2009年10月3日土曜日

多様性を受け入れる新たな普遍語〜偽アメリカ文学の誕生


偽アメリカ文学の誕生』都甲幸治、水声社

非常に面白かったです。
まだ翻訳されていないものも含めて、現代アメリカ文学の現状(の少なくとも一端)がよくわかりますし、アメリカ文学が世界の文学の先端を成していることを考えると、今の文学の潮流もわかります。

とくに、村上春樹を日本とアメリカの両方の文脈で読み解く論考と、ドン・デリーロの身体論とでもいうべき論考に力が入っていました。

タイトルの「偽アメリカ文学」については、著者が序文でその意味を述べています。

クールなアメリカ文学に憧れて、アメリカの大学に研究に渡ったものの、着くなり「君は日本文学か日系アメリカ人文学を研究した方がいい」(=日本人が書いたアメリカ文学論を読む人はアメリカにはいないよという宣言)と言われてしまったり、それに反発しつつもやっぱり、たとえTOEFL満点でも日常会話で細かい文法を間違えてしまうといった、アメリカでの研究生活の挫折感が語られています。
それでもアメリカ文学を研究するという確信、古き良きアメリカ文学の王道では勝負できないかもしれないが、そもそも言語や民族の多様化を受け入れている今のアメリカ文学の潮流に外国人としての自分なりの道を見いだすというところに、「偽」の意味があるようです。

具体的には、アメリカでは日本のようにベストセラーになってないがゆえに、純文学として受け入れられ学術的に研究され、文体まで真似られている村上春樹という作家がいたり、数年前のピューリッツァー賞をとったジュノ・ディアズが、スペイン語混じりの英語でアメリカ文学を切り開いたりと、アメリカ文学自体が多様化してきているようです。

村上春樹は、自身の創作活動を"翻訳"から始めた作家です。当時(70年代後半)、学生運動等が落ち着き、高度成長社会から成熟社会へ変革しつつある時代に、従来の文学の言葉(たとえば、三島由紀夫らの美文やマルクス主義的闘争的言語)では社会を映すリアリティを感じなくなってきて、翻訳の言葉、とくに簡潔で平明な現代アメリカ文学の翻訳の言葉にリアリティを感じるようになったのが文体創出の背景としてあるようです。文章を簡潔にするために、村上春樹さんが処女作で、あえて英語で執筆してみてそこから日本語訳したものを、日本語の小説として発表したというのは有名な逸話です。それだけ村上さんの実感(口語)と日本文学に言文不一致が生じていたということでしょう。

かつて明治期に、言文一致体を最初に作り出したとされる二葉亭四迷もまた、ロシア語が堪能で、ロシア文学の翻訳の他、日本語のロシア語訳までやっていたそうです。そういう言語の越境から言文一致体の口語文を創出していったのでした。翻訳と言文一致ということで、村上春樹との共通点があります。

英語が普遍語となる時代に日本語の価値とは何か」でも書いたとおり、現地語と違って国語は、普遍語の翻訳語として普遍的知へのアクセス経路となると同時に普遍語へ翻訳してグローバルに発信するための言語です。その意味で、村上春樹の"国語"は、普遍語との行き来を実現して日本語の価値を高めている言葉の一つだと言えます。
三島由紀夫らが漢文という普遍語、大江健三郎がフランス語という普遍語に対して、日本語という国語との翻訳を行ってきた日本文学という文脈に、今や英語本体にも影響を与えうる翻訳国語を操る作家として村上春樹がいるのかもしれません。

もっとも、かつての漢文やラテン語、フランス語のような権威がはっきりしていて特定の古典が確立されているものとは違い、英語は多様性を受け入れるというあらたな普遍語の様相を呈していて、村上春樹の翻訳英語はあくまでアメリカ文学の傍流としてその普遍語の多様性という新しい次元を担っているのではありますが。

2009年9月25日金曜日

ホンダの新しい発想の乗り物

GIZMODE:ホンダのセグウェイもどき一輪車!?

これはすごいというか、おもしろいですね。
どういう仕組みで立ったまま静止し、またどういう仕組みで動くのか気になります。小径車輪と大径車輪の回転の組み合わせ?

東京モーターショーに出展されるそうです。

こういう新しい発想の乗り物の開発はおもしろいでしょうね。

2009年9月23日水曜日

見ることと,行動することと、認識すること 〜 ミラーニューロン


ミラーニューロン
ジャコモ ・リゾラッティ、コラド・シニガリア
紀伊國屋書店

を読みました。

ミラーニューロンとは、他人がある行為をしているのを見たときに、自分自身が同じ行為をしているときと同じように活性化するニューロンのことです。

従来の大脳生理学では、(視覚)感覚系と行動系でニューロンや伝達経路は別々にあると考えられていました。したがって、他人の行動を見たときに活性化するニューロンと、自分が行動する時に活性化するニューロンは別々に存在するはずでした。
ところが、最近の様々な実験結果から、従来考えられていたほど感覚系と行動系のニューロンの区別ができないということがわかってきたようです。そして、他人の行動を見るという感覚系と、自分の行動という行動系が、同じニューロンの活性化と関連していることがわかってきたということのようです。そのニューロンがミラーニューロンと呼ばれて様々な観点から注目されています。

具体的には、他人のある行動を見たときに、従来は、視覚野で捉えられた後に感覚系のニューロンを伝わって前頭葉でその行動の意味が判定され、その結果を受けて行動系のニューロン(運動野)が刺激されて自分の行動が起こると考えられていましたが、実際には、視覚野で捉えられたイメージはパターン認識された後、そのイメージに関連する運動野周辺のニューロンで運動と結びつけて認識されるというものです。したがって、他人の行動は、前頭葉の論理的認識で認識されるのではなく(されるより前に)、運動野周辺のミラーニューロンによって自分の行動と結びつけられつつパターン認識されているということになります。

こうした働きから、ミラーニューロンが、他人の行為の意図の理解、さらには他人への共感、コミュニケーション、言語活動にもかかわっているのではないか、という推論が展開されます。

この本にも少しだけ引用されているメルロー=ポンティの間主観性をはじめとして、哲学者たちが唱えてきた主観や認識論のあり方、さらには心理学者や社会心理学者が臨床実験で明らかにしてきた他人理解の仕組みといったものが、いよいよ大脳生理学、解剖学的に根拠づけられていっているようにも思います。

他方で、この本を読む限り、ミラーニューロンが即共感や、まして言語活動に結びつくかというと飛躍が大きく、まだまだ研究途上という印象も受けます。

いずれにせよ、脳という機関が、人間にわかりやすい二分法できれいに機能分割できるわけではなく、自律した超並列処理が複雑に絡み合い、結果として総合的に秩序だって機能しているように見えるということ、その一側面が感覚系と行動系を紐づけるミラーニューロンであり、そうした脳機能の解明の端緒に立っているということは言えそうです。

それもこれも、「世界を分けてこぼれ落ちるもの」で書いたように、脳を分けていった結果見えてきた、分けられないものなのかもしれませんが。

2009年9月9日水曜日

非効率の民主的メリット

以前、「官僚内閣制と政治任用」を書きました。

モジックス:官僚を「公営シンクタンク」として使う、日本の安上がりな政治システム
http://mojix.org/2009/09/03/japan_thinktank

に、日本の官僚内閣制が実は非常に効率的なもので、逆にアメリカの二大政党制と政治任用のシステムは効率の悪いものだ、という重要な指摘がありました。
にもかかわらず、効率性を犠牲にしたアメリカのシステムの方が民主的にすぐれたもので、成熟社会にふさわしいという指摘でもあります。

そして最終的には、日本の国民がすべてを官僚に任せっきりにしてきた受け身の政治が真の問題なのだと書かれています。

なるほどと思いました。

2009年8月25日火曜日

世界を分けてこぼれ落ちるもの

世界は分けてもわからない』福岡伸一、講談社現代新書
を読みました。

科学と非科学のあいだ:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 1
反復できない時間を生きる生物:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 2

で書いた『生物と無生物のあいだ』の著者の新刊です。
これまた非常におもしろい本になっています。こういう深みのある自然科学本は大好物です。帯もそそりますね。

「世界最小の島・ランゲルハンス島から、ヴェネツィアの水路、そして、ニューヨーク州イサカヘ−「治すすべのない病」をたどる」

ただ、今回の題材はあまりにも練られたもので、もしかしたら小説として書いた方がもっとおもしろかったかもしれませんね。雑誌に連載されたものをまとめた散文エッセーなので、全体として散漫な印象はあります。

クライマックスはネタばれするので書きませんが、その他にもルネッサンス絵画のあらたな発見にすでにマネ的無関心(ちょっと違うが)が見られたり、タンパク質合成と廃棄の生物システムの巧妙さが描かれたりと、題材にもなっているイームズのパワーオブテンよろしく、ご自身の旅とあわさって書物ならではのすばらしいロードブック(ムービー)になっています。

世界は分けていかないと何も筋道だてて整理できないし、でも、分ければ分けるほどその合間にこぼれ落ちるものが多く、どんどん全体から離れていってしまうという人間認識のサガとでも言うべきものがもう1つのテーマでもあります。が、こちらはまだまだ深堀りできたのではないか、とちょっと過剰に期待してしまったりもしました。

2009年7月14日火曜日

具体的感情と抽象的論理の狭間に入り込む死刑制度

■序

自分は死刑に反対ですが、死刑の意味や価値についてはある程度認めています。死刑廃止国にも死刑賛成(復活)論者がいるとおり、必ずしもどちらかが絶対に正しいというわけではなく、それぞれの観点なり立場からの主張はあります。それらを統合して考える必要があります。
今回は、主に基本的人権の観点から死刑廃止の根拠について考えを記述します。


■死刑廃止の根拠としての基本的人権

まず、基本的人権は最大限尊重されるということを前提にします。基本的人権は近代国家成立の過程で確立されてきており、現在近代国家の枠内で生活している我々にとっては前提となりえるものです。基本的人権の尊重を認めない近代国家以前やアナーキストについては別の議論が必要だと思われますがここでは触れません。

基本的人権には、平等権や自由権、社会権などがありますが、それらは人間が生まれながらにして持つ権利であり、「公共の福祉を乱さない限り」誰にでもつねに尊重されるべきものです。

したがって、公共の福祉を乱すものには基本的人権が剥奪されえます。ただし、一切合切の人権が剥奪されるかというとそういうことではなくて、基本的人権を最大限尊重するのであれば適切な範囲で剥奪されると考えるのが順当です。被疑者や囚人にも一定程度の基本的人権はあります。「公共の福祉を乱さない限り」ということであるならば、公共の福祉を乱せなくなるまで剥奪されれば十分なはずです。どの程度剥奪すれば公共の福祉を乱せなくなるかの加減は難しいところですが、いずれにせよすべてを剥奪すべきとはならないということです。

一方で、論理的には、特殊な場合には基本的人権をすべて剥奪してもよいという考え方もあるでしょう。
ここで、「公共の福祉を乱さない限り」という部分の解釈を整理すると、
  1. 「公共の福祉を乱せば部分的またはすべての基本的人権を剥奪できるという解釈」
    すべての基本的人権を剥奪することは、そもそもの基本的人権と真っ向から対立します。つまり、基本的人権には重大な制限があるという立場、もしくは基本的人権よりも上位のより重要な規律を要請する立場です。
  2. 「公共の福祉を乱せなくなる範囲で基本的人権を剥奪できるという解釈」
    最大限基本的人権を尊重する立場です。

殺人は、ある個人の基本的人権をすべて剥奪することです。死刑も、たとえ悪人であってもその人の基本的人権をすべて剥奪します。したがって、殺人も死刑も基本的人権の侵害にあたります。ただし、死刑の場合は、「公共の福祉を乱さない限り」で(1)の解釈をすれば基本的人権の尊重と両立が可能です。一方で(2)の解釈ではすべての人権を剥奪する死刑は基本的人権の尊重と並立しえません。
ここでは基本的人権を最大限尊重するということを前提にしているので、(2)の解釈となり、死刑は基本的人権と両立しえない否定されるべき制度となります。

と、結論づけられれば話は簡単なのですが、 (1)の解釈の基本的人権よりも上位の規律の要請、ということから死刑が基本的人権と並立しうる可能性があると考えています。そうした上位の規律としては、
  • (A)具体的な命や人格は、抽象的な基本的人権という概念よりも重要であり、これの侵害については基本的人権の尊重とは区別して考える必要がある。
  • (B)抽象的な基本的人権などという概念よりも、具体的な遺族の感情や考えの方が重要であり、そちらを尊重すべきである。

つまり、抽象的な基本的人権の尊重という論理を展開する限り死刑は否定されるべき制度です。実際、基本的人権の尊重という考え方は18世紀の啓蒙思想以来正しい考え方としてあるものの、参政権や男女雇用機会均等化や差別撤廃などさまざまな制度の修正や改革によって戦後になっても徐々に整備されてきているのであって、その中で死刑についても昨今になって制度として整備(廃止)されてきているというのが世界的な流れの現状です。
けれども、現実社会においては、抽象的で普遍的な論理よりも重視すべきローカルで具体的な考えや感情があるというのも事実で、それも無視できない要素としてあります。ただし、それでも死刑に関しては普遍的論理を重視すべきと考えています。その理由は、次のとおりです。


■社会を前向きにするために

人権思想の対極にあるものの1つが、命に関する復讐権(報復権)だと考えています。人権思想は抽象的普遍的なものですが、復讐感情は具体的個別的なものに端を発します。
人間には恨みつらみや怨恨が根源の感情として存在します。これは否定できません。ほとんどのつらさや嫌なことはそれを解消するためのバイパスや代替策、見返りがあります。どんなに嫌なことでも金銭的見返りがあれば我慢できたり、つらさもその後の成功という報酬で耐えられたりします。が、怨恨についてはなかなか他のもので置き換えることができません。とくに命に関する怨恨は、死んだ(消えた)本人がもうどういう感情も意識も持てない分、解消するすべもなく遺族に重くのしかかります。その感情のそのままの吐露が、復讐(報復)ということになります。たとえば、子供は殺されたのに殺した側が生き残っているのは許せないという感情です。

けれども、怨恨とそれに基づく復讐は、敵対心を煽ることも事実です。復讐が世界史を血塗られたものにしてきているのはまぎれもない事実です。ほとんどの戦争や内乱、虐殺は、復讐がベースです。しかも、近代国家になって、そうした市民の具体的個別的な復讐心が集団心理となり、抽象的・部分普遍的な国家を動かして、大量殺戮という事態を生んできたのでした。
死刑もまた、国家による殺人です。上の(A)や(B)といった具体的個別的なものごとや感情をベースに、それを抽象的(国家内)普遍的に実現する制度としての殺人行為です。具体的個別的な復讐心は認めざるをえませんが、それを国家制度として成り立たせることに疑問を抱きます。国家制度として成り立たせることで集団心理としての復讐心につながる可能性があります。復讐は復讐を呼びます。敵対心は集団の憎悪を増幅します。人々の心理として復讐心が生じることは否定しようがありませんが、これを国家/社会が支持すると社会の中の憎悪が増幅されてしまいます。
平和な社会を実現するために国家が成すべきことは、社会を前向きにすることであって、復讐心や怨恨といった否定的感情を噴出させないようにすることです。

また、死刑判決は、その人に生きる価値がないことを、人間が人間に対して判断していることになります。つまり、死刑は、生きる価値がないという考えを肯定するものになっています。しかしながら、生きる価値がないとはどういうことでしょうか?そんなことは本人であっても判断できないことです。生きる価値がないという否定的な気持ちを拒否し、すべての人間に生きる価値を認める前向きな社会を肯定していくためには、死刑という制度は矛盾を持ったものになってしまいます。国家として、すべての人に生きる価値を認め、制度としての復讐を認めないこと、その表明が、死刑の廃止という制度的変更には含まれていると思います。

こうした社会を前向きにする力や制度設計というのは侮れないもので、人文社会科学や経済学でも最近注目されてきています。まさに、今国家に求められているものは社会を前向きにするための制度です。


■犯罪抑止力に関して

補足として。
このエントリーは、「naotokの朝トレ日記:死刑制度存置を支持します」を参照先としています。(トラックバック機能がないため)
そこでは、犯罪抑止力が死刑の根拠としてあげられています。
しかし、コメントのやり取りで明らかになったとおり、死刑が積極的に犯罪抑止力として意味を持つケースは非常に限定的であり、実際問題として年何回あるかわからない程度です。しかも、論理的には終身刑で代替可能で、死刑である必然性は象徴的な意味合い以外ほぼありません。犯罪抑止力を高めるためには死刑制度を維持するよりもっと他にやるべきことはたくさんあります。基本的人権の尊重という観点から死刑が論理的に矛盾するのであれば、特殊なケースでしか犯罪抑止力を持たず、かつ代替手段のある死刑は廃止した方がよいということになります。

2009年7月7日火曜日

改正著作権法による国会図書館のデジタルアーカイブ化

DIAMOND ONLINE:グーグル和解問題を国会図書館の動きから考える

先週の記事ですが。
改正著作権法が6月12日に成立しました。

違法ダウンロードばかりが焦点あたっていますが、国会図書館の蔵書のデジタルアーカイブ化というのも大きな話です。百数十億円の予算もついたようです。

かたつむりは電子図書館の夢をみるか:国会図書館が蔵書90万冊以上をデジタル化?!

骨董通り法律事務所:「著作権法改正案の概要(第1回)」


まだ国会図書館内での閲覧しかできず、1968年以前に出版されたものが対象で、主に原資料の劣化防止が目的のようですが、それでも「国民ができるだけ幅広くこれにアクセスすることができるようにする,いわゆるアーカイブ事業の円滑化を図る一環」という法律の目的のとおり、これが広くアクセスできるようになればいいですね。

アメリカでは民間企業であるGoogleが、Google Booksというかたちで訴訟を戦いつつ同様のデジタルアーカイブを進めていますが、日本では一部難航しています。国会図書館という大義であれば、その部分も民間企業がやるよりは進めるかもしれません。
逆に、いろいろ配慮しすぎて数百億かけてほとんど使えないものを作り上げてしまう可能性もあるわけですが。そもそも90万冊のスキャンに百数十億円も必要なのか?というのもありますし(人件費月100万円の200人が1年かかっても24億円)。

実際に、現国会図書館館長の長尾さんは、新刊本含めてデジタル化し、外部の「電子出版物流通センター」経由で有料/広告料でアクセスできるようにすることも視野に入れているようです。まだまだ法律改正等必要で長い道のりはありますが期待はできます。

英語が普遍語となる時代に日本語の価値とは何か」にも書いたとおり、英語が普遍語化する時代においての世界の言語の多様性のためにも、日本語で書かれたものを誰でもアクセスできるようにすることは非常に重要です。国会図書館内だけではなく、公共図書館の端末だけでもなく、ほんとは世界中からアクセスできるようにした方がいいですね。
今話題の「アニメの殿堂」も、作品の展示という観点よりも、国会図書館のデジタルアーカイブ化の中で誰でもアクセスしやすくするようにした方がより効果的なんじゃないでしょうか。(もっとも1968年以前という条件でほとんど引っかかってしまいますが)

2009年6月24日水曜日

英語が普遍語となる時代に日本語の価値とは何か

遅まきながらネットで話題という

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』水村美苗、筑摩書房

を読みました。

たとえば、こういう方々が話題にされています。

水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。 - My Life Between Silicon Valley and Japan
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1

404 Blog Not Found:今世紀最重要の一冊 - 書評 - 日本語が亡びるとき
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51136258.html

英語の世紀に生きる苦悩:江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance - CNET Japan
http://japan.cnet.com/blog/kenn/2008/11/10/entry_27017805/

まず著者は、「普遍語」「国語」「現地語」を定義します。
「普遍語」とは、多くの権力者や富のある人、学者が読む言語で、その時代の"知"と関係するために必要となる言語です。今だと英語で、英語が読めないと取得できる知識量は減るし、英語で発表できないと広く自分の意見が広がりません。近代以前においては、ヨーロッパのラテン語、中東のアラビア語、東アジアの中国語がこの「普遍語」でした。
「現地語」とは、方言も含めた一般人が日常的に会話する言語です。
「国語」とは、近代国家によって定義されある一定地域で共通に通用する言語です。しばしば「普遍語」を翻訳するための言語としても用いられ、普遍語が兼ね備える政治や倫理、美学、科学などの価値観や論理をそれ自体でも表現しうる言語でもあります。

現代の日本人は標準語としての日本語=国語があまりにも当たり前なので、現地語との差異がわかりにくいですが、アフリカやアジアの多くの国では、普段会話している現地語と国語が異なるため、普遍的知識を手に入れるためにはまずは国語の習得が必要となります。

ところが日本でもかつてはそうでした。明治維新前後の頃は、まだ普遍語といえば漢文(=中国語古典)で、知識人は漢文の素養が必須でした。以前のエントリ「文体は思考を形成する:『漢文脈と近代日本』」でも、江戸時代の日本には方言を除いても6種類もの言語をもっていて、それを統一していく過程が日本語という国語を形作っていく過程だと書きました。

明治の日本の知識人たちは、漢文というかつての普遍語から英語という現代の普遍語への切り替えと、それら普遍語との距離感と大和言葉という日本の伝統言語および関東を中心とした現地語をベースに、今の日本語という国語を作ってきたのでした。その過程でたくさんの熟語(英語の概念を翻訳したもの)も作り出していますし、たくさんの文学作品も著されています。

で、この本の著者曰く、実は、西欧語以外で、このような国語を作り上げ、これだけ文学を高く積み上げられた言語はほとんどないと言います。だからこそ、日本語は、世界の人々にとっても守るべき言語なんだというのが著者の1つの主張です。

たとえば、ノーベル文学賞をとっている非西欧語圏の国を数えるとそれがわかります。100年以上のノーベル文学賞の歴史で、日本とチリが2つずつで最多です。ちなみにチリはスペイン語です。
そもそも欧米以外の国で受賞している数は、中南米6(すべてスペイン語)、アジア5(イスラエル含む)、アフリカ4(うち英語の南アが2)です。ただ、こうした国の受賞者も、たとえばベンガル語やヘブライ語で書かれていても、著者は自身で英訳や独訳できるほどの西欧語話者です。東アジアでは、日本人以外は中国人1人だけで(高行健2000年受賞)、その人も中国語で書いていますがフランスへの亡命者でフランス在住です。アジア全体に枠を広げても、あとはトルコ人1人(オルハン・パムク2006年受賞)くらいです。
日本の受賞者2人は(川端康成1968年受賞と大江健三郎1994年受賞)、日本文学という豊穣な土壌の上に育った日本の文学者であり、こうした作家を育て上げるほどの豊かな国語文化というのは、西欧語圏を除けば実は珍しいのであり、これを滅ぼしてはいけないというのが著者の熱い思いです。

一方で、著者のもう1つの主張は、これからは英語の時代だということです。英語が普遍語となり、英語ができなければ世界の知へとアクセスできないようになります。それと同時に、近代以前のように、普遍語である英語と現地語という構造になっていくのではないか?という推測も成り立ちます。
国語というのは近代国家とともに繁栄しえた言語のあり方なのであり、これからのグローバル化社会では各国語は衰退していくのではないか?という推測です。まさに最近流行の帝国論を国語の側から捉え直した考え方です。(そこまで筆者は言ってませんが)

筆者も引用するように、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』では、近代国家の成立に国語が大きな役割を果たしたことが説かれています。国民という想像上の共同体を作るためには共通に理解できる言語の準備が必須です。その国語が成立するためには、共通語の定義だけではなくて、高度な印刷物市場が必要です。日本では江戸時代から印刷技術と市場経済が発展し、庶民の間にも読み物を読む習慣が広がっていたのが、明治維新後の急速な国語と日本国家の成立に大きな役割を果たしました。

ところが、英語が普遍語となると、最先端の知は英語で読み、英語で書く(語る)ことではじめて影響力を持ちうるということになり、相対的に国語の力が衰退していきます。

もちろん、アジアの大部分で考えると全国民が英語話者となるのは英語を公用語にしないかぎりかなり非現実的のように思いますので、そうなるとエリートだけが英語利用者となり二重言語者となって、日本国内には引き続き国語の影響力は残ります。非常にローカルな影響力ですが。

グローバルにその国語にどれだけ影響力があるかは、その国語で書かれたものがどれだけ価値があるかですね。そして、英語が普遍ごとなる中、国語を守っていくためにはその影響力をどれだけ保てるかということになりそうです。

日本語はまだまだ影響力がある方の言語だと思いますがやはり分が悪いです。もはや自然科学分野では英語で論文が当たり前になるでしょうし、今まだ世界に強い影響力を持つ日本企業でも、英語はかなり必須スキルになってきそうです。

日本語という国語が、ただの現地語となっていき、古典として読まれるだけの国文学となっていくのか、それとも影響力を保ち続け、西欧語以外でもっとも影響力のある国語の位置を維持し続けられるのか、今まさにその岐路に立っているということになります。

筆者自身は、日本以外の国では国語を保護するという政策は一般的であり、言語は守らないと滅ぶものである(実際に滅んでいっている言語は多数ある)にもかかわらず、今までの日本では日本語に対する政治的保護策振興策はかなり限定的なものだったと主張されています。たとえば義務教育の時間をとっても日本は先進国で一番国語の時間が少ないプログラムになっています。なので、英語の教育とともに国語の教育も増やせと。

個人的には、英語とともに国語の教育にもっと力を入れるべきだというのには賛成ですが、ただ、今の義務教育の教科書を輪読するだけのあの退屈な国語の時間を増やされても、、、とは思います。国語(日本語)ってもっとおもしろいものですし、何より論理力などはまずは母語ベースで培われると思いますので、そういう普遍語に近づきうるような国語力、論理力と表現力を強化でき、日本語の豊穣な知の体系(自然科学、社会科学,文学含めて)に分け入っていけるような、そういう国語の教育にしていくべきです。

また、一般論として効率性も重要ですが多様性も同じように重要で、その意味で国語としての日本語を守っていく必要性は感じています。逆に、言ってみれば、日本語は世界のために多様性を維持しつつ効率性もある程度追求できている価値のある言語だとも言えます。英語を初めとする西欧語とはまったく異なる言語体系で、これだけ知の体系(文学としても、科学としても、産業としても)を作り上げている言語というのは、多様性という観点から非常に重要です。英語という普遍語と二重で言語を操るという非効率性はありますが、英語という効率性の高い言語と多様性を維持する言語の架け橋になるというのは価値のあることに思えます。

2009年5月11日月曜日

官僚内閣制と政治任用

少し前に、

を読みました。
評判通りの良書で、日本の統治(行政)の特徴を「官僚内閣制」というキーワードでうまく表現されています。

日本は、教科書的には国会議員が内閣を構成する「議院内閣制」だとされています。
ところが、典型的な議院内閣制(イギリスのような)では立法も行政も同じ党派になるため総理大臣の権限が強くなるはずですが、日本では実際には強くなっていません。
逆に、日本人が一般的に権限が強いと考えている大統領制の方が立法府と大統領で党が異なる可能性がある分議院内閣制よりも権限が分散する仕組みとなっています。

日本で総理大臣の権限が強くないのは、憲法上は強い権限を与えられているにもかかわらず、内閣法によって大臣が各省庁の長で各行政責任を持つ(したがって内閣総理大臣は内閣府の行政責任を持つに過ぎない)というように権限が弱められてしまっているからだと言います。憲法は進駐軍によってよくも悪くもある意味理想的に作られましたが、内閣法は戦前からの流れを汲んで憲法を骨抜きにする形で成立したと言えます。ちなみに、戦前の日本国憲法では内閣の規定は無く、「内閣官制」という勅令でのみ内閣が定義されていましたが総理大臣の権限は弱かったようです。理由としては、天皇主権を明確にし、明治初期には天皇に対する江戸幕府のような存在ができることへの反発があったからだそうです。

大臣が各省庁の長として行政を行い、内閣総理大臣はその調整役に過ぎないという統治機構になると、国民から選挙で選ばれた国会議員であるはずの大臣が省庁の官僚を代表する存在へとなります。ここに国会与党と内閣のよじれが生じます。

ただ、戦後高度経済成長期(および戦前の発展期)には、 この官僚制がうまく機能していました。それは、官僚機構が、さまざまな委員会などを設置して業界団体や学者らからうまく意見を吸い上げる仕組みがあったからです。国会議員は国民の代表ですが、官僚もその業界の代表としてうまく機能していたのです。ところが、成熟期に入った社会では業界団体や一部の学者が国民の意見を代表するとは限らなくなり、逆に既得権益を守ろうとする硬直化した仕組みになってきているとさえ言えます。

こうした官僚-内閣制への一つの対案としてあるのが、内閣(もしくは大統領)の意に沿う形での官僚人事のあり方です。その最北がアメリカでしょう。アメリカ合衆国では大統領が代わると約3000人の官僚が入れ替わると言われます。それは、各省庁の上級管理職を大統領が指名する民間人が担っているからです。これにより大統領の意向を各省庁の行政に反映しやすくなります。
大統領任命の政治学—政治任用の実態と行政への影響』デイヴィッド・E. ルイス、ミネルヴァ書房
を読みました。
この本は、「政治化」と称されるアメリカ合衆国での大統領による官僚上級管理職任用のあり方とメリットおよび問題点を各種データを駆使して整理したものです。訳者が人事院の人なので日本の官僚も注目しているということでしょう。

この本では主に、官僚の上級管理職を大統領任命の一般人が行うことのマイナス面が指摘されています。大統領が政治任用を使うのには、一つにはその官僚組織をコントロールし自分の意に沿うように動かしたいのと、もう一つは選挙での協力者や寄付者に対して官職を割り当てるといういわばご褒美との両方があります。ご褒美的にその官職についた人は能力があわないこともあり、その組織のパフォーマンスを下げるだけでなく、専門官僚のモチベーションも下げてしまいます。そうでなくても、上司が外から来て自らのキャリアパスを奪われるだけで官僚のモチベーションは下がりがちとなります。
この本では、統計データを駆使して、一般的に政治任用の割合が高い組織ほどパフォーマンスが劣化することを例証しています。
ただし、政治任用を根本否定しているのではなくて今のアメリカでは多すぎるという指摘です。

また、統計上有意ではあるものの、政治任用の割合と組織のパフォーマンスはきれいに比例しているわけではないので、政治任用が多くてもパフォーマンスがよい場合もあるようです。たとえば、以前その省庁に勤務していた人が政治任用されるとその組織はパフォーマンスがよいようです。

例として取り上げられている連邦危機管理庁(FEMA)のケースでは、政治任用の管理職トップの人選によってこうも組織の動きが違うのかというのがよくわかります。もともとご褒美的政治任用が多くモラルも低くて評判の悪かった連邦危機管理庁に、クリントン大統領が州の危機管理を担当していた経験者のウィット氏を付け、政治任用者数を減らしたり組織の壁を壊したりして劇的にパフォーマンスを向上させたそうです。ところが、その後のブッシュ大統領でまた非経験者が管理職トップにつき、後戻り的に官僚的硬直が一気に進んで、ハリケーン・カトリーナでの後手後手の対応は大きな批判を受けました。

日本では、明治以来官僚は、ある年齢枠での試験合格者で、入った省庁にずっと勤務してきた人間で成り立っています。専門的能力は非常に高いと考えられますが、組織としての硬直化は避けようが無く(ウェーバーのテクノクラート批判を待つまでもなく)、何より成熟化社会における国民の意志を代表しづらくなってきています。本来であれば、選挙で選ばれた大臣が官僚を使って行政を執行すれば国民の意思もある程度反映されるはずですが、実際には多くの場合大臣は官僚に操られているというのが現状です。もちろん官僚をうまくコントロールする大臣もいますが、そういう大臣でも大きな反発や抵抗を受けてすんなりとことを運べていないというのが事実でしょう。

官僚側にも言い分があってどうしようもないのはよくわかりますが、だからといってこのままでいいわけはなく、やはり外からの力でこの硬直化した仕組みを柔らかくする必要はあるように思います。ただし、たとえば官僚組織トップに外部からの人間を置いたりして組織に風穴を開けるにしても、アメリカで現在問題になってきているように弊害というのは起こりえます。それを十分承知した上で、官僚トップを民間人にすることで満足するのではなくそれをうまく機能させることが重要でしょう。

2009年5月6日水曜日

車離れ

クルマが輝いていた時代と今の価値観

日本自動車工業会の「2008年度乗用車市場動向調査」についての記事です。

最近若者の車離れが言われていますが、それを如実に語る調査結果ですね。

「生き方を投影できるモノ」が「ガイシャ」とかかつてはわかりやすい形で存在しましたが、ものと情報があふれる現代ではわかりにくく流動的になっているように思えます。
モノで生き方を投影してしまうと流行り廃りが激しくて自分が消耗してしまいますね。この記事にもあるようにスタイルが重要なのでしょう。

それとやはり気になるのは、日本の産業がある意味車に支えられている側面があることです。このまま人口が減り車を乗る人が減っていくと、日本の産業構造が崩壊してしまいます。車に頼らないような産業構造へと先手を打つ必要がありそうですが、それを車業界に期待するのは酷です。
TVが見られなくなってきているという現象(かつての家電業界の花形)も含めて、まさに今大きな産業構造転換を求められている時代のただ中だということでしょうか。

2009年4月17日金曜日

改正著作権法についての津田氏インタビュー

ASCII.jp:津田大介に聞く「改正著作権法で何が変わる?」

来年1月から施行されると考えられる改正著作権法について、改正のための小委員会にも参加された津田さんがポイントをまとめています。
今回の改正は無難なところにまとめられたようですが、補償金制度や著作権保護期間など一部積み残し課題を検討する新たな委員会の委員の選定がかなり偏っているようです。思いっきり文化庁寄りの人選ですね。そこにかなりの疑問を感じます。

2009年4月12日日曜日

ヒトゲノム解読の部分最適 〜『 ヒトゲノムを解読した男 クレイグ・ベンター自伝』

ヒトゲノムを解読した男 クレイグ・ベンター自伝
J・クレイグ・ベンター
化学同人

3つの観点で非常に面白かったです。

  • 破天荒な個人の伝記(60年代カリフォルニア、ベトナム戦争従軍、医学生物学世界での冒険等々)
  • ヒトゲノム競争で悪役を演じてきた側の言い分(ベンチャー企業でヒトゲノム解読に望んだため、大学や政府機関から公共性に欠けると多くの批判を受けてきた)
  • 部分最適と全体最適、市場主義と公共性といった観点

2000年6月26日に、クリントン大統領とブレア首相、そしてNIH(アメリカ国立衛生研究所)のコリンズ博士、セレーラ社のこの本の著者であるベンターさんの4人で、ヒトゲノム解読宣言が行われました。

この歴史的共同宣言の背後では、研究者間の熾烈な競争、もっと言えばえげつない誹謗中傷合戦が繰り広げられていたのでした。

自分は5年ほど前に、
ヒトゲノムのゆくえ
ジョン・サルストン、ジョージナ・フェリー
を読んでいて、そこでは、線虫学者だったサルストンさんが、どのように資金をかき集め、世界中の研究者と協力協調し、サンガーセンターというゲノム解読センターを運営して、この偉業を達成したのかが描かれていました。非常に興味深く読みました。

そこに悪役同然として描かれていたのが、クレイグ・ベンターさんでした。サルストンさんからすると、本来大学や公共機関が取り組んで世界の共通資産として管理してくべきヒトゲノムを、ベンターという研究者が企業に身を売って金儲けのために独占しようとしている、というような書き方でした。

そしてこの本です。

自叙伝なのでおそらく自分に都合のいいように書かれてはいると思うのですが、ヒトゲノムについて特許を取ったり非公開にしたりするつもりはなかったようで、ただ(ベンチャー)株式会社として出資者のためにある程度非公開の期間をもうけざるをえなかったことが書かれています。真相はわかりませんが、言い分としてはそういうことのようです。

なにより読んでいて興味深かったのが、もともとベンターさんもNIHに所属していたのですが、官僚主義的で、政治で予算配分が決まり、計画から実行まで途方も無い時間を要する研究環境をあっさり見限り、企業からの出資を受ける研究環境に移っていったことです。
目の前にやりたいことと成果が転がっているのに、いちいち他研究機関と調整したり予算をとるためによけいな仕事をすることががまんならなかったようです。

たしかに全体最適という意味では、他国の研究機関含めていろいろ調整して役割分担や研究進捗をあわせていったほうがいいのかもしれません。ただ、非常に時間がかかるし、けっきょく調整などにコストがかかって役割分担がうまくできたメリットを帳消ししているかもしれない。

かたや部分最適じゃないですが、一企業でどんどん進めていけば、他企業とやっていることが重なるかもしれませんがスピードが違うし、差別化のためにイノベーションも生まれたりして、結果としてコストが安く済むかもしれない。

 市場主義は言ってみれば部分最適の集積でそのなかでもっとも最適なものだけが残っていくということで、公共性は全体最適のためにある程度自由を制約して歩調を合わせていくということかもしれません。

ヒトゲノム解読について言えば、ベンターさんのセレーラ社があったから解読スピードが速まったのは確実ですし、そのなかでイノベーションも起こったことも事実です。また、官僚的に凝り固まったゲノム研究領域を打破していったという意味でも非常に重要な役割を果たされていると思います。
一方でヒトゲノム情報を一企業で独占するのはやっぱり問題であり、ベンターさんは最初から公開するつもりだったとは書いていますが、大学や研究機関からのプレッシャーがあったからこそ公開されていったのかもしれません。

それにしても、これだけ研究者から非難されながらも、自分の信念をつらぬき、いろいろなリスクを抱えながら(新しい解析方法などを試しながら)プロジェクトを遂行するその行動力にはほんとうにすごいと思います。

2009年4月11日土曜日

コンシューマライゼーションとリテライゼーション

大西 宏のマーケティング・エッセンス:リテライゼーションという新潮流

IT業界にはコンシューマライゼーションという大きな流れがありますが、小売りの世界ではリテライゼーション(Retailization)という大きな流れがあるという記事です。要するに、PB(Private Brand)のことですが。

いずれもメーカー主導から消費者主導という大きな流れに位置づけられる一方で、相違点もいろいろあるように思えます。
今回は、備忘録としてこれだけ。

2009年2月15日日曜日

発育と教育による脳の因果論

昨日は、「ある神経の働きと次の神経の働きがどのようにして意味のある思考の論理展開となっていくのか、それはコントロールされた必然的なものなのか、偶然の連なりがあたかも意味があるかのような論理的思考の脳の働きになっていくのか。」

と書きましたが、子育てをしていると、脳の活動が、当初は単なる神経の働きの偶然の連なりにすぎないというのがよくわかります。幼児がずーっと意味不明語を話しているのを見るに、エピソード記憶に入った音声的記憶をほぼランダムな順番に再生しているにすぎず、そこに意味はほとんどありません。

ところが、そういうランダムな発話行為に対して、大人がいろいろな反応を示すことで、特定の発話行為が現実の意味に結びついていきます。これは、その発話行為に関連する神経の働きと、現実の反応がより強く結びつけられていっているのでしょう。

さらには、子供時代の教育において、これは正しい正しくない、と家庭や学校で規律づけられていきます。それによって、特定の神経の働きが強められていくのでしょう。

というように、偶然の神経の働きが、外からのフィードバックによって強められて残るようになっていくというようには言えます。

ただ、今度は、遭遇するある場面に対してどうして似たような場面に関連づけられた神経細胞が活動し出すのか、あるいはいろいろな意味のあるひらめきや創造はどのようにして発生するのか、ということの説明が難しいです。

これも因果論でコンピュータ処理的に説明しようとすると、ある場面に対して脳内の関連するすべての神経細胞が強い順番に反応していって最適なものだけが残って意識にのぼるとしか説明できないです。本当に脳の中でそういう(無駄な)ことが起こっているのか、それとももっと特定の目的に沿うような働きとなっているのか、ということについてはやはり謎のままです。

2009年2月14日土曜日

科学的因果論をはみ出していく脳〜『心の脳科学』

心の脳科学 —「わたし」は脳から生まれる』坂井克之、中公新書

心や「わたし」が脳のどのような活動から生まれているのかを、現在わかってきている範囲でわかりやすく説明した本です。非常に興味深いです。

最終章では著者の希望的観測含めた脳科学への想いが記述されていますが、その前までの10章ほどで、現時点でどのような実験によりどこまでわかってきているかがわかりやすく記述されているため、TVによく出ているような脳科学者の結論しか書いてないような本よりは、ずっと良心的で内容も濃いです。

まず、科学的に脳の働きを解明するためには、意識や心といった漠然としたものを特定の現象へと分解する必要があります。そのために、いわゆる「錯覚」のような現象が実験では使われるようです。たとえば、紙の両端に描かれた絵を一定距離から見ると、右目に入ってくる絵と左目に入ってくる絵が交互に意識にのぼり、コントロールできないという錯覚的現象が、意識を分解的に扱うために利用されます。

脳の測定方法は主に2つあるようです。1つ目が主に脳空間の測定です。脳のどこの働きがそのときの現象に関係しているかを明らかにする測定です。そのために、まず科学として、大きさや形に個人差のある脳を平準化し座標化します。その後、MRT装置を使って脳の活動を画像的に処理します。おおよそ1mm程度の精度まで計測できるそうです。ただし、この方法の欠点は、計測間隔が2秒ほどになってしまい、瞬間的な脳活動を測定できないことです。また、測定装置が大きいというデメリットもあります。

もう1つが脳の働きの時間的経過を測定するものです。脳に電極を貼って脳波を測定するタイプのものです。この場合ミリ秒単位で脳の活動を測定できます。逆に脳のどの場所の活動かの空間的測定はかなり曖昧にしかできないようです。

この2つの測定方法を使って、意識や心の動きを分解したような特殊ケースでの脳の働きを測定していきます。

測定結果は必ずしも脳の特定の部位だけが活動したというようにはならないため、統計的に処理されます。統計的に有意な活動分布を示した部位が、おそらくその現象に直接関係している場所だろうということです。

以上は、どういう現象のときに脳がどのように働いているかを計測する方法ですが、逆に、脳がどう動いたときにどういう行動をとりうるかといった測定方法も開発されつつあるそうです。

たとえば、事前に 何十回もウソをついたところの脳活動を測定させてもらい、また何十回も本当を言った時を測定させてもって、そこからウソをついたときの脳活動パターンを抽出します。これにより、脳活動を測定してそのパターンとマッチングさせることで、そのとき嘘をついたかどうかが90%の確率でわかるようになっているそうです。

「わたし」や意識がどのように生まれるのかはまだ科学的には解明されたわけではないですが、脳全体の働きの中でその時点で最も強く働いていた神経信号が意識となっている、と表現できるのかもしれません。それにしてもどのように脳の神経信号の強弱の波が普段意識している論理的な脳の働きになるのかは不明です。この発想でいくと、誰か何かが神経を意味あるものになるようにコントロールしているのではないか、その誰か何かが「わたし」なのではないか、と考えてしまいます。逆に、ただの偶然の神経信号の波の連なりが意識になっているだけで、何もコントロールしている第3者(=「わたし」)などなく、われわれの意識は偶然の神経の積み重ねにすぎない、と言うこともできます。

こう考えると、これは、古くからの哲学的課題である、主体と客体の問題、必然と偶然の問題と同じところにたどり着いているのが分かります。

ある神経の働きと次の神経の働きがどのようにして意味のある思考の論理展開となっていくのか、それはコントロールされた必然的なものなのか、偶然の連なりがあたかも意味があるかのような論理的思考の脳の働きになっていくのか。

近代哲学と近代科学の礎を打ち立てたデカルト的宇宙観の中にいるわれわれにとって、要素を分解し、因果論で考えるという思考方式や認識論では、この問題は解決できないのかもしれません。

量子力学における量子の波的性格の問題などもそうですが、原因があってそれに対応する結果があるという因果論では説明できず(スリットを通り抜けた光が決定論的な因果によってスクリーンのある場所にたどり着くのではなく)、われわれの説明表現では「将来的なある結果を目的として今の活動がある」と表現をせざるをえないような(スクリーンに波上に散らばるという目的に向かってスリットを光が通っていく)、そういう論理、われわれのリニアな思考論理展開ではけっして表現できないような論理でしか説明できないことがこの世にあるかもしれない、というとSFすぎるでしょうか。

そういう未知の論理があるかどうかは別として、少なくとも決定論的な因果では説明のつかない現象が存在しえて、脳の活動などもそういう現象なのではないか、というのがこの本を読んでの個人的結論です。

そうでなくても、そもそも意識や脳へのインプットはそんなに単純に分解できないものです。分解しきれない、あるいは影響範囲を絞りきれない、そういう科学の前提が成り立ちえないのが、現実の現象だとも言えます。社会や人間には、原理として、科学の前提、科学の閉じた論理からつねにはみ出していく要素が存在し得るのであり、そういうことを認識した上で科学の有効性や偉大さがさらに深く認識できるということも言えると思います。

2009年1月20日火曜日

著作権についての津田大介氏インタビュー

津田大介氏にインタビュー 著作権の現在について(1)
http://anond.hatelabo.jp/20090119210533

著作権に関して、国の各種審議会にも出ている津田氏へのインタビューがありました。
Youtubeの著作権物発見の仕組みの実際やら、今後の動向やらが述べられていて、興味深いです。

2009年1月18日日曜日

自由と社会

isologue:「もしアメリカ大陸がなかったら」
http://www.tez.com/blog/archives/001282.html

ご自身も「アホ話」と書かれているのでそういう前提で読んだ方がよいとは思いますが。
大きな人類史の中で、アメリカの出現がどれだけインパクトがあり、特異なものであり、グローバルなものとなってきたのか。

いずれにせよ、まさに今は、「自由」(=アメリカ)と「社会」(=ヨーロッパ)の拮抗時代だというのは一つの捉え方としてあると思います。

昨今の経済状況もあって、新「自由」主義的な考え方の分が悪くなりつつあるようにも思いますが、ことをそう単純に見てはいけません。

いまどきの「社会」主義的な立場は、すぐに情緒に訴えて感情的な反応を示し、ごく一部の出来事を全体の流れかのように喧伝します。
当然、「自由」の根幹には社会の安定や安全が必要であり,人権があるので、こういう危機的情勢のときには「社会」主義的施策も必要となるでしょう。
が、大きな流れで見たときに、今必要な「社会」主義的施策が恒常的に必要かというとそうとはいえません。

逆に、新「自由」主義的立場も、平常時の自らの強力な論理なり原理を、危機的状況にも無理矢理当てはめようとするには無理があります。自由は社会の安定あってのものです。

今は、「社会」的立場が情緒をあおり、新「自由」主義的立場がそれに反発する、というわかりやすいイデオロギー対立でものごとが捉えられがちに思えますが、長い視野でもっと根本から情勢を判断していきたいものです。

2009年1月16日金曜日

日本ではDRM Freeの流れにどう対応するか

久々の更新です。

先日のMacWorld2009でiTunesがDRM Freeになる発表がされましたが、日本ではいつ展開されるのでしょうか。

個人的にはDRMだろうがDRM Freeだろうが、今聴きたい機器ではちゃんと聴けているので、現時点ではどっちもいいです。
が、長期的視野に立つと、iTunesのサービスが停止したら今まで買ってきた楽曲が聴けなくなるというリスクが考えられ、その点がクリアされるという意味ではDRM Freeの方がやっぱりいいですね。

日本の著作権の、とくに補償金の議論も、将来的なDRM Freeの流れもふまえて制度設計を考えるべきだという記事がありました。
http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMIT12000015012009

ただ、iTunesがDRM Freeになっても、コピーや再生が任意にできるようになるだけで、購入者のメールアドレスは楽曲に含まれていますので、違法なことをしようとすると足がつきます。

iTunesの曲はDRMフリーになったけど、ユーザーIDはちゃんと残っている件について
http://www.lifehacker.jp/2009/01/itunesdrmid.html

 
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