これまた少し以前のエントリですが。
内田樹の研究室:X氏の生活と意見
「書く」ということの本質について触れられていたので、引用します。
まずは、ブランショ(現代フランスの思想家)からの孫引用。
「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つのことばでは、決して中間的なものを名指すことができないのだろう?それを名指すには二人が必要なのだろうか?」続いて、内田さんからの引用。
「そう。私たちは二人いなければならない。」
「なぜ二人なのだろう?どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「それは同じ一つのことを言うのがつねに他者だからだ。」
ある言葉が人に届くためには、それが「二人の人間によって語られていることが必要である」
私と「私と名乗る他者」によって、同じ一つの言葉は二度語られなければならない。
ここにはいろんな深さのレベルの含意があります。解説してしまうと野暮ったいのですが、少し補足説明します
まず、一番浅いレベルで、私たちが紡ぎだした言葉は生のままでは別の人に伝わらないことが多いという事実があります。そのため、われわれは推敲して他人が読んでも意味の分かるように文章を整えます。これは学校でも教わることです。
次にもう少し深く考えてみると、私が意図した内容を他人に理解してもらおうとすると、実は私自身の言葉よりもすでに語られている言葉で語った方が伝わりやすいです。なぜなら、私が新しく語る言葉はまだ他人にどのように解釈されるかわかりませんが、すでに語られた言葉はある一定の範囲の意味のとられていることがほぼ確実だからです。したがって、私がなにか意味を伝えようとすると、私自身ではなく第三者の観点で意味を捉え直し言葉を既存の言葉に置き換える必要があります。文章を書く鍛錬の中でこのような第三者的言葉遣いを、多くの場合は無意識的に訓練されています。
さらにもっと深く考えてみると、実は私が意味しようとしていることはもともとすでに語られた言葉で表現されていなければなりません。何かを意味しようとする私は言葉以前の私でいられるかもしれませんが(それもあやしくなってきますが)、何かを意味したとたんに、それが自分にとっても意味をなす以上すでに語られた言葉で組み立てられているのです。文章を書くとは、もっと言うと、思考するとは、こうして他者の言葉にのっかって、それでもその言葉を紡ぎだし続けることに他なりません。
実は、言葉の本質はそうした他者性にあります。言葉は自分が考えたものではないがゆえに、他人にも、そして自分にも意味をなしうるものとして存在します。そのレベルでは、「自分の言葉」というのがすでにして形容矛盾だったわけです。
「X氏の生活と意見」は高橋源一郎氏の著書でもあるわけですが、高橋源一郎の本は以前「アイディア作りの処方箋としての『一億三千万人のための小説教室』」で紹介しています。
書く、思考する、アイディアを作り出す、といったことについて深く考えられている一例です。いわゆるハウツーものとはほど遠いですが。
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