2007年11月17日土曜日

群衆の叡智という古くて新しい問題

今月初め、The wisdom of Couwdsについてのパネルディスカッションがありました。
自腹で行こうかとも若干迷いましたが、記事を読むに内容的に自分が期待した物は少なかったようです。

ITPro:「「群集の叡智」をテーマにした討論会が開催」

小飼弾氏がそこで話した内容をブログに載せています。
404 Blog Not Found:「叡智の値段」

叡智の値段は0円だが、それをいかに技術的に実現するかについては特許権が(登録すれば)、それをいかに表現したかは著作権が発生し、お金につながっていきます。

また、叡智はなるべく多くの散らばった意見を集めた方がよりよいものが出てきますが、その叡智を実現しようとすると、なるべく少数にまとめて群れた方が実現できます。群衆の叡智にまつわるそうした矛盾も指摘されています。


ところで、最近、日本の戦間期の思想や文化を扱った『近代による超克』という本を読んでいますが、20世紀に入ってからの日本においても、大衆や群衆(の叡智)というのは大きな思考対象だったんだなぁと再認識しています。

西欧においても、オルテガやベンヤミンのように真正面から捉えた思想家以外にも、よく考えるとフッサールの現象学やハイデガーの存在論における日常(生活)という概念においても、大衆や群衆なるものの思想化の側面があるように思えます。

遡れば、マルクスやフランス革命、ルソーの一般意志などにまでたどり着けそうで、やはり「群衆の叡智」(個人的には「大衆の意志」と読み替えたいですが)は古くて新しい問題なんですね。(さらにはもちろんギリシャ哲学にまで。。。)

問題は、群衆にも叡智はあるんだと言い張るだけではなくて、インターネットの時代になって、そうした古くて新しい問題がどう焼き直されているかを分析することに思えます。答えは持ち合わせていませんが。

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