2008年5月8日木曜日

正解のない問いに知の集約と他者をどう考えるか

ITProに梅田望夫さんとまつもとゆきひろさんの対談が出ていました。

ITPro:梅田望夫×まつもとゆきひろ対談 第2弾「ネットのエネルギーと個の幸福」

そこで、しばしばネガティブの方へ傾く"炎上"をもっとポジティブなパワーに向けられないかという話がありました。
そこで炎上を起こさない秘訣として梅田さんが次のように述べています。

これはやらない方がいい,ということをわきまえていれば炎上は起きない。そういった情報をもっとみんなで共有するといいんじゃないか。例えば政治について語る,イデオロギー,宗教について語る,アイドルをけなす,つまり誰かが信奉している人を批判するとか。そういうことをしちゃいけいないというわけじゃなく,そういうことをする自由はあるんだけど,やるのなら覚悟したほうがいい。覚悟して戦う強さを自分が持っていると思えば,書けばいい。そうではなく自分が傷つきたくない,批判されたくないという人は,今言ったようないくつかのテーマを避けて,自分の好きなことや専門性,読んだ本の感想やごく普通の日記を書けば,僕は炎上というのはほとんどないと感じています。

ネガティブな炎上を起こしたくなければ、人がこうだと信じていることについては意見を述べない方がよいという処方術です。

当たり前と言えばそうなのですが、このことをもう少し深堀してみたいと思います。つまり、どうして専門的なことや些末なことでは起こらないのに、政治的な内容では炎上してしまうのか。

これで思い出したのが、糸井重里さんも同様のことを言っていたということです。「ネット社会(仮想社会)での調整の難しさ」で紹介した引用をそのまま再掲載すると、ほぼ日サイトでコメントを設けない理由について、

 このネット直接民主主義では、例えば「商品」の良い、悪いという話に関してはみんな割と健康にできるんです。

 商品への投票権はお金です。嫌だという人は買わないだけで、ほかの人が買うことまで邪魔するというところにはいかない。

 ところが、ご意見ものは違う。Aの意見が通ったら、Bの意見が通らないだけじゃなくて、Bは追放されるかもしれない。

ということを述べられています。

これは、実は、少し前のエントリで述べた他者と自己同一性の話がその根本の原因にあると考えています(「"仕事"と"他者"」)。

簡単に言うと、世の中の大半のものごとは、無限の他者との関係性の中で成り立っており、ある地域的時代的共同体的仮定をおいて他者を限定しないと自己同一性が維持できないような正解のない問題を成しているということです。つねに自己同一的である正解があるような問題は実は少数派です。

ところが、そうした正解のない問題に対しても、正解があるかのように、もしくは正解を期待して接するがゆえに、正しいか間違っているかという二律背反に追い込まれ、自己同一的だと信じている主体(自分)までもまっぷたつの間で揺さぶられてしまってネガティブな感情が生まれるのだと思います。

そうではなくて、その問題について自己同一的であるためには、どういう他者を想定すればどのような正解が導けるかという分析を行うことが重要に思います。

先のエントリでも述べましたが、主体的であったり客観的であるためには、自己同一性が重要です。主体は、過去も未来も一貫した意見と行動を伴うことで(=自己同一性)主体的たりえます。客観性も、いつどこでも不変であること(=自己同一性)が客観的であることと言えます。

ところが、他者というものは、つねに自己同一性を揺るがしてきます。自分とは意見も行動もまったく異なる他者を受け入れようとするとき(=寛容の問題系)、過去の自分の意見を修正したりそれまで正しいと考えてきたことを訂正したりする必要が出てくる可能性があります。そのとき、自己同一性は担保されないものとなります。実際いろんなレベルで他者の影響は受けます。

逆に、自分の意見や考えを修正せずに他者を受け入れたかのように見えることがあれば、それは実際には他者に自分の考えやイメージを押し付けているだけであって、独りよがりな優しさ(真の寛容ではない)である可能性があります。

専門的なことや些末なことは、関係する他者を絞り込めます。したがって、狭い範囲の他者は受け入れやすく、共通の目的を共有しやすいため、自己同一性を維持でき、その範囲での正解を導きだしやすいです。

ところが、政治的なことや社会的なことは、関係する他者が幅広いため、自己同一性は大いに揺さぶられます。そんなところに自己同一的な正解を求めても、独りよがりな解となるか、自分の自己同一的であってほしい主体までもまっぷたつに切り倒されるだけに思います。

そうではなくて、他者を受け入れつつ、今この時代のこの地域において、自分の信ずるところと他者との境界線を探っていくことが重要でしょう。それはけっして正解を得られることのない模索となりますが、民主主義の最良のところは、何度でもやり直しができるということです。やり直していく中で、自分の考えと時代や地域の他者がもっとも接近する機会が現れる可能性があるということもまた確かなことなのです。

ネットのエネルギーとは、こうした民主主義的機会が生じるところにあると思います。そのためにどういう制度的設計が必要なのかが考えるべきことです。
梅田さんもまつもとさんを通して探求しようとされているように、どういう知の集約のあり方が民主主義的機会にもとづくパワーを生むのかというのが重要なテーマに思います。

ただ、梅田さんが言うように、小さい範囲に絞り込むことだけがそのあり方なのかは疑問もありますが。

自分としては、

* やり直しのきく(フィードバックのある)意見評価
* 小さい範囲への絞り込み(ただし、他者の排除につながる)
* 上の2つのいずれの場合でも、漏れた他者の救済処置

を考えることが、知の集約にとって重要に考えています。

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