「群衆の叡智という古くて新しい問題」で書いたシンポジウムの第2回があったようです。
CNET:「みんなの意見」は専門家より正しい?--「群衆の叡智」をテーマにした2度目の討論会が開催
ITPro:「企業でも群衆の叡智は活用できる」,WOCS2008でIBMやNECなどが報告
ただ、今回の議論の中では、「多くの群衆が感じ取ったことよりも専門家や情報を多く持った限られた人たちが数人集まったほうが精度の高い結果が得られるのでは?」という疑問も出ていたようです。
これはたしかにそのとおりで、群衆の叡智を信じるパネリスト側でも、群衆の叡智が必ず正しいと考えている人はいないでしょう。
群衆の叡智も必ずしも正しくないし、専門家もまた間違いうる。
そんな中でどのようにすれば間違わない精度が高まるかを考える必要があり、「「みんなの意見」は信用するにたるか」に書いたように、群衆の叡智では、"多様"、"独立"、"分散"、"集約"が非常に重要になってくるということになります。
さらには、群衆の叡智の場合は、全員で決めたという納得感と、次は自分の意見が通るかもしれないという民主主義的希望がうまく働く可能性が高いです。ここが、限られた専門家が判断するのと大きく違うところだと言えます。(誰でも専門家になれる社会であれば、違うとはいえその境目はわかりにくくなりますが)
翻ってみると、「保守と革新、強者と弱者のダイナミクス:『日本の200年』」にも書いたように、歴史を見れば、ここの文脈で言う専門家と群衆の間のダイナミクスこそが歴史を動かしていることがわかります。
歴史を書くとはそういうことだ(ごく一部の強い為政者と多数の弱い権利者の闘争)という点はおいておくとしても、専門家による叡智と群衆による叡智はどちらか一方が常に正しいというわけではなくて、そのときの状況であったり問題の内容であったりで変わりうると思います。
専門家vs群衆という図式よりも、どのようにうまく集約できるのかと、間違っていた場合にどのように修正していくのか、という仕組みづくりの方が重要に思います。
なお、そのディスカッションに参加された人が「ITPro:オープンソースは品質が良い?」という記事を書いています。オープンソースだからといってなんでもよい(ベンダ製よりよい)とは限らないという実例です。
2008年5月25日日曜日
専門家の叡智と群衆の叡智
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