2008年5月28日水曜日

被害者意識の権利と戦略と精神衛生

ずいぶん前のエントリですが。

内田樹の研究室:被害者の呪い

オリンピック聖火リレーの騒動について、「被害者意識」という観点で分析されています。

「被害者意識」は、統合失調症にも通じる有毒性を持っているそうです。なるほどと思いました。

人がいったん強烈な被害者意識に陥ると、自分の権利の主張は元に戻る(被害が無くなる)ための絶対に正当な主張となり譲ることのできないものになってしまいます。

そして、当事者同士が「被害者意識」になってしまうと、どちらも譲れなくなり解決の糸口が無くなってしまいます。

ところが、現実の問題を解決していくためには、譲り合いや妥協点が必要です。自分の言い分がすべて通ることなどありえなくて、ある部分で自分の主張が通ると別の部分で譲歩するといったように、お互いにメリットが最大になるよう調整することで現実の問題は解かれていきます。

「被害者意識」に陥ってしまうとこうした妥協点の模索ができなくなってしまうという問題があります。

もちろん、被害者やある権力に対する弱者がその権利を主張することは正当なことなのですが、そこに固執してしまうとデッド・ロック状態となりにっちもさっちもいかなくなってしまいます。

権利上は、被害を根絶することを主張してよいと思いますが、戦略(政治)上は、交渉のツールとしてうまく活用して解決策を模索するような努力も必要で、かつ、精神衛生上は、被害を被っていることや弱者であることを(たいへん厳しいことですが)ある程度運命と受け止めていかないといけないときもあるのかもしれません。
泣き寝入りをしろと言うつもりはないので、そのあたりのバランスの取り方が難しいところですが。

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