2007年5月3日木曜日

日本的近代社会とオウム事件:『さよなら、サイレント・ネイビー』

さよな ら、サイレント・ネイビー』伊東乾、集英社

地下鉄サリン事件実行犯の豊田亨と大学で同級生であった著者が、オウム事件とその後をノンフィクションとしてまとめたものです。
失礼ながら文章が稚拙というか、どこか文体として小恥ずかしいところもあるのですが(熱いからか?)、全体としては(構成としても)おもしろいですし、扱っているテーマは非常に深く、オウムの事件を古くて新しいわれわれの時代の普遍的問題として捉えようという意欲的な試みです。

豊田亨被告は、死刑を求刑されているものの黙して語らず、無期懲役となるための法廷戦略などをとることもなく、たんたんと裁判をこなしています。そんな態度からマスコミなどでは、反省の色なしなどと報道されたりもします。
しかしながら、著者によれば、彼が語った数少ない証言などからは深く反省していることは伝わるし、証言者として現れた麻原に対して「いいかげんにしろ」というようなことを理路整然と語り教祖を黙らせたりするなど、彼が事件と裁判を正しくとらえていることはわかります。とくに紹介されているエピソードの一つとして、接見のときに本来は接見者に話しかけてはいけない看守が著者に「豊田さんは人格者です。(死刑は)なんとかならないものでしょうか」と語らずにいられないかのように語ったそうで、このエピソードからも、豊田被告に身近に接することのできる人の印象と世間(マスコミ)の印象が大きく異なることがわかります。
豊田被告は、ある意味で日本男児なのであり、男は黙って潔く責任を取る(=死ぬ)ことをよしとしているようです。
著者は、そうではなく、今後こういうことを起こさないためにも、当事者として語るべきだと言います。"サイレント・ネイビー"ではだめだというわけです。そのとおりだと思います。

大学の教職の地位にある著者は、院生などと協力しながら、豊田被告といろいろやり取りしているようです。ただし、豊田被告との約束によりそれを公にすることはできません。なので、この本では、主にすでに公表されている資料や著者が実地で経験したことがらがベースとなっています。そうした豊田被告とのやり取りは、のちのちには日の目を見るときがくるのでしょうか。
ところで、死刑が確定すると、こうした接見もすべて禁止されてしまうそうです。そういう意味でも、死刑は問題を闇に葬るだけで著者が語るような真相の究明のマイナスにしかならないでしょう。

この本で自分が着目したテーマを3つほど。

■エリートの暴走
豊田被告は東大物理学科の中でもとくに優秀だったそうです。そんな優秀なエリートがどうしてオウムなんかに?というのが一般的な疑問だと思います。いろいろ事情が記述されていますが、第二次世界大戦との対比が興味深かったです。
第二次世界大戦もいわば東大エリートが導いた惨事です。当時は、今よりもずっと東大エリート主導の社会だったため、東大内に戦争反対の人たちが多数いたのも事実ですが、戦争へと導く思想的背景を準備したのも、それを実行に移すべく行動したのも、東大エリートたちだったと言えます。
そういうエリートたちも、個人個人を見ると人格者だったり、非常に優秀だったりするわけです。それでも、そういう人間が集まっても間違った方向に進んでいけるんだという悲劇的事実は認識すべきです。
したがって、なにごとにも、少々回りくどくても、めんどうでも、抑制する仕組みが存在することが重要です。これは、会社やプロジェクトでも言えることですね。優秀な人間がいけいけどんどんでいって必ずしも最善とはかぎらないことがあります。少々まわりくどくても、ステップを踏みながらの方が健全なのでしょう。

■マインドコントロール
麻原彰晃は、煩悩を捨てる一番効果的な方法はマインドコントロールに浸ることだと考えていた節があるそうです。まじめな信者たちが、とくに性的煩悩に苦しんでいるときに、それから解放する方法としてオウム真理教はマインドコントロールを提供したということのようです。
煩悩を頭ごなしに否定するのではなく、煩悩を煩悩として肯定できることが重要ですね。煩悩(=本質でないこと、無駄なこと)もまた、必要があって自分に現れているのであって、それも大事なことの一つです。本当だと思うことに一足飛びにとびつくことが必ずしもよいことではありません。
同じく、第二次世界大戦が例としてあげられて、あの当時は、日本国民全員がマインドコントロールされていたと述べられます。その意味でも、いつわれわれもマインドコントロールされるかわからないのです。だまされたやつが悪いとは言っていられません。

■裁判の矛盾
著者は、今回初めて裁判に密接に関わって、司法という仕組みに失望しているようです。というのも、法廷では、なんら真実が明らかにされようとはせず、ただ法律のお作法に則って物語を組み立て、事件を個人の責任に押し付けていくだけのものだからです。
著者によれば、オウム事件はもっと日本人の精神構造に普遍的な根深い問題のはずです。その構造やら根本やらを明らかにしていかないと、またいつ同じような事件が起こるとも限りません。そのためにも、脳生理学など最新の科学の成果も取り入れつつ、いったいあの事件で何がおこっていたのかをつまびらかにすべきで、司法の場はそれにふさわしいはずでした。
が、実際の法廷で行われていることは、マスコミに影響されたもしくはマスコミと結託した検察が事件を個人の怨念など単純で表面的な原因に無理矢理結びつけ、物語を作り出しては結審していくというお芝居です。著者はそこに深く失望しているようです。なので、豊田被告の死刑が確定して接見できなくなる前に、なんとしてでも当事者の語る事件の真実を導きだしたいと考えているようです。
著者のいらだちの原因は2つのレベルがあると思います。

(1)日本の司法制度の問題点
日本では立件した刑事裁判はほぼ確実に有罪になるという実績があります(逆に有罪にできないような証拠不十分案件は立件されないということです)。そのためには、オウム裁判においても、麻原彰晃の主任弁護人だった人(安田弁護士)を別件で逮捕して弁護団から外してでも裁判を進めようとします。あまり報道されませんがやってることはめちゃくちゃです。「あんな極悪人はさっさと死刑にしてしまえ」というような極端な意見を地でいっているのだからおそろしいものです。信じられないですが。
そんな調子ですから、司法の場で真実を明らかにしようというよりも、早く結審して検察としての実績をあげようというモチベーションの方が高いといえます。

(2)近代的司法の本質
(1)は明らかに問題として、それでも乗り越えられない近代司法の本質とでもいえる問題もあると思います。それは、近代社会においては、社会を安定的に運営するために、個人と自由意志と責任を堅密に結びつけているということがあります。
司法の場においては、社会(=その他一般人)は悪くはないというのが大前提となっています。社会自体の罪を裁ける司法機関はありません。したがって、司法の場においては、特定の個人や機関が責任を取りうる単位として措定され、その人の行為に罪があるのかないのかを判断していくことになります。
という大前提をふまえると、オウム事件がいくら日本社会の悪い部分の縮図だとしても、司法の場でそれを明らかにすることはおそらくできません。司法の場では、言い方が悪いですが、誰かが非をかぶって責任をとることになり、その人に非があることを証明するための物語が作られることになります。これは近代司法の仕組みの宿命と言えるでしょう。

それにしても、と著者と同じく言いたくなります。

第二次世界大戦でも、戦後の東京裁判でA級戦犯は死刑になるか、そうではない場合はその後なぜか公人として復帰しています。また、東京裁判にかけられなかった重要人は、戦後ひっそりと過ごしてきています。つまり、どうして第二次世界大戦がおこってしまったのかを当事者の立場から語れる人がいなくなってしまったのが問題です。責任は個人に押し付けられ、そういう人たちは、死刑にされるか、公人として活動するために過去の非を語れなくなってしまったか、となったのです。
オウム事件でもその繰り返しとなるのでしょうか。
著者は、アメリカの9.11事件でその首謀者の一人が極刑ではなく終身刑になったことを引き合いに出しています。それにより、9.11事件ではいつか当事者により真実が語られる可能性が残されていることになります。
日本でもオウム事件を闇に葬るようなことはしてはいけないでしょう。

オウムによる地下鉄サリン事件は、日本ではテロとして扱われず、「外国はテロがあって怖いなぁ(日本はないから安心)」とのんきに語る日本人も多いですが、海外では、Subway Attackとして、化学兵器が使われたテロとして捉えられています。
日本人が、こうしたテロ行為を反省的に捉え直し、真実を明らかにし、再発防止にどういかしていけるのか、海外からの見本となるような対応をどうとれるのかが、今まさに賭けられているのだと思います。この本はそれに一石を投じるものとなるでしょう。なってほしいものです。

0 コメント:

 
Clicky Web Analytics