2007年12月10日月曜日

携帯小説と電子書籍

TechCrunch:「日本ではベストセラーの半分は携帯で執筆されている」

AmazonのKindleと関連させて、日本の携帯小説(携帯で配信された後に単行本化される小説)が述べられていて、自分にはそういう観点がなかったのでちょっとなるほどと思いました。

ebook(電子書籍)はなかなか普及しないですが、よく考えると日本では、携帯でダウンロードして小説を読む人が急増しているのでした。携帯がebookとなっているわけです。

SonyのLibroやAmazonのKindleなどといった電子書籍は、いかに小説を読みやすくするかで解像度やページめくりインタフェース等を工夫してきているわけですが、日本の小説事情としては、逆に、いかに携帯で読みやすい小説を書くかという創意工夫がなされてきているわけです。

先日、『現代日本の小説』(尾崎真理子)という本を読んで興味深かったのですが、そこでも、最近の日本の小説において、PCでの執筆、さらには携帯での配信といった、書いたり読んだりするメディアの変遷が、小説(というシステム)に大きな影響を与えているのではないかという指摘がありました。

携帯ではかつての重厚な小説世界は望むべくもないですが、たしかにメディアの変遷に合わせて人間の表現は変わってきているのであり、その意味で携帯小説というのも興味深い現象ではあるのでしょう。携帯というメディアでどこまで表現できるのか。

2007年12月6日木曜日

私的複製について文化庁の小委員会でもめています

ちょっと前の記事ですが。

ITPro:「議論かみ合わぬまま、期限切れ迫る私的録音録画小委員会」

文化庁長官の諮問機関、文化審議会著作権分科会私的録音録画小委員会で、私的複製についてもめています。
まったく結論がまとまらず時間切れに。

ぜんぜん議論がまとまっていませんね。これは土俵を変えないと。

2007年12月3日月曜日

日本の検事事情

「検察の実情、バブルのあやうさ:『反転』を読む」で、検察の実情について書かれている本を紹介しましたが、先週末の「朝まで生テレビ」で、元検事も出席しての、日本の検事、とくに特捜と政治犯罪についての問題が取り上げられていました。

田原総一朗自身が取り上げたリクルート事件や、鈴木宗男事件、賄賂の現場にいた人たちが起訴されず落選中の元議員が有罪になっている日歯連事件、そして冤罪が確定した志布志事件、等々。

日本の検事が、当初作った犯罪ストーリーが検挙後うまく成立しなかったときに、かなり無理に事件をこじつけてきていることが分かります。その際には、精神的にも肉体的にも威圧的な取り調べが行われることも多々あるようです。志布志事件では、拘留期間が1年を越えています。重大な人権侵害でしょう。

日本では、起訴された事件の有罪率が99.5%を越えますが(ヨーロッパ等では5割を割るらしい)、そもそもこの構図がおかしいですね。

元検事の方々のもっともな言い訳としては、とくに政治犯罪や経済犯罪に関して、日本では、司法取引もおとり捜査も盗聴も禁止されている、もしくは事実上実施できないため、拘留中の供述調書が唯一の証拠となることが多く、供述調書をいかにうまく作るかに検事の全精力が注がれ、しばしば恐喝じみた取り調べになってしまう、という指摘がありました。

また、検事と司法の結びつきも強いため、通常、いったん検事の取り調べで供述してしまったものは、裁判の中で否定しても覆ることは稀だと言います。
閉じた空間で行われる取り調べの方が、開かれた場で行われる裁判よりも優先されているわけです。

こう書くと、日本の司法の仕組みが、非近代的というか非民主的というか、けっこう危険な方に転がりやすいようにも思えてしまいますね。
もっとも、裁判では、被告は弁護士の助言をもらって発言するため、たとえ開かれた場とはいえ真実を語っているとはかぎらないわけで、そう考えると、検事による取り調べとどちらが真実なのかはやはり難しいところですが。

などと考えてくると、日本でもおとり捜査を認めてなるべく客観的証拠を押さえやすくしたり、司法取引を認めたりすることで、長期間の拘留という半分拷問とも言える非人道的手法は減らすべきなのではないかと思えました。
そうすることで、より供述調書の信憑性が増えるのではないかと。そして、取り調べと裁判でのねじれも減るのではないかと。
というのも、日本のこの手の事件では、取り調べによる虚偽の自白→一転裁判での否定→でもやっぱり有罪、というパターンが非常に多いようですので。

あと、この手の政治事件を並べると、ロッキード事件以来の特捜vs旧田中派という図式がものの見事に現れるという指摘もありました。

2007年11月28日水曜日

戦争を現実論で考える(という視点が優勢な時代)

新戦争論
伊藤憲一
新潮新書

著者はまず、国際関係や平和を考えるにあたって、法制的思考、観念論ではなく、戦略的思考、現実論で世界を考える必要があるとします。
法制的思考、観念論とは、まず理想を描いて法律として整備していくというやり方です。そして法律や条約が平和をもたらすという考え方になります。正論ですが、これにこだわりすぎると現実に対応できません。また、現実の平和に対して片手落ちの議論となります。

それに対して、筆者は、今までの歴史上簡単に破られてきた法律や条約の世界よりも、実際に戦争を押しとどめてきた力の均衡を現実として認識し、そうした力による戦略論を考えていくべきだとします。

筆者によれば、戦争と紛争は異なるもので、戦争は、国家(あるいは政治的主体)が行う紛争であり、クラウゼビッツを引用して「戦争とは政治におけるとは異なる手段をもってする政治の延長にほかならない」とします。単なる個人間、集団間の争いである紛争(そしてこうした紛争は人類の歴史と同じだけ古い物ですが)と、国家間の政治の延長は違う、という主張です。

そう考えると、人類は生まれながらに戦争をしてきているわけではなくて、あるときから戦争を開始し、そして現在は戦争をしない時代になっている、とします。
つまり、紛争はあったが戦争はなかった「無戦争時代」、人類が定住を初めて土地の所有から共同体間の戦争が始まった「戦争時代」、そして核兵器の開発により現実問題として戦争が行えなくなってしまった「不戦争時代」という3つの時代区分を提示します。

現代においては、アメリカの核の威力のもと、国家間の戦争は不可能となっており、各地での紛争があるだけだということになります。

冷戦という「不戦争時代」の始まりにおいては、ソ連とアメリカで核の均衡がとれていました。他の国にも核兵器はありましたが、第一撃で90%の戦力が失われても第二撃で敵国をも壊滅させてしまう報復能力を持つ国はこの2国だけでした。
その後、ソ連邦崩壊で、現在では実質この戦力を維持できているのはアメリカだけとなっています。

国連のような形での「世界政府」の樹立による平和の実現が人類にとっての理想ではあります。が、現実的にはそのような世界政府は存在したことがないし、国連の力もそこまではいたっていません。
他方で、現実的にはアメリカがその経済力や軍事力で事実上の「世界帝国」となって、その帝国のもと世界不戦体制ができあがりつつあります。

著者の主張では、こうした世界不戦体制のもと積極的平和主義を追求しなければならない、ということになります。
そのためには、日本は、憲法第九条第一項の不戦事項は順守しつつ、その不戦体制を維持するために第二項は変えて集団的自衛権は認めなければいけないとします。

つまり、国家間の戦争が起こらない体制を維持するために、紛争を解決する手段を持つ必要があるというものです。現代においては、ならずもの国家やテロ集団による紛争が起こりえ、これが不戦体制を脅かしています。日本は、積極的平和主義のためにこれに抗する手段を持たないといけない、ということになります。

また、現代の不戦体制ができてきた理由の一つとして、最終兵器としての核の威力以外に、戦争は土地の所有と結びついて発展してきて最終的に世界の土地を取り合う世界大戦へといたったものの、グローバリズムの時代では土地の所有が相対的に小さいものとなってきているということもあげられています。

こうした世界観はいわば、ドゥルーズ=ガタリの戦争機械論からネグリの帝国論を敷衍したものにも見えますが、ちなみに本書にこれらからの引用はありませんでした。

筆者の主張に賛否両論あるとは思いますが、現実の世界を考えるためには有益な視野を与えてはくれます。
他方で、この本ではまったく触れられない理想論は語っていかなくてもよいのか、という疑問もあります。

歴史にはいろいろな波があるのだと思いますが、少なくとも現在では、こうした現実論、パワーポリティクスが支持を得ているし、信憑性も増していますね。
それがどうしてかは非常に面白いテーマだとは思いますが。


NBonline:「消極的平和主義を捨てて〜『新・戦争論』伊藤憲一著(評:小田嶋隆)」
に書評がありました。
評者はわかりにくいと言っていますが、けっしてそんなことはなくむしろわかりやすい本だと思いました。評者は左翼史観に偏りすぎているのでそう思われたのではないでしょうか。古い左翼史観のままこの本を読むと、そもそも概念の使い方が違うので納得がいかず(同じ議論の土俵に立てず)、たしかにわかりにくいかもしれません。

他方で、イラク戦争等が著者の言う"戦争"ではない紛争だとしたところで、"戦争"と同じく多くの若者や一般市民が死んでいっているのは確かで、そうした視点も見失ってはいけないでしょう。
この本の主張と相反するものではないと思っていますが。

2007年11月27日火曜日

CD販売とネット配信の関係

池田信夫blog:「ネットはクリエイターの敵か」

CD販売とネット配信の関係と現状が効果的にまとめられています。
ミリオンセラーを連発するようなCD販売ビジネスモデルが崩壊し、別の(より裾野の広いロングテールな)音楽配信モデルが登場しつつあります。

科学的質感の重要さ:『生物と無生物のあいだ』

「科学と非科学のあいだ:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 1」と「反復できない時間を生きる生物:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 2」で紹介した『生物と無生物のあいだ』について別の観点で紹介してある記事がありました。

Tech-On:藤堂安人の材料で勝つ「偉大な発見を実現する「条件」とは」


科学の世界における競争の話や、輝かしい科学的発見(しばしば演繹的な思考によるもの)の背後にある帰納的発見の重要性、帰納的発見の過程における科学的 "質感"による自信の話など、たしかにこの本のメインテーマ(が、自分は取り上げなかった)が取り上げられ紹介されています。

「価格はファンが決定」のレディオヘッドの最新アルバム、日本でもネット販売

CNet:「「価格はファンが決定」のレディオヘッドの最新アルバム、日本でもネット販売」

Radioheadの中抜きネット販売(「レディオヘッドが音楽レーベルなしの楽曲ダウンロード」)が日本でも12月3日から販売開始するそうです。
www.inrainbows.jp

2007年11月23日金曜日

ウィキノミクス

ウィキノミクス マスコラボレーションによる開発・生産の世紀へ
ドン・タプスコット、アンソニー・D・ウィリアムズ
日経BP社

ウィキペディアを代表とする、自由参加型コミュニティが社会にイノベーションを起こしているという事例のまとめです。
内容的には、すでに知っているような事例の紹介ばかりです。こんなにすばらしいですよという説明のオンパレードで、そういう意味では本質を描ききれているようには思えませんでした。

ただ、Web2.0的な内容かと思っていたのですが、それよりも『フラット化する世界』の方に近く、物理的生産拠点のグローバル化などのテーマも範囲に含まれています。

また、訴えかけているのが企業やそこで働く人々だったりもするので、そういう意味では、ここで描かれているようなことを実践できている会社はまだまだ少なく、今後の進むべき方向を示されたという意味ではよいのかもしれません。

そして、実際にまさにウィキノミクスで唱えられている方向へいろいろな企業が進みだしているように思えます。グローバル企業で働く人にとっては、今後の会社の方向性がこの本の中に垣間見えると思えるのではないでしょうか。

企業以外でも、いろいろな形の参加型コミュニティが社会的影響を持つものになってきているのは確かで、それをまとめたものとしての価値も高いです。

あとやっぱり、あるものごとを指し示す用語のネーミングはすごくいいですね。"ウィキノミクス"をはじめいろいろな概念が作られていて、そのネーミングセンスはすごいと思います。

2007年11月21日水曜日

ネット動画(今のところ音楽のみ)はカラオケにならって:YouTubeとニコニコ動画がJASRACとの協議開始

もうずいぶん前(先月末)のニュースですがやっぱり取り上げとこうかと。

JASRACとYahoo!で進めていた著作権の包括契約について、YouTubeとニコニコ動画も参加していくようです。

ITPro:「YouTubeとニコニコ動画、「脱違法」へ——JASRACと著作権協議開始」

これが現実解という気はします。ラディカルな著作権批判論が大勢を占めるようなことがないかぎり。
カラオケでの著作権問題の解決策と同じですね。
他方で、今度は、より大きな権利者団体となるJASRACに対する第3者監査をどうするかが気になります。

一般消費者としては、自分で細かいことを気にすることなく、YouTubeやニコニコ動画のコンテンツを楽しめるというのは大きなメリットです。
YouTubeやニコニコ動画も、より視聴アクセス数が増えることで広告収入が伸びることが期待されるでしょう。

ただ、YouTubeなどでは音楽だけではなくTVなどの映像コンテンツに対する著作権の問題がまだ残っています。それらについても同様の包括契約で解決していってほしいですね。そのための余力(資金的なものも含めて)を残しておいてほしいものです。

2007年11月17日土曜日

群衆の叡智という古くて新しい問題

今月初め、The wisdom of Couwdsについてのパネルディスカッションがありました。
自腹で行こうかとも若干迷いましたが、記事を読むに内容的に自分が期待した物は少なかったようです。

ITPro:「「群集の叡智」をテーマにした討論会が開催」

小飼弾氏がそこで話した内容をブログに載せています。
404 Blog Not Found:「叡智の値段」

叡智の値段は0円だが、それをいかに技術的に実現するかについては特許権が(登録すれば)、それをいかに表現したかは著作権が発生し、お金につながっていきます。

また、叡智はなるべく多くの散らばった意見を集めた方がよりよいものが出てきますが、その叡智を実現しようとすると、なるべく少数にまとめて群れた方が実現できます。群衆の叡智にまつわるそうした矛盾も指摘されています。


ところで、最近、日本の戦間期の思想や文化を扱った『近代による超克』という本を読んでいますが、20世紀に入ってからの日本においても、大衆や群衆(の叡智)というのは大きな思考対象だったんだなぁと再認識しています。

西欧においても、オルテガやベンヤミンのように真正面から捉えた思想家以外にも、よく考えるとフッサールの現象学やハイデガーの存在論における日常(生活)という概念においても、大衆や群衆なるものの思想化の側面があるように思えます。

遡れば、マルクスやフランス革命、ルソーの一般意志などにまでたどり着けそうで、やはり「群衆の叡智」(個人的には「大衆の意志」と読み替えたいですが)は古くて新しい問題なんですね。(さらにはもちろんギリシャ哲学にまで。。。)

問題は、群衆にも叡智はあるんだと言い張るだけではなくて、インターネットの時代になって、そうした古くて新しい問題がどう焼き直されているかを分析することに思えます。答えは持ち合わせていませんが。

2007年11月16日金曜日

Radioheadによるダウンロード中抜き販売の1次結果

先日の「レディオヘッドが音楽レーベルなしの楽曲ダウンロード」の結果が出つつあります。

11月4日の池田信夫blog:「レディオヘッドの実験」では、100万ダウンロードで平均価格は9.1ドル、バンドの取り分は90%とありました。

11月6日のCNet:「大半が無料で入手--レディオヘッド最新アルバムのダウンロード販売」によれば、全体の62%が"タダ"でダウンロードし、残りの17%の人が1セント〜4ドル、12%の人が8〜12ドルを支払ったとあります。

どちらが正しい統計なのでしょうか。
(それとも4日まではちゃんとしたファンがお金を払ってダウンロードしたが、その後の数日で無料ダウンローダーが一気に増えたということか?)

いずれにせよ、レコード会社に払う分がないので、Radiohead自体が今までより儲かったのかそうじゃないかは不明です。

2007年11月15日木曜日

新聞社サイトの動向:ニュースアグリゲーション 

アメリカの大手新聞社は着実にインターネットへと軸足を変えつつあります。

「大手ニュースサイトがソーシャルニュースサイトを買収」などもありましたが、ニュースサイト自身が他のニュースサイトをリンクするという"ニュースアグリゲーション"も大きな流れとしてあるようです。

media pub:「米新聞社サイトが打つ次の一手とは」

つまり、ニュースの元ネタは、自社の記者が集めてくるだけではなくて、他社からも、一般読者からも集めてくるということになります。
その場合、ニュースサイトの大きな役割としては、その記事の集めかた表示(表現)の仕方などの編集者的なものとなってくるのでしょう。

リンク先では、NYTimesが買収したニュースアグリゲーションツールBlogrunnerの特性(記事の集められかた)が記述されています。

新聞社も自社で囲い込むのではなく、適材適所でリソースを活用していくようになっていくのでしょう。
その際、アメリカでは、大学にジャーナリズム学科があったりして、社会としてジャーナリストを育成できる環境がありますが、日本では記者は通常新聞社に入ってから徒弟制的に(?)鍛えられます。
日本でも、ジャーナリストの流動化(転職や独立促進)と教育環境の整備が、今後の日本でのニュースの配信にとって重要な課題になってくるのかもしれません。

2007年11月14日水曜日

GoogleのOpenSocial

ちょっと前の話になってしまいますが、「Googleがオープンなソーシャルグラフを目指すようです」で書いていたGoogleのSocialGraphへの取り組みが公開されました。"OpenSocial"だそうです。

TechCrunch:「Googleの野心的「OpenSocial」APIの詳細判明—木曜日にローンチへ」


media pub:「Googleの“OpenSocial”の全貌が明らかに」

Facebookに先を行かれているSNSの分野において、Googleのこの取り組みは起死回生のものとなるのでしょうか。

ただ、SNS上で動くアプリケーション開発者にとっては非常にいいのでしょうが、一般ユーザにとってどういいかはあまり伝わってこない気もします。
それならば、FacebookのSocialAdsの方が、ユーザにも企業にもいいツールに思えます。

ちなみに、さっそくOpenSocial対応アプリがハックされたり(TechCrunch:「OpenSocial、再度ハックされる」)、オライリー氏による批判があったりもしています(TechCrunch:「「データを開放せよ」〜オライリー氏が説くOpenSocialの問題点とは?」)。

2007年11月13日火曜日

口コミとネット広告の自動融合:インターネットの特性と広告を結びつける画期的手法!?

百式さんのところのIDEAxIDEAで、FacebookのSocial Adsが紹介されていました。
なぜか日本の大手メディアではあまり紹介されていませんね(Impress除く)。Facebookが日本にはほとんど浸透していないためでしょうか?

IDEA x IDEA:「Facebookの「Social Ads」ってすごくね?」

内容は、リンク先を読んでみてください。

今まで、インターネット上の広告は正直ほとんどクリックしたことがなかったですが、たしかにこの広告の出されかたは思わずクリックしてしまいそうですね。

(広告を出す)企業という観点からは、はじめてSNSのメリットが出てきた気がします。
SNSやインターネット自体が今後も主流メディアとして発展していくためには、このような広告手法は大きな役割を担いうるものの1つになるのではないでしょうか。まさに、インターネットの特性を最大限に活かしてそれを広告を介したお金に結びつけうるという意味で。

ただし、法律上解決しなければ行けない問題も出ているようです。とくにプライバシーの問題。

Techcrunch:「Facebookの新広告プラットホームは違法か」


その他にもFacebookの魅力がIDEA x IDEAで伝えられています。
IDEA x IDEA:「Facebookってやっぱりすごいな・・・」

あと、IBMがこれからの広告のあり方についてペーパーを出しているようでその紹介記事も。
TechCrunch:「IBM—「現在の広告モデルの終焉」を説く」

2007年11月11日日曜日

団塊ジュニア世代が抱えた負の遺産

忙しくてちょっと更新できていませんでした。この間も書きたいネタはたくさんあったのですが。。。


数日前になりますが、池田信夫blogに、梅田望夫さんの最新著作に対する批判記事がありました。

池田信夫blog:「ウェブ時代をゆく」


批判自体はおいておくとして、ここで興味深い関連が指摘されていました。

1976年世代。

梅田望夫さんが、これからのIT時代の日本を背負いうる人たちと期待して名付けられている世代です。ぎりぎり団塊ジュニアかその直後くらいの世代ですね。
この世代の人たちが、今ベンチャーを起こし、新しい風を日本に吹き込んでいるというものです。

他方で、最近しばしば池田信夫blogに引用されている赤木智弘さんの書いた本(論考)が評判を生んでいます。赤木さんは、まさに1976年世代(の前後)です。

池田信夫blog:「丸山眞男をひっぱたけ」

就職氷河期に就職できなかった32歳フリーターの赤木さんは、この論考でまっとうな論理で戦争を期待しかねない状況を説明し話題を呼んでいます。

2000年前後の就職氷河期は、企業が既存の正社員を保護して派遣社員を増やし新卒採用を控えた時期です。その結果、ちょうどこの時期に新卒だった若者たちが、たとえ優秀だったとしても大量に職からあぶれました。
今まで通り新卒を採用してくれるか、あるいは既存正社員も含めて労働者の流動化が進めばよかったのですが、既存正社員だけが保護されていわば新卒の若者が見殺しにされてしまったかたちになります。そして、その数年後、いまやバブル期に迫る新卒売り手市場となっています。

1976年世代は、かたやベンチャー起業家、かたやフリーターという二極分割となってしまっています。
大人は、怠け者の若者がフリーターとなってると批判するが、これは構造的な問題であってわれわれ若者はその犠牲者だ、というのが赤木さんの論旨となります。

その上で、日本の戦後最大の知識人の一人、丸山眞男が徴兵されたときに中卒の上官にひっぱたかれたことを述懐していることを引用して、今戦争が起これば、自分にも一発逆転のチャンスがあるのに(フリーターの自分がベンチャー起業家や一流企業サラリーマンをひっぱたける)、と期待しているというものになります。

戦争を期待しているという部分は本心ではないと思いますが、今のフリーターの問題が、終身雇用が崩壊したにもかかわらず労働者の流動化が進んでいないという構造的問題なのだという指摘は重要です。戻すか進めるかするか、あるいはこの問題の保護策を社会的に講じないと、後々にいたるまで大きな社会的遺恨として残りかねないのでしょうか。

私もちょうど団塊ジュニア世代ですが、われわれの世代に課されてしまったたくさんの課題のうちの1つです。

2007年10月25日木曜日

実感ベースと統計ベースで切り分けて考える

NBonline:所得格差拡大論の誤謬 ー「教育」こそが世界的な2極化トレンドへの対抗策

経済素人の観点ではありますが、日本経済の現状がうまくまとめられているように思います。

所得格差問題については、マクロ(統計ベース)とミクロ(実感ベース)できちんと切り分けて考えないといけないのではないでしょうか。

たしかに、生活実感として所得格差が開いているように感じます。これはこれで対策を考えないといけない問題です。ただ、だからといってマクロ経済政策を変えないと行けないかというと、それはマクロで見た所得格差をも考慮に入れないといけないのではないでしょうか。

この記事では、マクロで見ると、(政府の発表資料によっても)所得はそれほど拡大しておらず、しかも他国との比較で見ると、日本は遥かに格差が小さいという分析がなされています。これが正しいかどうかは自分では判断できませんが、少なくともマクロでは実感レベルとは違う可能性があるということはたしかでしょう。

人やマスコミは、ついつい身近で個別の悲惨なものや悪いものに目を向けがちで、それを糾弾することで正義感のカタストロフを得ているように思えます(亀田問題?)。
広い視点で見ると業界全体でがんばっているのに、ある1者/社が不正を行うだけで、その業界全体、さらには日本の政策全体(マクロ政策)が悪いかのように非難されがちです。古い左翼にありがちですが。

そうではなくて、不正があったからといってマクロ政策全体を見直さないといけないわけではなく、個別の不正防止策やセーフティーネットが考えられるべきです。逆に、大きな政策については、個別の実感とは切り離されたマクロでの分析に基づく政策分析もなされるべきです。

そういう意味で、今の民主党がやろうとしていること(補助金等の政策)は、個別の不正や悪い点を煽ってはマクロ政策をひっくり返そうとしているだけのように見え、すっかり昔の社会党のようになってしまったように思えてなりません。

2007年10月22日月曜日

検察の実情、バブルのあやうさ:『反転』を読む

反転 —闇社会の守護神と呼ばれて
田中森一
幻冬舎

イトマン事件で許永中らとともに捕まって公判中の弁護士の自伝です。
前半は、自身検察官だった時代の検察という仕事の実情の吐露、後半は、弁護士になってからのバブル紳士との付き合いの告白、というものになっています。

筆者の人生が日本の戦後経済発展の合わせ鏡となっている、というような書評を読んで、おもしろそうだと思い読んでみました。
その点ではハズレでしたが、読み物としてはおもしろく読みやすく、検察の実情を知れたという点では興味深かったです。
個人的に、陰謀ものとか好きでないですがそれでも楽しめました。陰謀ものとか好きな方はもっと楽しめるのではないでしょうか。

■検察の実情
現場の検察官は、いかに被疑者をクロにするか、いかにクロの数の実績をあげるか、に最大限注力します。したがって、被疑者に対する態度は犯人扱いとなりますし、数をあげやすい選挙違反事件などが狙われやすくなります。
検察官の職責としてはそのとおりなのでしょうが、社会的正義としてどうなのかと考えさせられるところです。

また、検察の組織は法務省配下におかれており、けっきょくは官僚の出先機関となっています。したがって、政治関係の事件は検察では扱いづらいものとなり、多くの疑惑が政治家の圧力により握りつぶされているようです。検察にくるキャリア組などは将来のキャリアをつぶしたくないために、政治的に易い方向へ流れやすいようです。

筆者などの叩き上げの検察官で正義感の強い人は、政治関連の疑惑にも果敢に挑みますが、けっきょくは握りつぶされることも多く、そういうこともあって筆者は検察を辞めることにしたようです。


■弁護士の実情
特捜の検察官を辞めた筆者は弁護士となります。
時はバブルが始まろうとしている頃で、元特捜エース検察官ということであっという間に仕事が舞い込んできたようです。
とくに、仕手などでもうけた怪しいバブル紳士のような人や、山口組をはじめとするヤクザなどを顧客とし、もっぱら法廷には出ず示談で問題解決していくようなあぶなっかしい弁護士業を営み莫大に儲けていったようです。ウン千万とかが1日に平気で飛んでいくような世界が描かれています。政治家なども実名で多数登場します。

そして、現在公判中の事件の真相についても語られていきますが、印象として自己弁護的なところも無いとは言えず、いずれにせよ個人的にはその真相はどうでもよいというかあまり関心ありません。


それにしても、検察官という社会の悪者を法廷の場へと連れ出す仕事の大変さ、重要さがわかるとともに、それがいとも簡単に政治家の圧力によりゆがめられていってしまうということには非常に残念な思いにさせられます。わかっちゃいたけど、社会ってやっぱりそんなものなのかと。

そういう意味でも、事実上の一党独裁であったり、官僚という固定的閉鎖的組織が権力をもったりすることは、社会としてよくないことだと実感させられます。
アメリカのように二大政党制で、かつ政党がかわれば官僚組織も取っ替えになるような、そういう仕組みの方が健全に運営できそうに思えます。
もちろん、アメリカの政治にも不正はあると思いますし、現状どれくらい腐敗しているのかとかほとんど知りませんが。

また、バブル的なお金のあやうさ、危なさも認識させられます。そういうお金には必ずウラ社会が接近してきますし、そうすると生死をかけざるをえないような状況にもなりえます。使いきれないようなお金のために自分の生死もかけるというのは自分の感覚ではよく理解できませんが、お金や権力という道具を価値観の柱(人生の目的)にはしない方がよいとあらためて思えてきます。

2007年10月20日土曜日

規制か/とイノベーションによるインターネット時代の著作権

CNET:メディアおよび技術大手、ネット著作権問題でガイドライン--グーグルは不参加

大手メディアを中心に、インターネット著作権に関するガイドラインを発表した(?)ようです。

参加企業は、CBS、Fox Entertainment Group(News Corp.傘下)、NBC Universal、Viacom、Disney、Microsoft、MySpace(News Corp.傘下)、Dailymotion(ビデオ共有サイト)、Veoh Networks(ビデオ共有サイト)。

Googleは、「「業界全体にわたる権限」を作ることでイノベーションが抑制されることを懸念し」、途中で抜けたそうです。
裏には、Viacomとの訴訟問題があるとの見方もあるようです。

Google寄りの記事としては、

TechCrunch:業界の著作権保護連合結成の動機はアンチGoogle

規制によって問題解決していくのか、技術革新によるイノベーションによって問題解決していくのか、という対立構図と捉えることもできます。

Google(YouTube)の著作権識別技術が現時点ではブレイクスルーできるほどのものではなさそうなため、今後この問題に関してはいろいろありそうです。

というよりも、規制を絡めたイノベーションにしていかないと、インターネット時代の著作権の問題の絡まり具合はほどけていかなさそうです。

2007年10月16日火曜日

YouTubeの著作権識別機能開始:私的著作権登録管理の仕組みに近い?

CNET:グーグル、YouTube不法コピー防止ツールを発表

GoogleというかYouTubeで、テスト中だった著作権違反動画発見用コンテンツ識別技術を公開したようです。
著作権所有者は、自身の保護対象コンテンツがYouTubeにアップロードされるときに、アップロードを拒否するかもしくは広告を付けた上で許可するか等を選択できるようです(広告収入は著作権者)。

ただし、この仕組みを利用するためには、あらかじめ識別対象として保護したい著作物(の完全版)をYouTubeに預けておかなければいけないようです。
これは非常に大きなハードルですね。ほんとうに保護したい全著作物がGoogleに提供されるのでしょうか?

また、この仕組みは、けっきょくYouTube内に著作権管理DBを持ち、著作権管理は登録制とすると言っていることとほとんど同じとなってしまいます。
そうすると著作権に関する国際条約であるベルヌ条約からは外れる方式に事実上移行してしまうことになりますね。

もしこれがうまくいくのだとすれば、相変わらず思うのは、日本で政府配下に委員会を作って著作権を議論している間に、アメリカでは一企業がどんどん先に進めてしまうそのスピード感です。自由市場主義ならではのものだと思いますが、他方であやうさも感じてしまいます。Googleが信用できるうちはいいと思うのですが。

2007年10月13日土曜日

統制と自由

日本国の原則—自由と民主主義を問い直す
原田泰
日本経済新聞出版社

著者によれば、明治以来、自由が尊重されている時期に日本は発展しかつ平和な時代を迎えており、政府による統制が強まる(自由が束縛される)時期に衰退し戦争などへ突入していっているとのことです。

いろいろ歴史的論拠も示されていますが、自分にはそれがまっとうなものかどうかは判断できません。が、感覚としては、自由こそが社会や文化の繁栄をもたらし、統制は社会の停滞をもたらすという著者の主張は正しいように思えます。

ここで語られている「自由」はもちろん、自由放任ということではなくて、私的所有権がきちんと認められた上での自由市場であり、権力(人の自由を奪いうるもの)に対する個人の言論の自由です。

第二次世界大戦前夜、日本はけっして窮屈で貧しい国だったわけではなく、自由で豊かだったと言います。国民(やメディア)は、さらなる経済的発展を求めて戦争を支持します。満州国の建国には、日産コンツェルンの鮎川義介等による国際的自由主義経済圏の設立構想もあったと言います。

ところが、当時の軍部は、長期間戦争がない状態で、かたや経済謳歌している事業家を尻目に鬱憤がたまっていたそうです。軍人は戦功をあげると昇進し、最終的には華族にまでなれます。ところが戦争がないと昇進も望めず、経済的名誉的欲求を満たせません。
同級生が資本家としてサラリーマンとして経済的に満たされている一方で、軍人を選んだ自分は先の見えない軍隊生活に甘んじているという屈折した状態だったのかもしれません。

したがって、日中戦争開戦時は、軍部と国民の意図は合致していたが、さらなる経済的発展を求める民間企業に対して、軍部ははなから戦争を目的にしていて、むしろ自由に基づく資本主義的発展は望んでいなかったとも言えます。

そして、軍部による政府の掌握と、戦争のための経済統制および言論統制が強められていきます。この段階で、国民から自由がとりあげられ、日本がまだ修正できたかもしれないポイントを決定的に逸脱していきます。

自由で民主主義的であれば、間違いを犯すことはあっても(戦争を始めることがあっても)、それを批判したり、戦争以外の目的の行動をとることも可能です。
引用されるヒュームやカントなどにおいても、理想的な自由かつ民主主義的国家は戦争をしないとされます。それは、戦争がけっきょくは国民の不利益(戦死等)になるため、戦争すればするほど(戦死者が増えるほど)、民主主義国家は戦争に反対していくということになるからです。

理論上(政治哲学)も、歴史的事実としても、大規模な戦争を回避するためには、自由と民主主義が非常に重要だと言えます。

著者はまた、日本の軍国主義と共産主義の類似性も指摘しています。とくにレーニン的な共産主義では、共産党が民意の先を読める前衛党として実際の国民から意見を聞くことなく経済と言論を統制していきます。前衛党である共産党と違う意見の国民は、まだ共産党的レベルに達していないためだとして粛正されていきます。
日本の軍部も天皇の意をもっとも直接に理解している組織として民意を聞くことなく独走し経済や言論を統制していくという点で類似性が指摘されます。

もちろん、その後の社会主義による経済言論統制体制の腐敗/崩壊、日本軍国主義の暴走は指摘するまでもありません。権力による統制は、一見、公平の実現、効率的なリソース配分、規律の維持、等が一元的に効果的に実現できそうですが、実際には腐敗と非効率、その先の暴走が待っているのが現実と言えるでしょう。

著者の主張としては、日本は江戸時代から自由と民主主義を受け入れることのできる文化的背景があって、明治期に導入した際にはその意味を深いレベルで理解し、例外的な時期はあるものの自由と民主主義を実現してきたのだから、近代日本の原則としての自由と民主主義をきちんと理解すべきだというものでしょう。

マドンナも

池田信夫blog:マドンナはレコード業界を捨てるのか

RadioheadやNine Inch Nailsだけでなく、OasisやJamiroquoi、さらにはマドンナも、中抜きしようとしているようですね。

2007年10月11日木曜日

Nine Inch Nailsも

TechCrunch:「Nine Inch Nails」、音楽産業の棺おけに釘を打つ

先日、Radioheadが音楽レーベルを介さずにインターネットを使って音楽販売するという話がありましたが(「レディオヘッドが音楽レーベルなしの楽曲ダウンロード」)、Nine Inch Nailsも同様の中抜き音楽配信を実施しようとしているようです。

DRMを課して喜んでいるのは音楽仲介業者(とそれに惑わされているアーティスト)だけなので、今後こうした音楽配信モデルが一般化してくる可能性もあると思っています。

その場合、どの音楽家にどのようにいくら対価を払うのかというお金の流れがどうなるのか、その流れ方がどのようにして決まっていくのか、ということが非常に興味深いです。

2007年10月10日水曜日

音楽ダウンロードサービスの内省

TechCrunch:YahooのIan Rogers、音楽産業に苦言— 「不便の押し付けはいいかげんにしろ」

DRMに基づく音楽ダウンロードサービスを提供してきた身内からの、今までの音楽サービスへの批判とこれからへの期待が赤裸々に語られています。
今まではユーザ不在で来た、これからユーザに満足されるサービスを提供すべきでそれにはお金も支払われる、と。

2007年10月8日月曜日

大手ニュースサイトがソーシャルニュースサイトを買収

メディア パブ:米ビッグ3のニュースサイトMSNBC,ソーシャルサイトNewsvineを買収

大手ニュースサイトが、ユーザの投稿(投票)やコメントによって作られるソーシャルニュースサイトの1つを買収するようです。

この動きが他にも飛び火するようだと、大きな変化になっていくのではないでしょうか。

いわゆるジャーナリスト(記者)による記事というのはやっぱり価値のあるものです。その価値は、きちんとしたジャーナリズムの手法にのっとり客観性があるためだけでなく、他のメディアや意見に流されることなく孤高の記事を表現できることにもあります(原則的には)。

他方で、そうした記事の中立性を守ることの引き換えに、市民の意見等のフィードバックを直接受けたり双方向的に読者とコミュニケートしたりすることが難しいということもあります。

ソーシャルニュースサイトはそうした部分を補うのに適していると言えます。

なにより、"紙"や"放送"による情報配信の独占に基づくマス広告の利益を守れなくなってきている現状の中、なるべくアクセス数を増やす=アテンションを高めるためにそうしたアクセス数の多いソーシャルニュースサイトが活用できるという現実的判断があったのではないかと思います。

マスメディア媒体の独占とその中でのコンテンツ競争による利益から、より開かれたネット媒体の中でのコンテンツ競争による利益を考えていかなくてはいけなくなってきているのでしょう。
そのときに、プロのジャーナリストによるニュースサイトと、市民によるソーシャルニュースサイトの連携は相乗効果を生むよい協業に思えます。

2007年10月7日日曜日

違法ダウンロード問題にたいして2500万円の罰金

数年前からアメリカでは、RIAA(全米レコード協会)が、P2Pで音楽を違法ダウンロードした人を大量に訴えてきています(2万6千人)。音楽の違法 P2Pダウンロード問題に関して、P2Pソフトの開発者を有罪とした日本と違って、アメリカでは曲をダウンロードしたユーザを訴えてきています。

多くの人が示談金を払って裁判にはしていない中、RIAAと示談せず裁判で争っていた人に対して裁判所は2500万円の罰金を判決したそうです。すごい額です。

見せしめ罰則としてどこまで効果的となるでしょうか。

この判決により、あるアカウントを使って大量の違法行為を行ったときに、そのアカウントの利用者だという証拠があればそのアカウントの利用者が責任を負わなければいけないということの判例ができたことになります。

が、さっそく、この判決に批判的なTechCrunchなどでは、今後はアカウントを特定せずにダウンロードされるようになるだけだと皮肉っています。

CNET:RIAA、ファイル共有訴訟で個人に勝訴--被告に22万ドルの罰金支払い命令


TechCrunch:裁判で勝ったからといって音楽産業を救う役には立たない

2007年10月5日金曜日

インド洋沖給油活動の課題

「海自給油新法」が越年となった場合の危機
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/y/79/

のように、テロ特措法廃止は日本の国際貢献の評判を下げるものだという話が多いですが。

先週末、朝まで生テレビを見たところ、メリット/デメリットを考えることができる意見がいろいろ出ていたのでメモしておきます。まとまっていませんが。

■割のよい国際活動

* インド洋沖給油活動は、自衛隊員の命の危険をさらすことなく国際貢献できる非常に"割のよい"国際活動である


■撤退する場合

* 国際社会から非難される、もしくは評価が下がるという意見もあるが、、、
* インド洋沖給油活動は当初数十カ国で始まったがどんどん参加国が減っていき今は数カ国となっている
* 日本の給油活動は日本でしかできないような活動ではない(高度な技術力などは使用していない)
* したがって、今日本が撤退しても給油活動自体にはそれほど大きな影響はないし非難されることもないという話もある


■国連と国際貢献

* インド洋沖給油活動は、もともと国連決議を経ていない活動である。先日の国連決議でもロシアが棄権するなど本来の意味での国連活動とは言えない
* とはいうものの、実際問題そもそも国連で解決できている国際問題は少なく、国連内に腐敗も横行している。そのためピュアに国連原理主義でいることがどれだけ国際的正義を実現しているかは疑問
* 国連原理主義の立場を取るのであれば、インド洋から撤退する代わりに国連決議によるアフがニンスタン内陸部の活動に自衛隊を派遣する必要が出てくる。この作戦は非常に危険を伴うものであり、ドイツ等各国も撤退したがっているということもある
* 小沢民主党が国連主義を貫きアフガン内陸に自衛隊を派遣すれば、自衛隊員の客死も出る可能性が高まり国内世論の反発は強まると予想される


■活動の疑惑と日本政府のインテリジェンス

* インド洋沖給油活動での石油はイラク作戦に使われていた可能性がきわめて高い
* もっと問題なのは、日本の外務省はじめ政府が、その事実をいっさい把握できておらず、日本の軍事活動、国際活動に対して説明責任を果たせていない。NPOの調査による実態と日本政府が把握しているものに大きな差がある



国際社会から非難うんぬんというより、自国政府が把握できていないような軍事活動(兵站とはいえ)を軍隊に実行させていてよいのか、シビリアンコントロール(文民統制)から外れるのではないか、ということの方が問題かもしれません。
他方で、国連原理主義は原理としてはわかりやすくてよいのですが、実際により危険な国連活動で自衛隊員に死者が出ると日本の政府はもつのか、そこまで日本国民に国連主義のコンセンサスがあるのかという問題もあると思います。

いずれにせよ、自衛隊という事実上の軍隊に対して、きちんとした活動のポリシーの確立とそのコントロールができることが、何にも増して重要な課題のように思えます。

2007年10月2日火曜日

レディオヘッドが音楽レーベルなしの楽曲ダウンロード

CNET:レディオヘッド、最新アルバムをネット限定で販売--価格はファンが決定

レディオヘッドが、音楽レーベルの協力なしで、自曲のダウンロード販売を行うようです。しかも、値段は好きに設定していいとか。
LPやCDが80ドルくらいで売られるそうなので、そこが一つの基準価格となるでしょうか。

中抜きモデルがどこまでビジネスとして成り立つのか興味深いですね。
音楽レーベルと一緒に築き上げたレディオヘッドという知名度も重要なポイントのように思いますが。

大手新聞社のオンライン戦略の不満点

昨日(というか数時間前)、「大手新聞社のオンライン戦略」を書いたら、さっそくそれぞれのサイトについて、池田信夫blogでコメント(批判)がついていました。

池田信夫blog:新聞社サイトの囲い込み競争

それぞれGoogleニュースへのリンクを停止し、かつ過去記事は一定期間しか参照できないようです。

2007年10月1日月曜日

大手新聞社のオンライン戦略

最近、大手新聞社のネット上での動きが活況です。

まず、アメリカでは、大手新聞社のNewYork Timesが、一部有料サービスとしていたコラム記事や過去記事も無料化にしたようです。

メディアパブ:NYTのアーカイブ開放,新聞社サイトが新局面に

それ以外の有料新聞サービスも、NewsCorpのマードックが買収したことなどにより無料化される可能性があるという話も出てきています。

メディアパブ:新聞社サイトの有料サービス,最後の砦も崩れそう


日本では、先週産經新聞がMSNと協力してニュースサイト「MSN産経ニュース」の開設を発表しました。
このサイトが画期的なのは、ウェブファーストをうたっていることです。つまり、新聞記事になる前にウェブで記事を発表するという、ウェブ中心の記事配信方針を出しているところです。

ITMedia:21世紀にふさわしい瓦版の先駆けとなるか——「MSN産経ニュース」開設

ITMedia:スクープも紙より先にWeb掲載 「MSN産経」の本気度

産經新聞は、子会社を作って「iza!」というブログやトラックバックと連携したニュースサイトを運営するなど、日本ではこの分野を先導してきているとも言えます。

これに対して、MSNと手を切った毎日新聞は、独自に「毎日jp」を開設し、オールアバウトと協業しながらブログやソーシャルブックマークと連携していくようです。

ITMedia:ブロガーの力も借りる「毎日jp」

こうした連日の大手新聞社の動きに反応するかのように、それ以外の大手新聞社である朝日、日経、読売が提携してのニュースを発表しました。

ITMedia:朝日・日経・読売が提携 「ネット活用で紙の新聞を維持」

しかし、これを見る限り、サービス内容は差別化されておらず、具体的コンテンツも見えてこず、"紙"の方を重視しているなど、従来通りの新聞社の既成概念を陳列しているだけのようで、インパクトと魅力に著しく欠けます。他がいろいろやりだしているので遅れた3社が慌てて発表したという印象を受けてしまいます。

今回の三者提携の発表の中では、サイト開設の話よりも、「地域販売店の統合」の方がより大きいのではないでしょうか。

2007年9月29日土曜日

記事紹介「デジタルコンテンツの流通を促進する著作権制度のあり方とは」

「意味のある著作権の登録制度とは」でとりあげたICPFシンポジウムの内容がCNETに記事として出ました。

CNET: デジタルコンテンツの流通を促進する著作権制度のあり方とは

前回の「DRMフリーの音楽配信の流れ」などを見ていると、日本でまじめに政策的に議論している間に、アメリカではあっという間にビジネスイノベーションとして話が進んでいっている感があります。

日本人はグランドデザインが描けないとよく言いますが、描こうとしているけれども細かいところまで配慮しすぎるために遅々として進まず、結果、配慮のお化けみたいないびつなデザインになってしまっているのかもしれません。
他方で、アメリカでは、ユーザの利益という民主主義的軸が明確で、それに向けて自分といくつかの関係ステークホルダーの利害調整のみ行って後は突っ走るということができているように見えます。問題が出ても後で片付けるという形で。
軸が社会的正義を体現しているからこそ、後付けでの問題対処も可能なのでしょう。そういう民主主義的軸を明確に描けるというのがグランドデザイン力なのでしょうね。

そもそも国家や国民としても軸があるから後付けでの問題対処でも納得されるのかもしれません。そういう軸のコンセンサスがあるのは、歴史が浅い他民族国家としてのアメリカならではに思えます。
長い島国根性歴史を持つ日本で同じことを行うのはなかなか難しそうです。

2007年9月26日水曜日

DRMフリーの音楽配信の流れ

ITPro:著作権管理にはメリットなし!? 欧米で広がるDRMフリーの音楽配信

いよいよオンライン音楽業界は、DRMフリーの流れになってきているようです。
すでにiTunesでは、EMIの曲をDRMフリーで購入可能です。DRM版より少し高めですが。
AmazonもDRMフリーの曲をダウンロードするサービスをβ版で開始したそうです。

ついこの間、iTunesがDRMで音楽業界を味方につけて音楽ダウンロードサービスをビジネスにしたと思っていたら、あっという間にDRMフリーです。早いですね。日本ではいまだ何回コピー可能にするかとか議論している間に。

購入したものを自分の自由にできないということに対してはユーザから不満が多かったようですね。そうしたユーザの声に逆らえないようになってきているようです。

クリエータにとっても、名声と経済的対価さえ確保できるのだったら、自由に聴いてもらえる方がよいはずです。コンテンツを囲い込んで独占することによってメリットを受けるのは主に音楽会社(配給会社)です。

DRMフリーの音楽ダウンロードモデルは、言ってみればクリエータとリスナーの仲介部分を薄くする中抜きビジネスモデルなのかもしれません。

この場合課題になるのは次の2点ではないでしょうか。

1.メガヒットの消滅???
ミリオンセラーの多くは、音楽仲介業者のプロモーションによるところが大きいです。中抜きモデルでこれらプロモーションにお金をかけられなくなると、メガヒットがなくなるかもしれません。
ほとんどのクリエータにとっては、極端なメガヒットは不要で、メガヒットがなくても中抜きであれば金銭的にも問題ないでしょう。
ただ、ユーザの中にはヒットしたものだけ聴くという人もいるかもしれず、メガヒットがなくなるとそういうユーザが音楽から離れる可能性もあります。

これについては、たしかに今まで通りの音楽流通の形はなくなるのかもしれません。新しいまた別の音楽流通、音楽の聴き方、音楽の創り方になっていく可能性はあります。
その中でメガヒットなんてなくなってもよいと考えられるようになるかもしれません。


2.海賊版の取り扱い
DRMを徹底することによるメリットは海賊版を防御できる可能性が高まることです。ただし、記事でも指摘されているように、オンライン配信だけDRMかけてもCDなどからDRMのない形で流れてしまいますし、海賊版を完全に撲滅するのはかなり難しいことなのでしょう。

DRMフリーにして海賊版を取り締まるためには、地道な違法コピーの指摘と摘発しかないのでしょう。

海賊行為についても程度問題で、クリエータの経済的対価が減少するまで影響があるようであったら問題になりうるかもしれません。

根本的解決策としては、海賊行為をしても意味がない、海賊版が海賊版たりえなくしてしまうことです。つまり、禁止しているから海賊行為が出るわけで、自由にしてしまえば流れているのが海賊版なのかどうかわからなくなってしまいます。

クリエータに対する経済的対価については、ライブやそれ以外のものでのビジネスモデルとするか、CMや映画などでの商用利用では料金をとるようにするなどでしょうか。曲の自由流通や曲製作に対して証券化するようなことができれば新しいビジネスになるのかもしれません。


それにしてもアップルはうまいですね。DRM使ってiTunesで大稼ぎしておいて、DRM機能のAPIを解放するような圧力が出てきたとたんに、DRMフリーに議論の土台をかえて一気に形勢挽回してしまう。
どんどんオープンになっていく大きな世の中の流れは変わらないとして、企業としてはそのオープン加減をうまく調整しつつ機先を制してリードしているようにすることで利益を得ていくという、そういうビジネスモデルが今一番有利なものなのかもしれません。
ただ、そういう流れに乗り流れを作っていくことはそうとう難しいのだと思いますが。

2007年9月22日土曜日

Googleがオープンなソーシャルグラフを目指すようです

Googleを中心に、なにやらソーシャルグラフ情報に関する新しい動きがあるようです。ちょっと調べてみたのでメモ代わりに書き残しておきます。

ソーシャルグラフとは、人のつながりをインターネット上で表した情報であり、具体的にはmixyのマイミク等、SNSの友人関係情報のことになります。

インターネット上では、情報と情報、人と人が縦横無尽につながってきています。たとえその人のことを知らなくてもつながっていくことが可能です。こうしたつながり方を3つのパターンに分類してみることができます。

1. 一時的なつながり
2. 恒常的なつながり
3. 社会的なつながり

ここで、「1.一時的なつながり」は、特定の目的のためだけに、ある一時点に匿名同士でやり取りするような場合です。オークションサイトでの売買関係、匿名掲示板サイトでのコメント関係などです。
「2.恒常的なつながり」は、識別可能なID同士のつながりです。ブログでのリンク集やトラックバック、定期購読などが該当します。共有写真サイト、共有ブックマークサイトなどもこれになります。
「3.現実のつながり」は、リアルの社会でも知り合い同士の人がネット上でつながるケースです。ブログなどでもつながりますが、SNSサイトでの関係が主に当てはまります。

1.や2.もインターネットの強力な側面を示していますが、実は3.も、インターネットの協力な一面を示しています。
SNSの強み、ブログ等との差異、それがまさに3.になります。

ソーシャルグラフは主に、3.の情報ということになります。もちろん、2.のつながり方も一部含まれてくるとは思います。

こうしたソーシャルグラフ情報の価値については、たとえば、Wired Visonで次のような形で表明されています。
2007年8月の「Wired Vision:「SNSのオープン化」を提案する」で、既存のサービスを利用してアメリカ第2位のSNSサイトFacebookと同じような機能のものを作ろうとしたが失敗に終わった、その理由は人と人とのつながりを機能として実現できなかったからだということです。

おそらく、Facebookの機能の90%までは再現できたと思うのだが、人と人をリンクし、両者の関係を示すという、最も重要な機能が作成できなかったのだ。

つまり、SNSの強みとはまさにその関係情報を保持しているということにあることになります。

他方で、そのFacebookはと言えば、APIなどをオープンにし、Facebookのプラットフォーム上で自由にアプリケーションが作れるようにしています(Facebook(SNS)が展開するオープンなソーシャルネットワーキングの世界)。つまり、Facebookの中であれば人と人との関係情報などを使いながらいろいろなアプリケーションが作れるようになっているということです。先のWiredは、人同士の関係情報(=ソーシャルグラフ)がFacebookの中に閉じていることに対する批判でした。

ここに来て、最初に指摘したような、SNS内の関係情報が閉じている問題に呼応するような動きが出てきています。

まず、LiveJournalの創設者で、SixApartのチーフアーキテクトであったBrad Fitzpatrick氏が、「3.社会的なつながり」をインターネット上の情報として表現したものを"ソーシャルグラフ"と呼び、今後その情報がどう取り扱われていくべきかについての論文を公開しています(2007年8月17日)。

antipop:[翻訳] ソーシャルグラフについて

Thoughts on the Social Graph

さらに、このFitzpatrick氏を含めた複数名がGoogle本社で会合を持ち(2007年9月20日)、このソーシャルグラフについて、もっと言えば、Googleがソーシャルグラフをどうしていくかの戦略について議論していることがリークされました。

グーグル、Facebook潰滅のXデーは11月5日

具体的には、Googleは、Orkut(Googleが買収したSNSサイト、でもパッとしない)とiGoogle、GMail、Google Talkなどのソーシャルグラフ情報を外部から読み書きできるAPIを公開していくようです。その第1弾が11月5日のようです。

今までは、Facebookにユーザ登録された人同士が、Facebook上でしか、ソーシャルグラフ情報を取り扱えませんでした。
Googleのこの取り組みが実現すると、さまざまなサイトやサービスからソーシャルグラフ情報がやり取りできるようになります。

先日のエントリで、共通ネットIDについての議論を紹介しました。その議論で言うと、ソーシャルグラフは匿名性の議論と関係してきます。
アメリカでは、インターネット上でも実名で活動することが多いため、こうしたソーシャルグラフ情報をオープンにすることに非常にメリットがあるのだと思います。
日本では、ほとんどの人が匿名で活動しており、mixyならmixyの中で閉じた活動で満足しているようなので、すぐに影響してくるようなことはないのかもしれません。

が、最近OpenIDを採用するサイトも増えてきており(アメリカではとくに)、長期的には複数のサイトやサービス間を同じIDで活動することも増えてくると思われます。そのときに、こうしたソーシャルグラフ情報をどのようにオープンに取り扱うのかということが、サービスにとって重要になってくるかもしれません。

また別途紹介したい最近の著作権の議論の中でも、「デジタル社会で権利をもつには、IDをもつことが出発点だ。何もしないで権利が発生するという現行法は根本的に間違っている」という発言が紹介されていました

いろいろ考えると、前から書いているように、やっぱりインターネット上でも固定IDで活動した方がなにかとよいと思うのですが、日本では長い道のりになってしまうのでしょうか。

2007年9月20日木曜日

匿名性を維持しつつトレーサブルなIDを

ネットの書き込みにトレーサビリティは必要か--「ネットID」を識者が激論
 前編
 後編

ジャーナリストの佐々木俊尚氏、弁護士の小倉秀夫氏、独立行政法人産業技術総合研究所の高木浩光氏、ゼロスタートコミュニケーションズ専務取締役の伊地知晋一氏という4人による、共通ネットIDについての議論です。

この議論では、論点が2つに分かれています。

1. トレーサブルなIDが必要か
2. 匿名性はどこまで有益か


1.トレーサブルなIDは必要
これについては4人で共通見解が出ていると思います。すなわち、何かあったときに追跡可能なIDは導入すべきである、ということです。

これは、個人的にも賛成です。
インターネットの側からこういう仕組みを提案し作っていかないと、ただでさえ既存社会勢力からの反発もあるので変な制度を押し付けられかねないとさえ思っています。それくらいなら先手を取って自分たちで作っていくべきです。

近代社会においては、論理一貫した意志を持つ個人が社会の大前提となっています。法の世界はこうした個人を前提に成立しています。なので、論理一貫した意志を持たない=狂気の個人は法で裁くことができないのです。
インターネットが現代の社会で社会的ツールとなるためには、この個人というものをインターネットの世界で成立させないといろいろ難しいものがあると思います。

これに反発する人は、個を前提とする近代社会のその先を、匿名のインターネットに見ようとするのですが、実際にそれがどういう世界になるのか具体的なものは何も出てきていません。戦中の「近代の超克」議論と同等なのではないでしょうか。近代を乗り越えようとしてけっきょくなにものも生み出しえない。。。

インターネットの世界で個を成り立たせるために、ネットIDのような個を特定できる仕組みが必要です。

ただし、実際には、このIDをどこがどう管理するのかというのは非常に難しい問題です。
国家が管理すればプライバシーの問題が生じます。個人は国家の監視から自由である権利があるためです。
ただでさえ社保庁など、公務員に信頼はよせられません。
そのため、たとえば以前の投稿では複数のネットID管理会社があるようなインターネット世界を想定していました。


2.匿名性は維持されるべき
2.の匿名性については4人で意見が分かれているようです。ただし、匿名性を完全に排除せよと言っている人はいないように思います。

たしかに、匿名は必要なときがあります。
たとえば、利害関係のある団体や人を告発するときに匿名性は力を発揮します。また、佐々木氏が主張するように、匿名性のおかげで肩書きに左右されないフラットな議論も期待できます。

そういう意味で匿名性にも一定の役割があり、守られるべき権利でもあります。

匿名性を維持しつつトレーサブルになるような制度と仕組み、それを実現するためのIDを作っていくべきではないでしょうか。

2007年9月16日日曜日

日本のDiggを探して(ソーシャルニュースサイト調査)

昨日、「インターネットが今までの価値観でいうところの社会的たりえるか」と書いたこともあって、また便利で楽しめるものがないかと探していたこともあって、ソーシャルニュースサイトについてまとめて調べました。

アメリカではDiggが有名ですが、日本でDiggに代わるサイトはないかと探してみたのですがなかなかありませんでした(下表)。
やはりこういうサービスはどれだけ多くの人から使われているかがサービスの有用度として重要ですね。

Hatena::Questionの「ソーシャルニュースのdigg に相当するサービスで、日本で一番使われているのはどこでしょうか?」
http://q.hatena.ne.jp/1187395437

にたくさんソーシャルニュースサイトが紹介されていますが、

狐の王国:#2 ソーシャルニュースサイトの得票数比較
http://www.misao.gr.jp/~koshian/?20070322S2

にもあるとおり、実際多くのユーザを集めているのは、はてなブックマークnewsingくらいとも言えます。それにしても本家のDiggと比べればぜんぜん少なく、集合知として機能しうるサンプル数なのか不明です。

ソーシャルニュースということであれば、OhMyNewsもとりあげられると思います。こちらもそこそこのユーザは集めています。あと、投稿者が一般人ながら記者なので取り上げられるニュースもユニークです。

1年ほど前、日本のソーシャルニュースを調べたときには、OhMyNews日本版とnewsingの他にblogmemes日本版が主要なものとしてあった気がしますが、blogmemesはすでになくなっているようです(!?)。
その代わりといってはなんですが、アメリカではメジャーなredditの日本語版が始まっています。が、まだまだぜんぜんユーザが集まってないようです。

アメリカでは、Diggクローン以外にも、ランダムに記事を見せる部分を強調したStumbleUponがかなりのユーザ数を集めてブレークしてきているし、記事の特定部分だけを引用できるClipMarksや共有者を限定できるBlueDot、投稿元を登録制にしアクセス数で評価するSpotPlexなど、Diggにない機能を盛り込んだり、Diggの課題を解消しようとするようなサービスが多数出てきています。
個人的には、ma.gnoliaが好きです。見た目で。

TechCrunch:よりよいDiggへ向けて」参照


翻って日本を見るに、OhMyNewsは韓国からの輸入だし、newsing等のサービスはどれもDiggに似たり寄ったりのものです。

そう考えると、日本では、ユーザを集めてかつそれなりの独自性があるという意味で、やっぱり2チャンネルなんですかね?
個人的には好きじゃありませんが。

アメリカのDigg、韓国のOhMyNews、日本の2チャンネル、というそれぞれの国発祥のサービスが、それぞれのお国柄を表していると考えるとおもしろいのかもしれません。


ソーシャルニュースサイトの比較表です。あくまでざっとした見た目に基づく個人的評価ですのであしからず。

【欄の意味】
「投稿」:一般ユーザが投稿できるか(一般or限定)
「投票」:一般ユーザによる投票機能があるか(一般orなし)
「投票数」:そのサービスの利用数を評価する元情報として。ただし、全サービスの機能をわかっているわけではないので、もしかすると不正確な数字を載せているかもしれません。
「社会性」:社会問題ニュースが多い(=高)のか、身近なネタが多いのか(=低)
「下ねた」:一部のサービスは下ねたであふれていたため、この評価軸も入れました。
「カテゴリ分類」:投稿はカテゴリごとに分けられているか
「見た目」:完全に個人的主観です。






















2007年9月15日土曜日

インターネットが今までの価値観でいうところの社会的たりえるか

media pub:プロが編集したニュース 対 集合知で編集したニュース
http://zen.seesaa.net/article/55183313.html

Diggやredditなどのソーシャルニュースサイトとメインストリームニュースサイトでの、取り上げる記事の種類やソース元の比較情報が出ています。
やはり、メインストリームでは、国際問題や社会問題が取り上げられる一方で、ソーシャルニュースサイトでは、もっと身近なネタが多いようです。
アメリカでもそうなのだから、日本はもっとそうなのでしょう。


ところで、この結果を受けて、やっぱりみんなの意見が集まるソーシャルニュースではニュースたりえないなぁ、という感想を持つこともできます。

さらにもう少し踏み込んで、世の中で日々起こっている事柄について、メインストリームのメディアが取り扱う情報の偏りをどう評価するか、つまり、本来はみんなはもっと身近なことに興味があるにもかかわらず、いわゆる今までのメディアのニュースが社会問題ばかり取り上げているということが、はたしてよいことなのかどうか、社会問題のニュースは既存メディがなければ元々は知りえないような情報であり本当はわれわれにとってたいしたことじゃないんじゃないかと問い直すことも可能です。

さらにさらに翻ってみると、それでもやはり、社会に属するメンバーとして、一見われわれにとって直接関係のない社会問題であっても、そのことを知り考えるということは重要だと言えると思います。

それが重要なのは、客観的根拠があって、あるいは数えきれない出来事や情報と比較して、重要なわけではなくて、「お年寄りに席を譲ろう」「選挙に行こう」といったスローガンから、一方的情報伝達である義務教育、さらにはマスメディアによる情報取捨選択の偏りといった社会の隅々に行き渡る啓蒙的価値観から重要なだけではあります。

が、すでにそういう社会が存在し、そういう社会に属している以上、その価値観を真っ向から否定してもしょうがなくて、意味がなくて(ただのクレーマーにしかならない)、そうした価値観をいかに継承していくのかということも、インターネットに課された重要な使命だと個人的には思っています。
そこを否定すると、インターネットはただの反社会的道具にすぎなくなってしまう。
自分は、インターネットにはもっと可能性があると考えています。

というこういう文章も、まさに啓蒙的価値観による情報発信ではあるのですが。

2007年9月14日金曜日

技術開発理論「TRIZ(トゥリーズ)」

ITMedia:“旧ソ連の発明法則”でアイデア出し──「智慧カード」

「旧ソ連の、、、」とかいうとなんだか怪しくも隠された気になるものになってはしまいますが。

要するに技術的トレードオフの一覧と、そのトレードオフを解決するための方法がまとめられているというわけで、もしかすると非常に有用なノウハウ集になっているのかもしれませんね。

2007年9月10日月曜日

粒子の流れと淀みから時間があふれだす:『時間はどこで生まれるのか』を読んで

時間はどこで生まれるのか
橋元淳一郎
集英社新書

現代物理学の成果をふまえて、物理学者が(哲学的に)時間とはなにかを考えた本です。非常に面白いです。短時間で一気に読めます。

以下、要旨の部分は本に戻らず記憶だけを頼りに書いているので不正確なところもあるかもしれません。

■相対性理論や量子力学の世界には時間は存在しない
著者はまず、相対性理論や量子力学を紹介し、相対性理論の世界や量子力学の世界では時間は実在しないとします。"実在"の意味があいまいではありますが、要するに意味をなさないということです。

そして、マクタガートの時間論を参照しながら、主観的時間と、客観的カレンダー的時間と、数列的時間の3種類を区別しなければならないとします。主観的時間は人間の経験で感じられる時間で、客観的時間は過去から未来へと流れていく古典物理学の時間であり、数列的時間は数字が並んだだけの可逆的な並びというイメージです。

相対性理論や量子力学の数式上は時間は可逆だそうで、未来から過去に遡っていく反粒子の存在などが想定されます。したがって、そこでは数列的時間だけが存在します。
これはなにも奇天烈なことを言っているのではなくて、まずは数式上に抽象化された時間はただのパラメータであって因果関係の前後を気にしないということですし、実際の量子力学の世界も観察者の意識が介入しないと時間的要素が現れてこないという本当の物理現象でもあります。

ここから著者は、相対性理論的世界や量子力学的世界には存在しない時間が、どうして人には存在するように感じられるのか、と説き起こしていきます。

■エントロピーの法則と不可逆的前後関係
そこで登場するのがエントロピーの法則です。エントロピーの法則は、自然界のある系の中では必ず秩序ある状態から無秩序へと進行していくのでありこの逆はなりたたない、というものです。したがって、エントロピーの法則には必ず前後があり、時間的経過があります。

そもそもエントロピーの法則はなにかというと、粒子がランダムに運動すれば整列していたもの(秩序ある状態)が徐々に崩れていくという動きであり、これは、粒子の並びの総組み合わせの中で秩序ある状態が1つしかないということから、確率論として必ず秩序ある(1つしかない)状態からそうでない事実上無限の状態への遷移として現れます。

秩序があるなしは人間が認識する"意味"であって、自然界にとっては秩序あるなしは関係ありません。したがって、秩序ある状態から乱雑な状態へ遷移するというエントロピーの法則は人間にとって意味があり認識されうるものだということになります。

■エントロピーの法則に抗う生物
そもそも自然界の中で秩序あるものとは何かというと、それは生物です。自然界の中で生物が一定期間エントロピーの法則から逃れて生きています。
エントロピーの法則は生物にとってのみ意味のあることで、無生物の世界では系の内外で秩序があろうがなかろうが関係ありません。したがって、生物こそが乱雑に散らばっていく粒子の中で秩序を形成し、自らが抗する秩序の崩壊に時間を見いだしていると言えます。

著者は、微生物にも接触に反応して左か右に動く"意思"があり、この進化の過程で淘汰されてきた"意思"がエントロピーの増大=死を逃れようとして時間を生み出しているとします。
ここからが自分とは考えの違うところです。

先日、「反復できない時間を生きる生物:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 2」に書いたように、生物とエントロピーの法則については、『生物と無生物のあいだ』の説明の方がしっくりきます。

つまり、死=エントロピーの増大を逃れようとする"意思"など持ち出さなくても、生物は摂取と排泄の過程でエントロピーの法則より先に秩序を自ら壊しているのであり、秩序の崩壊を先回りすることによってエントロピーの法則に抗しているのです。

■粒子の流れと淀み
純粋物質世界においては、粒子のマクロな流れが、運動があるだけです。そして、それはミクロな確率論的存在が膨大な数集まって現れてくる流れで、その流れに時間的前後関係は意味をなしません。どっちからどっちに流れてもいいのです。そこに、流れが、運動があるだけです。

そうした粒子の流れ、運動に、不可逆的前後関係を生じさせるのは、秩序立った粒子の集まりである生物であり、乱雑な粒子の運動の中で秩序があるがゆえに、粒子の流れの中の淀みがあるがために、粒子の運動、流れに秩序の崩壊、淀みの解消という不可逆的前後関係を生じさせます。

そこにこそ時間が流れだす契機があるのでしょう。ただし、この時間も、人間がいないと認識されえないので、そういう意味では人間の意識が生命によって生じた不可逆な前後関係を意識するところからが、正確な時間の発生ポイントなのかもしれません。

■哲学における時間へ
このことは、哲学的にも表現されてきているのであって、著者がしばしば引用するハイデガーにおいても、死=生物がエントロピーの法則に屈するときを意識することで時間性の中に生きる世界-内-存在としての現存在を見いだしたのでした。著者はハイデガーの解釈を生物一般にまで拡張しますが、ハイデガーが言ったのはあくまで人間としての現存在までです。

この本には、時間に関する考察以外にも、量子力学において、確率論的にしか存在しない粒子が観察されるとどうして1点に集約されるのかなどについても著者の解釈も論じられていて非常におもしろいです。納得できる解釈です。

ただ、文系畑の人間として気になったのは、著者が、「現代の哲学者が説く時間論は、現代物理学(おもに相対論と量子論)が明らかにした時間の本性をほとんど無視している」とさかんに主張しながら、引用したり参照してる哲学者がせいぜい戦前のハイデガーまでで、戦後のほんとうの"現代の"哲学者にはいっさい触れていないのはどうかと思いました。まあ、しょうがないですね。

というわけで、現代の哲学者には、これら科学的成果を認識して時間論を論じている人もいるので、そういうのを紹介できればなぁ、と思っています。次回以降に。

2007年9月9日日曜日

意味のある著作権の登録制度とは

著作権登録制度についての最近の話題。

■権利者情報を検索するための情報システムを作る?
著作権団体17法人で組織する「著作権問題を考える著作者団体協議会」が、2009年1月から、"権利者情報を検索するための情報システム"なるものの運営を始めるそうです。

著作権17団体、権利者データベースを2009年1月に開設

個人的には、17団体もあるのか、とまずそっちに愕然としてしまいましたが、これは、著作権期間を70年に延長することに対する「権利者を調べるのが困難で2次利用が阻害される」という批判への対策となっているようです。

著作権の保護期間延長問題、権利者側への反論相次ぐ——文化審


権利者データベースを用意すること自体は、前に名和小太郎さんの本を紹介したエントリ「情報に対する所有権(著作権でどこまで取り扱えるのか)」でも書きましたが、名和さん以外にも多くの人が主張されています。

この制度が、このデータベースに登録されていないコンテンツは自由に使用&複製しうる、ということであれば、パブリックドメインの明確な定義となり2次利用促進という観点でも意味は大きいでしょう。
ただし、「著作権問題を考える著作者団体協議会」はそこまで言っていないように見えます。つまり、彼らはあくまで便宜上のツールとしてデータベースを用意すると言っているだけで、ここに登録されていないものについてももろもろの著作権を主張しそうです。そこが大きな問題だと思います。

あと、IT業界の人間としては、このシステム構築を200-300万円で行うと言っているのにも、ほんとに使えるシステムを作る気あるのか?ただのエクスキューズじゃないのか?と思ってしまいました。


■著作権の登録制度
著作物の登録制度については、最近の池田信夫blogでも取り上げられていました「著作物の登録制度」。
ただし、こちらは、白田秀彰さんのICPFセミナーの話です。

白田秀彰さんの唱える著作権制度は、個人的には大賛成です。「ICPF第21回セミナー「オンライン社会における著作権のあり方」要旨
というか、以前から白田さんのホームページ等を読んできているので、単純に自分が影響されているだけなのでしょうが。

ここで主張されている著作権制度は、2階建て方式で、まず、経済的流通とは無関係に著作者の権利を定義します。これはベルヌ条約がベースとなります。
その上で、経済的流通のための制度を用意します。そこでは、作品は登録制となり、作品に対する証券売買市場を作るなど作品の経済的価値を最大限に高めるための仕組みが用意されます。

経済的価値を生むものとしての著作物を登録制にし、登録されていないものについては著作者の権利は守られるが2次利用は自由となるというものだと思います。これは、自分の表現で言うならば、「権利の問題と経済的対価の問題をきちんと切り分けて、Creative Commonsでもなんでも権利の維持と著作物のコストの低い伝播方法をルールや制度として整え」るべきということになると思っています。

ただ、残念というか気になるのは、自分的にまっとうな議論をしているICPFが民間フォーラムで、???な議論が錯綜しているのが文化庁の文化審議会著作権分科会だということです。文化審議会での議論は形骸的なパブコメなどを経て法制化へとつながっていくのでしょう。
官僚機構は、過去の制度を踏襲しつつ各権利者間の調整を行うのがやっとなので(実際には、強い権利者の言いなりになることが多いので)、ほんとうにあるべき姿が描けないのが問題です。
これからの時代、情報としてのコンテンツをどう扱うかが非常に重要なので、ここはいったん抜本的に著作権制度を考え直してほしいところですが。

同じ著作権の登録制度でもぜんぜん違うものになりそうですね。
著作権の登録制度を意味あるものにするためには、単にデータベース用意しましたではなく、きちんと制度の中に位置づけてほしいものです。


ところで、文化庁にはすでに著作権の登録制度があることを発見しました。
著作権登録制度について
これってまともに運用されているのでしょうか?


ちなみに、話はずれますが、補償金制度については、文化審議会著作権分科会の私的録音録画小委員会で議論されているようで、そこで進んでいる話は、「音楽配信メモ:ダウンロード違法化/iPodの補償金対象化」がほぼ決定した件と、ITmediaの記事で抜粋されている発言についての補足」に紹介がありました。

2007年9月7日金曜日

国家が国民の"感情"に動かされていいのか

昨日、「個人的感情と社会的正義の葛藤:死刑制度を巡って」を書きました。

ひどいことをされた人に対する憎悪感は否定できないけれど、それと社会的正義は違う、と書きました。

死刑うんぬんはいったん置いておいて、やっぱり、社会が国民の"感情"に動かされるというのは、はたして社会として正しいあり方かというのは疑問です。
"感情"に動かされた政策ほど危なっかしいものはないでしょう。

そういう意味でも、たとえ個人の感情としては正しいとしても、社会としてそれを反映すべきか、というのは直結しないし、多くの人に共感される感情を社会的に反映できないことが冷たい社会だと受け止められたとしても、社会とはそういうもんだとしか言えないでしょう。

感情論がどこまで世論となり、社会的政策となっていくべきかの線引き、落としどころは、人によって異なるのでしょうが、少なくとも社会が直接的に"感情"に左右されるとしたらそれは危険なことだとは指摘できると思います。

最近のマスコミでの悲惨さの煽りとそれに対する視聴者の反射神経的反応を見ていると、ちょっとそういうことを感じました。

個人的感情と社会的正義の葛藤:死刑制度を巡って

good2ndの日記というところの「抑止効果という神話」をたまたま読んで、最近も死刑執行があったり橋下弁護士のワイドショーネタがあったりして、いろいろあるなぁと思い、「死刑」でブログ検索したらたくさんエントリが出てきてびっくりしました。それも、どちらかというと死刑肯定が多いように思います。日本でのアンケート調査で死刑賛成が多数というのは正しいようですね。

引用させていただいたgood2ndさんのところでは、最近死刑に抑止効果があるという研究発表がされていて、それへの(というかその研究結果に対する反応への)批判となっています。

ところで、私は以前も書いた通り基本的には死刑廃止論者です。
それにしても、死刑存在論争はイデオロギー論争ですね。収集つかなくなってるところが多数ありました。
そもそも死刑に関して"正しい"あり方というものはないからなんでしょう。なので、議論が起き両論唱えられていくことはよいことなのかもしれません。

死刑肯定論は次のような観点がその論拠となっているように思います。

* 懲罰と抑止効果
* 被害者の感情と報復


■懲罰と抑止効果
抑止効果については、存廃両側からの統計情報が存在しなんともいえないというのが正直なところです。

ただし、世界100カ国以上で死刑を停止しても総じて見れば社会的秩序が悪化したということはないようですので、死刑廃止が即社会的無秩序に直結するという論拠は弱い気がします。他方で、死刑を廃止した国でも死刑賛成論はあるようですし、個別統計情報では犯罪が増えたというのもあるようで、そういう意味で、ケースによっては死刑の存在が犯罪を抑止することも起こりえるかもしれず、1件でもそういうケースがあるなら残した方がよいというのはたしかにそのとおりにも思います。

いずれにせよ抑止効果のあるなしで死刑存廃を論じるのは堂々巡りになるだけな気がします。

世界の死刑動向については、
sr400yoshiさんのSmenaな日々・裏版…Know your role「死刑を考える…死刑に対する反定立
luxemburgさんのA Tree at ease「行刑の現場とは


■被害者の感情と報復
まともな死刑肯定論で一番多いのが、被害者遺族の感情を考えると卑劣な殺人者は死んで当然だ、というものです。
この感情論は、死刑廃止論者に対してしばしば、自分の愛する人が殺されても死んでほしいと思わないのか?思わないような人はそもそも人として感覚がおかしい、という論調になります。

この感情論は、感情論としては正しい。ほとんどの人が反対できないでしょう。

ただし、たしかに、身内が殺されるようなときがあった場合、その場ではそういう感情になったとしても、本当にそういう行為をしてその感情が収まるものでしょうか。その場では行為はぐっとこらえて耐えた方が、後々長期的に見て、被害者遺族自身や亡くなった被害者にとってもよかったと思えるようになるのではないでしょうか。
短絡的にそういう行為に走ると、遺族の家族や加害者の家族にもどんどん感情が飛び火していってしまいます。
報復は報復を呼びます。

被害者の観点からは、この悪循環を防ぐために、死刑制度というものがあるのだとも言えます(国家論からするとそのかぎりではないですが)。
第3者である国家が被害者に代わって加害者を殺してくれることで、報復の連鎖を止めることになります。

報復の悪循環を防ぐためには国家による死刑は有効だと思います。

が、そもそも被害者遺族が報復したいと思うほどの感情が、死刑によって加害者が死ぬことで落ち着くものでしょうか。死刑で溜飲が下がるものでしょうか。
けっして失った尊い命への感情は消えないはずです。
それでも、自分の愛する人を手篭めにした人間が同じ世界にいるとも思いたくない、という感情もあるでしょう。死刑によって、そういう感情や報復感情が少しでも気が楽になればそれでいいという意見もあるでしょう。

ただ、そういったことは、なにも死刑でなくても、被害者の心のケアの充実や終身刑の導入など他にも代替策はあるのではないでしょうか。

被害者遺族の感情を考えても、死刑だけが解決策なのか、むしろ死刑によって、本来行われるべき被害者遺族の心のケアが疎かになるようであればそれは本末転倒で、まずは心のケアから取り組むべきではないのか、というのが死刑廃止論者としての意見となります。

ただし、あくまで感情の話なので、人によって感じ方は違うとは思います。しかも、個人の感情の範囲内で済むわけではなく、社会に関わる個人の感情だからこそ難しい。論争になりうるテーマです。

1つ言えるのは、旧約聖書のイサクの話などでもそうですが、西欧的発想の中では、個人の感情と社会的正義や倫理は相反することがあり、その場合、個人の感情を抑えて社会的正義や倫理を優先することの方が重視され、正しいとされてきたということがあります。
そして、人の生命を守ることは人権を守る社会的正義なのです。
他方で、日本では、赤穂浪士の話ではないですが、個人の感情に従って行動することが倫理的であるとされることが多々あるように思います。
このあたりの文化の違いが、世界の先進国の中で日本が死刑を続ける根拠になりうるのかもしれません。

自分は西欧かぶれなので、どうしても前者の考えになってしまいますが(後者のような考えはどうしても好きになれません。。。)

[補記]
死刑(や赤穂浪士的報復)は何も個人的感情なだけではなくて、社会的正義だ、つまりは、被害者の死と平等の状態に加害者を置くという正義なのだという意見もあるかもしれません。
これについては、民主主義的平等は機会の平等のことを言うのであって、生命はもちろん所有物などの平等ではない、と言えると思っています。つまり、次元が違います。

2007年9月4日火曜日

反復できない時間を生きる生物:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 2

「科学と非科学のあいだ:『生物と無生物のあいだ』を読んで」のつづき。

3."流れ"として捉える生物学
エントロピーの法則にあらがうものの1つとして、生物が存在します。
拡大解釈したエントロピーの法則では、秩序あるものは時間が経つにつれ無秩序な状態へと遷移していきます。長い年月をかけて、生物は腐敗して土に戻り、建物は崩れ山は削られ平地となっていきます。

このエントロピーに抗するためには、より強固な秩序を形成し崩壊の進行を遅くするか、自分で先に無秩序へと崩壊させてしまうかのどちらかです。

生物は、後者の方法によって、生きている間このエントロピーに抗して存在するのだ、とこの本では言われています。エントロピーの増大は時間の進行でもあるので、言ってみれば、生物は時間の進行を早めて自ら先に崩壊することでエントロピーに抗し、死んだ後、エントロピーの法則に従うようになって自然界の時間に戻るということでもあります。

では、具体的には生物はどのようにエントロピーの法則に抗っているのか。

生物は、エントロピーの法則によって自らが崩壊するよりも先に自分で自分の体を崩していきます。具体的には、エントロピーを増大させる古い組織を廃棄物として外に放出することで自分の体の系のエントロピーの増大を防いでいます。

そして、重要なことなのですが、生物の廃棄物には、運動の結果できた不要なものだけではなくて、自分の体を構成していた古い組織も含まれているということです。
一見、成人の体はいったん形成されればそのまま維持されているように思えますが、実は、筋肉や臓器ばかりか骨さえも分子レベルでは古いものが廃棄され新しい分子と交換されていると言います。人間の体で言えば、1年半くらいで分子レベルではすべて入れ替わっているそうです。
とくに骨などは、いったん形成されればあとは物質として朽ちていくだけだと勝手に思っていたのですが、実際には、生きている間はつねに分子レベルで交換されて刷新されているのだそうです。

生物は、このようにエントロピーの増大に抗するために食物摂取に工夫があります。体に必要なものがタンパク質であっても、外から取り入れたタンパク質をそのまま肉体の一部としていくのではなくて、タンパク質を構成するアミノ酸よりも細かいレベル、つまり、分子レベルで摂取し、自らの体の細胞に取り込んでいると言います。
外からタンパク質を取り込んでいてはエントロピーに支配されてしまいますが、いったん分子レベルにまで分解して取り込むことで、タンパク質という秩序を自分で崩壊させてエントロピーの法則から逃れられるようにしています。

このように、分子レベルで生物を考えると、静的個体として考えていた生物が、実際には分子レベルでは次から次へと新しい分子に取り替えられていく非常に動的な流れの中にあるということがわかります。
言ってみれば、そこだけ時間の流れが早まって分子が高密度かつ高秩序に寄り集まった分子系の流れの渦、あるいは淀みだと考えられないでしょうか。
著者の言葉で言えば、

肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支があわなくなる。


著者はこのことを、「動的平衡」という概念として表現しています。エントロピーの最大化=静的平衡状態になるより先に平衡状態=分子の淀みを作っていくのが生物だということになります。

著者は、この本の「序」で、たとえば砂浜で、人間が、一目で砂粒や石と区別して貝やカニといった物を生物と判断できるのはなぜだろう?川の流れの中で、めだかなどを生物とすぐに判断できるのはなぜだろう?とい問いをたてています。そして、生物学の教科書的にいったん生物の定義を「自己複製するもの」としますが、先の問いには答えられていないように思えます。その後、最後に「動的平衡」こそ生物の定義だとします。これは先の問いに答えています。つまり、無秩序の中の秩序として存在する物はエントロピーの増大に簡単に負けないような固く屈強なものか、動的平衡を維持している物かどちらかで、人間はそれらを簡単に区別できるのだ、したがって、けっして強固なものでもないのに動的平衡を維持してエントロピーに抗している物を生物と認識できるのだ、ということです。

ところで、このように、生物を流れの淀みとして捉えたり動的平衡として捉えたりするのは、けっして抽象論などではなく、筆者の実際の実験結果を踏まえたものであり、その事例が紹介されていることが非常に興味深いです。

筆者の研究の中で、ある生物学的現象を証明するために、特定の遺伝子が働かないようにしそれに対応したタンパク質を体内に作れない"ノックアウトマウス"の実験があったそうです。
あるタンパク質が形成できないので特定の体の機能が失われると推測したわけです。ところが、実験結果はマウスはその機能を失わず生き続けます。そのタンパク質が体内にないにもかかわらず、そしてそのタンパク質と機能の関連はあることが証明できているにもかかわらず。

実験としては失敗だったわけですが、著者はここにこそ生物の動的平衡の力強さを認めます。生物は動的平衡によって、特定のタンパク質が形成できないことを別のタンパク質などを使って補えるのです。逆に、補えないほど遺伝子をノックアウトしてしまうと、もはやそのマウスは動的平衡を保てなくなり、そもそも生まれてこないものとなってしまいます。生物が生きている限り、動的平衡が保たれ、分子レベルでの流れが生じ(それに必要な機能は実現され)、エントロピーの増大に抗します。

ノックアウトマウスの実験は、機械論的な(因果論的な)生物観によるものです。ある機能を発現させる元の遺伝子情報(原因)を操作すれば、その機能は現れない(結果)はずだ、というものです。

ところが、実際の生物の動的平衡は、こうした機械論(因果論)を逃れていきます。生物はエントロピーの増大という時間の流れに抗して自らの時間を生きます。エントロピーよりも時間を早めて秩序の崩壊を先取りしています。その過程で、分子の流れの阻害となるようなものは修復していくし、分子の流れを起こせないほどの障害があれば、生物としての存在からはずれ(=死に)、エントロピーの時間の中へと入っていきます。

機械論(因果論)は、エントロピーの法則に抗う強固な個体物体に対して、エントロピーの法則に抗っている(=個体として維持されている)間だけに適用されえます。言ってみれば、人間の感覚に対して十分抗っている時間が長いため、エントロピーの法則を無視して繰り返し実現しうるものの中でのみ有効となります。同じ条件下で何度も反復できることが機械論による客観的事実にとっては重要です。

他方で、動的平衡は、エントロピーの法則の時間よりも早い時間の中で実現し、同じ条件での反復が難しいものとなります。一回限りの時間の中でこそ動的平衡は実現し、機械論的に反復しようとしたとたんに動的平衡は崩れ、生物は死の状態へ、エントロピーの法則の中へ崩壊していくのです。

機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない。
生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる。


生物には本質的に、機械論的=因果論的ロジックでは捉えきれないものが含まれているのかもしれません。その可能性が示唆されています。

そして、こうした個体/物体としてものごとを捉えるのではなく、流れとして捉える認識論は、現代的な大きな潮流として存在します。この本は、そうした潮流を分子生物学の分野から裏付けるものとなっています。その話についてはまた別の機会に。

2007年9月2日日曜日

科学と非科学のあいだ:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 1

生物と無生物のあいだ
福岡伸一
講談社現代新書

各所で評判のよい『生物と無生物のあいだ』を読んでみました。著者は分子生物学の最先端にいる人ですが、文章力が高く非常におもしろい読み物になっています。おすすめです。

この本内容は大きく3つのパートに分けられるかなと思います。長くなるので今回は2.まで。

1. 科学的方法論の難しさ
2. 興味深い人物の紹介
3. "流れ"として捉える生物学


1.科学的方法論の難しさ
日本国内ではお札になるほど人気で、当時多数の論文を発表したものの、現代にはなんの実質的業績も残していない野口英世を引き合いに、"科学的事実"なるものの難しさが述べられています。
野口英世は功名心に旺盛で、当時の権威に気に入られ多数の論文を発表します。アメリカで成功した日本人生物/医学者となるわけですが、それら論文は現代ではすべて間違っているとされています。当時どうして正しくない論文がこんなに多数受け入れられ"科学的事実"になってしまったのか。そこは野口英世の背後にいた権威の威力が大きいとされます。

現代では、科学者は新しい発見をすると論文にまとめ、特定の科学誌に投稿します。科学誌編集部では、その論文が掲載する価値のある物かどうかを判断するために同業他者にピアレビューを頼みます。
現代の科学は高度に専門化されているため、一般にピアレビューを通れば、それ以外の人が内容を吟味することはほとんどないと言います。つまり、ある科学的発見は誰でもレビューできるようオープンになっているものの、実際に内容まで吟味しているのは世界で数人しかいないというのが現状のようです。

言ってみれば、特定の1人もしくは数人に認められているということだけが、科学的事実の正しさの保証となっています。しかも、その後別の発見があるまでその内容が吟味されることもほぼないことになります。

とは言うものの、誰でも評価できるようにオープンになっていること、ということこそが科学的事実の客観性を保証しているのでしょう。オープンだということが科学的事実の客観性にとって重要なわけです。これが科学哲学家のカール ポパーの言う反証可能性だと言うこともできます。

ピアレビューには別の問題もあります。高度に専門化されているため内容は同業他者にしかレビューできません。ところが、多くの場合、同業他者も同じ課題を研究中だったりして論文発表競争を行っているわけです。いわば、ピアレビューをお願いするということはライバルに情報を明け渡すことになるわけです。また、レビュアーは同業他者なのでなんらかの裏の取引が発生しないとも言い切れません。

ここに、科学が非常に政治的、戦略的になるポイントがあります。
無垢に正しければよいというだけでなく、駆け引きを行わなければいけないのです。

『生物と無生物のあいだ』では、DNAの二重螺旋構造という世紀の発見の裏にも、非正規の情報の受け渡しがあり、うまく立ち回った者だけが恩恵を受け取っているという事実が紹介されています。
研究者間の確執から、発表前の実験結果がワトソンとクリックのもとに流れ、それが二重螺旋構造の解明の裏付け情報として役立ったのだそうです。しかも、その情報を裏で流したウィルキンズは、ワトソンとクリックとともにノーベル医学生理学賞を受賞します。一方、情報元の実験を行ったロザリンドフランクリンはそのときにはノーベル賞受賞を知ることなく若くして他界していたといいます。

今日科学はますます政治化しています。
うまく予算を集め、権威付けし、論文生産の効率化を行う研究者が評価され、実直にひたすら研究をしているだけでは研究者としての功を成せないばかりか生活にさえ困ってしまうでしょう。
他方で、韓国のES細胞詐称のようなことが起こったりもしています。

考えてみれば、今日に限らず科学はつねにいわば政治的だったのでした。
第二次世界対戦や冷戦のころは、科学者が原爆開発に関わっていましたし、それ以前も帝国主義的拡大に科学は役立っています。もっとさかのぼれば、コペルニクスやガリレイはときの権力に抗して科学的事実を主張したのでした。
最先端の科学は、政治と無関係ではいられないということです。

そういうことに対処する能力もまたすぐれた科学者には求められるのかもしれません。


2.興味深い人物の紹介
この本では、36歳から本格的研究を始め遺伝子学の基礎を作ったエイブリーや、サーファーで自由人ながら分子生物学で大きな発見をしノーベル賞もとっているマリスといった有名人から、ニューヨークで研究していたときいっしょに研究したラボテクニシャンで、優秀なのにもかかわらず本業はミュージシャンでポスドクには行かなかったラフォージといった魅力あふれる人物が紹介されています。なんとラフォージは、SkaバンドThe Toastersのメンバーらしいです。コンピでですが自分もThe Toasters持ってます。まさかメンバーがそんなインテリだったとは。

やっぱり意外性のあるのがおもしろいですね。科学の分野にはまだまだこういう人がたくさんいそうです。


3."流れ"として捉える生物学
著者の研究結果から、生物の特徴として動的平衡ということが取り上げられています。これについては、また次回に。

2007年8月30日木曜日

日本でも政治的に利用される集合知

先日、オーストラリアの政府機関が自身に都合の悪いWikipediaの記事を修正していたニュースを紹介しましたが、日本でも同じようなことが行われていたようです。意味不明な修正もありますが。


ITMedia:総務省や文科省もWikipediaを編集していた 「WikiScanner」日本語版で判明

2007年8月28日火曜日

著作権保護問題のグローバリズムとローカリズム

「年次改革要望書に見る著作権の動き」で書いたように、アメリカから著作権法の改正を求められているわけですが、そういう動きもふまえてパネルディスカッションがあったようです。

CNET:著作権保護問題は欧米に迎合せず、日本モデルを策定すべき

グローバルと逆行してもいけないし、かといってアメリカの言うがままというのもよくない。
著作権問題でもバランスが求められていますね。
ちなみに、会場には官僚もいたようで、省内ではアメリカの年次改革要望書はまったく影響していない、とのことです。

2007年8月25日土曜日

政治的に利用されうる集合知

TechCrunch:Wikipediaの編集が豪政界スキャンダルに

オーストラリアで政治家が自分たちの都合のいいようにWikipediaを書き直していた、という問題です。

みんなで書き寄るWikipediaは多くのメリットがある反面、たしかにとくに政治的なテーマについてはいろんな問題が起こりえますね。
影響力が大きいだけにネガティブキャンペーンも可能です。

今回はWikiscannerの活動から発覚したようです。
Wikiscannerは、Wikipediaへの匿名書き込みについて、ソースIPアドレスからそのIPアドレス所有団体をリストするということを行っているようです。

今回はこれで発覚しましたが、やろうとすればWikiscannerでもわからないように編集も可能なわけで、Wikipediaを政治的不正に使用するというのは今後大きな問題となっていくかもしれませんね。
こういうことを考えると、選挙活動にインターネットを使用してはいけないという今の選挙のあり方はあながちまちがっていないのかもしれません。もちろん、正しく運用すればなにも全面禁止にしなくてもよいとは思うのですが。最初は混乱する可能性はありますね。


ところで、『ウィキノミクス』の邦訳が発売されています。読みたいと思いつつ、読めていません。

Wikinomicsと聞いたときに、その書評内容もあって、自分もWikipedia + economicsというイメージを抱いたのですが、でもよく考えると、Wiki-economicsでもないし、Wikipedia-nomicsでもないんですよね。

そのあたりについては、内容含めて、
極東ブログ:[書評]Wikinomics:ウィキノミクス(Don Tapscott:ドン・タプスコット)に書かれています。

ウィキノミクスは、素直に読むと、経営書的に昨今のオープンソース的活動について書いたもののようですが、極東ブログでも指摘されているように、実は、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』的に読んだ方がしっくり来るのでは?と思ったりしています。

いずれにせよ、近いうちに読んでみてからまた書きます。

2007年8月23日木曜日

日本でも中国のコンテンツの著作権侵害やってるんですね

中国、放送権侵害で日本のTV局提訴事件、賠償手続き入りに
http://www.nikkeibp.co.jp/news/flash/542729.html

地上波TV局だとわりあいきちんとやっているかと思うのですが(それでも問題あるという話も)、CSだとチェックが甘いのでしょうか。

2007年8月17日金曜日

情報に対する所有権(著作権でどこまで取り扱えるのか)

情報の私有・共有・公有 ユーザーから見た著作権
名和小太郎
NTT出版

著作権にまつわる豊富な事例がまとめられていて非常に参考になります。その部分がこの本の価値となっているので、この本で言いたいことだけをまとめてしまうと非常にシンプルになってしまって元も子もないのですが、まとめてみます。

基本的な構成は、「従来の著作権の枠組み」→「デジタル時代にはそぐわなくなってきている」→「筆者の考えるあるべき著作権制度」という展開で、その間に多数の事例が取り上げられています。

【従来の著作権の枠組み】
国際的な著作権の取り決めであるベルヌ条約は次のような枠組みを持っている。
(1)表現の保護:制度の目的は著作物の「表現」を保護することであり、その「意味」、あるいは「内容」は自由にコピーできる(第2章2節)。
(2)コピーの保護:制度のもう一つの目的は著作物の「コピー」を保護することであり、それに「アクセス」すること、あるいはそれを「使用」することは自由である(第2章2節)。
(3)著作権の優位:著作権のほうが著作隣接権よりも優位にある。前者は創作性をもつことを前提とするが、後者はそうではないからである(第3章1節)。
(4)天才的な著作者:著作物は少数の天才的な著作者によって制作される希少な商品であり、多数のユーザーはこれを消費するだけである。つまり著作物の流通は一方向的である。
(5)私的領域の分離:著作権の及ぶ範囲は市場のなかに限られる。したがって私人の行為は「私的使用」として著作権の保護範囲から外れる(第5章1節)。
(6)コピー製品の劣化:著作物はコピーによってその品質が劣化する。この技術的な制約によって、既存のコピー製品から市場価値をもつコピー製品を作ることはできない。

【かつての著作権が成り立つ前提は総崩れ】
これらの枠組みは現代のデジタル技術の時代においてはことごとく崩れてきている。かつての著作権が成り立っていた基盤は現代の社会情勢の正反対となってしまっている。

現に、たとえば日本の著作権法は、1970年に成立した後、
1970年代前半に2回、後半に2回
1980年代前半に3回、後半に5回
1990年代前半に6回、後半に7回
改訂されてきている。
こんなに頻繁に改定されるような法律はすでに法としての自律性を失っていると言えるし、現に補填に次ぐ補填でスパゲッティ状態となってきている。

【筆者の考えるあるべき著作権制度】
ユーザのためになる著作権制度をゼロベースで考えると次のようになる。
(1)著作権の取得にあたっては、著作物への権利情報の付加と、その公的機関への登録を、著作者に対して義務化する。
(2)保護期間中には著作権の維持に対して登録料を徴収する。登録料の納入がなければ、その著作物を公有にする。
(3)許諾権については、これを行使できる機関を短縮し、これを超える場合の権利は報酬請求権にかぎる。
(4)著作者人格権の中心に氏名表示権を置き、同一性保持権は廃止する。
(5)原著作者が、そのすべての二次的著作物について、強い権利をもつことを抑制する。
(6)公正使用の条項を導入する。
(7)録音録画保証金システムを拡張する。


著者の考えるあるべき著作権制度は、

* 特許制度のように登録制として権利の有無を明確化して著作者の権利を保護するとともに、なんでも著作権でがんじがらめにせず著作権フリーのものをも明確にする
* 著作者人格権など隣接権を限定的にし二次利用を促進させる
* 保証金システムをもっと幅広く導入して、ガソリン税等の目的税のように、利用者全員で著作物に対する報酬を負担する

というのが要点となります。

賛否は別として、制度で公の権利を保護しようとすると、たしかにこういう形になるんだろうなぁとは思います。
"物"ではない"表現"は、従来通りに個物として市場で取引できるようなものではない一方で、文化の発展のためにも二次利用は促進されていくべきものとなります。したがって、保証金システムのような形で一種の税金として著作物に対する経済的報酬を考えるというのが1つの解決策ではあります。

この発想は、すでに、著作権=著作物に対する権利というよりも、情報所有権という発想に近づいているように思えます。
たしかに、近代法制度は、ある主体の"物"に対する権利を所有権として自然権の1つとして自明視してきました。今までは、情報も"物"に紐づいていたために所有権の範疇で処理できてきました。
現在では、情報は"物"の呪縛から解放されています。

この情報に対してどのような権利を与えるのか、ということが問題系として現れつつあるのであり、これは、近代法制度の根本、および資本主義制度の根本を揺るがすものでもあると思います。つまり、"物"に紐づかないものに対する権利をどのように保護し、そういうものをどのように市場に取り込むか、という問題です。

今までの隣接する権利や仕組みの考え方を継承、援用するのであれば、名和さんが考えられたとおり、"物"に紐づかないものの権利は特許権を参照し、"物" ではないものを市場に取り込むためには参加者全員からお金を集めて配分する税金のやり方を参照することになるのかもしれません。

他方で、DRMのような技術的進展により、情報を"物"として取り扱えるようにしていくという方向性もありますし、税金ではない公有財の取り扱い方というものもあるのかもしれません(GPLのように?)。あるいは、復古主義的に情報を"物"に紐付け直し続けるとか?

デジタル時代において、従来の所有権という自然権を継承しつつ、どのようにデジタルに対する権利を持たせていくのかというのは、この時代に課された大きな制度的テーマだと思っています。

2007年8月14日火曜日

民主主義の希望のために:『政治学の名著30』

政治学の名著30
佐々木毅
ちくま新書

『歴史学の名著』と同時期に出た本です。

取り上げられている本は、東西時代問わず多岐にわたるのですが、なんとなくですがそこに書かれていることは次のようにまとめられるかもしれません。

1.理想郷=ユートピアを想定する
1-(1)西洋では、古代ギリシャの都市国家がユートピアかそれに一番近いものとして想定されます。そこでは、市民による直接民主制が実現されており、共同体的強さ、公平さ、繁栄が実現されています。(場合によっては古代ギリシャ都市国家と明記されていませんが、実際に読むと限りなくそれに近いと解釈できます。)
1-(2)東洋では、古代中国国家がユートピアかそれに一番近いものとして想定されます。そこでは、人徳のある王による王制が敷かれ臣民のための政治が行われています。

2.ユートピアを論理的に根拠づける
とくに西洋では、ユートピアの論理的根拠付けが行われます。それこそがその政治本の一番の読みどころの場合も多いです。論理的根拠付けとしては、権利とその委託による国家、慣習と法を実現する国家、理性の要請による国家、歴史の運動の中の国家等々、国家や政体の根拠付けや意味付けがなされます。いずれにしても、一般市民によるコミューンであったり、一般意思による支配であったり、ある前提に基づく仮想実験であったり、ある種のユートピアを想定していると言えます。
東洋では、そこまで抽象化されず、歴史の中に理想を見、倫理や徳を重視してユートピアを形作っているようです。

3.ユートピアと比較して現実を評価する
現在の政治状況をユートピアと比較して評価します。ユートピアに達していないと批判するだけではなくて、ユートピアへの道のりとして描写したり、ユートピアをより現実に引き寄せるようなことも行われます。


とくに西洋政治学本ではそうですが、近代以降の一部の血族だけが有利な権利を持つ状況から一般市民全員の権利を尊重するという流れは高く評価されつつ、他方で、一般市民全員の政治参加、直接民主制には危険性がありそれをどう回避するのかというところに苦心しているということが読み取れます。
具体的には、ルソーが市民の意思を一般化した一般意思はぜったいに正しいとしつつ、その一般意思を制御するための専門機関を想定しだしたり、トクヴィルや多くの政治思想家が一般市民の権利を尊重しつつ実際の政治を代行する貴族階級の存在を評価したりしています。

市民全員参加の政治では、「多数者の専制政治」が起こりえます。衆愚政治と呼んでもポピュリズムと呼んでもよいのですが、多数者が賛成すれば政治的に正しくない政策が実行されうるという危険性です。20世紀の民主主義はファシズムなどによって痛いほどこの危険性を体験していますが、18世紀19世紀の政治学者も近代の権利の拡大を最大限に評価しつつすでにこの危険性を問題視していたわけです。

インターネット時代においても、「多数者の専制政治」はまさに今ここにある問題です。『みんなの意見は案外正しい』にも書かれているように、単純に人が集まるだけだと集団極性化が起こり正しくない選択をしてしまう可能性が高まります。市民全員に権利を広げていって結果として市民から権利が取り上げられ一部の人に集中してしまったという結果が十分ありえますし実際に起こっています。

だからといって、一部の人に権利を独占させておくというのも間違いです。いくら知識や見識がある人でも間違いえます。完璧でぜったいに間違わない人間が存在すれば話は別ですが、そういう人間が存在しえない以上、ある政治問題を参加者全員で判断するのか一部の賢人で判断するのかどちらが正しい結論を出すかはわかりえません。

そこでよく出てくるのが、"教育"です。一般市民を教育することで、全市民参加による判断が間違わないようにしようというものです。これは言ってみれば全員を賢人にするということです。
ところが、賢人でも間違いうるというのは先ほど書いた通りですし、現実問題として全員が賢人になることはできませんしありえません。ある観点で見た場合、賢人とその正反対の間にグラデーションを作るように人々が位置するというのが現実です。逆に、その方が多様性が維持されていて正しい姿だと言えます。

ヒントとしては、ここでも書いたように、民主主義が今回自分の意見が採用されなかったとしても次回採用されるかもしれないという希望を持たせる制度であること、したがってこの制度は維持推進されなければいけないこと、そのために各個人の多様性、独立性、分散性をどう維持するか、そしてそこからの意見をどう集約するかの仕組みをいかにうまく作るかがポイントに思えます。多くの政治思想家もそこに腐心してきているように思えます。

この問題は、政治学や政治思想によって解決されたわけでもありませんし、おそらく解決しうる問題でもありません。問題を整理し精緻化するのには貢献するとしても。

いずれにせよ18世紀19世紀から近代社会は同じ問題を抱えてきているのであり、インターネット時代でも同様です。その意味で、先人の思考を参照するというのは大きな意味を持つでしょう。

2007年8月13日月曜日

Googleでの新人研修

http://googlejapan.blogspot.com/2007/08/mountain-view.html

Googleに入社すると、まずは3ヶ月Moutain Viewの本社で研修だそうです。
その後は、メンターにつくそうです。

やはり、いい企業は、人材育成のシステムもいいものをもっているということでしょうね。

そこで教わるのが、
http://googlejapan.blogspot.com/2007/08/tott.html
こういった内容だとすると、なかなか高度です。「トイレの壁に貼る」というノウハウも含めて。

つねに自分たちが作っているものの品質を高めたり、作業の効率を高めたりする方法を考え、それを他の人たちと共有していくという姿勢がみんなに共有されているというのがすばらしいですね。会社としてシステマティックに。

2007年8月12日日曜日

文体は思考を形成する:『漢文脈と近代日本』

漢文脈と近代日本 -もう一つのことばの世界
齋藤希史
NTTブックス

近世から近代の日本が、いかにして「ことば」を獲得していったのかの歴史を、漢文を中心にたどったものです。近代の言語の問題を扱う場合は普通、二葉亭四迷らの"言文一致"運動や夏目漱石らの近代小説がその中心にくると思うのですが、この本では、漢文を中心にその歴史がまとめられているところがポイントです。
漢文は、近代日本がことばを獲得していく上で、訓読体として近代国家の均質的な言語空間の創出に貢献し、そしてその後の新しい国民言語を作り出す際の対概念として機能していったということがわかります。

最近も、教養としての漢文のちょっとしたブームがあったり、漢字をよく知っている人=頭のいい人というような俗信があったり、そもそも国語の教科書には漢文が出てきて大学受験でも漢文が存在したりというように、漢文なるものは現代日本人の中でも生き続けていると言えます。某大学の入試では漢文が必須であり、理系の人(文系でも)の中にはどうして今後一切使用しない漢文なんか勉強しなきゃいけないんだと思う人も多いでしょう。

明治時代までの日本では6種類の文体が存在し、その中で漢文は公の文書で使われていました。
ただし、漢文が広く教養としての知識体系となったのはこの本では江戸時代とされています。寛政の改革で、徳川政府が朱子学を中心に学問の体系化をし異学を禁止したこと、同じタイミングで『日本外史』といった漢文で書かれたベストセラーが広く普及したこと、がその原因です。

すでに兵士ではなく官僚となっていた武士階級の士族は、子供の頃から藩学などで漢文および漢文訓読体を習得していきます。明治初期の政治家を含む文筆家もことごとく漢文訓読体を習得し、それを使って書物を著しました。

この漢文訓読体が、新しい国家の言語として、明治政府のもと推進されていきます。

ここで、漢文や漢文訓読体というのは、古代中国で書かれた漢文が典故としてその参照先となっているものです(近代中国語は参照先となりません)。
したがって、漢文を習得するとはすなわち、古典に現れる紋切り型表現(=クリシェ)を覚えていくということになります。いったん漢文を習得すると、ある感情を表現したり、ある論理を表現したりしようとするときに、この紋切り型表現をいかに組み合わせるかというところが腕の見せ所であり、漢文を読む読者もこの紋切り型表現の使い方でより深く感動したり、よりよく理解できたりするわけです。
ちなみに、英語でもシェイクスピアなどを典故とするクリシェはたくさんあり、辞書も出ているほどです。イディオムなどもその1つと言えるかもしれません。

言文一致運動は、この漢文的表現からいかに自由になるかの運動だったとも言えます。内面を表現したいときに、漢文だと大げさになり、かつ古典の世界のしがらみがどうしても取れません。そうではなく古典に縛られない新しい人間の内面を描くためには、新しいことばが必要だったのです。そのために今まで書き言葉としてはほとんど表現されてこなかった口語体が使われたわけです。

言文一致が達成された後も、支那趣味の作家は漢文調を使いましたし、現代においても、熟語などに漢文が生き続けています。現代日本語と対照しうる一つの自立的言語空間として今後も漢文は存在し続けるでしょう。

文体は思考と結びついており、漢文には漢文的思考というのが確実に存在しました。
今、インターネット文体が創出されつつある過渡期なのかもしれません。漢文訓読体や口語体が成立していったあとを見るに、ある文体が成立するためには、

* 広く読まれること(かつ模倣されること)
* 新しいものを表現しうること
* 権威化(authorize)されること=教科書に載ること

がポイントのように思えます。
インターネットの世界の文体と言えるようなものははたして今後大きな潮流となりうるでしょうか。そのとき、インターネット思考は、従来の思考法とどう異なるものとなっていくのでしょうか。

2007年7月24日火曜日

最近遊んだソフト2:Joost インターネットTVの可能性

最近遊んだソフトもう1つ。

■Joost
P2P技術を使った動画配信の仕組みです。
インターネットTV(IPTV)の試みとして注目されているようです。
当然まだ英語の番組しかありません。また、個人的にはとくにこれが見たいという番組があるわけでもありません。英語の勉強がてら番組を垂れ流す程度でしょうか。(PRIDE!だっけか?に出てしばらく休養しているはずの五味の海外での試合などがありました。ボコボコにされてましたが。。。)
ユーザインタフェースはかっこよくておもしろく、この辺もいままでのこの手の取り組みとの差異化となっていると思います。なかなかワクワクするようなUIです。

@ITP2Pテレビの「Joost」を試してみた

ITPro P2P動画配信の「Joost」が台風の目に

開発者は、P2Pソフトで有名なKaZaAを作り、その後Skypeを作ったルクセンブルグのNiklas Zennstrom氏とJanus Friis氏です。
KaZaA を作ったものの違法コンテンツ交換が行われてやがて廃止に追い込まれ、その後著作権のないIP電話に移り、さらに合法的な動画配信の仕組みに戻って来るというその経歴もまたおもしろいです。いずれのソフトでもP2P技術が基盤にあります(がんばれ、日本の47氏)。

JoostはしばしばYouTubeと比較されます。
が、そもそも別物と捉えた方がよいのかもしれませんね。

YouTubeの核心はマッシュアップで、それはいわばインターネットの世界を動画に広げたものとなると思います(本来的には)。人がタダで情報を発信して作られてきたインターネットを動画の世界にも広げるというものです。

対して、Joostは、今まで無線やケーブルTVでブロードキャストしてきたコンテンツをオンデマンドで配信するための基盤となるものです。TVの世界をインターネット上に持ち込むことでオンデマンドかつインタラクティブにするというものになります。

YouTubeは、基本的には、デジタルビデオカメラの普及による動画というコンテンツフォーマットの広がりに対応したものとなります。
もちろん、その狙いの先には、法人自体がYouTubeのようなメディアを使って情報配信するようになることで、TVとの垣根を崩そうというものも見え隠れしてはいると思いますが。あるいはさらにもっと先を行って、今の著作権のあり方自体の根底を揺さぶる可能性を秘めたものでもありますが。

他方で、Joostは、今までも試みられてはいまだうまくいっていないインターネットとTVの融合を目指そうというものになります。
たとえば、下リンク先のようなTVの側からの取り組みも平行して行われており、現時点ではどのような形が主流となるのかははっきりしていません。

ICTV―すでにユーザーがもっている普通のテレビ上の対話的テレビ

Joostは、Viacomなど優良動画コンテンツオウナーの賛同を得ていることが最大の強みです。他にも多くと提携しており、コンテンツオウナーと広告主、およびユーザの両方に配慮したコンテンツ配信の仕組みが目指されているそうです。

日本のTV局もぜひこのような方向に一歩踏み出していってほしいものです。別に自前のものでもなんでもいいので。海外ではどんどん進んでいっているのに、国内ではどこもだれも一歩を踏み出さないというのがユーザにとって一番不幸ですね。

2007年7月21日土曜日

国連重視が憲法改正を促し、国防軽視が護憲を促す

我、自衛隊を愛す故に、憲法9条を守る 防衛省元幹部3人の志
小池清彦、かもがわ出版

自衛隊としては自分たちの立場を守るために改憲を求めていると思いがちですが、必ずしもそうではなく、自衛隊の中にも護憲派が少なからずいるということがよくわかりました。そりゃあ、隊員の命を預かる立場としてみれば、戦争は反対なのでしょう。当然ですね。

書かれている内容は、講演やインタビューをまとめたものが多く、論理的とはとても言えませんが、なかなか考えさせられるところもあります。3人がとりあげられていますが、3人ともとくに重装備での海外派兵(を可能にする法律化)に強く反対しています。祖国を守るために志願してきた若い自衛隊員を、自分たちとは関係のない土地で無為に死なせるわけにはいかない、という思いのようです。

孫氏の兵法やクラウゼヴィッツの戦争論を引くまでもなく、戦争をしないことが最大の戦勝だとはよく言われます。
その意味で、現在の日本で本当に国防を考えるのであれば、憲法改正や軍備の拡張よりも近隣諸国との関係を改善していく外交を展開することが一番です。拉致問題さえ取り下げて、六カ国協議を進めることが現実的な国防につながるとさえ言い得ます。

他方で、戦後の日本はずっと国連主義と親米で来ました。その外交路線をより強化するためには、国連軍に参加できる組織と仕組みの保持は必須でしょう。ついで、米軍へ協力できる体制も重要となります。つまり、憲法九条は改正せざるをえません。

軍隊をもたない、したがって現実的強制力を持たない国連を通して国際的影響力を持っていくためには、国連軍に参加できる組織を作ることが急務です。
湾岸戦争のとき、日本は巨額の資金を投じましたが国連軍に参加しませんでした。その結果、日本の貢献は国際的には一切無視されてしまいました。そこから日本政府の方針が変わり、自衛隊の海外派兵が始まります。最初は戦後の治安維持に。ついで、イラク戦争のサマワに。国民の反応も批判的でなくなり、その頃から右傾化と言われるようになりました。

でも、よく考えると、国連主義の追求が、憲法改正を促していると言えるのです。
逆にアジア主義で考えると、憲法改正や軍備拡張を急ぐことはマイナスでしかありません。そして、日本の国防ということで考えると、戦争する可能性のある近隣諸国を逆なでする行為は百害あって一利無しです。

今の日本はこのようなジレンマに陥っているのであり、それを国民投票という国民の判断に押し付けようとされているわけです。
あくまで国連主義で、国際社会への貢献を重視していくのか(=憲法改正)、それとも現実的な国防優先で近隣諸国との関係重視で行くのか(=護憲)。

両方大事なことなんですけどね。憲法改正するならいかにアジア近隣諸国との外交をうまくやるか、護憲で行くならいかに国連や米軍と関わっていくのか、どちらを選ぶにしても、その反対の立場への十分な配慮が必要そうです。

しかし、こんな大事なことを選択できる能力というか資格がわれわれ一般国民にあるのでしょうか。こんなときは、一線を退いた、でも過去を背負ってきたお年寄りの意見を尊重するのが一般的だったりしますね。歴史や組織を見ても、こんなときのために老中や会長がいるんですもんね。

2007年7月2日月曜日

自由意志、慣習、インセンティブ(倫理学、法学、経済学):市場主義とその境界

ちょっと古いですが、日経新聞の6月24日(日曜)号の書評欄に、
「経済論壇から 市場重視の経済学を問う」松井彰彦
というものがありました。
要するに、市場と規制(=慣習や法律)は相反するものではなく互いに補い合うものだ、という論旨です。
そこで、大竹文雄氏の論座7月号の論文からの引用で、当たり前のことかもしれませんが、経済学なるものを言い得て妙な部分があったので引用します。

主流の経済学が市場を重視する理由として、人々がインセンティブに基づいて行動していること、そして市場が人々のインセンティブをうまく利用する点を挙げる。反対に、「人々のインセンティブを無視して組織や制度をつくると必ず失敗」するし、「最悪の場合、規制の意図とは全く逆のことが発生」してしまいかねないという。

まったくそのとおりだと思うのですが、他方で、こう言えるのは一般論としてであって、すべてがこう言えるわけではないし、例外的な状況でこうは言えない場面もある、とも思います。つまり、一般論としてあるいは大枠として、市場原理を適用するのは正しいのですが、社会の中にはそれでは不足な部分もあるのではないか、と。

科学としては、一般化は当然の手続きであり、そうしないと帰納法的な"科学"になりえません。とはいうものの、自然世界においては小さい誤差を無視できるとしても、人間社会における小さい誤差は無視できない場合があります。たとえば、殺人や戦争など例外的状況をインセンティブだけで説明すると不足があるのではないか、と思います。他方で、組織論や政策実行論などにおいてインセンティブを語ることは非常に重要です。

話は少しそれるかもしれませんが、たとえば、フロイトは、無意識やエゴなどの概念を使って人間心理をインセンティブで客観的に描写しようとしたのだとも言えます。が、晩年のフロイトの著作の中には、『快感原則の彼岸』のように、快感(インセンティブ)に流れるはずの心理がどうしてもそれに抗するような動きをすることがあることを、半ば困惑的に指摘しているものもあります。

人間は、合理的=理性的(reasonable)であるはず、まさに日本語英語としての"リーズナブル"な方に流れて行動するはずですが、たしかに大枠としてはそう描写できるのですが、例外的にそうは行動しないことがありえます。
そこにこそ、単なるインセンティブに対する条件反射動物ではない人間の自由意志を認め、倫理の立ち上がり(善く行動する)を認識するのが、近代哲学が長年取り組んできた主要なテーマの一つです。

と書くとあまりにも我田引水なので、元々の文脈に沿って書くと、合理的な人間はインセンティブにのっとって行動するが、過去の慣習や規制にのっとって、あるいは慣習や規制に引っ張られて一見"非"合理的な行動をとることもある、ということになります。
ただし、慣習/規制がイコール自由意志や倫理ではないので、我ながら論理がねじれているのですが("自由意志/倫理"、"慣習/法律"、"インセンティブ/経済学"という3つを三位一体として論じられればいいですねぇ、自分には力不足です)。

さらに付け加えるならば、インセンティブが"善い"方向に向かうインセンティブであるためには、合理的=理性的なだけでは十分でなく、慣習や規制に基づくインセンティブである必要があります。その場合の慣習や規制は、単なるしがらみなのではなく、"善い"という価値判断が、その社会が育み形成してきた過去からの遺産(=慣習)に基づいてしか最終的に判断できないというような、そういう慣習や規制を指します。
合理的=理性的な思考は、必ず現実からのフィードバックによる補正が必要です。フィードバック無いまま思考を走らせると暴走してしまうというのは歴史を紐解けば多数見つけることができます。つまり、合理的=理性的なだけではダメなのです。そういう合理的=理性的な思考にフィードバックを与えるもの、それこそが慣習に他ならない、とここでは言い切っておきます(ちゃんと考えたわけではない)。

2007年6月17日日曜日

共同経験の場としてのマスメディアと情報の効率的収集というインターネット・メディア

TecgCrunch:Revver創始者がパーソナライズできるニュースサービスThoof開設

という記事がありました。
パーソナライズ可能なニュースサイトの新規加入組Thoofについての記事です。
著者はこの手のサービスに批判的で、曰く、

こうしたサイトが何故成功しなかったか?それには私なりの説明がある。人というのはニュースを読むと普通そのニュースについて友だちと語り合いたいと思う生き物なので、一人の人が“おもしろい”と思うものは他のみんながその日何を読んだかにだいぶ影響を受けていると思うのだ。みんな大きなニュースサイトに群がるのは何故か?というと、他のみんながそこに群がるからだしね。なので、本当に自分の興味範囲のニュースだけ求めるニッチな読み手ばかり相手にしてたんでは不十分で、こうしたスタートアップは生き残ってゆけない。

としています。

以前書いたように(マスメディアと共同体的記憶とYouTube)、今日のマスメディアは"共同体的記憶"という重要な社会的役割を担っているために、著者やThoofの創設者のようにこれを個別化を得意とするインターネット・メディアとそのまま比較するのはつらいところがあります。

一斉と個別、PullとPushで、情報配信メディアを分類してみました。(かってなマッピングなので変に感じるところもあるとは思いますが)

■インターネット以前の情報配信


■インターネット後の情報配信


無線による一斉配信というマスメディアのあり方は、いまだインターネット・メディアが及んでいない領域です。
正確には、1996年頃に"プッシュ技術"が現れ、従来のマスメディアの牙城に食い込むかのごとくもてはやされましたが、その後すぐに衰退しています。

野口悠紀夫Online:一世を風靡した「プッシュ」とキム・ポレーゼ

しかし、この領域こそが、よくもわるくも今日の社会の共同体的記憶の役割を担っているのだとも言えます。

インターネット・メディアは、個別化を得意とし、情報の効率的な収集、あるいは専門的/マニアックな情報の配信に効果を発揮していると言えます。

他方で、テレビや映画などの一斉配信方式は、ユーザの共同体験や共同体的記憶を担っています。
映画などのコンテンツは、情報の閲覧ということだけで言えば家でオンデマンドで見ることがもっとも効率的です。ただし、デートで映画館に行ったり、家族で映画館に行ったりする家族や友人との共同経験作りという点では、映画館という場は非常に重要な意味合いをもちます。同様に、テレビは、リビングルームに鎮座することで家族の共同体験作りにいまだ大きな役割を果たしていると言えます。

* 情報やコンテンツを効率的に配信する
* 情報やコンテンツをベースに体験を共有化する

ということをきちんと区別して考えないと、状況を誤って捉えたり、間違ったポジショニングをしてしまうのではないでしょうか。

その意味では、インターネットは、1つ目については現状でかなり成功しているのであり、革命的に便利なツールを多数提供してくれています。

自分が興味があることの1つは、2つ目の部分について、インターネットがどこまで取り込んでいけるのかということです。
この部分にまでインターネットが何かを起こさないと、たとえば「こちら側vsあちら側」という某煽りが、現状追認にすぎないわけではなく、ほんとうにこれから起こるかもしれない革新性を表しているんだということにはならないと思っています。

で、2つ目の体験の共有化をインターネットで取り組もうとすると、持論の1つである、インターネットでの匿名性の部分的除去などにつながっていったりするわけです(インターネットでの情報の集約実現のための真っ白でありえないプラン)。が、それについては、また別に。

2007年6月9日土曜日

年次改革要望書に見る著作権の動き

著作権の非親告罪化やP2Pによる共有の違法化は誰が言い始めたのか?

著作権の非親告罪化(著作権者が訴えなくても警察や検察が捜査や起訴できるというもの)や、P2Pソフトによるファイル共有の違法化(私的複製の範囲外とするもの)の大元に、アメリカ政府が毎年日本政府に出している「年次改革要望書」があるという指摘です。

内容の賛否はともかく、こういうのが無いと国としてまとまって動けないというのが情けないところですが。。。逆にこういうのがあると、それを根拠にどんどん進んでいく、という。

個人的には、著作権の非親告罪化にしろP2Pファイル共有の違法化にしろ、従来の私的複製にはあてはまらないような複製方法が一般化し、収拾がつかなくなってきていることがその根本にあると思います。
これについては、複製を厳格に管理できるようにする、から、いっそ複製を自由に許可するまで、いろんな反応があると思いますが、西欧発の近代的な個人主義の発想で行くと、著作者が自身の著作物に対する複製方法を選択できる、というのが正しいあり方な気がします。

今は法律的には、すべての著作物に著作権が発生し(*1)、その著作権に対しては一律の(国家による)法的規制がかかりますが、そもそもその著作権に対する規制に選択肢を与えるべきという発想です。
そして、それをインターネットの世界で展開している一例が、Creative Commonsだと思います。ただし、法律ではないので国家による規制は働きませんが。

*1 かつてアメリカでは、著作物にコピーライトマーク(Cに○)を明示的につけたものだけが著作権を主張できることになっていました。今は世界的動向にあわせてアメリカでもCマークは必須ではありません。慣例からCマークをつけることがあるようですが。

2007年6月5日火曜日

歴史学という普遍の学問:『歴史学の名著』

歴史学の名著30』山内昌之、ちくま新書、2007

イスラム研究家、国際関係史研究家の山内昌之さんが選ぶ歴史の名著30選です。

いわゆる研究書としての歴史学の名著というよりも、一般の読者を意識した選抜となっています。歴史学的意義よりも読んでのおもしろさに重きをおいているようです。
歴史書が問う意義や、叙述の華麗さ、歴史の中の人間や社会を見つめる視線のおもしろさといったものに重点がおかれているように思います。
フーコーの『監獄の誕生』なども選ばれています。

こういうガイド本を読むと、読んでみたい本がたくさんありますねぇ。

そんな中でも、アイザィア・バーリンの『父と子』が選ばれていて、次のような引用がありました(歴史学の名著としてバーリンが選ばれるのもなかなかおもしろい選択です)。現代の自由主義の停滞というか、すべてが自由になってしまい何も主張できない懐疑主義的状態に陥りがちなわれわれ世代の苦悩をすでに言い表して妙です。

中道の左寄りに位置し、右翼の人相の悪さにも、左翼のヒステリー・非常な暴力・使嗾煽動にも、等しく嫌悪を感じている、この少数で自己批判的で、常に極めて勇敢とは言えぬ一群の人びとは、そう反応するのだ。彼らの祖先たち、およびその伝記執筆者トゥルゲーネフが感じたように、彼らもまたぞっとすると共に強く心を惹かれる。左翼の狂信者たちの激烈な非合理には怖気をふるうものの、さりとて、これら若者や勘当息子を代表すると称する連中、貧困者や社会的に職を奪われまたは抑圧されている人びとのチャンピオンたちを、そっくり一まとめに拒否してしまう覚悟も未だできていない。これが、現代に自由主義の伝統を受け継ぐ者の、われながら意に満たぬ、時には苦渋にみちた立場であることは、言うを俟たぬであろう。

バーリンによれば、トゥルゲーネフに倣って、このような自由の停滞状態は避けて通るべきではなく、あえて引き受けて、教育を、理性を、信じるしかないのだ、としています。

彼は明瞭な脱出路は一切示さなかった。ただ漸進主義と教育とを、ただ理性のみを、提出したのである。チェホフもかつてこう語っている。作家の任務は解決を提供することではない、ただ、ある一つの状況を忠実に描き、問題の諸相を公正に示して、読者にもはやこの問題は回避し得ぬと思わせることだ、と。トゥルゲーネフの提出した疑念のかずかずは何もなお終熄してはいない。道徳的に敏感で正直な、知的に責任をとる人間が、世論の鋭く両極化する時に当たって立たされるディレンマは、彼の時代以後、更に激しさを増し、全世界に拡がっている。当時未だ完全にヨーロッパ的とはほとんど看做されなかった国における、「教養ある一部」と彼には思えた人びとの苦境は、現代ではすべての社会階級に属する人たちの状況となっている。彼はそれを最初期において認識し、類いなく研ぎ澄まされた視線をもって、詩情と真実とをこめてくっきりと描いたのであった。

トゥルゲーネフ的態度は、おそらく正しい態度なのでしょうが、同じ態度は、当時トゥルゲーネフが味わった苦悩を現代において味わうことになるのかもしれません。しかし、『父と子』を歴史学の名著として選んだ山内さんは、あえてそれを主張したいのでしょう。
いずれにせよ、いつの時代にも自由にまつわるこの苦悩は存在するのであり、あまんじて引き受けるにせよ、そこから一歩踏み出すにせよ、自由であることの意味については、重々考えていくべきでしょう。

2007年5月31日木曜日

現代においてリアルであること

SSQ氏のブログ「ヘッドライクアホー」のManowarについての投稿へのコメントで、なぜかマニックス(マニック・ストリート・プリーチャーズ)を思い出して、ManowarとManicsという似ても似つかないバンドが実は同じ根をもつのではないか、と書きました。

現代においてリアルであることを目指すと、究極的には、リアルを表す偶像を自分から徹底的に演じきるか(=ヒューモア)、他人による偶像化から徹底的に逃げるか(=アイロニー)、しかないのかもしれません。

Manowarは、自分たちが信じるリアル、しかし別の人から見れば典型的イメージ=偶像、を確信犯的に演じきります。
Manicsは、他人がイメージするリアルという偶像化から逃れよう逃れようともがきます。自分にとってのリアルはそこにはないと悩み続けます。

結果、Manowarは、ヘビメタよろしく鋲付きの革ジャンを着て爆音を演奏し続け、Manicsのリッチーは、腕に4REALと刻み込んだ後失踪し行方不明になってしまいます。

リアルであることはほんと難しいんですね。

というようなことは、なにも自分の考えなんかではなく、もちろんかつて読んだものの受け売りです。

オリジナルの喪失とコピーの氾濫、リアルではない偶像化によるイメージの流布、こうしたことは、1980年代からさかんに語られてきています。
代表例は『シミュレーショニズム』(椹木野衣)などでしょうか。最近のサブカルチャーとしてのHipHopやハウス、古くは戦前のベンヤミンの思想(『複製技術時代の芸術』)などが引用され、オリジナルやリアルなものなんて最初から無いんだ、そんなものは後からあたかもあったかのようにねつ造されたものに過ぎず、現実には剽窃しかないんだ、というような主張がなされています。

この手のオリジナルやリアルは幻想だという批評は、たいていその原点としてさきほどのベンヤミンを論拠とします。
ベンヤミンが『複製技術時代の』を書いた戦間期は、まさに複製技術のおかげで新聞などのジャーナリズムが発達したり、複製芸術である映画が発達したりした時代であり、同時に"大衆"なるものが出現してきた時代でもあり、同じく総力戦という戦争形態やそれを担う全体主義国家が現れてきた時代でもあります。
同時代にオルテガは『大衆の反逆』を書きましたが、これらはつながった一つの事態であり、大衆の成立と同時に"オリジナル"や"リアル"という幻想がその幻想としての起源を忘却されたまま現れてきたのでしょう。

実はそのとき以来、大量の複製が消費される大衆の地平では、オリジナルやリアルなんてものは存在したことなどなかったのです。
ポップ音楽(ヘビメタもパンクもハウスも含む)という、複製メディアに乗っかって流布する地平で、まじめにリアルを追いかけることなどはなっから無理で、自らリアルっぽい偶像を演じきるのか、その地平から降りるのか、リアルであるためにはそういう選択肢しか無いのです。これは、難しい時代になったなぁとかそんなことでもなくて、最初っからそうなのです。

たしかに、音楽ひとつとっても、この100年でずいぶん変化してきています。その変化の中にはエポック・メーキングな人や現象はたしかにあって、そういう人や現象にオリジナルやリアルを見ることは可能です。とはいうものの、そういうエポック・メーキングな人や現象は、オリジナルやリアルであることを目指してそうなったというよりも、むしろ後からそのようにみなされているのであって、実際にはその同時代に同じような現象が多々ある中、たまたまそこに光があたったというようなことが少なくありません。

共時的に他とは違うオリジナルやリアルがあると信じさせられて、それを追い求めるということは、最初から失敗を約束された取り組みであり、近代の行き過ぎた個人主義や個性主義の罠でもあると言えると思います。
けっきょく、その人がオリジナルかどうかなんて、周りにどう思わせるかの自分や関係者のマーケティング力次第なんですから、その辺はあまりストイックになったり(Manicsのように)、諧謔的になったり(Manowarのように)せず、バランスよくいきたいもんですね。
あるいは、そのストイックさや諧謔をまたマーケティングとして確信犯的に利用するというのも手の一つではありますが。

2007年5月30日水曜日

ラテンアメリカにおける政治と文学:『フィクションと証言の間で』

フィクションと証言の間で―現代ラテンアメリカにおける政治・社会動乱と小説創作
寺尾隆吉、松籟社、2007

ラテンアメリカの政治情勢にからめたラテンアメリカ小説の発展史です。

かつてラテンアメリカ諸国の独立前後は、小説は詩と比べてあまり価値をおかれず数としてもあまり生み出されなかったそうです。ところが、19201930年代にメキシコで革命小説が大量に出版されるところからラテンアメリカ文学が興隆していきます。メキシコ革命小説では、革命の意義あるいは矛盾が、単に記録されるだけでなくフィクションを含めることでより作者の意図を込めるものとして書かれました。作者としてはプロの小説家というよりは従軍した知識人が主な担い手だったようです。

その後、ラテンアメリカでの先住民研究が文化人類学の分野で進んだこともあり、先住民の立場から見た植民化について小説として書かれるようになります。先住民の文化的コンテクストにもとづいた筋立てや現象をリアリスティックに描写する手法というのもこのころから始まりだします。ラテンアメリカ文学を一言で形容するときによく使われるいわゆる「魔術的リアリズム」の手法です。ただし、作者はあくまで白人側です。

やがて、ラテンアメリカの政治情勢を記録しようというよりも、ラテンアメリカの情勢を通じて、人間存在自体への問いかけという普遍的テーマを扱う文学が登場します。その代表格が、ノーベル賞作家でもあるガルシア=マルケスです。ガルシア=マルケスは、コロンビアの内戦状態の惨状を告発した一連の暴力小説群を批判する形で小説を発表しだします。ガルシア=マルケス自身、新聞記者でキューバの社会主義革命に共鳴しカストロ議長とも親交のある人ですが、ラテンアメリカ社会の惨状を政治的には批判しつつ、文学としては単純に告発するのではなく、もっと普遍的なテーマとして小説世界を描写します。

人が何かを書き表すのは、まずはその現象や事態を広く知らしめ、告発するためでしょう。そのとき、その文体はジャーナリスティックなものとなります。速報性と事実上の正確さが求められます。次に、その現象をより広く後世にも知らしめるために、そしてその現象がどうして起こったのかの真実を明らかにするために、歴史書が書かれます。歴史は、歴史としての客観性や歴史的意味が書かれることになります。ジャーナリスティックな文章にしろ歴史としての文章にしろ、フィクションを織り交ぜることで、より作者の意図を強調するような文章にすることが可能です。ただし、そのようなフィクションは、小説とはいうもののいわゆる純文学的な近代小説と呼べるようなものではないかもしれません。
純文学は、フィクションを交えつつ思索を深めて、より人間に関する普遍的なテーマを問い直すことになります。それに対して、歴史学は、あくまでも史実に基づき思索を深めて、社会現象や人間の営みの本質を描き出そうとします。より第三者の視点、神の視点に立つのが歴史学的文章で、個人の視点に降り立つのが文学とも言えるかもしれません。もっとも、文学がいくら一人称で語られようともあくまでも第三者の視点が維持されているのではありますが(そして、現代純文学小説にはそこの部分を批判的につくものが多いですが)。

最近、『ニッポンの小説 百年の孤独』(高橋源一郎)と、この本と、『歴史学の名著30』(山内昌之)を続けざまに読んで、ものを書くとはどういうことかということを、いろいろ考えさせられました。

2007年5月15日火曜日

オクシデンタリズムと十把一絡げにしても・・・:『反西洋思想』

反西洋思想』I・ブルマ、A・マルガリート、2004
  堀田江里訳、新潮新書、2006

戦前日本の「近代の超克」から特攻隊、ナチズム、ポルポト、マオイズム、イスラム原理主義、といったものを"反西洋思想"としてまとめて、西洋を敵視する勢力が見る西洋像を"オクシデンタリズム"として類型化し、その源流を西洋自体、西洋啓蒙主義自体に見ていくという試みです。
西洋啓蒙主義は、人間中心主義で文明化を押し進めつつ、他方で「自然へ帰れ」(ルソー)と言ってみたり、反文明的な側面も持つものでした。

で、この本でまとめられていることは、たしかにそのとおりだとは思うのですが、、、

この手のものを十把一絡げにしてなにか問題の解決に役立つのかというとあまり役には立たないのではないか、と。
なにより、実際を知らないお前がいうな(著者はアメリカ人)という反発を招くだけな気はします。

が、だれかがこういう仕事をしなくてはいけなくて、今後の参照基点(悪い見本かいい見本かは別として)としては役に立つものなのかもしれません。

2007年5月6日日曜日

行為には理念よりも現実が宿る:『雪』

雪』オルハン・パムク、2002
 和久井路子訳、藤原書店、2006

トルコ人作家の小説です。

=====(内容紹介)=====
十数年間ドイツへ政治亡命していた詩人Kaがトルコへ戻り、田舎町カルスで起きたイスラム原理主義派の少女たちの連続自殺と市長選挙に取材に行く。Kaにとっての裏の意図は、かつての政治運動のマドンナ的存在だったイペッキが離婚したと知り、彼女に会いにいくことでもあった。
雪の降りしきるカルスでは、政教分離派とイスラム原理主義がモザイク状に対立しており、カルスに通じる道が大雪のため遮断された夜、革命が起きる。Kaは、革命に巻き込まれつつ、なんとかイペッキとともにドイツへ逃亡しようとするが、、、
===================

先月には、こんなニュースも流れていました。

Asahi.com:トルコ軍部「懸念を持ち注視」 親イスラム大統領誕生に

近代トルコは、トルコ建国の父、ケマル・パシャ(アタチュルク)を中心に、政教分離を国是として成立しました。ケマル・アタチュルクは、トルコ語の表記としてそれまでのアラビア文字をやめアルファベット化するなど、かなり急進的な近代化を実現しています。明治時代には日本語もアルファベット化しようという動きもありましたが、それが実現していたことを考えるといかに急進的だったかがわかります。

トルコは、イスタンブールなど西部では、ギリシャやブルガリアに接し、EU加盟を目指すなど準ヨーロッパ国ですが、東部では、シリアやイラク、イランとも接するイスラム国家でもあります。
政教分離を国是としているとはいえ、とくに東部地域を中心に生活の中にイスラム教が根付いていることは容易に想像できます。

上のニュースでは、民主的選挙の結果としてイスラム原理主義に近い大統領が生まれようとしており、それに対してケマル・パシャ以来の政教分離の守護者としての軍部が遺憾を表明しているというものです。政教分離の立場からの大規模なデモもおこっているようです。ただし、EUは、民主的選挙の尊重から軍部の動きをたしなめています。複雑ですね。
ちなみに、トルコ軍が政教分離の守護者として振る舞うのは小説『雪』でも出てきます。日本では、軍=右=保守というイメージがあるので(ほんとは必ずしもそうでないところもあると思いますが)、最初少々戸惑うところでもあります。

政治上の錯綜もありますが、この小説では、東部の田舎町であるカルスのイスラム原理主義の若者が自身の世俗化に悩み、逆に政教分離派の人間がイスラム原理主義に惹かれていったりするなど、現代トルコ人個人の悩みが小説として満載されています。主人公のKa自身も、政教分離を支持する人間だったにもかかわらず、カルスに来て詩のインスピレーションが沸き出し、降りしきる雪を見て、アラーやイスラム教に親近感を持っていきます。

宗教の弱い日本では、政教分離に悩むことなどあまりないのかもしれませんが、いわゆる保守主義的傾向、自由の裏返しとしての(と捉えられがちの)風紀の乱れなどへの反発や、過去や伝統への感謝や尊重という美しく見える理念、といったものに同調する人は多いと思われ、とくに最近ではこうした保守化、右傾化が強くなってきているように見えます。
自由主義vs保守主義といったような構図は、終わったものではなく、何度もさまざまなパターンとレベルで現れてくるものだと思います。トルコでは、政教分離vsイスラム原理主義という形で現れているということになります。そういう意味で、日本人でもいろいろ考えさせられる小説です。

ちなみに、この小説の舞台であるカルスという町はここにあります。
http://maps.google.co.jp/?ie=UTF8&ll=40.610369,43.093228&spn=0.011777,0.021329&t=k&z=16&om=1
最近はこうして小説の舞台を見ることができ、便利ですねぇ。

ちなみに、著者のオルハン・パムクさんは、2006年にノーベル文学賞を受賞しました。

考えたことをいくつか。

■政治と文学
著者のオルハン・パムクさんは、この小説を、最初で最後の政治小説としているようです。たしかに、テーマとして政治的なものが扱われていますが、内容としてはむしろ、政治を巡る人間ドラマとして描かれており、そこがこの小説の奥行きにもなっていると思います。

小説内に、巡業小劇団が出てきます。その劇団がカルスという保守色の強い町で、女性のベールを取る(=反イスラム的、政教分離的)という象徴的行為を劇中に行います。と同時に、革命的行為の主体となります。
また、Kaのかつての詩作仲間が、いまやイスラム原理主義の側に裏返って市長選に立候補していたりします。

演劇や文学、詩が、政治と結びつくことは少なくありません。とくに植民地時代のアジア、独立後のラテンアメリカ、民主化後の東欧などでは、詩人が大統領(や運動の代表)になったりしているケースも多々見られるようです。
近代的な思想がまずは詩として自国語に導入され、理念として定着し、それが政治へと伝播していくということでしょうか。

他方で、日本の明治維新では、あまり文学者が政治家になるということは少なかったように思います。文筆家でもあった福沢諭吉も在野のままですし(政治家を輩出はしましたが)、中江兆民なんかも在野のままです。
その後、文筆家が民権運動などに関わることはあっても、実際の政治家として力を発揮するような例はほとんどないように思います。だれかいるでしょうか?最近だと、石原慎太郎や田中康夫ですかねぇ?


■理念と現実
この小説では、政教分離やイスラム原理主義といった理念と実際の現実のはざまで思い悩む人がたくさん出てきます。
イスラム原理主義こそ社会を規律正しくしみんなを幸福にさせると信じつつも、他方で異性に対する思いや自分が思いを寄せる人が自殺という反イスラム的行為をとったことについて悩んだり、政教分離的立場にいながらも、イスラム原理主義者を愛してしまったり、娘がイスラム原理主義となり、それでもなおいっしょに住んで生活することになったり。

小説内では、理念を純粋に守り続ける人は最終的に悲劇的結末になっている気がします。一概にはいえないかもしれませんが。あるいは、悲劇的結末を予感、覚悟しつつ行為に出る登場人物に対して、読者が純粋な理念をもっている人と感じるだけなのかもしれません。

他方で、小説内では、理念は理念として置いておいてより現実的に生きる人の方が圧倒的に多く描かれます。それがこの小説にリアリティを与えているようにも思います。
実際のところ、その人をいったん愛してしまえば、理念の違いは脇に置いておけるのかもしれません。あるいは、愛する人と別れることになっても、それは理念の違いというよりも実際の現実的生活のすれ違いが原因のことの方が圧倒的に多いのでしょう。

というように、この小説では、政教分離vsイスラム原理主義という理念上の対立があるのですが、登場人物の行動は、いっけん理念に基づくように見えるものでも、きわめて現実的判断、もっというならば、色恋や怨念などといったものが原因となっていることが大半です。
そのため主義主張が入り乱れているようにも見えます。
したがって、一見大きな理念に従って行動しているように見えても、その実はより個人的な思いが行動の原因となっています。でも、実際の人間の行動なんてそんなもんなのかもしれません。いくら大きいことを言っていても、実際にはちっぽけな日々の現実的な思いの積み重ねがその人の行為を作っていっているのでしょう。

登場人物のそれぞれが、きわめて理念的な人物であっても実際の行動は現実的な判断に基づいているということが、この小説の奥行きでありおもしろさでもあります。
純粋にストーリーとしてもおもしろいですし、トルコの現状を知るという意味でもおもしろかったです。

2007年5月3日木曜日

日本的近代社会とオウム事件:『さよなら、サイレント・ネイビー』

さよな ら、サイレント・ネイビー』伊東乾、集英社

地下鉄サリン事件実行犯の豊田亨と大学で同級生であった著者が、オウム事件とその後をノンフィクションとしてまとめたものです。
失礼ながら文章が稚拙というか、どこか文体として小恥ずかしいところもあるのですが(熱いからか?)、全体としては(構成としても)おもしろいですし、扱っているテーマは非常に深く、オウムの事件を古くて新しいわれわれの時代の普遍的問題として捉えようという意欲的な試みです。

豊田亨被告は、死刑を求刑されているものの黙して語らず、無期懲役となるための法廷戦略などをとることもなく、たんたんと裁判をこなしています。そんな態度からマスコミなどでは、反省の色なしなどと報道されたりもします。
しかしながら、著者によれば、彼が語った数少ない証言などからは深く反省していることは伝わるし、証言者として現れた麻原に対して「いいかげんにしろ」というようなことを理路整然と語り教祖を黙らせたりするなど、彼が事件と裁判を正しくとらえていることはわかります。とくに紹介されているエピソードの一つとして、接見のときに本来は接見者に話しかけてはいけない看守が著者に「豊田さんは人格者です。(死刑は)なんとかならないものでしょうか」と語らずにいられないかのように語ったそうで、このエピソードからも、豊田被告に身近に接することのできる人の印象と世間(マスコミ)の印象が大きく異なることがわかります。
豊田被告は、ある意味で日本男児なのであり、男は黙って潔く責任を取る(=死ぬ)ことをよしとしているようです。
著者は、そうではなく、今後こういうことを起こさないためにも、当事者として語るべきだと言います。"サイレント・ネイビー"ではだめだというわけです。そのとおりだと思います。

大学の教職の地位にある著者は、院生などと協力しながら、豊田被告といろいろやり取りしているようです。ただし、豊田被告との約束によりそれを公にすることはできません。なので、この本では、主にすでに公表されている資料や著者が実地で経験したことがらがベースとなっています。そうした豊田被告とのやり取りは、のちのちには日の目を見るときがくるのでしょうか。
ところで、死刑が確定すると、こうした接見もすべて禁止されてしまうそうです。そういう意味でも、死刑は問題を闇に葬るだけで著者が語るような真相の究明のマイナスにしかならないでしょう。

この本で自分が着目したテーマを3つほど。

■エリートの暴走
豊田被告は東大物理学科の中でもとくに優秀だったそうです。そんな優秀なエリートがどうしてオウムなんかに?というのが一般的な疑問だと思います。いろいろ事情が記述されていますが、第二次世界大戦との対比が興味深かったです。
第二次世界大戦もいわば東大エリートが導いた惨事です。当時は、今よりもずっと東大エリート主導の社会だったため、東大内に戦争反対の人たちが多数いたのも事実ですが、戦争へと導く思想的背景を準備したのも、それを実行に移すべく行動したのも、東大エリートたちだったと言えます。
そういうエリートたちも、個人個人を見ると人格者だったり、非常に優秀だったりするわけです。それでも、そういう人間が集まっても間違った方向に進んでいけるんだという悲劇的事実は認識すべきです。
したがって、なにごとにも、少々回りくどくても、めんどうでも、抑制する仕組みが存在することが重要です。これは、会社やプロジェクトでも言えることですね。優秀な人間がいけいけどんどんでいって必ずしも最善とはかぎらないことがあります。少々まわりくどくても、ステップを踏みながらの方が健全なのでしょう。

■マインドコントロール
麻原彰晃は、煩悩を捨てる一番効果的な方法はマインドコントロールに浸ることだと考えていた節があるそうです。まじめな信者たちが、とくに性的煩悩に苦しんでいるときに、それから解放する方法としてオウム真理教はマインドコントロールを提供したということのようです。
煩悩を頭ごなしに否定するのではなく、煩悩を煩悩として肯定できることが重要ですね。煩悩(=本質でないこと、無駄なこと)もまた、必要があって自分に現れているのであって、それも大事なことの一つです。本当だと思うことに一足飛びにとびつくことが必ずしもよいことではありません。
同じく、第二次世界大戦が例としてあげられて、あの当時は、日本国民全員がマインドコントロールされていたと述べられます。その意味でも、いつわれわれもマインドコントロールされるかわからないのです。だまされたやつが悪いとは言っていられません。

■裁判の矛盾
著者は、今回初めて裁判に密接に関わって、司法という仕組みに失望しているようです。というのも、法廷では、なんら真実が明らかにされようとはせず、ただ法律のお作法に則って物語を組み立て、事件を個人の責任に押し付けていくだけのものだからです。
著者によれば、オウム事件はもっと日本人の精神構造に普遍的な根深い問題のはずです。その構造やら根本やらを明らかにしていかないと、またいつ同じような事件が起こるとも限りません。そのためにも、脳生理学など最新の科学の成果も取り入れつつ、いったいあの事件で何がおこっていたのかをつまびらかにすべきで、司法の場はそれにふさわしいはずでした。
が、実際の法廷で行われていることは、マスコミに影響されたもしくはマスコミと結託した検察が事件を個人の怨念など単純で表面的な原因に無理矢理結びつけ、物語を作り出しては結審していくというお芝居です。著者はそこに深く失望しているようです。なので、豊田被告の死刑が確定して接見できなくなる前に、なんとしてでも当事者の語る事件の真実を導きだしたいと考えているようです。
著者のいらだちの原因は2つのレベルがあると思います。

(1)日本の司法制度の問題点
日本では立件した刑事裁判はほぼ確実に有罪になるという実績があります(逆に有罪にできないような証拠不十分案件は立件されないということです)。そのためには、オウム裁判においても、麻原彰晃の主任弁護人だった人(安田弁護士)を別件で逮捕して弁護団から外してでも裁判を進めようとします。あまり報道されませんがやってることはめちゃくちゃです。「あんな極悪人はさっさと死刑にしてしまえ」というような極端な意見を地でいっているのだからおそろしいものです。信じられないですが。
そんな調子ですから、司法の場で真実を明らかにしようというよりも、早く結審して検察としての実績をあげようというモチベーションの方が高いといえます。

(2)近代的司法の本質
(1)は明らかに問題として、それでも乗り越えられない近代司法の本質とでもいえる問題もあると思います。それは、近代社会においては、社会を安定的に運営するために、個人と自由意志と責任を堅密に結びつけているということがあります。
司法の場においては、社会(=その他一般人)は悪くはないというのが大前提となっています。社会自体の罪を裁ける司法機関はありません。したがって、司法の場においては、特定の個人や機関が責任を取りうる単位として措定され、その人の行為に罪があるのかないのかを判断していくことになります。
という大前提をふまえると、オウム事件がいくら日本社会の悪い部分の縮図だとしても、司法の場でそれを明らかにすることはおそらくできません。司法の場では、言い方が悪いですが、誰かが非をかぶって責任をとることになり、その人に非があることを証明するための物語が作られることになります。これは近代司法の仕組みの宿命と言えるでしょう。

それにしても、と著者と同じく言いたくなります。

第二次世界大戦でも、戦後の東京裁判でA級戦犯は死刑になるか、そうではない場合はその後なぜか公人として復帰しています。また、東京裁判にかけられなかった重要人は、戦後ひっそりと過ごしてきています。つまり、どうして第二次世界大戦がおこってしまったのかを当事者の立場から語れる人がいなくなってしまったのが問題です。責任は個人に押し付けられ、そういう人たちは、死刑にされるか、公人として活動するために過去の非を語れなくなってしまったか、となったのです。
オウム事件でもその繰り返しとなるのでしょうか。
著者は、アメリカの9.11事件でその首謀者の一人が極刑ではなく終身刑になったことを引き合いに出しています。それにより、9.11事件ではいつか当事者により真実が語られる可能性が残されていることになります。
日本でもオウム事件を闇に葬るようなことはしてはいけないでしょう。

オウムによる地下鉄サリン事件は、日本ではテロとして扱われず、「外国はテロがあって怖いなぁ(日本はないから安心)」とのんきに語る日本人も多いですが、海外では、Subway Attackとして、化学兵器が使われたテロとして捉えられています。
日本人が、こうしたテロ行為を反省的に捉え直し、真実を明らかにし、再発防止にどういかしていけるのか、海外からの見本となるような対応をどうとれるのかが、今まさに賭けられているのだと思います。この本はそれに一石を投じるものとなるでしょう。なってほしいものです。

2007年4月17日火曜日

物語としての歴史:『明治維新を考える』

明治維新を考える』三谷博、有志社

を読みました。

明治維新は、支配階級である武士階級自体が維新を実行し、しかもその維新によって消滅するという「階級の自殺」が起こった特異な革命である、というのが著者の主要テーマのようです。

その解明のために、"複雑系"などを持ち出すのですが、その説明がこなれていないです。

歴史を"複雑系"で語るというのでどんなもんかと読んでみたのですが、それは本書中のごく一部だけであり、しかも非常に中途半端なもので残念でした。

歴史は、多かれ少なかれ"物語"なので、ヘーゲル-マルクス主義的に階級闘争として捉えようが、アナール学派のように構造として捉えようが、最終的には物語らないといけない、物語ってなんぼだと思います。

たとえ分析手法として複雑系が使えたとしても、けっきょくは物語になるので、その中で複雑系分析の意味がどこまで活かせるのかは疑問です。

アナール学派にしても、物語の語り手として優れていたために、構造的な分析がいきてきたように思います。

複雑系分析をいかした物語り方というものを開発していかないとうまくいかないのでしょう。


このあと、トルコの小説(オルハン・パムクの『雪』)を読んだのですが、トルコも、アタチュルクという近代トルコ建国の父のもと、急進的な近代化を推し進めたのであり、文字をアラビア文字からアルファベットに変更したり、政教分離を強制したりと、日本の明治維新以上ともいえる改革を実行したのでした。

ということを考えてみても、日本の明治維新が世界の中で特別に特異なわけではなく、それぞれの近代化に特異性があるんだということがよくわかります。

それらを普遍的に物語れるのかはわかりませんが、東アジアについても、ブローデルの地中海のような物語が現れるといいですね。

2007年3月4日日曜日

国際的であるために:『右であれ左であれ、わが祖国日本』

右であれ左であれ、わが祖国日本』 船曳建夫、PHP新書

を読みました。

右翼か左翼か、保守か革新か、といったあまりにも手垢のついた概念ではなく、もっと別の概念で日本の立場を語ろうという試みです。
船曳さんは、戦国時代からのタイムスケールで、次の3つの概念で日本の立場を表現します。

* 国際日本
* 大日本
* 小日本

「国際日本」は、世界の視野で、複数の国家間での関係を重視する立場、「大日本」は、近隣諸国との関係や近隣への勢力拡大を重視する立場、「小日本」は、国内の充実を重視する立場です。それぞれ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に対応するものとされていますが、けっきょく戦国時代から今まで、それぞれの立場のどれが強いかによってその時代日本の対外的立場が決まってきているとします。

また、日本に関係する主体を次の3つとしてまとめます。

* 中国
* ロシア(ソ連)
* 西洋(ヨーロッパ→アメリカ)

これらの主体との関係で日本の立場と歴史を分析していきます。

以下、この本を読んでの自分の感想です(内容の要約ではありません)。

戦後の日本が、国際日本のふりをして、実は国際連合一本槍で国際日本たろうとしたというのは重要な指摘です。他の地域では、NATOとかワルシャワ条約機構、ASEANなど、その地域の複数のステークホルダー間での調整を行う機構を設けています。ところが、日本は、国連と日米安全保障条約のみで戦後を送ってきました。安保というアメリカとの二国間条約は、国際的というよりも、太平洋を挟んだ隣国との条約にすぎません。それはまた、一種の大日本的立場だと言えます。

ということもあり、日本は国際的であることについて国連1つに命運をかけ、お金をつぎ込み、常任理事国入りしようとして失敗しました。常任理事国入りは常識で考えたら無理でしょう。5ヶ国でさえ自由が利かずにアメリカ等の国連離れが進んでいるというのに、これ以上常任理事国が増えるはずがありません。
国連は、理念としてはすばらしく、またこういう機関の必要性は高いといえますが、これだけで国際問題を解決できるかというとそういうものでもないと思います。

ヨーロッパは、何百年来の戦争と、2つの世界大戦を経て、それでもなお、経済や鉄鋼の貿易調整をする機関からEU共同体を作ってきました。同時に軍事的にもNATOを組織しています。
アメリカ大陸やアフリカ、東南アジア、太平洋地域でも調整機構が設けられてきています。
ところが、東アジア、極東地域には、そういう機構が存在せず、戦争の遺恨だけが残っています。

今回の北朝鮮問題に関する六カ国協議が、戦後初の東アジアでの調整会議かもしれないと本書では指摘されています。そこからどのような東アジアでの国際関係が発展していくのか、その中で日本がどのように立ち振る舞えるのかは重要だといえます。今のところ、中国、ロシア、アメリカの影に隠れて、「拉致問題」と叫んでいるだけで国際間"交渉"しているのかどうか怪しいところですが。

この本は、新しく提示された概念に多少振り回されている気もしないでもないですが、興味深いタイムスケールと概念枠組みで日本のパワーポリティクスを論じたものとなっていておもしろいです。

意地悪な見方をすると、もっとおもしろいのは、現実的なパワーポリティクスで論じてきて、読者からすると、日本がもっと東アジアとの関係を重視して、日米安保(憲法九条の裏返しとしての)だけでない国際関係をつくっていくべきだという結論になりそうだと思ったところで、憲法改正反対という具体論に入っていくところです。あれ?そうなの?となってしまいます。

船曳さんがあえて避けた今までの左右の議論でいくと、健全な保守主義的パワーポリティクス議論がなされてきて、最後の具体論のところでくるっと左よりの憲法反対に落ち着くところがおもしろいなぁと思いました。
船曳さんの議論を読み取ると、憲法改正絶対反対ではなく、時期尚早という風には読み取れますが。

船曳さんは、元々文化人類学者で、東大教養学部の教授です。最近、日本についての著作が増えてきています。
この本でも、大学の授業で日中戦争の可能性などを話し出すと学生の態度が変わるという逸話が紹介されています。学生にその理由を聞くと「みんな日本が悪いという左翼的な議論にはうんざりしているからじゃないか」と言われたそうです。つまり、第二次世界大戦は日本が悪かった、戦争反対、軍隊不要、という学校で習ってきた議論は、今の時代では単なるオウム返しのようになってしまっていて、真の議論になりえなくなってしまっているのではないか?と考えこのような本を書かれたんだと思います。もっともな反応だと思います。
今の時代に戦争反対と言うためには、もう一度そういうためのロジックを深め積み重ねていく必要があるでしょう。今までの繰り返しではもう通用しないのです。戦争反対を当たり前とせず、もう一度戦争反対の考えを深化していく必要があります。

2007年2月20日火曜日

脳と身体のバランス:情報化社会の病の仮説

『ウェブ人間論』の書評を養老孟司さんが書いています。

「ウェブを面白がる年寄りが面白がった二人の対談」
http://www.shinchosha.co.jp/wadainohon/610193/review02.html

最後の意地悪だというパラグラフが重要だと思います。

最後に年寄りの意地悪を一言。世界は二つに分かれる。「脳が作った世界(=脳化社会)」と、「脳を作った世界(自然、といってもいい)」である。私は「脳を作った世界」にしか、本当は関心がない。本書でいわれる「リアル社会」を、私はかねがね「脳化社会」と呼んできた。ネットの社会は、私から見れば、「リアル社会」がより純化したものである。「ネットに載る以前の存在」を「どうネットに載せるのか」、それだけが私の関心事だったし、いまでもそうである。ネットに載ったらそれは情報で、私の真の関心は情報化そのものにある。なぜなら私は年寄りで、情報化社会以前に発生した人間だからである。山中に閑居した李白は詠む。別に天地あり、人間にあらず。この人間はジンカン、つまり世間のことである。

Webの世界も含めた人間の社会は「脳化社会」なのですが、人間は当然脳だけでなく自然界にも両方に属しています。

Webの世界が拡大しつつある今、脳化社会(=Webの世界を含む人間の社会)の部分がどんどん拡大していっています。このことは、身体や(原始的)心が自然界に属する人間のバランスからすると、非常にアンバランスになっていっていることを意味します。

実は、こうしたアンバランスさが症状となって表に表れてきているのが現代的な諸問題だったりしないでしょうか?

ニート、引きこもり、心の病、いじめ、凶悪犯罪、これらの諸問題は昔からある古くて新しい問題ですが、現代的な特徴として、自然界に対する脳化社会、とくに情報社会の拡大がその原因となってきたりはしていないでしょうか。

昔は、貧乏や差別、制度によるプレッシャーが、それら諸問題の原因だったとも言えると思います。社会が経済的秩序付け、生まれによる区別、個にのしかかる制度から構成されていたので、そこから外れた人が社会に対する挑戦=メッセージとしてそれらの諸問題を引き起こしていました。

現代においては、情報の偏りや情報力による格差、情報によるプレッシャーなどがそれら諸問題の原因となっていないでしょうか。
それらはけっして情報処理能力が欠けていたり足りなかったりするためにおこるのではなく、むしろ情報処理能力が高すぎて起こることもありえます。その分非常に原因がわかりづらいものとなっていますが、情報力のバランスの欠如、情報のフィルター能力の劣化等々、誰にでも起こりうることがその原因になっているとも考えられます。
圧倒的な情報量を前に、自分の身体や心に逆らってなんとか情報を処理しようとするので、バランスを崩し社会から引っ込んだり、非常に偏った考えになってしまったり、情報と身体や心のバランスを欠いてしまって、それが社会への挑戦=メッセージとして現れるのかもしれません。
あくまでも私の感想にすぎませんが。

相対的に小さくなってしまった自然を支点にして、その上でうまくバランスを取っていかないとあっという間に人間としてのバランスを崩してしまいそうです。

もちろん、自然に帰れ、とか、自然との合一を考える神秘主義的なものを重視せよというわけではありません。逆に、これらの"あやしい"思想や宗教にはまってしまわないためにも、自然界についてもなんらかの意識を持っておくことは重要だと思います。

人間論で人間について考えるのであれば、この自然界の部分についても考えないと片手落ちになるというのが、養老孟司さんの指摘ですね。

2007年2月17日土曜日

『「近代日本文学」の誕生―百年前の文壇を読む』

「近代日本文学」の誕生―百年前の文壇を読む』 坪内祐三、PHP研究所
を読みました。
明治32年(1899)から39年(1906)までの文壇の動きを毎月の出来事として描いたもので、当時の文学の動きがよくわかりおもしろかったです。

前世紀末から日露戦争勝利後の時期です。
この頃は、詩や小説を含む文芸誌がそれなりの社会的影響力を持った時期でもあります。
発行部数は今の売れ筋雑誌と比べればはるかに少ないですが、あるいはそれがゆえに社会的影響力は大きかったと言えるでしょう。つまりは、一億総中流な社会で多様な趣味嗜好をもつ集団の集まりというよりも、ある程度共通の土台を持つ全体からすると数の限られた人たちが社会的影響力を持ち、そういう人に文芸誌が読まれていた、ということなのかもしれません。

薩長中心のある種の貴族政治(特権集団による政治)による近代化と富国強兵策が実を結び日露戦争勝利で近代列強の仲間入りをしていく時代と、それ以降の国民の形成と大衆化による民主主義政治の成立と軍国主義化が並行的に進行する時代の狭間に、文学がどのように変容していき、文壇=知識人がどのようにペンを武器に発言していたのかの記録とも言えます。

文芸誌(ペン)が力を持ったような時代の中でも、「昨今の文壇のたるみ具合はなっとらん」という批判があったり、当時は当時なりに苦悩していた有様がよくわかります。

この時代は、日本の浪漫主義文学の美麗体が古臭くなり、自然主義文学が勃興してきた時期でもあり、夏目漱石が『吾輩は猫である』の連載を始めた時期でもあります。その意味で、文学史的にも重要な時代です。

2007年2月2日金曜日

インターネットでの情報の集約実現のための真っ白でありえないプラン

【このエントリの言い訳】
前エントリで、インターネットが社会へ影響を与えるためには、情報の集約方法が、そして、(3)から(2)へ、(2)から(1)への回路をどう開くかが重要である、と書きました。同時に、自分にはそのアイディアが無いとも書きました。

斬新かつ革命的なアイディアはもちろんありません。が、稚拙ながら私なりの考えはないことはないです。恥ずかしながら、ここではそれについて書いてみたいと思います。
もちろん、正しいわけでも実現しそうなわけでもありません。むしろ、ありえないとも言えます。が、まずは自分なりのあるべき論として書いてみます。
「ありえね~」というご批判もどうぞ。


【投票による情報の集約】
インターネットやブログでの情報の集約の最善の方法の1つは投票だと考えています。多数からの投票により、重要だと思われる情報が見えやすい位置にくるというものです。diggなどのサイトですでに実現されているものでもあります。
もっとも民主主義的であり、長期的に見ればもっとも公平な手法です。株式市場における株価が長期的には企業価値を表しているのは、株の売買という一種の民主主義的投票のおかげだと考えています。

ただし、民主主義的投票は、短期的にはときには暴走します。ファシズム政権を選んでしまったりします。株式市場も短期的にはバブルを引き起こしたりします。
いわゆる集団極性化と呼ばれる現象です。

こうした短期的な集団極性化を避けるためには、投票主体の多様性や独立性が重要となります。

また、今回は取り上げませんが、長期的には公平を実現できるというものなので、とくにニュースなど速報性が重要なものについてどこまでうまくいくかは難しいところもあるとは思っています。


【投票の前提としてのアイデンティティ】

投票主体の多様性や独立性を実現するためには、投票主体がアイデンティティをもつ必要があります。アイデンティティのない主体は、あるときはこちらの意見、別のときはあちらの意見と、意見が定まらずにいるような存在です。それは一見多様性を実現していますが、周りの意見に流されだすと一気に同じ方向を向いてしまう非常に危うい多様性です。独立した多様性を実現するためには、主体一人一人がアイデンティティを持ち、自分の意見に一貫性を持ち、社会に対する責任を持つ必要があります。

こうした主体をインターネット上で実現するためには、インターネット上でのアイデンティティを実現しなければなりません。
一番手っ取り早くよい方法は、インターネット上でも実名で活動することです。われわれは名前を持つことで自分のアイデンティティを一貫して保っています。社会的責任も負っています。

実名ではないにしても、固定ハンドルネームで活動することによって、ある程度のアイデンティティは確立できるとは思います。


【インターネットでの情報の集約の実現方法(夢物語)】
そこで、たとえば、pubドメインのような実名または固定ハンドルネームで活動できるドメインを作り、そのドメインではアクセス時に必ずVeriSein (ベリザイン:Seinはドイツ語で「存在」。ここではただのシャレでつけた仮名サービスです)で認証されて個人が特定されるようにするのはどうでしょうか。そして、pubドメイン内に、pubドメインのYahoo!やブログを作ります。pubドメインのYahoo!にアクセスすると自動的に認証されて実名もしくは固定ハンドルネームでサービスを利用することになります。

VeriSeinでは、実名の公表度合いを設定することができ、pubドメイン内のあるサイトでは実名は隠し、別のサイトでは実名を出すなどもできたり、自分が認めた人にはハンドルネームと実名の紐付けを公開することができます。が、実名を明かさないときも、少なくともVeriSeinによってハンドルネームと個人の紐付けが担保されています。

またpubドメイン内で詐欺行為やルール違反を犯すと、現実の個人が罰せられます。

こうしたpubドメイン内では、オークションもe-Commerceもオンライン・バンキングも安心して利用できます(少なくとも現実世界と同程度にという意味ですが)。diggのようなニュース投票も詐欺的行為無くある程度信用できます。相変わらずブログでは自分の好きなことが書けますが、故意に炎上するようなコメントが書かれることも少なく、無関係なサイトからのトラックバックなども発生しません。
友人や同僚とディスカッションしたいときには、認証サイトで実名でディスカッションし、非認証の自分のブログに書き込んだ人が誰か確認したいときにはVeriSeinにアクセスし、自分に公開されていればその人が誰かを知ることもできます。

こういうpubドメインが実現すれば、自由かつ責任を持ったインターネット上のバーチャル社会が形成でき、個人の意見が信頼性を持って社会とリンクしていくのではないでしょうか?

問題は、pubドメインやVeriSeinを誰が運用するのかということですが、これはpubドメインに複数の民間業者が参入できるようにして、人々が自由にpubドメインを変更できるようにするしかないでしょうね。

こういう案はどうでしょう?
多くのインターネット・ユーザにとって、デメリットよりもメリットのほうが多いと思うのですが。
2ちゃんねるのようなところで井戸端会議したいのであれば、pubドメインから出ればもう今までのインターネットと同じです。
pubドメイン内では、安心して各種サービスを利用できますし、個人が発信した情報が信頼しうる投票によって社会的力を得ていくこともできます。

とくに初期からのインターネット・ユーザほど、身元を明かしてインターネットにアクセスすることに抵抗を感じるようですが、ここは今までの慣習に囚われず、ゼロベースで考えてみてください。身元を(少なくとも第三者に)明かしてインターネットにアクセスした方が実はよくないですか?


【夢物語は夢の物語にすぎないけれど】
でも、そういうのは(おそらく)ありえない。

なぜなら、SSQ氏が常日頃言うように、人間は個人としても集団としても社会としても表と裏を持っており、その中間グレーゾーンも持っているからです。表裏はそんなにはっきり区別できるものではありません。

インターネットはエロで普及したといわれています。マスコミもまた、エログロナンセンスを好み、趣味の悪いワイドショーを垂れ流します。一般大多数がそれを楽しんでいるというのも事実です。テロップだらけで騒がしいだけの番組を楽しみ、コメンテーターの情緒的発言に憤怒するのもまた一般大多数です。

過去の歴史を見ても、綺麗な夢物語、言ってみればユートピアはけっして実現されずに来ています。たとえば、武者小路実篤の「新しき村」。理想的な農村生活ですが、けっきょく一部の人しか賛同しませんでした。武者小路実篤自身も数年間しか村に住んでませんし、晩年はぶっとんだ作品を書いたりもしていて、いろんな側面のある人物です。やっぱり、アイデンティティをもつ人間であっても、一色に塗りつぶすことはできないのです。白から黒までカラフルなグラデーションを描いているというのが真実でしょう。

そういう人間を表象するのにデジタルは弱いと思います。
アナログの場合は、境目が曖昧なので、必然的にグレーな部分を含みますが、デジタルの世界では個人を特定しようとすればはっきりできてします。変装などもできません。逆に匿名にすれば徹底的に匿名になってしまう。指紋なども残りません。
こういうデジタルなインターネットの世界でどうグレーゾーンを含むようなよりよいあり方を実現していくか、というのは非常に難しい問題です。

他方で、ありえないと投げやり開き直ってしまってはどうにもなりません。われわれ一般ピープルは俗な人間なのだから俗な世界に生きていればいいんだというような諦念は起こりがちですが、それには個人的には賛同できません。
先ほども書いたように、人間は白から黒まであるのです。つまり、"白い"部分もあるのです。白い部分だけではうまくいかないのはそのとおりですが、だからといって黒い方だけでいいというわけではありません。

遅々とした歩みながらなんとか問題を解決し少しずつ前進してきているのも人間の歴史です。自然科学のようにスパッと道が切り開けるわけではありませんが、白と黒の狭間でもがきつつも、(よくない)現状を変えていくことが重要だと思っています。
そのためにも、恥ずかしながら、真っ白な考えを書いてみました。突っ込みどころ満載だと思いますが。

2007年1月31日水曜日

Somethingとなりうる情報の流れ

前々回のエントリのコメントで考えていたことを図示するとこのようになるでしょうか。
この絵でもすべてを言い切れていませんが。
(画像をクリックすると拡大したものが見れます)

『Web進化論』で言う「(≒無限大)×(≒無)=Something」となりうるためには、ただ単に情報を垂れ流すだけでなく、情報の流れ方、集約のされ方が重要なのではないか?と考えています。
まずは、その問題点の指摘のエントリです。


・インターネット以前の情報の流れ

極論すると、今までは、マスメディアにしか社会への影響力はありませんでしたし、人々にとっての情報収集源の主なものもマスメディアでした。
ただし、人々は選挙によって社会に影響を与えることができました。
また、マスメディアに対しても投稿やアンケートなど限られて入るものの意見を吸い上げるパスはありました。



・初期インターネット時代の理想

そこにインターネットが登場してきて、すべての人の有象無象の意見が発信され、その中のいくつかが社会に影響を与え、極端な場合マスメディアはもはや不要になる、という夢のような物語が語られるようになりました。




・インターネット時代の情報の流れの現実

ところが、インターネットが普及した現在でも、実際には、

(1)マスメディアは依然として社会に大きな影響力があり、人々の主な情報源のままです。ブログ等で話題になるのもマスメディアによって報道されたニュースが中心だったりします。

(2)ごく一部のブロガー達は、自身のブログで意見を発信し、マスメディアや社会に影響を与えています。私の個人的な観察では、ここに所属するのは、元マスコミにいたフリーのジャーナリストの人々や学者(の卵含む)が個人名で発信しているものがメインです。あとは、フリーウェアなどを公開している方々でしょうか。ここの予備軍となるようなブログは数多くあるもののなかなか吸い上げ影響力を持たせるようになるようなパス/回路が少ないのが現状です。

(3)言い方は悪いですが、不特定多数の意見は、自己撞着的かつ情緒的に閉じたコミュニティ内で垂れ流されています。
かつ、ここに所属する人々がもし選挙に行かないとすると(ここは私の勝手な想像です)、これらの人々の意見は選挙を通しての社会への影響もまったくないことになります。



もともとインターネットの力として夢みられていたのは、(2)のような形態なのだと思いますが、実際に(2)と(3)の格差/壁は想像以上にあるのではないでしょうか?

別に(3)で井戸端会議をインターネットでしようがいいじゃないか、というのはそのとおりです。このブログ自体がそうですし。インターネットのおかげで会ったこともない人とも井戸端会議ができるようになったのは、それはそれでよいことでしょう。

それを踏まえたうえで自分がまずは言いたいのは次の3つ。
少々過激かつ扇動的な言い方で書くと。

■幻想を捨てよ、現実へ出よ
有象無象の情報の錯綜こそが力を持つという初期民主主義の幻想は捨てよう。インターネットがそういう力を持ちうる初期段階は脱したのではないか?そんな夢に甘んじている間にも、旧来のマスメディア勢力が着実に地盤を築いていっており、そうなるとインターネットの本当の力が骨抜きにされる可能性もある、ということです。そうなると、けっきょくインターネットは"サブ"カルチャーであり、"アングラ"である、ということになりかねません。

■開き直ってとどまらず、回路を開こう
(3)から(2)への回路を開くことが重要です。そして、(2)の力の増強のために(2)から(1)への回路を太くしていくことも重要です。
(3)は(3)で存在価値はありますしよいのですが、少なくとも(3)にとどまることが情報を発信しているのではない、という認識が必要なのではないでしょうか。
つまり、多くの人が、(2)と(3)の壁を乗り越え両方にまたがった活動をするということこそ、初期インターネットの理想に近いのだと思います。
(3)にとどまることで開き直ることも可能ですが、そのままなにもせずにSomethingの情報となることはよっぽど幸運な場合だけじゃないでしょうか。

もちろん、必ずしも(2)に活動領域を広げなくとも会社などの実社会や選挙で社会に関係していくこともできるので、私も含めて(3)にとどまっている人がぜったいに(2)に出て行く必要は無いとは思います。ただし、インターネットの世界の中だけで考えるとそれは必ずしもインターネットの力の増大には手伝っていないかもしれません。

いずれにせよ、どうやって回路を開き太くしていくのか、というところがポイントですが、すみません、このエントリではそこまで触れられません。(私自身答えもありませんし)

■情報を保護しつつ共有できる社会へ
実は(3)の人が一番情報の所有権に反発しているのかもしれません。が、何も発信しないのにタダで情報を得ようというのはムシがよすぎると言われてもしょうがないかもしれません。事実上、公共物のフリーライダーです。
他方で、マスメディアや情報の卸となっているところが、情報の所有権をたてに情報を独占し、情報の自由な流通を妨げている、というのも事実です。

情報を自由に共有するためには、まずは情報を保護し(少なくとも作品と創作者のクレジットが紐づくようにし)、その上で対価を得る仕組み(対価を得ない仕組みも含めて)を作っていく必要があります。
それについては、これまでも著作権がらみで私の意見は述べてきていますし、今後考えていきたいテーマでもあります。ので、このエントリではこのくらいで。


少々扇動的だったかもしれませんが、インターネット時代に夢描ける状態と現実にかなりの乖離があり、実はその乖離を固定化しようとしているのがインターネットの夢を見続けている初期インターネット・ユーザ達で、そうこうしている間にも、インターネットの夢は押しつぶされていくのではないか、という危機感からのエントリのつもりです。

「イノベーションのジレンマ」*1と呼ばれるものにインターネットが囚われないことを祈りつつ。

-
*1 イノベーションを起こした当初の成功戦略や体験に居座り続けることで、イノベーションの普及期に後続に追い抜かれたりシェアを落としてしまったりすること。しかも居座り続けることが正しい戦略であるというのがジレンマとなっています。

サービス名投稿投票投票数社会性下ねたカテゴリ分類見た目
はてなブックマーク一般一般不明(多いものは数百票レベル)ほとんどないなしよくない
OhMyNews限定一般不明(期間不明ながら数千票も)高いほとんどなしあり普通
newsing一般一般半月で1位:2805票、50位:887票、100位:647票少ないありよい
reddit一般一般不明(数票程度)高い(IT系)ほとんどなしなし普通
BlogMemes閉鎖?
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Choix一般一般1ヶ月間で1位:635票、50位:199票、100位:140票低い多いあり普通
iVote一般一般1ヶ月間で1位:561票、50位:363票、100位:306票ほとんどないなし普通
CoRich一般一般不明ほとんどないあり普通
PixNews一般一般1位:206票、44位:54票低いなし(タグあり)普通
THE BLOG HERALD限定なしなしないなし普通
@niftyトピックイット一般一般不明(多くて百数十票?)ほとんどなしあり普通
gooソーシャルニュース限定一般不明ほとんどないなしよくない
Yahoo!みんなのトピック一般一般半月で1位290票、50位97票、100位74票あり普通
Over-Ch一般一般10以下?低い多いあり普通
Saaf一般一般不明(数票?)低いなし(タグあり)普通
yuying一般一般不明(数十票程度)低いありよくない
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