントがたくさんついたわけですが、これは一般人の感覚とお医者さんとでずいぶんずれているなぁと思っていました。私の感覚では、風邪ぐらいなら二種医師に診てもらってもぜんぜんいいのですが。まあ、書き込んでいるお医者さんが特別なのかもしれませんが。

すると、この森永さんの意見を擁護した小倉弁護士のblogに今度は舞台が移って、小倉弁護士 vs お医者さんで議論が沸騰しました。もう1ヶ月くらい続いています。

その一連の小倉弁護士の話で、「なるほどなぁ」と思ったのがあったのでここに紹介します(これがこのエントリのメインです)。

自分は、産婦人科医が帝王切開手術に失敗して死亡させたことが刑事告訴された事件について、民事で賠償請求なら分かるけれども刑事とは厳しいなぁと思っていました。そのお医者さんも一生懸命手術を施したものの、たしかに一部に対応がまずい部分もあったかもしれず、残念ながら患者さんを死亡させてしまった。そういうケースで刑事告訴は厳しいなぁ、ますます医師のなり手が減るかも、と思ってしまいました。そういう批判的報道だったから、それにそのまま流されてしまったのでしょう。

ところが、小倉さんのblogで、命に関わるような仕事は医者だけじゃなくてトラックの運転手も同じだ、トラックの運転手が人を轢いたら業務上過失致死で刑事告訴され、さらに最近では危険運転致死傷罪にとわれたら実刑で即交通刑務所入りなのに、どうして医師が業務上過失致死罪で告訴されることがそんなにおかしいのか、という話がありました。

la_causette:刑事罰は業界を崩壊させるのか

なるほどなぁ、おっしゃるとおり、と思いました。
もちろん、お医者さん側が精一杯やった中での事故であれば、 それを主張すれば執行猶予はつくだろうし、きちんとした医師であれば社会的地位もそれなりに維持されるでしょうから、小倉さん曰く、医師がやるべきは刑事告訴そのものの否定ではなくて、そうした弁護支援活動や裁判後の被告医師の取り扱いの公平さへの取り組みだろう、と。
なっとくです。(もちろん医師にまったく非がない場合は起訴もされないでしょうし)

ただ、交通事故は車に乗っている限り国民全員にリスクがあるけれども、医療事故は医師か関係者にしか起きえないリスクであって、そこを同じ天秤にかけてもいいのかというのは少し疑問としてあります。

障害ありきではなく障害をどう取り除くかが重要:"ガイジン"の仕事術紹介

ちょっと前ですが、日本人とは違う"ガイジン"のビジネスの進め方のおもしろい紹介記事がありました。

NBonline:第27回:日本人とガイジンの発想はどこが違うんだろう?

その1:やらなければ、何もできない
その2:すぐやる、後回しにしない
その3:シンプルに考える
身に染みる思いです。
詳しくは記事をどうぞ。

また、同じ人がこのことについて最近の具体例を提示してくれていて、再びなるほどなぁ、という感じです。

NBonline:第28回:オリンピック水着騒動に見た、国際ルールを超えるチカラ

とても大きな障害があるけれども、条件さえ整えば自分の会社の技術やスキルで実現できるものだし、それは顧客にとっても大きなメリットがある、ならばやるしかないだろうということでしょうか。

実現されるものが顧客や関係者にとって大きなメリットがあるのであれば、障害がある(時間がない、ルールで禁止されている)から実現するものをどう変更するかに頭を絞るのではなく、その障害をどうすれば取り除けるかに頭を絞るべきだというのはたしかにそのとおりだと思います。

2008年7月3日木曜日

メディア企業が運営する番組ストリーミング配信

もう1ヶ月前の記事ですが、

media pub:インターネットTVの本流は,YouTubeかHuluか

というのがありました。

Huluは、米NBCと米News Corpが共同で設立した動画ストリーミング配信サイトで、当然合法動画コンテンツのみを広告付きで配信します。
これが意外に健闘しているそうです。
ただ、残念ながら、日本から視聴することはできません。

最近、放送法改正に伴い、もうすぐNHKがオンデマンドサービスを開始するようです。ただし、NHKは広告を取れないため有料サービスとなるようです。

ITPro:「4年後の単年度黒字目指す」,NHKオンデマンド室副部長がケーブルテレビ ショーで講演 

日本でもHuluのような取り組みがあればよいのですが。

規制で透明性を高めようとすると逆に直接投資が減る?

融資を中抜きしたら投資」で、企業の透明性を高めてなんらかの形で直接投資に結びつけていかないとと書きましたが、ことはそう簡単ではないなぁと思わせる記事がありました。

TechCrunch Japanese アーカイブ » ベンチャー投資の「危機」

Tumblrにも書きましたが、TechCrunchの記事で、今年の第2四半期は、30年ぶりにベンチャーIPOが0件だったというものです。

もちろん、一番の原因は経済環境全体の悪化なのでしょうが、それとともにSOX法の影響というものもありました。

3年前に比べて、ベンチャー支援された企業が「株式を一般公開したいと考えていいない」と思っているベンチャー投資家達のため 

株式での資金調達とするとSOX法などめんどうなことが増えるのでベンチャー企業が株式を一般公開しなくなるだろうと考えている人は投資家にもいるようです。

株式投資にとって企業の透明性は非常に重要でしょうが(情報が希少とならないよう)、規制で透明性を高めようとすると逆効果になっているというパラドックスになってしまっています。

極端をイメージしてアイディア出しする

更新止まっている間に、アイディア出しのためのおもしろい手法が2つほどあったので、それを紹介します。

Biz.ID:「今までにないアイデアを出さなきゃ」をかなえる「エクストリーム・ゴール」
Biz.ID:「はてなタクシー」に学ぶ——新事業アイデアを見つける方法 

「エクストリーム・ゴール」は、ブレインストーミングしてもありきたりのアイディアしか出てこないようなときに、あり得ないほど目標値を高めてみてそれが実現したときにどのような状況になっているかをイメージし、そこから方策のアイディア出しをするというものです。けっこう効果出るんじゃないでしょうか。

「はてなタクシー」は、フレドリック・へレーン氏の『スウェーデン式アイデア・ブック』からのもののようで、対象のサービスや活動の基本要素を書き出し、そのうちの1つが無かった場合をイメージする。たとえば、タクシー運転手が車の運転できなかったら、逆にどのようにすればタクシーサービスが成り立つだろうか、というようなことを考えてアイディア出ししていくものとなります。

いずれも、現状あり得ない極端な状況を具体的にイメージして、どのようにすればそのような状況でのサービスや活動が可能となるかにアイディアをしぼっていくものと言えるでしょう。

アイディア出しに行き詰まったときによさそうな手法です。

2008年7月2日水曜日

音楽ダウンロードの現状

nikkei TRENDY net:レディオヘッド以降の配信戦略

音楽のダウンロード配信の現状。まだ模索中というところでしょうか。
レディオヘッドのダウンロード配信では、約2億円の収益があったと予測できるそうです。レーベルを通さないのでそのうちのかなりの割合が本人たちの手元に入ったはずです。

また、音楽オンライン販売サービスで、iTunes、Wal-Mart、Amazon、Napsterなどに続いてRhapsodyも非DRMのMP3販売を開始したそうです。
TechCrunch:Rhapsody、DRMは死んだと認める―MP3ストアを開店

いよいよ音楽のビジネスモデルが変わってきているようです。

日本版フェアユースの検討は先へ進むでしょうか

更新していない間にも、著作権関連でいろいろ動きがありました。

まず、ダビング10については、補償金問題について文部科学省と経済産業省で調整が行われ、Blu-rayには課金するが、HDDプレーヤや携帯プレーヤには課金しないという妥協案に落ち着きました。(だったら最初から協議調整しとけよ。。。
CNET:ダビング10の補償金問題、Blu-rayに課金の折衷案で文科省と経産省が合意

ダビング10の開始も7月5日となったようです。
CNET:ダビング10が7月5日にも解禁--開始当初は補償金なし 

それよりも、内閣の知的財産戦略本部が「知的財産推進計画2008」を決定して、今年中に、検索サービスのサーバを国内に設置可能できるよう法的措置を実施することと、日本版フェアユース規定の導入を検討することを通知しました。

Tech-On:「知的財産推進計画2008」,検索サービス適法化や「日本版フェアユース」の検討を求める

日本は著作権法の関係でいまだに検索サービスを国内サーバに設置できません。インデックスが著作権法違反になるとされています(そんなバカな。。。でも、ほんとう)。

より重要だと思われるのが、日本版フェアユースの検討です。
ネット法の動き」でも紹介した通り、一部からは政策提言も出ていますが、フェアユースがないと法律に縛られて、日本で新しいビジネスが起こりにくいどころか、アメリカで次々と登場してくる新しいサービスやビジネスモデルにもついていけなくなります。

一方で、フェアユースの導入にも問題はあって、十分な判例の蓄積がないと逆に片っ端から訴えられることになりかねないという指摘もあります。
池田信夫blog:フェアユースより「フェアコピーライト」を

きちんと機能しうるフェアユースの検討をぜひ進めてほしいです。 


[追記]
 無名の一知財政策ウォッチャーの独言:第103回:知財計画2008の文章の確認

アジャイル開発とシステムテスト

IBMのWebSphere開発がウォータフォール型からアジャイル型に変更されたそうで、どのようにアジャイル型に移行していったか、またどのように反復開発を行い、システムテストをどのように実現していったかについての詳細な記事が出ていました。

すでにアジャイル開発されている方には当たり前のことなのかもしれませんが、個人的にはこれはたいへん参考になります。

アジャイルとシステムテストの新たな関係(前編)
アジャイルとシステムテストの新たな関係(前編)

融資を中抜きしたら投資

最近、池田信夫さんと磯崎哲也さんのblogで、投資と融資の違いの議論があって参考になったので紹介しておきます。

isologue:「ITゼネコン構造がイノベーションを阻む」(池田氏、月刊アスキー記事)について
池田信夫blog:いい加減さの最適化
isologue: 「ベンチャー企業」のための資金調達入門
池田信夫blog:ウェブの食物連鎖

池田信夫blog:「中抜き」の経済学
isologue:投資と融資の違い
isologue:ベンチャー企業とMM理論と上限金利規制

経済学的には負債(融資)と株式(投資)は同じでどちらもInvestment(投資)だと。
会計的にも、資金を出す側からすると融資も投資も同じく投資(固定資産)に分類される。
ただし、資金を調達する側からは融資は負債に投資は資本に分類される。

では、違いは何かというと、

  • 負債による金利には税金がかからないが、株式の配当には税金がかかる
  • 破産すると、負債の場合は債権者が残りの資産の権利を得るが、株式の場合はパーになってしまう
  •  負債の場合は返済さえすれば比較的自由に経営できるが、株式の場合はつねに投資家の眼にさらされる
  • 日本では上限金利規制があるために、資金を出す側の儲けに上限があるが、株式の場合は融資した企業の企業価値(株価)があがっただけ儲けとなる
となると、たしかにベンチャーにとってはもともと赤字だし破産したら何も残らないので負債でも株式でもどっちでもいいわけですが(実際には株式が多いと思いますが)、融資を受けられるような実績のある企業にとってはメリットが多いように見える負債の方がよいということでしょうか?
議論はベンチャーのことが中心だったためその辺がよくわかりませんでした。

ただ、企業に関する情報が希少な時代には、銀行が投資家の資金を仲介して企業に投資(融資)する方がよかったが、本来であれば直接投資家がリスクをとる形が望ましいというのは、なるほどと思いました。

問題は、日本人はアングロ=サクソン系と比べるとはるかにリスクをとらない国民性を持っているようにも思いますので、それをふまえた上でどう中抜きに移行していくかなのかもしれません。

直感に過ぎませんが、リスクが無いところにイノベーションも成長も無いように思えます。そういう意味では、20世紀末の日本の経済成長の裏では、見えないところでリスクをとっていたのかもしれません。ただ、国民に見えてなかっただけで。

今後もイノベーションが起こっていくためには、なんらかのかたちでリスクをとる必要があると思われます。そのとり方が、グローバリズム共通のものとなるのか新しい日本的なものとなるのかどうなのでしょうか。

2008年7月1日火曜日

司法とメディアの馴れ合い

現時点の裁判員制度の問題点」では、警察-検察-裁判所の馴れ合いが問題となっていることについて書きましたが、この馴れ合い連鎖はマスメディアにも及びます。

多くの場合、マスメディアは、警察等からリーク情報が欲しいため、また記者クラブでの付き合いを円滑に運ぶため、 あとは迅速な報道を行うため、とくに初期報道は警察-検察-裁判所からの情報に偏って報道します。ただし、マスメディアにもメディアとしての良心があるために、その後の綿密な取材に基づく特集報道やドキュメンタリーでは客観的に報じることも多いです。

たとえば、先日の光市母子殺害事件裁判においても、安田弁護士が勝手に欠席したかのように報道されていましたが、実際には事前に次回公判までもっと時間が欲しいことと、当日先約があるため欠席することが裁判所に伝えられていたにもかかわらず、裁判所が勝手に公判を開いて無断欠席かのように扱い、メディアはそれをそのまま報じました。その背景には、担当裁判官があと1、2ヶ月で任期切れでそれまでになんとか公判を開きたいという思惑もあったようですが、そういうこともいっさい報じられません。
また、加害者がいかに残虐かを煽るように何年も前の手紙だけを繰り返し流して(それを報道することは正しいですが)、反省している面もあること等にはいっさい触れていませんでした。

ところが、死刑判決が確定した日以降の報道においては、そのムードが急に変わったように、死刑反対の意見の識者も賛成の識者も公平に取り上げて報道しているように思えました。一定の司法への配慮義務は果たしたということなのでしょうか。
それどころか、むしろ死刑反対側の意見を取り上げることの方が急に増えたかもしれません。直接関係ないですが、最終的には某新聞が「死神」と書いてしまう始末。。。

これはある程度はしょうがない側面もあるため、視聴者側のメディア・リテラシーが重要になってくるところではあります。

また、少し違いますが、たとえば、植草事件もその例かもしれません。植草教授がわいせつ行為で2度目に逮捕されたとき、メディアはかなりバッシングしましたが、この事件もかなり警察側の強引なところもあったようです。とくにねつ造されたブログ記事を元に事件を報じたマスメディアが批判されているのですが、当のメディアはそういうことを一切報じません。

この件については、Livedoorが運営するPJnewsが詳しいです。PJnewsは主に市民ジャーナリストが記事を書くニュースサイトで、既存メディアのしがらみが無いためメディアを批判する記事が書けます。
植草事件の真相封じたねつ造ブログ−−ネットも支配する情報操作の闇(下)

ちょっと陰謀説に流れ過ぎの感はありますが。

抽選で選ばれた裁判員は 、こうした司法と馴れ合いのメディア晒されつつ判断を下さないといけないわけで、しかも犯罪者とはいえその人の一生を決する判断を下さないといけないわけで、やはり大変な仕事となるでしょう。

今回の制度では、効率的に裁判を進めるため厳密な公判前手続きが規定されていて、その手続きには(たしか)弁護士も入れます。そこから出てくる情報は司法と馴れ合いのメディアよりも正確なものとなるでしょう(直接証拠に接することもできるので精度が高くて当然ですが)。したがって、とくに司法関係者の"馴れ合い"ということに関していえば、この公判前手続きでの弁護士の働きが重要になってくるように思われます。

いずれにせよ、バカバカしい冤罪は、普通に聞いているだけでおかしいので、市民が裁判に参加することで裁判官もおかしなロジックは通せなくなるはずです。少なくともそういう裁判が減ることが期待できそうではあります。ただ、今回裁判員制度の対象となっている重大な刑事事件にどれだけそういう裁判があるかは疑問ですが。

現時点の裁判員制度についての問題点

先週末の「朝まで生テレビ」は裁判員制度についてでした。

来年から導入される裁判員制度については、一度「裁判員制度の日本での歴史的経緯」に書いています。
 そこでは、裁判員制度=参審制度のように書きましたが、朝まで生テレビを見るに、裁判員制度は参審制度と陪審員制度の間を取った日本独自の制度だということが分かりました。
具体的には、

陪審制参審制裁判員制
有罪の判断
量刑の判断
審議への職業裁判官の参加
選出方法選挙権民から抽選推薦等選挙権民から抽選
任期事件ごと1〜数年事件ごと

つまり、日本の裁判員制度は、審議を職業裁判官といっしょに行い量刑まで判断するという意味では参審制度に近いですが、事件ごとに選挙民から抽選で選ばれるという意味では陪審制に近いものとなります。(ただし、今調べると国によっては参審制でも抽選のところもあるようです)

裁判員制度がこの時期に導入された経緯ですが、
  • 先進国には導入されている司法への市民参加が日本にまだ無いことから、以前から経団連等から陪審制の導入の働きかけがあった
  • 90年代に日弁連会長となった中坊公平さんが強力に司法への市民参加を押し進めた
  • 警察-検察-裁判所が組織的に連携していてどうしても馴れ合いの部分が生じ、そのために市民から見てあきらかにおかしな判決がくだされることが多々あったため、関係者の間ではかねてから司法改革の必要性が唱えられていた
  • 起訴されれば99.9%有罪なので、弁護士としても無罪を勝ち取る希望がほど遠く、真実を明らかにするよりは情状酌量で量刑を減らすという戦略をとるなどして、適切な裁判が行いにくかった
などが指摘されていたかと思います。

司法の硬直に対して、何度も改革しようという動きがあったもののなかなか内部からの改革はうまくいってこなかった。そこで、市民参加させることで劇的な改造を狙うというのがこの制度の主な推進理由のように読み取れました。

それに対して、反対派からは、
  • 警察-検察-裁判所の癒着の改革には、市民参加よりももっとやることがあるのではないか
  • 裁判員制度が利用されるのが死刑や無期懲役等になりうる重大な刑事事件に限定されているが、導入していきなり重大な刑事事件を担当させるというのは問題ではないか、もっと身近な事件からにした方がよいのではないか
  • 職業裁判官でさえメディアの影響を受けるのに、裁判に興味の無い一般市民が大きくメディアからの影響を受けて正しく判断できなくなったりしないか
  •  重大事件を取り扱うにも関わらず、法務省のパンフには3日くらいで済みますというように非常に軽いタッチで書いてある、いざ参加してみての重さもたいへんだし、逆に重大事件をどうしても期日までに終わらせようという意志が働いてしまうのは問題ではないか
などの意見がありました。

司法の抜本改革のために、もともとは日弁連も"陪審制"の導入を目指していたようです。ところが、裁判所側がこれに強く反発したため妥協案としての裁判員制度になってしまったようです。裁判所が反対する理由は、陪審制だと有罪/無罪の判断に裁判官が関われないからです。まず、ここで何かがずれはじめている気がします。

さらには、裁判員には重い守秘義務が課されます。これも裁判所側からの強い要望で盛り込まれたようです。ノウハウの蓄積という意味でも裁判員になった人にはその内容についてプライバシー等に問題ない範囲で語ってもらいたいところですが、どうも裁判所は保身に走っている気がしてなりません。
ちなみに、アメリカの陪審制では裁判中は当然守秘義務がありますが、終われば内容について話してもよいそうです(もちろんプライバシーに関することはダメですが)。

今、司法に一番問題があるのは、警察や検事による捜査や取り調べと、裁判所との馴れ合いです。そこにこそ改革のメスを入れなければいけないところですが、法務省傘下の官僚組織に内部浄化を期待しても難しいし、外部からどうこうしようとしてもすべて骨抜きにされてしまうのでしょう。なので、その上部構造である裁判という制度から改革しようというのはわかる気がします。官僚は市民に対してはなにも文句を言えないので、市民が参加するというのは一定の意味があるように思えます。
ちなみに、裁判員制度に賛成した社民党は、付帯決議として自白調書取得時のビデオ撮影などを盛り込んでいるようです。が、あくまでも付帯決議なのですが。

裁判員制度が国会で可決されたときにはだれもまじめに考えていなかったのが、ここへきて現実味が増してきてみんなが考えるようになってきています。それ自体はよいことなのかもしれません。

朝まで生テレビでは、最後は少なくとも開始を遅らせて現時点で問題と分かっている部分は修正してから施行すべきだというような結論に傾いていました。
果たしてどうなるでしょうか。

個人的な意見としては、基本的に司法への市民参加には賛成です。が、対象事件に今冤罪が問題となっているような選挙違反事件や国家への訴訟を含めるべきでしょうし、何より理不尽な守秘義務はどうかと思います。
また、市民が司法に参加していくんだという前提での教育の充実は重要でしょう。

2008年夏:スマートフォン比較

iPhoneが日本で出るということで、iPhoneを買うつもりでいたのですが、調べてみると他にも魅力的なものがいろいろあり、表にまとめてみました。



QWERTYキーボードにはやはり惹かれるところがあるんです。
あと、iPhoneはカメラがしょぼそうで。

ただ、Macとの連携などを考えると、やっぱりiPhoneかなぁと思ったりしています。
初回販売台数が限られてそうで買えるかどうかわかりませんが。

2008年6月30日月曜日

ご無沙汰

更新がご無沙汰になってしまいました。

6月は忙しかったのかというと、その逆で数年ぶりにとても暇だったのですが、暇だとblog更新モチベーションも下がってしまいました。

その間、秋葉原事件なども起き、いろいろな発表もあり、本も何冊か読んで書くことはいろいろあったのですが。。。

ともあれ、今週からまた更新していきたいと考えています。

また、更新休んでいる間、オンラインブックマークをいろいろ物色していたのですが、blogとmicro blogの中間とされているtumbleloggingの"Tumblr"がオンラインブックマークとしてもかなり使えるではないかと気づき始めてみました。Bookmarkletが秀逸で非常に使いやすいです。

ここのblogに書かないような趣味のネタや軽いメモはこのTumblrの方に書いていきます。
http://qogs.tumblr.com/

2008年6月4日水曜日

iPhoneはソフトバンク(今年中)

日本でのiPhone販売はソフトバンクになったようです。今年中には販売されるとか。
http://www.softbankmobile.co.jp/ja/news/press/2008/20080604_01/

2008年6月3日火曜日

Gartnerの技術予測

ITPro:Gartnerが今後5年間に普及する革新的技術を予測,Webマッシュアップなど10件

メモとして。

  1. ソーシャル・ネットワークとソーシャル・ソフトウエア
  2. マルチコアとハイブリッド・プロセサ
  3. Webマッシュアップ
  4. ビジュアライゼーションとファブリック・コンピューティング
  5. クラウド・コンピューティングとクラウド/Webプラットフォーム
  6. ユーザー・インタフェース
  7. ユビキタス・コンピューティング
  8. 文脈型コンピューティング
  9. 拡張現実感
  10. セマンティクス
あまり目新しいものは無いです。

著作権法の未来

池田信夫blog:中山信弘氏の情熱

知的財産権研究会のシンポジウムで、会長の中山信弘氏が「今のままでは、著作権法に未来はない」と、現在の制度の抜本改革の必要を説いたそうです。
この内容には賛同します。こういう方向に動いてくれるとよいのですが。

既得権益団体が政治家と結びついている場合、どのようにすれば消費者のメリットを国会議員が考えてくれるようになるのでしょうか。通常だと選挙なのですが、著作権法など選挙の争点になりにくいものは難しいです。

2008年6月2日月曜日

個人の感情と国家のルールの狭間

死と抽象化」でも、書評だけ紹介した

死刑
森達也
朝日出版社

を読みました。
一見タイトルからして読むのに重たい気がしますが、関係者へインタビューしていくドキュメンタリーとして一気に読めてしまうようなおもしろい(言い方が不謹慎ですが)本でした。

筆者は死刑存置にどうしても賛成できないものの、廃止にも納得できるわけでもない、というように揺れるところから出発して、ならばまず死刑というものを知らなければならないと考えて行動していきます。

まずは、刑場を見ようと刑場のある全国の刑務所や拘置所に手紙を送りますがこれは拒否され、拘置所に押し掛けても慇懃に拒否され、ならばと以前刑場を視察した国会議員や、死刑を見る立場にあった元検察官、さらには執行を行った元刑務官、冤罪で帰ってきた元確定死刑囚などにインタビューし、日本で死刑がどのように行われているかを明らかにしていきます。

先進国で死刑を残しているもう一つの国アメリカでは、死刑はかなりオープンになっており、刑場などもホームページで紹介していたり、死刑執行も事前に告知されたり、死刑自体死刑囚の家族や被害者遺族も立ち会うことが可能になっているそうです。
また、アメリカでも当初は絞首刑でしたが、苦痛を伴うとしてその後電気椅子に換わり、さらに薬物注入(まずは睡眠薬でその後心肺停止させる薬)によるものになっています。最近では、薬物注入も苦痛を伴うという調査結果を受けて連邦政府から死刑執行を止めるようガイドが出て、多くの州では事実上執行を取りやめています。

かたや、日本では、死刑は徹底して隠されています。執行の本人への通達は当日の朝食後、そして午前中には執行されてしまいます。家族に会ったり、下手したらまともに遺書を書く時間さえありません。執行のある日の朝食後の時間帯は、死刑囚棟は張りつめた空気になるようです。昔は違ったようで、前日には通達があり電報も打てたので家族や弁護士と会ったりする時間があったようです。
また、死刑確定後は、家族や弁護士としか面会できなくなり、その時間や回数も著しく制限されます。手紙でさえ回数と宛先が決められてしまいます。昔は、死刑囚同士で交流することもあったようですが、拘置所内でも他の死刑囚と会うことも会わないようにされているようです。死刑執行まで10年かかるとすると、10年間はほとんど誰ともコミュニケーションがとれないような境遇におかれてしまいます。これは精神的にそうとうつらいものではないでしょうか。

日本ではドロップ方式の絞首刑です。これは明治以来変わっていないと言います。刑場には、複数名の吊るす刑務官、ボタンを押す3人の刑務官、そして医師が立ち会い、ガラス越しに閲覧できるバルコニーのようなところがあってそこには検察官が立ち会います。これ以上の描写は、本を読んでみてください。

筆者は、死刑廃止派の人、存置派の人にも会ってインタビューしていきます。
まともな廃止派の人も存置派の人も、言っている内容はほとんど同じだということに気づきます。ただ、結論だけ違う。被害者の立場や権利の保護が著しく不十分であること、死刑執行自体は無くてすむなら無い方よいこと、多くの被害者には応報感情があってそれで苦しむこと。そうしたことはどちらも理解した上で、かたや賛成しかたや反対するというように結論だけが異なってきます。

これは筆者も言うように、論理だけでは済ませられない情緒の領域に入っているからだと思います。

存置派も廃止派もまとに考えている人はわかっていますが、死刑は論理的には整合性がつきません。主権者を国家が殺すあくまでも例外ケースとするしかないのですが、この特殊ケースの殺人を認めるというロジックは、戦争や自殺、正当な(?)殺人といったようないろんなケースにリンクしていってしまいます。

死刑は刑罰の目的にも合致しません。報復権を主権者から取り上げ、犯罪者の更生を行うという目的から外れます。

死刑は法技術上も問題があります。つまりは裁判も人間がやるものなので、誤審、冤罪を0%にはできないという問題です。少し昔までは死刑が確定すると事実上再審請求もできませんでした。執行されてしまうともう取り返しがつきません。そして、実際、戦後の日本においても冤罪で死刑執行されている人が何人もいそうなのです。昨今の痴漢裁判でもそうですが、いったん捕まって起訴されてしまうと、日本では99.5%の確率で有罪になります。第3者としては、凶悪犯罪報道に不安を煽られて被害者になる不安もありますが、実は加害者に仕立て上げられる可能性もあるということです。

それでも死刑が必要なのは、多くの被害者には応報感情があるからです。当事者のこの感情を誰も否定できません。まともな法学者で存置派の人も、論理的抽象的には死刑廃止となるが、実際の事件に即して被害者感情を考慮すると存置とせざるをえないという主張のように思えます。某弁護士の台詞で言うなら「法に魂を吹き込むなら」死刑にせざるをえないということでしょうか。
また、被害者遺族で存置派の方が、廃止派は抽象的でキレイゴトを言ってるだけだという話もありました。

この本では本村さんからの手紙も紹介されています。その内容は当事者の言葉として非常に重みがあります。そこには、この事件に関しては死刑を求めるが、死刑一般としては私には是非は語れないと書かれていました。

自分としてもこれが死刑というものを言い当てている真理に思えます。
当事者が死刑を求める、この心情を誰も否定することはできません。でも、一個人の感情と社会のルールは異なることもあるということです。「国家が国民の"感情"に動かされていいのか」にも書いたように、被害者の方が死刑を求めることと国として死刑を執行することをリンクさせるのは非常に危険に思います。さらにはそれを煽るメディアは醜悪です。本村さんも存置派に仕立て上げられてメディアにはそうとう不信感があるようです。
報道は客観的事実を伝えるべきですが、あまりにも憎悪を煽る方に偏りすぎています。「ルワンダ大虐殺におけるメディアの恐ろしさ」でも引用しましたが、憎悪は憎悪を増幅してしまいます。そうした負のスパイラルに陥ってしまうと行き着く先は悲惨な状態しかありません。

被害者で存置派の方の意見として、死刑は日本の文化だという話もありました。でも、文化だからこそ修正していける部分もあると思います(多くの伝統文化は廃れています)。文化として死刑が廃れれば、被害者の応報感情も死刑に向かうことは無くなるかもしれません。つまり、今、被害者の応報感情が死刑に向かうのは、そういう文化の中で育ってきたからなのかもしれません。死刑が無いことが当たり前の環境で育てば死刑には向かわないかもしれません。
一方で、西欧諸国でさえも死刑が無くなったのはここ数十年でそれより何百年前から死刑という文化はありました。ということは、今は廃止していてもまた復活する可能性もなくはないし(ただ復活に賛成は割合としてはかなり少ないようですが)、応報感情が死刑に向かわないとも限らないです。

やはり、個人的意見としては、被害者の応報感情の鎮め方にはいろいろな方法があるのではないかと思います。死刑によって憎悪を解消するというやり方でなくても。
キレイゴトではありますが、社会としてはキレイゴトも語り実践していく必要があります。当事者になってもそんなこと言ってられるのかと言われれば答えようがありませんが、それと社会としてどうするかは区別して考えてもよいはずです。被害者遺族の中でも死刑廃止運動されている人もいます。人によって事情が大きく異なる中、当事者にはなれない第3者としては、個人の感情を尊重しつつ社会として考えなければいけないことがあり、現状の追認ではなくて善くなる方へ改善する方向へと考えていく必要があるでしょう。(まずは、被害者ケアや再犯防止のための施策などでしょうか)

2008年5月30日金曜日

ネット法への批判

ネット法の動き」で紹介した北岡弘章弁護士の続編記事が出ていました。

ITPro:ネット法(2)権利制限は著作権保護の流れに逆行するとの批判も

主にネット法の提案に対する批判をまとめて掲載されています。

ダビング10の泥仕合

ダビング10が、グダグダにもめてます。

28日に、まずはメーカー側団体のJEITAが、消費者アンケート結果を出して私的録音録画補償金制度を批判し、

TechON:JEITAが私的録音録画に関する調査,「コピー制限下では録画の補償金不要」が78%
JEITAコンテンツ保護検討委員会委員長へのインタビュー:nikkeiTRENDYnet:ダビング10は土壇場でも手詰まり状態 次回の委員会開催も不透明

29日に、権利者団体が、その結果を批判して会見します。曰く、メーカーが負担を消費者に押し付けている、と。

ITPro:「消費者のみが負担」を消費者は本当に望んでいるのか,補償金制度とコピーワンス問題で権利者会議が会見

情報通信審議会情報通信政策部会のデジタル・コンテンツの流通の促進等に関する検討委員会がダビング10の導入を確認することになっているようなのですが、6月2日に導入するにはその合意形成ができていないと報告して、次回会合の日程も決まっていない状況です。

ITPRo:「ダビング10」移行で合意形成に至らず,デジコン委のWGが報告


「無名の一知財政策ウォッチャーの独言」で、今回の騒動の記事まとめと権利者団体への批判が行われています。

無名の一知財政策ウォッチャーの独言:第98回:文化審議会という茶番


メーカー側もメーカー側な気もしますが、権利者団体の反論にはめちゃくちゃなロジックが入っていて、なんだかなぁと思ってしまいます。

いろいろ経緯を見ていると、今回一番問題なのは、文化庁の審議会の進め方な気がしました。業界や省庁間をまたがっての幅広い合意を形成していかないと解決しない問題で、あまりにも一方的で自分たちに都合のよい(従来通りの官の)審議会の進め方を行ったのではないでしょうか。

また、そもそもB-CASやコピーワンスといったようないわくのある制度を押し進めてきたせいで、先送りにされていた問題があらためて問い直されることになってしまい、傷口を広げているようにも思います。


個人的な極論を言うと、日本がコンテンツ立国を目指すのであれば、私的保証金制度をやめて代わりにコンテンツ税を導入し、あらゆる記憶メディアの消費税の一環として組み込んで全国民から徴収し、その代わりにすべてコピーフリーにする、とでもした方がよいようにも思います。(これは、すべての著作権を報酬請求権化するということでもあります)

2008年5月29日木曜日

厳しさがないと勝てない

ITPro:第7回 建築設計事務所で見た 巨匠のすごいレビュー

ある建築業界の巨匠のレビューがどんなものかが紹介されています。
優れた提案を行うためには、こういうアーキテクトも必要でしょうね。

同じ一つの言葉は二度語られなければならない

これまた少し以前のエントリですが。

内田樹の研究室:X氏の生活と意見

「書く」ということの本質について触れられていたので、引用します。
まずは、ブランショ(現代フランスの思想家)からの孫引用。

「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つのことばでは、決して中間的なものを名指すことができないのだろう?それを名指すには二人が必要なのだろうか?」
「そう。私たちは二人いなければならない。」
「なぜ二人なのだろう?どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「それは同じ一つのことを言うのがつねに他者だからだ。」
続いて、内田さんからの引用。
ある言葉が人に届くためには、それが「二人の人間によって語られていることが必要である」
私と「私と名乗る他者」によって、同じ一つの言葉は二度語られなければならない。

ここにはいろんな深さのレベルの含意があります。解説してしまうと野暮ったいのですが、少し補足説明します

まず、一番浅いレベルで、私たちが紡ぎだした言葉は生のままでは別の人に伝わらないことが多いという事実があります。そのため、われわれは推敲して他人が読んでも意味の分かるように文章を整えます。これは学校でも教わることです。

次にもう少し深く考えてみると、私が意図した内容を他人に理解してもらおうとすると、実は私自身の言葉よりもすでに語られている言葉で語った方が伝わりやすいです。なぜなら、私が新しく語る言葉はまだ他人にどのように解釈されるかわかりませんが、すでに語られた言葉はある一定の範囲の意味のとられていることがほぼ確実だからです。したがって、私がなにか意味を伝えようとすると、私自身ではなく第三者の観点で意味を捉え直し言葉を既存の言葉に置き換える必要があります。文章を書く鍛錬の中でこのような第三者的言葉遣いを、多くの場合は無意識的に訓練されています。

さらにもっと深く考えてみると、実は私が意味しようとしていることはもともとすでに語られた言葉で表現されていなければなりません。何かを意味しようとする私は言葉以前の私でいられるかもしれませんが(それもあやしくなってきますが)、何かを意味したとたんに、それが自分にとっても意味をなす以上すでに語られた言葉で組み立てられているのです。文章を書くとは、もっと言うと、思考するとは、こうして他者の言葉にのっかって、それでもその言葉を紡ぎだし続けることに他なりません。

実は、言葉の本質はそうした他者性にあります。言葉は自分が考えたものではないがゆえに、他人にも、そして自分にも意味をなしうるものとして存在します。そのレベルでは、「自分の言葉」というのがすでにして形容矛盾だったわけです。

「X氏の生活と意見」は高橋源一郎氏の著書でもあるわけですが、高橋源一郎の本は以前「アイディア作りの処方箋としての『一億三千万人のための小説教室』」で紹介しています。

書く、思考する、アイディアを作り出す、といったことについて深く考えられている一例です。いわゆるハウツーものとはほど遠いですが。

2008年5月28日水曜日

著作権侵害で有罪判決

CNET:米陪審、著作権侵害の被告に初の有罪評決

以前書いた「違法ダウンロード問題にたいして2500万円の罰金」での判決との違いはなんでしょうか?
今回初の刑事事件としての有罪、というように読み取れます。(不正確かもしれません)

被害者意識の権利と戦略と精神衛生

ずいぶん前のエントリですが。

内田樹の研究室:被害者の呪い

オリンピック聖火リレーの騒動について、「被害者意識」という観点で分析されています。

「被害者意識」は、統合失調症にも通じる有毒性を持っているそうです。なるほどと思いました。

人がいったん強烈な被害者意識に陥ると、自分の権利の主張は元に戻る(被害が無くなる)ための絶対に正当な主張となり譲ることのできないものになってしまいます。

そして、当事者同士が「被害者意識」になってしまうと、どちらも譲れなくなり解決の糸口が無くなってしまいます。

ところが、現実の問題を解決していくためには、譲り合いや妥協点が必要です。自分の言い分がすべて通ることなどありえなくて、ある部分で自分の主張が通ると別の部分で譲歩するといったように、お互いにメリットが最大になるよう調整することで現実の問題は解かれていきます。

「被害者意識」に陥ってしまうとこうした妥協点の模索ができなくなってしまうという問題があります。

もちろん、被害者やある権力に対する弱者がその権利を主張することは正当なことなのですが、そこに固執してしまうとデッド・ロック状態となりにっちもさっちもいかなくなってしまいます。

権利上は、被害を根絶することを主張してよいと思いますが、戦略(政治)上は、交渉のツールとしてうまく活用して解決策を模索するような努力も必要で、かつ、精神衛生上は、被害を被っていることや弱者であることを(たいへん厳しいことですが)ある程度運命と受け止めていかないといけないときもあるのかもしれません。
泣き寝入りをしろと言うつもりはないので、そのあたりのバランスの取り方が難しいところですが。

ルワンダ大虐殺におけるメディアの恐ろしさ

友人のstemy氏のブログでコンゴ民主共和国における内戦の話がありました。
incubator@london:Rape of a Nation by Marcus Bleasdale

最近読んだ記事でちょうど隣国ルワンダの大虐殺について扱ったものがあったので紹介します。

NBonline:伊東 乾の「常識の源流探訪」:メディアで憎悪を増幅してはいけない!ルワンダ大虐殺:本当に起きたことは何なのか

アフリカのこの辺りの内戦や虐殺には必ずツチ族とフツ族の対立という図式が出てきますが、この対立がいわゆる民族の対立ではないという重要な指摘です。著者の伊東氏は、ルワンダ外交官にも話を聞いていますし、ルワンダにも行っているので情報源からするとこれは正しいのでしょう。

記事では、日本史との関連で語られていたり、国民の暴走とそれを増長するメディアという観点もあり、非常に興味深いです。これからルワンダについて連載されていくということなので楽しみです。

被害者意識による報復の正当性感覚が勝手な共同体的正義へと発展し、虐殺へと進んでいくことは人類史で何度か繰り返されています。そこには、メディアによる憎悪の増幅というものも大きな威力を発揮しています。今の日本においても、メディアが発する(煽る)"憎悪"に対してはそうとう用心してかからないといけないでしょう。

最近は、凶悪犯への憎悪から国民が望む形で厳罰化が進んでいるように感じます。個人が抱える"憎悪"は、とくに被害者の場合しょうがないですし同情もしますが、社会的雰囲気として憎悪が増大するのはあまりよいことに思えません。実際、統計上は殺人事件などは減少傾向にあるにもかかわらず治安が悪化しているかのように感じさせられています。
メディアは視聴者が望むからそうした憎悪を流し、視聴者はそれを見てさらに憎悪を膨らませるという悪循環が起きているようにも思います。これが悪循環なのだとしたら、どうすればこれを止められるでしょうか。

なお、記事の執筆者の伊東乾氏については、著書の『さよなら、サイレント・ネイビー』を読んでいてこのブログにもメモを残しています(「日本的近代社会とオウム事件:『さよなら、サイレント・ネイビー』」)。そのときも自分は生意気なことを書いていますが、伊東氏はジャーナリストとしても(本業は違うと思いますが)バランス感覚に優れ、ものごとを的確に説明してくれるので、この連載にも期待です。

2008年5月27日火曜日

自動車業界も水平統合化へ?!

TechON:ATIスペシャル・インタビュー(第1回)「日本のモノづくりは擦り合わせから」

2004年9月に発足したJASPARの話です。JASPARは、カー・エレクトロニクスの標準化を行う団体。トヨタ主導ですが、数多くのサプライヤーが参加しているそうです。

ヨーロッパにも同様の標準化団体はすでに数年前からあって、そこの標準が世界標準になるのではないかという危機感もあり設立されたようです。

車は、垂直統合型の擦り合せ型ビジネスモデルがもっとも適していると言われて久しいですが、いよいよPCなどで起こった水平統合型への変化が起こっているのでしょうか。少なくともカー・エレクトロニクスの分野ではそうなりつつあるようです。

ネット規制法案まとめ:フィルタリングと情報アクセスの自由

ネット規制法案のまとめがあったので、リンクをメモしておきます。

無名の一知財政策ウォッチャーの独言:第96回:ネット規制法と児童ポルノ規制強化法の自民党案と民主党案の比較

自分の意見としては、消費者側に選択の自由さえ担保されれば、ある程度の規制はしょうがないと思っています。情報弱者を自己責任として打ち捨てるのか、最低限のセイフティーネットを設けるのか。セイフティーネットを設けるにはフィルタリングの強制は必要で、ただし、フィルタリング業者を自由に選択できるようにすれば、個人の自由を犯されることはありません。

元々、学術的な研究目的であればどんな情報にもアクセスできるべきですが、それにはアカデミズム社会に連綿と続く倫理観を各研究者が持っているという前提があってのことです。

インターネットはすでにそうした狭い世界でのネットワークから社会的メディアへと変化してきています。メディアには報道の自由や表現の自由が権利としてありますが、それらも業界の自主規制を前提としてのものです。既存メディアは、国家による規制と戦いながらそうした自主規制を作り上げてきました。メディアの倫理という積み上げが存在しています。

インターネットの世界にもそうした倫理観の積み上げが必要になってきているという認識です。そこに国家を介在させず市民の手で倫理観を積み上げるためには、規制を受け入れつつその規制の主導権を市民の側に持つということが重要に思います。
国家にとって、完全なる自由放任というのはありえません。国家の根底を否定しないかぎりは。今までのメディアにも国家による規制は存在しています。であれば、むやみに反対するだけではなくて、規制自体は受け入れつつ、ただしその主導権をいかに市民の側に残すのかというところを考えた方がよいように思えます。

ビジネスモデルのシミュレーション

NBOnline:宮田流「新しいビジネスモデルの創り方」

ビジネスモデルを創るとは、

  1. 新しい状況の中で、関係する人と人、組織と組織がWin-Winになるような仕組みを考える
  2. ビジョン(目標)を明確にする
  3. 現場(実際のオペレーション)を把握する、細かいデータとして把握する
  4. データを使ってシミュレーションを行う

ということにまとめられています。
とくにシミュレーションの勝つように重点が置かれています。

正確なシミュレーションを行うためにも、いかにデータ取りを行うかがまた重要ですね。

2008年5月26日月曜日

特許オンラインの国際化

日経ベンチャーonline:特許制度の国際化・電子化で世界に先駆けよう

4月に特許法が改正されたそうです。
メインは、電子出願の国際化に関する内容だそうです。

ナップスターがDRMフリーMP3販売開始

CNET:米ナップスター、米国内でDRMフリーのMP3楽曲販売を開始

ナップスターがサブスクリプション方式のダウンロードし放題に加えて、楽曲ごとの販売も始めるそうです。しかもDRMフリーのMP3で99セント(当初はアメリカのみ)。

Amazonもすでに始めていますし、iTunesもDRMフリーが増えてきています。

CD派だった自分も、最近オンラインで買うことが多くなってきました。

裁判員制度の日本での歴史的経緯

司法への市民参加の可能性—日本の陪審制度・裁判員制度の実証的研究
藤田政博
有斐閣

1年後、日本でも裁判員制度が導入されます。いろいろ議論もよんでいますが、日本での裁判員制度について過去の導入の歴史をふまえて検討されているのが本書です。日本人の文化に合わないという曖昧な理由で否定的判断がなされたりしていますが、もう少し制度として正しい事実に基づきながら考えるのと、模擬裁判を通じてのアンケート結果に基づいて検討を加えようとしています。裁判員制度の問題を論じるにあたって必読の本のように思います。

本エントリでは、とくに制度的な面についてこの本に書かれていることの概要をまとめてみます。


1.陪審制と参審制
一般的に有名なのがアメリカの陪審制度です。日本の裁判員制度は似てはいますが、正確には陪審制ではなく参審制で、陪審制ではありません。

陪審制も参審制も刑事事件に市民が参加して審議する制度ですが、一般的に陪審制は陪審員だけで議論して有罪かどうかを判断します。量刑までは判断しません。
他方で、参審制は市民が裁判官といっしょに議論して量刑まで判断します。日本の裁判員制度は、参審制です。


2.世界の現状
主要先進国では、古くから陪審制もしくは参審制が採用されています。たとえば、「裁判員制度:世界各国の市民参加制度」を参照。


3.日本の陪審制導入の歴史
実は、日本でも過去において陪審制が導入されていました(参審制ではない)。

もともと不平等条約改正と明治憲法(および治罪法等)の制定時期に、各国から陪審制導入の圧力があったようです。ところが、西欧視察で陪審制のマイナス面を認識していた井上毅らが断固反対し、けっきょく導入は見送られました。一般市民が独立した個人として判断できるレベルにないという理由からです。(政府に都合の良い裁判ができるようにでもあったのでしょう)

次に、自由民権運動の盛り上がりの中で、陪審制導入が検討されていきます。
そして、平民宰相原敬が導入を強力に推進しました。政党政治を軍部や官僚から守るためだと言います。司法は当時(今もですが)法務省配下にあり、ややもすると軍部や官僚の干渉を受けやすかったようです。

陪審制度は1923年に成立し、1928年に施行されました。当初、年2000件くらいの利用があると予想されていましたが、実際には初年度(10月から)で25件、2年目133件、3年目には早くも2桁の件数になっていました。だんだんと利用されなくなり、最終的には1943年に停止されます。


4.陪審制失敗の原因
日本で陪審制が失敗した原因として次のことが指摘されていました。

  • そもそも被告人が辞退することが可能で、次の3つの理由から辞退が多発した
    1. 陪審を(辞退せずに)利用すると目立ってしまう
    2. 陪審で一度判断がくだれば事実認定をめぐって控訴できなかったため、事実上二審までしかできない(陪審公判で判決が決定してしまう)リスクがあった
    3. 費用負担が重かった(現在価値に換算して平均で約130万円)
  • 陪審員の選抜対象の基準も狭く国民に浸透するのにはほど遠かった(国税3円以上納める30歳以上男子)
  • 裁判官より低い権限しかなく、裁判官が陪審判断結果に不服であれば陪審員の更新が可能だった(実際に行使されたのは数件だが)
  • 陪審員には事実認定のみの権限しかなかった
  • 予審(陪審員による審議の前の検察や裁判官による取り調べ)が必須でその調書が公判に使われるため最初から陪審員にバイアスがかかる可能性があった
  • 法曹界が消極的であった
  • 戦争へと向かっていく時代背景があった
  • 権威従順、集団主義といった国民性が影響しているかもしれない


5.過去の陪審制をふまえての今回の裁判員制度
今回の裁判員制度では、4で見た過去の陪審制とはいくつか異なる部分があります。対比して書くと、
  • 被告人が辞退することはできない
    1. 最初は目立つかもしれないが辞退できないため件数は多いと考えられる
    2. 通常と同様控訴可能
    3. 有罪の場合費用負担が発生する(*1)
  • 裁判員は被選挙民から選ばれる
  • 裁判官と協議して判断する
  • 裁判官と協議し量刑を決定する権利を持つ
  • 公判前整理手続きと呼ばれる予審の仕組みがある。したがって、予審の問題は残ったままで、裁判員の議論がそこでの調書に引っ張られる可能性がある
  • 法曹界は前回よりは積極的だが反対する人も多い
  • とくに裁判員制度の実現が難しいような時代背景はない
  • 国民性がどう影響するか不明
*1 公判前整理手続きで被告人は小規模(裁判官1人+裁判員4人)か大規模(裁判官3人+裁判員6人)を選ぶことができる。訴訟費用を最小化するために、よくもわるくも自白して小規模な費用が安い方を選ぶことが可能。


その他、ここでは省略しますが、模擬裁判員公判を行った際のアンケート結果などから実証的な調査も行われていました。
模擬公判に参加するくらいなので法律に興味のある人の可能性が高いですが、それでも、予想通り、もしくは予想以上に適切に公判を進められたという判断をする人が多かったようです。


最後に、本書で言及されていたことで、気になった点を1つ。

そもそもどうして参審制度のようなものがあるかといえば、歴史上陪審制が始まった頃は科学捜査などもなく、制約の多い証拠をもとに国が出した判決を鵜呑みにするしかありませんでした。そこで、国家の権力を制限するためにも、証拠に制約がある中で市民が納得する判決を出すためにも、常識を持つ市民をこの制度に取り組んで市民自身による判断にする制度が作られました。最初はイギリスで、その後大陸ヨーロッパやアメリカにも広まっていきます。
そういう意味では、科学捜査が発達した今となっては、裁判員の常識を信用するよりも、その分科学捜査の発展に税金を使って証拠の客観性を確保した方がよいのではないか?とう意見もあるようです。
なるほどと思いました。
ただ、高度な科学捜査によっても証拠を確保できないような事例はあるでしょうから、そういう意味では科学捜査の発展だけでは問題は解決しないというのはたしかにそうでしょう。


現代では立法はもちろん行政にも市民が参加するようになっています。そんな中司法の分野においても市民をどんどん参加させるべきだという考えにはたしかに納得させられます。
他方で、起訴されると有罪になる確率が99.5%な日本において(「日本の検事事情」)、ディスカバリ(請求すれば検察側の証拠をすべて閲覧できる)制度もなく、自供のビデオ取りも完全にはできず、司法取引などもできない中、公判前整理手続きが正しく行われたかをどう判断すればよいのか、また、裁判官による裁判員へのバイアスのない適切な説明は実際にはどのようにやればよいのか、といった部分に不安要素は多分にあるのも間違いありません。

2008年5月25日日曜日

専門家の叡智と群衆の叡智

群衆の叡智という古くて新しい問題」で書いたシンポジウムの第2回があったようです。

CNET:「みんなの意見」は専門家より正しい?--「群衆の叡智」をテーマにした2度目の討論会が開催

ITPro:「企業でも群衆の叡智は活用できる」,WOCS2008でIBMやNECなどが報告

ただ、今回の議論の中では、「多くの群衆が感じ取ったことよりも専門家や情報を多く持った限られた人たちが数人集まったほうが精度の高い結果が得られるのでは?」という疑問も出ていたようです。

これはたしかにそのとおりで、群衆の叡智を信じるパネリスト側でも、群衆の叡智が必ず正しいと考えている人はいないでしょう。

群衆の叡智も必ずしも正しくないし、専門家もまた間違いうる。

そんな中でどのようにすれば間違わない精度が高まるかを考える必要があり、「「みんなの意見」は信用するにたるか」に書いたように、群衆の叡智では、"多様"、"独立"、"分散"、"集約"が非常に重要になってくるということになります。

さらには、群衆の叡智の場合は、全員で決めたという納得感と、次は自分の意見が通るかもしれないという民主主義的希望がうまく働く可能性が高いです。ここが、限られた専門家が判断するのと大きく違うところだと言えます。(誰でも専門家になれる社会であれば、違うとはいえその境目はわかりにくくなりますが)

翻ってみると、「保守と革新、強者と弱者のダイナミクス:『日本の200年』」にも書いたように、歴史を見れば、ここの文脈で言う専門家と群衆の間のダイナミクスこそが歴史を動かしていることがわかります。

歴史を書くとはそういうことだ(ごく一部の強い為政者と多数の弱い権利者の闘争)という点はおいておくとしても、専門家による叡智と群衆による叡智はどちらか一方が常に正しいというわけではなくて、そのときの状況であったり問題の内容であったりで変わりうると思います。

専門家vs群衆という図式よりも、どのようにうまく集約できるのかと、間違っていた場合にどのように修正していくのか、という仕組みづくりの方が重要に思います。

なお、そのディスカッションに参加された人が「ITPro:オープンソースは品質が良い?」という記事を書いています。オープンソースだからといってなんでもよい(ベンダ製よりよい)とは限らないという実例です。

2008年5月24日土曜日

エンタープライズとコンシューマライゼーション

ITPro:さよならエンタープライズ

少々扇動的なタイトルですが、要するにコンシューマライゼーションの話です。
当たり前ですが、ITに関して、別にエンタープライズ領域が無くなるわけでもないし、エンタープライズの分野にイノベーションがなくなるわけでもないです。ただ、コンシューマ領域でのイノベーションが増えてきているのは事実です。

コンシューマライゼーション(消費者先導型IT)」にも書いたように、構造的なデータを扱う業務の自動化という意味でのITが一定の成熟段階に来ている一方で、ITが非構造化データを効率的に扱えるイノベーションがたくさん起こって知的生産性の分野での変化速度がずっと速くなっています。

とはいうものの、先日の銀行システム統合に見られるように、"ベスト・エフォート"ではすましてもらえないエンタープライズ分野がまだまだあるのも事実です。

エンタープライズとコンシューマライゼーション的流れには、補い合う部分や融合できる部分も多数あり、両方とも重要なものだと考えています。どっちかだけあればいいというものではなく。

"エンタープライズ"でミスが起きると騒ぎ立てる記者が、「エンタープライズは終わった」かのような記事を書くのはどうなんだろうとちょっと思いました。日経BPなんて今までエンタープライズで食ってきたのにそこを否定すると新興IT系メディアと比べてやってけるのかな?っておおきなお世話ですが。"IT技術"の捉え方が狭すぎる気がします。

2008年5月21日水曜日

読み書きインタフェース

ITPro:ITの負の影響から社会を守る“情報化会計”の提案(前編)

増岡さんの言いたいことの全体の趣旨からするとどうでもいいことなのですが。

キーボード入力は文字を書くことよりも精神的営みの活性化が弱いというような指摘がありました。

この記事で書かれている通り、読むことと書くことは文化的にも教育上も非常に重要だと思います。

ただ、ITでも読めるし書くことができます。
ITが読み書きに直接影響しているのはインタフェースのみで、読むこと書くことという行為自体は変わりません。

記事では,

「『雨が降る』と書きたいにもかかわらず,手が『amegafuru』や『アメガフル』と打たねばならない分裂は、手の動きと思考との間にずれを生む」
と石川九楊さんの文章が引用されています。引用文しか読んでいないので真意はよくわかりませんが、この文章だけだと誤認があるように思います。というのも、手の動きと思考との間にずれを生むのは、鉛筆やペンで文字を書くときも同じだからです。

むしろ、「アメガフル」と書いた方が、頭の中で文字を読み上げているとすると手の動きとのずれが小さくなります。「アメガフル」と頭の中で文を組み立てておいて、それを「雨が降る」と頭で文字に変換して書くことの方がずれが大きいでしょう。amegafuruもあわせて一般的に表音文字の方がずれが少ないと思います。(それでもずれがあるというのがオングらの指摘だと思いますが)

その後に引用されているW・J・オングの『声の文化と文字の文化』でも文字の重要性は指摘されていますが、筆なのかキーボードなのかについては指摘はあったでしょうか?抽象的思考にとっては、声と文字にずれがあることが重要で、そのずれによって即物的声ではなく、抽象的思考が可能になるのだという認識です。

ただ、たしかに入出力インタフェースが変わることで、人間の思考になんらかの影響を与えているとは思います。

自分が感じるのは、インタフェースがキーボードとディスプレイになると、情報が軽薄になるということです。というのも、読むときは指先のちょっとした動きで文字を流していくことができますし、文章の途中でも(リンクなどで)あっちこっちに飛んでいきがちです。また、書くときもとりあえず書き出してコピー&ペーストで後から組み替えていけるからです。これはよい面もあって大量の情報をさばきやすいです。調査するときなどや軽く情報をメモするには非常に役立ちます。

他方で、たしかに人生の中には、こうした高速の情報処理ばかりではなくじっくりと長文に取り組む(読み書く)ことも重要だと個人的には思います。大きな論理の展開の中でこそわかってくるものや感じることもあります。その場合は、たしかに、キーボードとディスプレイではなく、紙とペンの方がよいです。

けっきょく結論としてはおそらく同じようなものになると思うのですが(ネットもいいが紙とペンもね、という)、声と文字のずれがキーボードの方が大きいというのはちょっと違うと思うので書いておきました。

ブログやSNSでの法律沙汰

最近いくつかブログやSNS関連で裁判沙汰があったので概要を列記します。

まずは、日本で、ブログに書いた内容についてオリコン社が損害賠償を求めた裁判で、東京地裁で賠償判決が出ました。内容についてはリンク先。

ITPro:ブログのリスク

訴えられたのはジャーナリストで、実名でブログを書いていた人です。
"実名"にはこういうデメリットがあることは事実です。何かについて否定的に書く場合には注意が必要です。
もっとも訴えられたのはジャーナリストでそういうリスクを承知してのプロとして書いたのだと思いますが(実際の内容も読んでないのでよくわかりませんが)。
また、もしジャーナリストではなかった場合、オリコンは訴訟までは起こさず、判決もまた違ったものになったかもしれません。まずは注意や反論ができるはずですので。

次に、海外でFacebookやGoogleが利用者情報を提供して逮捕となった事例が紹介されています。

TechCrunch:悪事停止ボタン押す:Googleがインド人男性逮捕に協力。

これをもってGoogleを批判する向きもありますが、個人的にはまっとうな対応だと思います。ネットも実社会の一員である以上、自由を最大限に尊重するとしても法律や慣習には従う必要があります。

アメリカでは、SNSを通じて犯罪被害にあった人がSNSを訴えていましたが、これは却下されました。

CNET:「オフラインでの性的暴行の責任はMySpaceに問えない」--米で裁定

明らかにSNSがほう助していれば問題ですが、そうではない場合は罪を問えないという判決です。

ネット法の動き

いつでも好きなときにコンテンツを見たいという視聴者の利益を顧みない日本のコンテンツ業界に角川会長がコメントしています。

CNET:「放送側が番組の見逃し需要に対応していればYouTubeの成功はなかった」--角川会長が分析

小倉秀夫さんもblogでこの記事を引用して指摘しています。「benli:It's too late

「気軽にタイムシフト視聴」を行うシステムをテレビ局側がつぶしにかかれば,別の,よりアングラなシステムに飛びつくか,または,テレビ離れをするかしてしまうことは目に見えていたはずです。

YouTubeとJRCが包括利用許諾契約」にも書いた通り、一部のコンテンツホルダーはこうした意識とはほど遠い後ろ向きな状況です。

ちなみに、アメリカでは、FOXやNBCがHuluという動画配信サイトで動画投稿とともに番組配信も行っています。

ITPro:消費者主導というミッションを打ち出す−−動画配信サイトHuluのCEO

インタフェースもよさげ。ただし、日本からは閲覧できませんが。


ところで、この記事でも述べられていますが、角川氏をはじめとする有識者は、今年の3月にネット配信についての"ネット権"創設という政策提言をしています。

ITMedia:映像・音楽配信を許諾不要に 「ネット権」創設、有識者が提言

その解説記事も最近公開されていました。

ITPro:ネット法(1)許諾権者の一本化でデジタル・コンテンツの流通促進を狙う

今の著作権法のままでは、肖像権や隣接権が邪魔をして再配信のために許諾を得るのが非常にたいへんです。ネット法は、インターネットではこのプロセスを単純化してその代わり事後的に利益の再配分を行うのと、フェアユースの考え方を取り入れるというものです。
ただし、利益の再配分を過去の権利者に遡って管理するのはやっぱりたいへんだと思いますが。

2008年5月20日火曜日

新興技術系メディアvs既存メディア

先週から今週にかけて技術系メディアの買収ニュースが相次ぎました。

CNET:CBS、CNET Networksを18億ドルで買収

CNET:Conde Nast、人気技術ブログArs Technicaを買収へ

mediba pub:人気技術ブログArs Technica,Condé Nast/Wiredが買収へ」が引用しているTechmemeのランキングで2位と6位の新興技術系メディアが既存メディアに買収されたことになります。

同じくランキング1位のTechCrunchでは、「TechCrunch:「CNETがCBSを」ではなく「CBSがCNETを買収」に結末が逆転した理由」という記事を組んで、CNETの歴史と失敗をまとめています。

CNETは最近株主とももめていました。たしかに、かつては飛ぶ鳥を落とす勢いで既存メディアの買収も可能なくらいの存在だったのが、ここ数年で10分の1近く企業価値を下げていることになります。

media pubでも書かれている通り、TechCrunchは記事の提供でWashingtonPostと提携しています。今後も再編はあるのでしょうか。

松下幸之助を支えたエンジニア

日経BP経営とIT:真髄を語る:幸之助を支えたエンジニア、中尾哲二郎が遺したもの


松下幸之助の右腕技術者中尾哲二郎についての記事です。
自分へのメモとして。

2008年5月19日月曜日

エンタープライズ・クラウド・コンピューティング:ユーティリティ+コンシューマライゼーション

Google App Engineの発表とSalesForce.comとの提携が相次いで行われたことから、クラウド・コンピューティングがエンタープライズ分野にも進出し、クラウド vs エンタープライズかのような構図で語られることもあるようです。

ITPro:「あなたのビジネスをクラウドへ」,SalesforceとGoogleがMS/IBMに宣戦布告

ITMedia:Googleのクラウドユートピアは企業ニーズに合致せず——MuleSourceのCEOが指摘

クラウド・コンピューティングが企業でも使われようとしているのは、1つにはコンシューマライゼーションの流れの一環としてあるように思います。

また、もともとエンタープライズでは、ユーティリティー・コンピューティングというIBMやSun、Oracleなどが提唱していたITのアウトソーシングの流れもあり、クラウド・コンピューティングはこの流れの1つとも言えるかもしれません。

そもそも、IT業界にいる人にとっては、クラウド・コンピューティングはユーティリティー・コンピューティングの焼き直しのようにも思えます。

上のITProの記事の中でGoogleのEric Schmidt氏がこの2つの違いを指摘しています。

「企業向けのクラウド・コンピューティング」は,既存ITベンダーが語るユーティリティ・コンピューティングとはいくつかの面で異なるとも主張する。「1 つめは,ブロードバンド・ネットワークが前提になっていること。エンドユーザーが無線LANを使っていつでもどこでも情報を使えるのが,我々のクラウド・コンピューティングだ。2つめは,GoogleとSalesforceがそうであるように,アプリケーションを簡単に融合できること。3つめは,現実のビジネスに今すぐ適用できる点である」

要するに、自分なりにまとめると、ユーティリティー・コンピューティングは、
  • 必ずしもインターネットが前提でない(クローズドなネットワークによるサービスとしてもありうる)
  • ユーザ企業ごとに切り離されている
  • カスタム開発された企業内アプリケーションを企業外のシステムに配置して利用することを想定されている
それに対して、クラウド・コンピューティングは、次の点が前提になっています。
  • インターネットによるオープンなネットワーク
  • マッシュアップ
  • 部品の再利用による迅速な開発

シュミット氏自身が意識しているとおり、クラウド・コンピューティングはユーティリティ・コンピューティングとは異なるものの、その流れにあるものだとは言えると思います。

今までITベンダが理想像を唱えるだけでほとんど実現できていなかったユーティリティ・コンピューティングが、コンシューマライゼーションの流れによって企業の中にも取り込まれるようになってきたと言えるのかもしれません。

ITPro:IBM、グーグルが創る次世代IT、クラウド・コンピューティングの正体(前編)
ITPro:IBM、グーグルが創る次世代IT、クラウド・コンピューティングの正体(後編)

という解説記事もありました。

2008年5月16日金曜日

メディアには人気投票ではない集合知が重要

TechCrunch:NewsCred:お気に入りブログの信用度はいかに?

記事を投票で評価するという今までもあったようなサービスですが、この紹介記事に、こうした"クラウド"による記事評価の難しさが指摘されています。

オンラインのブログにも主流メディアにも、根拠のない噂や偏向記事や情報源不明の事実が山ほどある。しかし、黒か白かの投票システムが、著者の評判を確立する最良の方法だとは思えない。そんなシステムはすぐに人気投票と大差ないものへと落ちぶれてしまうだろう。NewsCredが成功するためには、事実に基づく議論を促すような頑強な評価システムを確立する必要がある。そうでなければ、それ自体が大した信用を得られないだろう。

TechCrunchは、元記者も参加しているため、メディアであることの困難さを十分理解されているように思えます。それでも記事の内容を通してクラウドの価値を十分評価していることは伝わってきます。

単なる人気投票では"集合知"にならない。それ以上の意見集約の仕組みがあってはじめて"集合知"になりうるという正しい指摘に思います。

メディアは、少数派を無視することになってしまう多数決(人気投票)による民主主義の欠陥をうまく修正していく動力でもあるべきで、それであってこそのメディアの価値なのでしょう。したがって、"集合知"とメディアはあるときは見方になりあるときは敵になるかもしれない。

それに対して、はてブはあまりにも素朴すぎるように思えます。

CNET:今夏に新はてなブックマーク登場--その進化と情熱

メディアを目指すと言いながら、その発信内容に対するあまりにもの無責任さ。それがネットのパワーだということなのでしょうが、あまりにも内向き(ネットのことしか見ていない)のパワーで素朴ナイーブすぎるように感じてしまいます。
もちろん、はてブ自体はよいサービスだと思うのですが。

また別に書きたい、最近の小倉秀夫さんによる実名/匿名議論で匿名支持の方々の意見を読んでいても、これまでのネットの価値を純朴に信じられていて、もう一段階ネットがブレークスルーにはそうした素朴さが障壁になっている気がしてなりません。

2008年5月15日木曜日

反省と確信と

TEch-ON:谷島宣之の「虚實の谷間に花が咲く」:俳優の心得、記者の心得、そして技術者の心得

山口瞳氏が紹介した歌舞伎役者中村翫右衛門の「演技心覚え」は技術者や記者に対しても言えるのではないか?という記事です。なるほどと思わせる心覚えになっています。引用します。

一、俳優は、いつでもこれでよいという満足を感じずに一生を過ごすものだ。
一、批評は大切なものだが、善悪を見極めずにあまりに批評に動かされては自分を見失うことになる。
一、俳優はいつまでも若く、感激性を保持せねばならない。でないと舞台の感激・役の感激にひたれず、合理主義的演技に陥ってしまう。
一、俳優は絶対の確信と、限りない反省と、この裏表を絶えず忘れてはならない。
一、巧くやろうと思うな、唯全力をつくせ。
一、人の真似をするな、拙くとも自ら創り出せ。
一、行詰まれ、打破れ!行詰まれ!!そして打破れ。
一、昨日よくできても昨日のように演ろうと思うな、今日は今日の気もちで演れ。
一、稽古中は臆病に、舞台に出たら自信をもて。
一、早く言う時は、心もちゆっくりしゃべれ。
一、修業はこれからだ。

どんな分野でもあてはまりそうですね。

ダビング10問題

「ダビング10」が一時凍結、情報通信審議会で事実上決定

ITPro:「関係者で合意が得られ次第,日時確定」,Dpaが「ダビング10」の準備状況を発表

というわけで、2008年6月2日に予定されていたダビング10が見送られることになりそうです。

この問題は、JASRACなどの著作権者団体が私的録音録画補償金の対象機器を拡大しようとする思惑と、電機メーカの業界団体である電子情報技術産業協会(JEITA)が補償金の上乗せで機器が高くなることを避けようという思惑の対立から、文化庁審議会での議論が錯綜していることによるものです。
私的録音録画補償金とは、録音録画メディアの販売価格に著作権料を上乗せすることで著作権者に利益を還元する仕組みで、今回ハードディスクレコーダなどもその対象になりつつあります。

JEITA側が補償金に反対する根拠として、ダビング10で著作物が保護されているうえに補償金まで徴収するのは著作権料の二重取りになるとしています。そのために、補償金とは直接関係のないダビング10の導入が頓挫してしまいそうになっています。

ITMedia:「JEITAの対応、憤り禁じ得ない」と権利者団体 私的録音録画補償金問題で

ただし、著作権者団体側も、将来的な補償金廃止には言及しています。

Tech-ON:【続報】「補償金廃止へ明確に舵を切った点を評価してほしい」,私的録音録画補償金制度で文化庁の担当官

個人的には、今まで書いてきている通り、著作権者への利益還元のためには、極端ですが、

  • DRMと著作権申請管理DBで利益を得たい著作物を個別に管理する
  • 著作物はオープンにして税金のようなかたちで著作者への還元利益を確保する
のどちらかしかないと考えています。現実的にはこの間の落としどころを探るのかもしれませんが。
自分としては、2つ目の方が、デジタルでオープンなコンテンツ活用のためには有効な気がするのですが、なぜかネット業界で反対が多い気がします。(彼らは著作物はすべて無料にしろとでも言いたいのでしょうか)

その意味では、税金ではないけれども補償金と有料放送の視聴料という二重取りを批判しているJEITAの主張はまっとうであり、支持できるものではあります。ただし、JEITAとしてはあくまで補償金に反対なのでしょうが。

なお、そもそもどうしてダビング10のようなものが登場してきたのかについては、

池田信夫blog:B-CASは独禁法違反である


に、その裏話が出ています。たしかに、最近地デジ対応テレビを買って初めて知ったのですが、B-CASってなんなんだ?と思いました。

他方で、知財本部では、デジタル・ネット時代における知財制度専門調査会がまっとうな著作権(知財)の議論がされていると紹介されています。

無名の一知財政策ウォッチャーの独言:第93回:知財本部・知財規制緩和調査会の資料の紹介

上に書いた通り、個人的には税金的に補償金をとって著作権者に還元する仕組みは悪くないと思うのですが、どうもこれに素直に賛同できない理由に、文化庁と著作権者団体の下心が見えているということがあります。メーカは消費者と向き合って競争していますが、文化庁と著作権者団体は競争もしていないし、そもそも消費者の方をいっさい向いていません。

池田信夫blog:総務省の首を絞める文化庁

無名の一知財政策ウォッチャーの独言:第94回:B-CASと独禁法、ダビング10の泥沼の果て


などを読んでも(あるいはそれ以外の情報でも)、文化庁が一部の著作権者団体の既得権益を守ることに必死なのと天下り利権べったりなのが伺い知れます。本来の著作権者の主張ともほど遠いように思えます。これには、総務省のみならず、経産省も公取委も内閣府(知的財産戦略本部)もみんな不満を募らせていると書かれています(JASRACへの公取の調査もそのためではないかという話も)。

いずれにせよ、著作権者と消費者がおきざりになって、業界団体同士でもめているこの状況は見ていてもあまり気持ちのよいものではありません。

2008年5月14日水曜日

オープンになっていくプロフィール情報

MySpace、Facebook、Googleが続けざまに、ユーザのプロフィール情報を外部で利用できる仕組みを発表しています。

CNET:グーグル、「Friend Connect」を発表--ウェブサイトにソーシャル機能を追加可能に

CNET:「データポータビリティ」の行方--グーグル、Facebook、マイスペースの施策を探る

昨年、GoogleはOpen Social APIやSocial Graph APIを公開しており、これとの関係や、それぞれ三者の違いなどについて、少々混乱したので調べた範囲でここに整理してみます。
(Social GraphやOpen Social APIについては、「Googleがオープンなソーシャルグラフを目指すようです」や「GoogleのOpenSocial」。ただし、この段階では混乱しているところがあります。)






ベンダサービス名サービス概要データ保管場所利用場所
GoogleSocial Graph API自分のブログやプロフィールがどことつながっているか(リンクされているか)などを、XFNやFOAFといった(今後標準となるかもしれない)情報をもとに取得するGoogleおよびXFN/FOAF保管サイト対応Webアプリケーション
GoogleOpen Social API各SNSが保持するプロフィール情報を参照更新?する各SNSサイト各SNS内
MySpaceData AvailabilityMySpaceのプロフィール情報をパートナーサイトから参照更新?するMySpaceが保持パートナーサイト
FacebookFacebook ConnectFacebookのプロフィール情報をサードパーティサイトから参照更新?するFacebookが保持サードパーティサイト
GoogleFriend ConnectFacebookやGoogle Talk、Hi5などのプロフィール情報を参照更新?する各SNSサイトが保持サードパーティサイト


というわけで、それぞれで微妙にサービス内容が異なるようです。
とくに、2008年2月に発表されたSocial Graph APIと、2008年5月に続けざまに発表されたプロフィール交換APIは似ているけれども根本的に違うものです(GoogleのFriend ConnectはSocial Graph APIを使っていません)。

また、プロフィール交換APIも、主にどこにプロフィール情報を保持するのか、どこで利用できるのかといった観点でそれぞれ違いがあるようです。

いずれにせよ、Social Graph APIおよびOpen Social API以外はまだリリースされていません。

(もしかすると勘違いしているところがあるかもしれません)

ソフトウェア・ファクトリの実践

ソフトウェア・ファクトリ最前線」の実践編と称して記事が出ています。

ITPro:[実践編]なぜ改造に時間とお金がかかるのか?

ITPro:[実践編]トラブルが起きた個所を指で指してほしい

「IT業界のここがおかしい」というところが的確に指摘され、その解決策案も提示し、さらにこれを実践しているというから驚きです。Biglobeだそうですが。

たとえば、IT業界にはこんな疑問を感じないでしょうか?

【疑問1】なぜこんなに改造に時間とお金がかかるのだろう?
【疑問2】なぜ見積もり工数の妥当性を判断できないのだろう?
【疑問3】なぜスーパーSEがいないと大規模システムはできないのだろう?
【疑問4】なぜ“ソフトウエア業界”と呼ぶのだろう?
【疑問5】なぜ技術やノウハウが蓄積しないのだろう?
【疑問6】なぜコンポーネントの粒度がまちまちなのだろう?
【疑問7】なぜ仕様が文章で書かれているのだろう?
【疑問8】プログラミングが本当に必要なのだろうか?

この手の手法は、理論的な解説書やUSでの事例などは読むことができますが、日本の企業の中でこれを実践できているという話はあまり聞いたことがありませんでした。自分のいる周りが古いだけでしょうか。

Biglobeも実態としてどこまでできているかはまた別なのかもしれませんが、もしこのとおりだとするとすごいなと思います。
内容としては日本の企業でもできないことはないはずなのですが、どうしても今までのやり方の易きに流れてしまったり、新しい手法は不安だったり、技術以外のビジネス上の制約等によって、なかなか実現しきれていないということも多いと思います。
そもそもこんなやり方は邪道だ(今まで通りのサブシステムxウォーターフォールが一番いいんだ)という意見もまだまだあるでしょうし。

EPFとJazz(アジャイル開発)

@IT:アジャイル開発の広範な普及を目指して

IBMのdeveloperworksからの転載記事です。

乱立するアジャイル開発プロセスの統一に取り組んでいるEclipse Process Frameworkの紹介や、IBMが開発中のアジャイル開発に適したコラボレーション・プラットフォームである「Jazz」の簡単な紹介があります。

2008年5月13日火曜日

大企業でもポジティブな炎上はある

正解のない問いに知の集約と他者をどう考えるか」で紹介した梅田望夫さんとまつもとゆきひろさんの対談の後編が出ています。

ITPro:梅田望夫×まつもとゆきひろ対談 第2弾「ネットのエネルギーと個の幸福」(後編)

それにしても梅田さんは日本の大企業が嫌いのようですね。対談の中では、日本企業は希望が持てない、アメリカの企業は自分のやりたいことができるとおっしゃってます。前からそういうご意見ですよね。

でも、ポジティブな炎上やオープンソース的協力というのは、大企業の中であってもたとえばプロジェクトの佳境やトラブル発生時の対策などのときにうまくいけば発生しうるものですし、個人的には経験しているつもりです。もちろん発生せずに負のスパイラルに陥ることもあるわけですが。それはでもオープンソースでも同じだと思うんですけどね。

そんなときはやっぱり、この対談でも話題に出ているように、問題がうまく小さく切り分けられて1つ1つの問題にみんなの意識が共通に向かっているように感じます。
メンバーが疲弊することなくそういう状況を醸成するにはどうすればよいのかは大きなテーマです。

技術とデザインとトレードオフ

桜井宏氏の「社会教養としての技術」の紹介がありました。

ITPro:桜井宏氏 『「社会教養としての技術」の重要性を訴える』

ITPro:経営の情識 第59回:「技術とは何か」、学校で習いましたか?

「技術と科学は違う。日本の教育では、科学を教えても技術を教えることがない。」というご指摘はもっともです。

(技術リテラシーについて)米国のInternational Technology Education Association(ITEA、国際技術教育学会)は、テクノロジカルリテラシーを次のように定義している。「技術を使用し、管理し、理解し、評価する能力」。つまり技術そのものに習熟するというよりも、「技術を使いこなせる」能力を指している。
「技術の本質はデザイン(設計)にある」「デザインとは相反する複数の要求あるいは制約のバランスをとっていくこと」

日本の学校教育では科学知識の詰め込みが主流となっていて、その応用力とでもいうべき技術リテラシーはまったくといってよいほど教えられていません。「技術リテラシー」といえば、せいぜいパソコンの使い方ということになってしまいます。

それに対してアメリカでは,将来の国を背負って立つ主権者を育成していくために、技術の原則や手法をしっかり教えているといいます。

社会には唯一絶対の答えはほとんどありません(「正解のない問いに知の集約と他者をどう考えるか」)。そこに技術を適用していくときに、あるいは技術を利用していくときに、どのように考えればよりよい解を導きだせるのかについての考え方を知ることは重要だと思います。

自分は文系ですが、文系にもこうした方法論があるものの、まともに学んだのは大学でした。たとえば、『方法論序説』(「方法論(メソドロジー)について」)の内容は今見直しても非常に有効でこれは集合知についてもいえるんじゃないか?などと新しいアイディアに結びついていったりしますが、こうしたことをもっと卑近な例を使って学校で学べてもいいのではないかと思います。

2008年5月12日月曜日

ブログをここに移転してきました

ブログを、
http://qog.blog.drecom.jp/
からここに移しました。

一括検索したいので、古いエントリも一通りこちらに移しました。
ただし、連絡用なエントリは移してません。あと、コメントも移せませんでした。
なお、今日より古いエントリは、bloggerでは多少体裁がずれているところもあります。見やすさという意味では、もしよければ古いブログサイト(http://qog.blog.drecom.jp/)の方をご覧ください。

2008年5月8日木曜日

正解のない問いに知の集約と他者をどう考えるか

ITProに梅田望夫さんとまつもとゆきひろさんの対談が出ていました。

ITPro:梅田望夫×まつもとゆきひろ対談 第2弾「ネットのエネルギーと個の幸福」

そこで、しばしばネガティブの方へ傾く"炎上"をもっとポジティブなパワーに向けられないかという話がありました。
そこで炎上を起こさない秘訣として梅田さんが次のように述べています。

これはやらない方がいい,ということをわきまえていれば炎上は起きない。そういった情報をもっとみんなで共有するといいんじゃないか。例えば政治について語る,イデオロギー,宗教について語る,アイドルをけなす,つまり誰かが信奉している人を批判するとか。そういうことをしちゃいけいないというわけじゃなく,そういうことをする自由はあるんだけど,やるのなら覚悟したほうがいい。覚悟して戦う強さを自分が持っていると思えば,書けばいい。そうではなく自分が傷つきたくない,批判されたくないという人は,今言ったようないくつかのテーマを避けて,自分の好きなことや専門性,読んだ本の感想やごく普通の日記を書けば,僕は炎上というのはほとんどないと感じています。

ネガティブな炎上を起こしたくなければ、人がこうだと信じていることについては意見を述べない方がよいという処方術です。

当たり前と言えばそうなのですが、このことをもう少し深堀してみたいと思います。つまり、どうして専門的なことや些末なことでは起こらないのに、政治的な内容では炎上してしまうのか。

これで思い出したのが、糸井重里さんも同様のことを言っていたということです。「ネット社会(仮想社会)での調整の難しさ」で紹介した引用をそのまま再掲載すると、ほぼ日サイトでコメントを設けない理由について、

 このネット直接民主主義では、例えば「商品」の良い、悪いという話に関してはみんな割と健康にできるんです。

 商品への投票権はお金です。嫌だという人は買わないだけで、ほかの人が買うことまで邪魔するというところにはいかない。

 ところが、ご意見ものは違う。Aの意見が通ったら、Bの意見が通らないだけじゃなくて、Bは追放されるかもしれない。

ということを述べられています。

これは、実は、少し前のエントリで述べた他者と自己同一性の話がその根本の原因にあると考えています(「"仕事"と"他者"」)。

簡単に言うと、世の中の大半のものごとは、無限の他者との関係性の中で成り立っており、ある地域的時代的共同体的仮定をおいて他者を限定しないと自己同一性が維持できないような正解のない問題を成しているということです。つねに自己同一的である正解があるような問題は実は少数派です。

ところが、そうした正解のない問題に対しても、正解があるかのように、もしくは正解を期待して接するがゆえに、正しいか間違っているかという二律背反に追い込まれ、自己同一的だと信じている主体(自分)までもまっぷたつの間で揺さぶられてしまってネガティブな感情が生まれるのだと思います。

そうではなくて、その問題について自己同一的であるためには、どういう他者を想定すればどのような正解が導けるかという分析を行うことが重要に思います。

先のエントリでも述べましたが、主体的であったり客観的であるためには、自己同一性が重要です。主体は、過去も未来も一貫した意見と行動を伴うことで(=自己同一性)主体的たりえます。客観性も、いつどこでも不変であること(=自己同一性)が客観的であることと言えます。

ところが、他者というものは、つねに自己同一性を揺るがしてきます。自分とは意見も行動もまったく異なる他者を受け入れようとするとき(=寛容の問題系)、過去の自分の意見を修正したりそれまで正しいと考えてきたことを訂正したりする必要が出てくる可能性があります。そのとき、自己同一性は担保されないものとなります。実際いろんなレベルで他者の影響は受けます。

逆に、自分の意見や考えを修正せずに他者を受け入れたかのように見えることがあれば、それは実際には他者に自分の考えやイメージを押し付けているだけであって、独りよがりな優しさ(真の寛容ではない)である可能性があります。

専門的なことや些末なことは、関係する他者を絞り込めます。したがって、狭い範囲の他者は受け入れやすく、共通の目的を共有しやすいため、自己同一性を維持でき、その範囲での正解を導きだしやすいです。

ところが、政治的なことや社会的なことは、関係する他者が幅広いため、自己同一性は大いに揺さぶられます。そんなところに自己同一的な正解を求めても、独りよがりな解となるか、自分の自己同一的であってほしい主体までもまっぷたつに切り倒されるだけに思います。

そうではなくて、他者を受け入れつつ、今この時代のこの地域において、自分の信ずるところと他者との境界線を探っていくことが重要でしょう。それはけっして正解を得られることのない模索となりますが、民主主義の最良のところは、何度でもやり直しができるということです。やり直していく中で、自分の考えと時代や地域の他者がもっとも接近する機会が現れる可能性があるということもまた確かなことなのです。

ネットのエネルギーとは、こうした民主主義的機会が生じるところにあると思います。そのためにどういう制度的設計が必要なのかが考えるべきことです。
梅田さんもまつもとさんを通して探求しようとされているように、どういう知の集約のあり方が民主主義的機会にもとづくパワーを生むのかというのが重要なテーマに思います。

ただ、梅田さんが言うように、小さい範囲に絞り込むことだけがそのあり方なのかは疑問もありますが。

自分としては、

* やり直しのきく(フィードバックのある)意見評価
* 小さい範囲への絞り込み(ただし、他者の排除につながる)
* 上の2つのいずれの場合でも、漏れた他者の救済処置

を考えることが、知の集約にとって重要に考えています。

2008年5月5日月曜日

2008年5月4日日曜日

フィルタリング実現のためには

消費者とサービス提供者が1対1契約できないような広域サービスを、公的に行う方がよいのか民間で行う方がよいのかについて簡潔な議論が池田信夫blogにまとめられていました。

池田信夫blog:フィルタリングの法と経済学

けっきょくミニマムには"コスト"重視か"質"重視かという問題になってしまうのですが。

ただし、それ以外にも、池田さんが指摘している通り、今回の場合は"表現の自由"という問題もからんできますし、コメント欄で小倉秀夫さんが指摘されているように、民間にした場合は質に加えて、個人の責任にしてしまうと必ず出てくる救われない人たちに対するセイフティーネットの問題もあります。

単にコストか質かということであれば民間での方がよいように思いますが、どこまで表現の自由でどこから公共の秩序を乱す情報なのか、どこまで個人の責任にできてどこから救わなければいけないのかという観点が入ってくると難しくなります。

表現の自由については、今までのメディアでは業界の自主規制できているので(官による検閲は許容しない)民間がよいように思いますが、セイフティーネットについては公的サービスとした方がよいようにも思います。

ということをふまえると、落としどころとしては、評価機関は複数の民間業者で行い、フィルタリング機能の実装を公的に義務づけるということになるでしょうか。(ちなみに、Macでは標準でついてますが)

また、携帯フィルタリング用サイト評価の民間機関EMAの初総会が開かれていて、審査料も話題にのぼっています。これだと(この金額だと)個人が気楽に子供向けのサービスを提供するようなことはできなさそうですね。

ITPro:携帯向け“健全”サイト認定機関EMAが初総会,審査料は100万円前後に

"仕事"と"他者"

内田樹の研究室:キャリアを考える

仕事をするということについて、なるほどと思わせることが書いてあったので紹介します。

就職活動のときも、会社に入ってからも、いろんな資格を取ったり、キャリアシートのようなものに何をしてきて何ができるのかを書いたりして、自分は何ができるかをアピールします(させられます)が、"仕事"の本質は実はその真逆のところにあるという指摘です。

「仕事をする」というのは「私のもっているどんな知識を求め、私の蔵しているどんな能力を必要としているのかがわからない他者」とコラボレーションすることである。
相手構わず、「私はこれこれのことを知っています。これこれのことができます」というリストを読み上げても意味はない。
「私はあなたのために何ができるのですか?」
そうまっすぐに問いかける人だけが他者とのコラボレーションに入ることができる。

自分にはこういう能力があると自己評価し、その能力を活用できると思える仕事しかしないというのは、実は"仕事"をしていることにならない。それは自己満足に過ぎない可能性が高い。
そうではなくて、いっしょに仕事をする人たちに対して、どういうことができるかを考えることが重要であり、そうしたやり取りを通して成し遂げられることが"仕事"だということです。

これは、リーダー的立場にある人も同じです。
「自分はこのプロジェクトの目標を知っています。目標達成のためにはこれこれのことをする必要があります。」と読み上げてもしかたがない。「私はあなた(メンバー)のために何ができるのですか?」と問いかけることが重要になります。

とはいうものの、自分に何ができるかを知って表現していないと向こうから問いかけられることもないし、問いかけに対して答えるための軸もないことになってしまいます。その意味で、自分に何ができるかを自己評価することは重要なことです。実際の"仕事"において、その自己評価に固執するのはよくないということだと思います。
リーダー的立場にあっても、プロジェクトの目標やToDoの把握は最重要なことです。実際の"仕事"において、メンバーへの対応を疎かにして目標やToDoのみに固執するのはよくないということだと思います。

ところで、リンク先のエントリでは、"他者"という言葉がよく出てきますが、これは内田さんの研究内容からして、レヴィナスや(フランス系)精神分析のl'Autre(他者)のことだと思われます。

"他者"は、戦後の思想界での最重要タームの1つです。西欧近代の基底には、"Identity(自己同一性)"という日本語にしにくい用語があります。主体性や客観性は、この自己同一性にもとづくものです(自己同一性がないと客観的にも主体的にもなれません)。
ところが、戦後、自己同一性の信奉に一定の批判が加えられ、その対概念としての"他者"が重視されるようになりました。それは、戦前において自己同一性をあまりにも厳密に純粋に突き詰めた結果、自己同一性から外れるものの排除(体の不自由な人や精神疾患者、さらには他民族まで)が起こってしまったからです。

現代では、自己同一性なるものも、実は"他者"との交流の中で形成されていくものであり、また"他者"との交流を通して常に変化して行くものだという考え方が主流となっていると思います。
そのため、主体や客観性というものもまた不変なものではなく、"他者"との関係性の中で捉え直されていくものになります。

自己同一性により主体と客観性が唯一不変に決まれば、ロジックも平明になり、科学的あるいは数学的計算でロジックを表現できるのかもしれませんが、実際にはいろいろな(無限の)"他者"との関係性の中でつねに主体や客観性を捉え直していかないといけないところが難しいところです。

ただし、このことは科学的数学的なロジックに意味がないということではまったくなく、むしろ重要で、ただ、いかに多くの人が納得できるかたちの"他者"との関係性の中で、自己同一性を仮定したロジックを平明に表現できるかということがポイントになってきているようには思います。

"仕事"の成功も、どういう"他者"との関係性を仮定すれば、主体(プロジェクト体制)と客観性(Objective:目的)がどのように決まり、それに基づいたロジック(スケジュールとWBS)が決まるか、というところに依っているのではないでしょうか。

2008年5月2日金曜日

十代若者の携帯文化とフィルタリング

nikkeiTRENDYnet:親の安心によって子供が"失う"もの「携帯フィルタリング」の波紋

十代の若者がいかに携帯を使いこなして自分たちの文化を形作っているか、という紹介記事です。
自由は多くの創意工夫とごく一部の悪を生み出します。
今の携帯フィルタリングは粒度が粗すぎて、mixiのようなSNSも一律アクセスできなくなるというのが問題ですね。

レディオヘッドの「お好きな価格で」は1回かぎり

CNET:レディオヘッド、pay-what-you-wantプロモーションは続けず

やめちゃうんですね。
次どういう配信の仕方をするのでしょうか。

同じ記事には、無料ダウンロードを提供したNine Inch Nailsが最終的に160万ドル売り上げているということも紹介されています。

(関連リンク「レディオヘッドが音楽レーベルなしの楽曲ダウンロード」)

審議会の乱立

少し前ですが、知財政策関連の各省庁の審議会がまとめられているエントリがあったので紹介します。

無名の一知財政策ウォッチャーの独言:第89回:日本の奇怪な審議会(有識者会議)システム

まったくバカバカしい話ですが、似たような審議会が省庁ごとに山ほど作られています。審議会を作ることはその省庁にも一家言あるぞという意思表明であり既得権限の保護になっています。さらには、台本のある名ばかりの審議会を通してその政策に関するイニシアティブをとることで、既得権益を最大化しようとする各省庁の涙ぐましい努力の結晶とも言えます。

本来は行政を検討する会であるはずですが、このエントリでも指摘されている通り審議会の結果から法律案が提出されたりして立法まで踏み込んだりしているばかりか、司法で判断すべき内容についても審議会を通しての立法行為によって判断されたりもしています。
各種審議会は、官僚が、権力を議員や裁判官から取り上げるための重要な機関だとさえ言えるかもしれません。

ただし、今までは、こうした審議会システムが制度の効率的な形成に大きな役割を果たしてきたという側面もあるかと思います。
すべてを司法の判断に任せていては膨大な費用と時間がかかりますし、なんの意見調整もせずにすべてを国会に任せることも時間の浪費につながりがちです。
(前にも触れた『裁判と社会』でも、日本の司法が行政判断を下すことが少ない要因としてこの点に触れられていました。)

とはいうものの、知財政策関連の審議会の数とその活動内容を見ていると、社会インフラが一定程度整備された現代において、かつて効率的だった審議会システムが非常に非効率なものになってしまっているような気がしてなりません。

2008年4月29日火曜日

音楽配信の流れ(メタリカも態度変更)

CNET:レディオヘッドに続くメタリカ--インターネットの積極利用を示唆

P2Pに反対してきたメタリカが、自曲の配信にインターネットの利用を考えているようです。
時機が熟してきたということでしょうか。

たしかに、CDで販売したものをNapsterで個人が勝手に交換するのと、バンド自身が配信する(そしてそれを交換する)のでは、やってることは同じことでも意味は違うかもしれません。

そもそも歴史を遡れば、レコードが出てきたときに、今まで音楽を聴くにはコンサートに行くしかなかったため(ラジオもありましたが)、音楽業界はコンサートが儲からなくなる、コンサートの意味が無くなると反対したのでした。
でも、結果としてレコード(とそれに続く記録メディアでの販売)で音楽業界は大儲けしています。

最近起こっている音楽のネット配信の結果として、記録メディアが売れなくなり、逆にコンサート(ライブ)の価値は相対的にあがってきているのだとすれば、レコードが登場したときに起きたのと逆の流れが起こっていると言えるのかもしれません。

共通しているのは、技術の革新によりユーザに便利になってきているということです。
遅い早いや紆余曲折はあるにせよ、圧倒的多数であり、価値があると認めればお金を出すユーザのメリットとなる方向に進んでいくという時代の流れは確実なものとしてあるように思います。

数十年や百年経てば、いろんな大きい変化も起こりえます。変化後の環境でいかに新しいビジネスモデルを作れるかが重要なのでしょう。

朝EXPO

朝EXPO in Marunouchi
http://www.asaexpo.net/

というのがあるようですね。知りませんでした。今春のはもう終わってしまいましたが、次機会があれば。

Biz.ID:桂小春団治流、初対面の人と打ちとける3つの糸口

とかそういうワークショップがあるようです

O'Reilly氏による現状認識と今後の目標

ちょっと前の記事ですが、Tim O'Reillyさんが、Web2.0 Expoで講演しています。

ITPro:【Web 2.0 Expo】「ユーザーの知恵で企業を変えるのがEnterprise 2.0」とO'Reilly氏
ITPro:【Web 2.0 Expo】Web 2.0の父が示した「今そこにある3つの変革」
CNET:ティム・オライリー氏:「われわれはコンピューティングのスープに浸っている」

O'Reillyさんが指摘するWeb 2.0がもたらした3つの変化は次の通り。

* インターネットがグローバル・プラットフォームになり,あらゆるデバイスが繋がるようになった
* 集合知(Collective Intelligence)が,世界や企業をより賢明にした
* コンピュータ産業のルールを変え,ソフトウエアではなくデータこそが重要だと明らかにした


また、今まさに始まりつつある3つの変化としては、

* Web 2.0の企業への浸透
* クラウド・コンピューティングの普及
* モバイルによるWeb 2.0


さらには、より高い目標として、

逆説的なのは、オープンで権力が分散化されたネットワークの上に構築されたアプリケーションによって新しい権力の集中(Google、Facebook、 Amazonなど)が生まれようとしていることであるとO'Reilly氏は指摘した。また、強大な権力と勢力が少数の企業に集中するという有害な効果を少なくするために、相互運用性のレイヤを組み込むことを提唱した。

集合知でWebを変えたように,これから世界を変える,政治を変えることを考える時期に来た

政府が市民に迅速に対応できるようにするとか、インターネットを基盤にした取り組みによって世界的な免疫システムを構築するといった大きな目標を持つように

ということが指摘されています。

2008年4月25日金曜日

Live MeshとWeb2.0オンラインサービスとの違いと共通点

MicrosoftからLive Meshが発表されました。レイ・オジーさんの思想が反映されたものになっています。

TechCrunch:Microsoftから「Mesh Live」登場—すべてのアプリとデバイスを同期させるプラットフォーム

TechCrunch:レイ・オジー戦略メモ「ソフトは死んだ、ウェブ万歳」

CNET:フォトレポート:絵で見るマイクロソフトの「Live Mesh」
CNET:FAQ:「Live Mesh」を理解するヒント
ITPro:【Web 2.0 Expo】あらゆるデバイスをクラウドで連携,Microsoftの「Live Mesh」

Live Meshのフォルダに入れられたデータやアプリケーションは、あらゆるデバイスやアプリケーションで同期がとられていく仕組みのようです。
ただし、現時点ではファイルの同期のみで、アプリケーションの同期はまだこれからのようです。

これは、まさに、レイ・オジーさんがLotus Notesで開発し、Grooveへと引き継いできた同期技術を、RSS Feedを使ってさらに広範囲に実現したものだといえます(レイ・オジーさんはFeed Syncと呼んでいます)。

Lotus Notesでは、複数の非定型文書が集まったデータの固まりを"Notes DB"として1ファイルで管理し、それをクライアントとサーバで同期させるという仕組みです(同期は文書ごとです)。
Grooveではさらに、P2P技術を利用して、Groove上のデータをクライアント間で同期する仕組みが作られました。
そして、Mesh Liveでは、同期の仕組みにRSS Feedを使うことでファイルだけでなくより柔軟かつ広範囲にデータの同期を可能にしていったといえます。

これは明らかにMicrosoftによるクラウンド・コンピューティングへの取り組みですが、Googleなどの取り組みとは違いもあると思います。

Googleなどの主だったWeb2.0サービスは、情報をインターネット上のサーバに集めるというものです。その情報にはどこからでもアクセスできます。
それに対して、Live Meshでは、情報をサーバを含めたあらゆるユーザやデバイス間で同期をとるというものになります。

逆に共通点としては、どこからでも情報にアクセスできることや、多くのAPIが公開されてユーザがその情報を使った便利なツールを開発できるということです。その意味で、できることや使い勝手はかなり似てきそうです。

ユーザ・エクスペリエンスとしてはかなり近いものになりそうですが、その奥にある"サーバ一元化"と"クラサバ同期"というスタイルの違いが、今後どのように現われてくるでしょうか。

死刑と戦争は実現されない最終手段であるべきでは

光市母子殺害事件で死刑判決が出ました。今回は、この判決についてではなくて、死刑と戦争の対比を考えてみたいと思います。

どうして、死刑と戦争の対比なのかというと、どちらも国家による殺人行為を伴うからです。
国家に対する国家間のものと、個人に対する国内のものを対比してもしょうがないと言われればそうなのですが、どちらも、国家によって人が殺されることをどう考えるのかという共通点もありますので、ここでは試みに対比してみます。

まず、世界の趨勢としては"死刑廃止"です。197ヶ国中128ヶ国で死刑が廃止されています。かたや、戦争を放棄している国はほとんどありません。
日本では逆で、死刑賛成が8割近くですが、自衛隊をめぐる憲法改正反対が約半数にのぼります。

より具体例で書くと、日本の世論としては、何人もがある国家に誘拐され見殺しにされても、その国家への死を伴う報復(=戦争)には反対です。でも、国内の殺人者に対しては死を伴う報復(=死刑)に賛成しています。
戦争は罪のない一般人も殺傷してしまうという反論もありそうですが、死刑もまた罪のない冤罪被害者を殺してしまうこともあります(現に日本では冤罪となった死刑判決が何件もあります)。

戦争はいわば最終手段です。平和を実現するための最後の手段なのであって、本来使うべきではなく、その前の政治と外交での解決努力が非常に重要となります。いわば、外交交渉で使えるコマとして戦争には一定の存在意義がありますが、実際に戦争をしてしまったらお互いによいことはありません。

死刑も言ってみれば安全な社会を実現するための最終手段です。軽々しく使うべきではないし、本来的には実施しないほうがよいものとは言えないでしょうか。

戦争という最終手段を担保しつつ、その前にやるべき多くのことをがあってそれに取り組むべきだというように、死刑についても、死刑という最終手段を担保しつつ、その前にやるべき多くのことにもっと取り組むべきと思います。

(過去、死刑反対について書いてきました「死刑についての国際情勢と日本の事情」、「個人的感情と社会的正義の葛藤:死刑制度を巡って」)

自衛隊派遣は違憲となっていくか?傍論の影響力

NBonline:伊東 乾の「常識の源流探訪」:紛争はいかに解決されるか?「防衛省」は「平和省」への脱皮を図れ!

自衛隊イラク派遣についての集団訴訟で、名古屋高裁が、国への損害賠償請求は棄却したものの、傍論として、航空自衛隊によるバグダッドへの多国籍軍の空輸が「憲法9条1項に違反する活動を含んでいる」との判断を示したそうです。

伊藤さんが指摘する通り、日本の司法はあまり政治的問題について判断を下さないというのが一般論としてあります。その中での今回の判決は傍論とはいえ大きな意味をもつかもしれません。

今たまたま『裁判と社会』という本を読んでいますが、ここで、日本の司法による行政判断の事例が紹介されていました。

文脈としては、日本の司法は違憲判断など政治問題に踏み込むようなことはしないという一般論に対して、大枠は認めるものの反例もまたあるということで、白鳥事件と財田川事件が引き合いの1つに出されていました。

それらの裁判の審理では、再審請求に必要な証拠の厳密さについて、先例を覆してより甘い基準(疑わしきは罰せず)が採用されました。
これらの判断は、同じ最高裁判所第一小法廷で(おそらく同じ2人の裁判官が)、まず白鳥事件で"傍論として"再審請求の見直しに触れ、数年後の財田川事件でその傍論を引用する形で司法判断を明確にしていったとされています。

ということを踏まえると、司法判断の先例となっていくためには傍論だけではだめで、その後それにかぶさるような判決が積み重ねられていく必要があるのかもしれません。

ところが、残念ながら自衛隊イラク派遣は違憲な活動を含んでいると判断した名古屋高裁の裁判官はすでに依願退官されているそうです。
『裁判と社会』でも、日本の司法界において、先例を覆すことが裁判官としての昇進を断たれることにつながると指摘されています。それが関係してかどうかはわかりませんが、すでにこの裁判官が辞められた以上、判例として積み重なっていく可能性は薄くなってしまったのかもしれません。

2008年4月23日水曜日

PaaSとEnterprise2.0

「PaaSのエンタープライズでの位置づけ」で紹介した記事のその後も興味深かったので書きます。

ITPro:PaaSの利用価値(プロセス管理編) アイデアだけでシステムが作れる時代

日本郵政で、「お問い合わせ等報告システム」をForce.comを使って2ヶ月で作った事例が紹介されています。

ITPro:PaaSがもたらすもの、エンタープライズ・システムの未来

PaaSは、エンタープライズ・アプリケーションのロングテールを埋めるものだとされています。

Force.comでは、認証やアクセス制御の仕組みも用意され、ワークフローテンプレートも多数あり、各種機能もコンポーネント化されているため、短期間での開発が可能だそうです。

これって、どこかで聞いたことがあるような。。。
Lotus Dominoの世界ですね。

いずれにせよ、ユーザ自身による企業内データの活用がEnterprise2.0につながるとすれば、PaaSはEnterprise2.0を実現するためのツールとして有効に思います。ただし、あくまでユーザが積極的にデータを活用できるという前提ですが。その意味でのユーザに対するデータ活用教育なども重要そうですね。

TRIZ紹介と具体例

Biz.ID:アイデア創発の素振り:TRIZ——10分以内に「それ、どうやって実現するか」を思いつく方法

TRIZの紹介記事がありました。具体的な使用例も。

それをもとにフレーズ化したSCAMPERも紹介されています。

2008年4月22日火曜日

120年前の関東地方の地図

農明治時代初期に作成された「迅速測図」が、「歴史的農業環境閲覧システム」として公開されています。

しかも、kmzファイルとしても公開されていて、Google EarthにリンクさせればGoogle Earth状にマッピングして表示できます。

120年前、うちはぎりぎり陸でした。

PaaSのエンタープライズでの位置づけ

ITPro:PaaS時代の幕開け、「Salesforce」は新サービスの序章だった

ITPro:・PaaSの利用価値(データ共有編)
“Excel以上、全社システム未満”をIT化
 

企業の情報戦略の中では、基幹系情報処理とExcelでの数値処理の中間というところがあり、その部分にPaaSがあてはまるというのはその通りに思います。ただし、ユーザ部門がPaaSを使ったアプリ開発などができるという前提でですが。

もしそれが可能であれば、それこそITの企業戦略への活用が促進されるでしょうし、ITをコア・コンピタンスに直結して活用できるようになると思います。

問題は、

* 企業内データを外部であるPaaSにどのように安全に預けるか
* 各ユーザ部門が開発した便利なツールをどのように社内で共有するか

などでしょうか。
2番目の問題はPaaSの得意とするところなのでやり方さえ整えば問題ないとして、1番目をどうクリアするかですね。

この特集では、その後も含めて次のような記事が書かれるそうです。

* PaaS時代の幕開け
「Salesforce」は新サービスの序章だった 
* PaaSの利用価値(データ共有編)
“Excel以上、全社システム未満”をIT化 
* PaaSの利用価値(プロセス管理編)
アイデアだけでシステムが作れる時代 (2008/04/23公開予定)
* PaaSがもたらすもの
エンタープライズ・システムの未来 (2008/04/24公開予定)

2008年4月21日月曜日

目的のない機械に有効な手法とは

「情報大航海プロジェクト」に対する批判として、池田信夫blogに、

池田信夫blog:「社会工学」はなぜ失敗するのか

というのがありました。自然科学の手法をそのまま社会に応用することはできないという指摘です。それが、経済学の学問的発展のなかで捉え直されています。非常におもしろかったです。

自然科学者が、特定の目的を実現するために物理法則を工学的に応用して機械をつくるように、合理的な目的にあわせて社会を計画しようとするのは、きわめて自然な発想だ。しかし、このアナロジーは間違っている。機械と違って、社会には目的がないからだ。ハイエクは個々の企業のような合目的システムを「テシス」とよび、これに対して社会全体は目的をもたない「ノモス」(自生的秩序)だとした。

そして、自然界においても、たとえば進化論のようなものには目的があるのか?と問い直してみることもできます(進化論はまさに「ノモス」とも捉えることができるわけで)。

「目的」というものが極めて人間的な、人間からの視点による世界解釈なのだとすれば、自然科学もまた、人間による世界解釈という範囲内でのみ有効である(自然それ自体ではなく)とも言えるのではないでしょうか。

いずれにせよ、社会に対してトップダウンによるある目的を実現しようとする計画的な設計はうまくいかないというのが池田信夫さんの意見であり、それに対してどうすればよいのかについては、以前の「情報大航海プロジェクト」への批判記事にあります。

池田信夫blog:「情報大航海時代」の航海術

Try&Errorで、数撃ちゃ当たる作戦です。ただし、うまく評価されるような仕組みが重要で、それには健全な市場の形成が重要になります。

それに関連して、ディオゲネスに言及されていたのもおもしろいです。

池田信夫blog:哲学者ディオゲネス

ここでディオゲネスが出てくるのかという感じです。
コメントでは、キリスト教をユダヤ教とキニク派の合成だという話も書かれてあり、史実的にどうかは別として、この文脈で言う"アリストテレス"的なものと "ディオゲネス"的なものは、西欧思想史を貫く大きな構図になりうるようにも思います。初期ニーチェがアポロン的とディオニソス的という構図を提示したように。

個人的には、それでもアリストテレス的なものはやはり重要だとは思いますし、社会工学や社会計画もまた社会に必要な要素ではあるように思いますが。

研究開発での評価方法例

Tech-ON:日経ものづくり:失敗は当たり前,では成功は?
「挑戦しないと新技術なんてできない」


ホンダ社長のインタビュー記事です。

研究開発では失敗は当たり前、ただし、商品開発(顧客に渡る)では失敗は許されない。当たり前と言えば当たり前ですが。
失敗事例をきちんと評価する(発表する)ための仕組みもあるそうです。
失敗事例は隠されがちですが、ノウハウの宝庫でもあると思うので、社内でこういう活用をされるのはよいことですね。

おもしろかったのは、「結果だけでなく、プロセスも重視する」ということです。昨今の成果主義と逆をいくようですが。

失敗が当たり前の研究開発を評価するときには、結果だけでなく失敗をどういかしたかのプロセスを評価することが重要だとしています。

質問者:プロセスを客観的に評価するということはかなり難しいのでは。
福井社長:いや、難しくはないです。常に現場に行って見ていれば分かります。

たしかに。常に現場を見ていればこそのプロセス評価なんでしょうね。

巨大システムでのプログラム修正(Googleでは年に450回だそうです!)

CNET:「2007年に450回修正した」--グーグル関係者、検索事業の内側を語る

Googleのような巨大なシステムでは、検索アルゴリズムを修正するのもたいへんだろうと思いきや、、、1年で450回も修正しているそうです。

一般論として、(従来型の)巨大なエンタープライズ・アプリケーションでは、本番稼働後の頻繁なプログラム修正は行われません。他プログラムや業務への影響が大きいためです。そのため、本番稼働前までになるべく完全なプログラムを作ろうとして四苦八苦します(失敗したりもします)。

ただし、最近のLight-Weightな開発手法では、プログラムの修正についてもっと積極的に考えていて、どうすれば修正しやすいプログラムになるかへの取り組みも多いです。

Googleの検索プログラムは、エンタープライズ・アプリケーションと同じには考えられないのでしょうが、Light-Weightというにはあまりにも巨大なものだと思っていたのですが、こんなに頻繁に修正しているとは驚きです。いったいどのように実現しているのでしょうか。

その他、データの手での修正は行わず、必ずプログラムの修正を通しているということだそうです。
プログラムの修正(リリース)がなかなかできず、頻繁にデータベースのデータ修正を行っているようなシステムとは雲泥の差ですね。

 
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