池田信夫blog:資本主義という奇蹟
池田信夫さんの考える資本主義なるものについて端的に述べてありたいへん参考になります。
曰く、
- 資本蓄積(Marx)
- 近代的個人の成立(Weber)
- 財産権の確立(North-Thomas)
- 法の支配(Hayek)
- 科学と技術の融合(Mokyr)
その上で「神の前で孤独な個人というキリスト教的な自己意識」(つまり、後の2か)がもっともコアとなるとされています。私も同感です。
2と3は密接に関係するとされていますが、4も2と密接に関係します。(明文)法の支配のためには前近代的な部族社会(法ではなく因習の支配する社会)から抜け出した近代的個人が必要です。
5も非常に重要でしょう。高度な技術は西欧以外にも存在しましたが(中国や日本でさえも)、西欧の技術は科学(学問)と結びつくことによって抽象化が可能となり、世界を単純に捉えられるようになることで、漸進的な発展ではなく爆発的な発展が可能になったと思います。
こう整理してきてやはり疑問なのは、
- 「神の前で孤独な個人」 というのは一神教であるユダヤ教やイスラム教でも発生しえたが、どうしてキリスト教(あるいはヨーロッパ)なのか
- 科学の発展のためには、ギリシャ哲学という資産(遺産)が非常に重要だったと考えられるが、ギリシャ哲学を知っていたのはヨーロッパだけでなくイスラム圏でもよく知られていた、どうしてイスラムではなくヨーロッパで科学と技術が融合したのか
宗教学ではよく指摘されることですが、一つには、ユダヤ教やイスラム教では、教典に非常に具体的な日常のルールまで記述してあって、教典が具体的な生活の指針にもなっていたし、法にもなっていたということがあります。ユダヤ教やイスラム教では、教典に書かれていることはまさに法(近代的なものではなく)だったのです。
それに対して、キリスト教では、教典は神の教えをイエスが伝えたものとなっており、教えは絶対だがそこに具体的に書かれているとおり生活しなければならないというものではなかったと考えられます。そのため、キリスト教では、ローマ法の伝統もあり、教典とは別に教会法という普遍法が整備されていきます。
つまり、世界を抽象化しやすい素養があったということになります。
また、その過程では、極めて排他的に正統を定義し他を排除することで(他宗教のみならず自宗教内分派まで) カトリック教会のヒエラルキーが構築されました。逆に中世以降は、このカトリックに反発する形でプロテスタントや世俗国家が発生してきます。
部族社会から人々を切り離すという意味で、こうしたカトリックやその対抗のプロテスタントや世俗国家という社会のあり方は効果的だったのではないでしょうか。
逆に、キリスト教以外の世界宗教は、部族社会の中に取り込み溶け込むことで浸透していったようにも思えます(もちろん、キリスト教世界にもきわめて非正統的なローカル社会が存在したことが知られていますが)。
部族社会から切り離された普遍世界(当時はキリスト教)を持つヨーロッパに、イスラムからギリシャ思想が逆輸入されてくることで、ヒューマニズム(人文主義)が発生します。以降、普遍的な"人間"というきわめて抽象的な自己表象や世界表象が成り立つようになり、人間を中心にした世界観から科学が発達定着し、技術と融合していったのではないでしょうか。
近代的個人が成立するとは、部族の慣習や細かい宗教教義に囚われることなく、論理的抽象的な世界観をもって自ら違う方へ決断できるということです。今までと違う方へ、大勢と違う方へと判断し、行動し、説得していくことができるということです。
と、ここまで勝手な解釈で、リンク先記事に触発されてざっと思いついたことを書きなぐってみました。
近代がどうしてヨーロッパから発生したのか、資本主義がどうしてヨーロッパなのか、ということは多くの議論を読んでいる非常に興味深いテーマです。「私たちはどこから来てどこへ行くのか」につながるテーマでもあると思いますので、けっして最終結論が出ないようにも思います。
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