2007年1月21日日曜日

保守と革新、強者と弱者のダイナミクス:『日本の200年』

日本の200年〈上・下〉―徳川時代から現代まで
アンドルー・ゴードン、森谷文昭 訳、みすず書房

を読みました。

江戸後期から2000年までを通史として読むのは初めてだったので非常に面白かったです。

歴史書物に埋もれがちな、一般労働者や女性の観点も盛り込まれており、日本の特異性よりも、世界の中の日本地域で営まれた近代史という書き方になっていて、バランスのよい歴史本になってると思いました。

作者の専門が日本の労使史のようなので、あるいはアメリカ的政治図式の影響からか、社会の勝ち組(=薩長、エリート、官僚、企業経営者)と負け組(=民権運動家、労働者、女性、一般大衆)の相互影響の歴史というか負け組の権利獲得の歴史、という構図になりがちではあります。

でも、翻って考えてみると、いわゆる歴史を書くということは、歴史的出来事を描写するということであり、つまりは人や社会のダイナミクスを描くということであり、それはすなわち、ある現象を、ある人や集団の闘争として浮き彫りにするということなんでしょう。その意味で、この本の書き方はやっぱり正しい歴史なのだと思います。
そうでなければ、ただの表面上の変化の流れを書くだけでは、記録や日誌、せいぜいノンフィクション小説たりえても、"歴史"とはならないでしょうから。

そう考えると、まさに今起きているいろんな事件や現象も、歴史的観点から捉えると、弱者や負け組の叫びなのであり、権利拡大の動きなのであり、闘争なんだと捉えることができます。
そういう見方で、今の現象を捉えてみてもおもしろいです。たとえば、今インターネットでもいろんな新しいものが出てきていますが、それは弱者の権利獲得の動きの1つの現れなのかもしれません。

ところで、弱者や負け組が権利を得ていくことは圧倒的に正しいのですが、こうまとめてよければ、大衆が完全なる自由や平等を求めていくことは絶対に正しいのですが、それは全員が自由で平等にはなり得ないという自己矛盾を含んだ正義なのであり、正義とはまさに自己矛盾とその自己矛盾をいかに解消するかの判断なのだと思います。だからこそ難しい。

近代以降の過去の強者=特権階級の少なからずは、大衆がさまざまな権利を獲得することで、自分の既得権益が侵されるということよりも、むしろ正義の矛盾が露呈し社会が混乱することを恐れていたとも言えると思います。
この本を読んでもそう思いました。過去の為政者(の少なからず)は、民衆を苦しめようとして自由や平等を制限したのではなく、民衆が力を得ていくことが正しいことだと認識しつつも、同時に社会の安定をも実現するために、限定的にしか民衆による力の獲得を許容していかなかったのだと思います。

あらゆる社会の保守主義は、それの主張するところが崩壊していく必然の真っ只中にあるものの、やはり正しいのです。

古い世代が保守主義となり、若い世代が革新となるとすれば、これを裏返した言い方として次のようなものがあります。

一般に、青年の主張するところは正しくない。しかし、それを彼らが主張するということは正しい。(『愛の断層・日々の断層』 ジンメル)


このエントリの文脈に合わせて言うと、

一般に、大人の主張するところは正しい。しかし、彼らの主張するものは正しくなくなっていく。


保守と革新、強者と弱者、そうした集団のダイナミクスが起こることこそ生きた正しい社会なのであり、近代の歴史なんだと思います。どちらか一方に大きく転ぶことは社会の混乱や不正義を引き起こしてしまうのだと思います。
日本の200年においては、まさにこういう歴史が繰り返されてきているのであり、すべてがうまくいっているわけではないですが、少なくとも学ぶべきものはたくさんあると思います。

たとえば、インターネットの世界における新しい現象についても、その背後にこういう保守と革新の相互作用や闘争を読み取ってもおもしろいですし、やはりどちらかに傾きすぎては社会はうまくいかないんだとも思っています。


ところで、日本の(中高の)歴史教育でも、"稲作伝来"とか"大化の改新"とか一から教えるよりも(もちろんそれも重要なんですが)、まずはここ最近の200年のことを中心に教えたほうがいいんじゃないでしょうか?

「郷土愛」とかを新教育指導要領に入れる入れないで紛糾するよりも、歴史教育を近年の200年を中心に置き換えて、どうやって今の日本が作られてきたのかを知識として教える方が、よっぽど彼らの言う愛国心によい気がします。人によっては嫌国心になるかもしれないけど、まあそういうばらつきがあったほうがよいでしょうし。

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