2006年10月31日火曜日

著作権より実をとる:情報の再独占と新しい広告収益モデル

ITMediaに「グーグルによるYouTube買収とWeb2.0無料経済の普及」という野村総合研究所の人の記事が掲載され、読んだときにつっこみどころ満載だと思ったら、CNetの記者がそれを指摘する記事を書いていたので紹介します。

「レッシグの思想や哲学を大手メディア企業が受け入れた」ってほんとう?

この記者さんの認識に賛同します。また、この記事は、記事中に注目すべき議論へのリンクが多数貼り付けられているので重宝します。

大手メディア企業は、著作権の行使を見合わせると言っただけで、著作権は放棄していません。
しかも、FlickrなどはCreative Commonsで写真を配布できるようにしていますが、YouTubeにはCreative Commonsで動画を配信する仕組みはありません。レッシング教授自身から"Fake Sharing"と呼んでいるように、YouTubeは動画を自由にダウンロードしたり加工できたりする仕組みがなくコンテンツを独占しているためCCと相反する部分があります。

けっきょく、著作権の話はいったんおいておいて、コンテンツを作成した大手メディアとコンテンツを再配信する仕組みを作ったYouTubeが結託して、お互いが利用しあうビジネス上のWin-Winの関係を築こうとしているのが現状です。
その仕組みを新しいものと捉えれば、たしかに新しい広告モデルができるのかもしれません。そのもっとも有効な利用手段は、「マスメディアと共同体的記憶とYouTube」で引用したWeb2.0(笑)の広告学で紹介されていた、バーガーキングの宣伝方法でしょう。

他方で、CNetの記事に「Nicholas Carrの言葉」として紹介されているように、再配布の仕組みを結果として独占するようになったYouTubeが、非常に多くの人の無償の活動を搾取してごく少数の人が儲けようとしている、ということになります。
これについては、今年の4月の時点のfladdict.netブログで、「WEB2.0って結局は"地主制度2.0"なんじゃないの?」というかたちで似たような主張がされていました。
マッシュアップは、一部のデータ独占企業に搾取されているだけではないか?と。

データがなるべく多く広く流れることはおそらくよいことでしょう。YouTubeもその一翼を担っています。
その上で、どのようにデータが流れていくか、それに伴いどのようにビジネス上の収益が得られていくか、さらにはどのようにして各種権利が守られ、法律と整合をつけていくか。まさにそのあたりのことが一気に問われているのがWeb2.0の時代とも言えるのではないでしょうか。

2006年10月30日月曜日

Googleは法を骨抜きにするか、新しい正義をうちたてるか

"We’re Google. So Sue Us."(俺たちはグーグルだ、訴えてみろ)という過激なタイトルのNewYork Timesの記事が話題になっています。

『ウェブ進化論』の梅田望夫さんのブログに概要が引用されています。
[英語で読むITトレンド] 俺たちはグーグルだ、訴えてみろ

「快哉!」という印象のブログによるコメントが多いです。

しかし、こういう法を法とも思わないような態度は、革新的なことを行うには必要な態度ですが、他方で危険性も伴うことは注意が必要です。(Google自身がこう言ったわけではないですが)

非常に卑近かつGoogleとはかけ離れた例で申し訳ないですが、個人的には、中学生か高校生のときに読んでショックを受けたAVの村西監督の発言、

「あなたを犯せるためなら刑務所に3年入ります。」

というのを思い出しました。

当時反抗期だった自分は、法や規律は徹底的に反抗するものだと思っていました。ところが、村西監督のこの発言はけっして法を破るとは言っていません。逆に、法に徹底的に従うことで法を裏切ると言っているのです。
こういう確信犯的な法への態度は、反抗してみることしか脳になかった当時の自分にとって非常に斬新に映りました。

Googleもまた、徹底的に法に従いつつ法が守ろうとしているものを壊していこう、というわけです。「法にのっとって訴えられてもいいから私は法を犯します」というように。もちろん、Googleで想定されるケースでは法を犯すかどうか微妙なところで戦われるわけですが。

これは、Googleが正しい方向性を目指しているかぎり、今までの法では対応しきれていないようなよりよい革新に向けての有効な手段となるでしょう。言ってみれば、新しい正義を作り出すわけです。
他方で、万が一、Googleが保身にまわるようなときが来るとき、この態度は最悪のものを生み出すでしょう。

今までアメリカでは、優秀な弁護士の手によって、裕福な犯罪者による極端な刑罰の最小化が繰り返されています。Googleのこの戦略は、間違ってこういう道に走る危険性もないわけではないということです。

なにより、法に逆らうという態度は法の側にとっても対処しやすいものになりますが、逆に、法に従いながらあえて法の目指すところを裏切ってみせるという態度は、法を骨抜きにし無意味化してしまう、法にとっては非常におそろしい態度です。死刑になってもいいから(死刑になりたいから)人を殺すというのが非常に恐ろしい考え方であるのと同じように。

Googleが、"最強の弁護士軍団"をそろえて法を骨抜きにしてしまうというのが、社会的正義に向けて行われることを切に願います。

2006年10月28日土曜日

「Googleが奪う本質を考える力」に膝を打つ

タイトルは、次のリンク先記事そのまんまです。

グーグルが奪う「本質を考える力」

最近、ググって答えが出てこなかったら「わかりません」と言ったり、リンク先にもあるようにググったものをそのままコピーしてきたり、と、せっかく Googleのおかげでいろんな情報が手に入るようになったにもかかわらず、人間がその情報をうまく処理できていないケースが見受けられるようになってきている気がします。

ビジネスでも何でも、なにか問題があってそれを解決するためにみんなが頭を絞るわけです。
そんなときに、問題の表面的な現象だけでググって出てきた対応項目を解決策として提示するというのは、たとえその現象を鎮火できたとしても真の解決策とは言えません。

問題の裏にある真の原因を探り出し、状況や制約などもろもろの条件をすべて考慮して全体としての真の解決策をひねり出してくる必要があるのです。
ここで、「真の解決策」というのは、その問題の関係者(ステークホルダー)全員が満足するような解決策ということです。

また、同じ日に、宮田秀明さんの「経営の設計学」で、
相次ぐ製品リコールの裏にあるもの
という記事がありました。

ここでは、船の設計のみならず(宮田さんは元々船の設計者)、技術開発やビジネス経営においても、次の3つの力が必要だとされています。

* 経験知力
* 原理原則力
* シミュレーション技術

シミュレーション技術は、たとえシミュレーション技術を使わない場合にも「仮説検証論理力」として言えると思います。

また、記事の中では、上の2つは言葉で継承しにくい力だとも指摘されています。現場でもまれて身につけていく力だ、と。重要な指摘と思います。

先ほどの、「Googleが奪う本質を考える力」とからめて考えると、Googleのおかげで経験知力を活かすためのネタとなる情報は集められるわけです。すなわち、経験のなさは情報としてはある程度補えるわけです。

ところが、

* その集めた情報をうまく現実にあてはめるためには、「経験知力」が必要であり、まずそこがうまくいかない。
* また、たとえ情報が十分に集まりきらなくても、「原理原則力」でもって本当に必要な情報をより分け、本当の解決策をロジカルに考えていくことができない。
* 足りない情報を仮説で補って埋め合わせ、直面している問題に解決策をあてはめたときにどうなるかを「仮説検証」することができない。

というかたちで、本質的な解決策を考えることができないケースが出てきている、ということになります。

ものごとの本質を考える力、というのは技術や機械ではどうしようもない部分がまだまだ多いと思います。技術や機械はツールとしてうまく使いつつ、最後は人間の頭で本質を考える、ということが重要です。そのためには、実際に問題を解決していっている現場に出てもまれるということも大事でしょう。

2006年10月27日金曜日

日本ヤバい、日本から逃げろ、という意見

日本と韓国のITベンチャーを比較してみる

韓国のITベンチャーといっしょに仕事をされていて彼らの熱気に対して非常に日本人として危機感を感じておられる記事です。
自分も最近、中国の人といっしょに仕事をして、そういう危機感を感じたりもします。

が、結論がどうして「今後本気でITベンチャー界に飛び込みたいと思っている人は今のうちから日本から脱出する手段を身に着けておいたほうがよいかもしれないです。」となるかは???です。
それくらい危機感を感じている、ということなのでしょうが。

でも、そう感じる人がとくに若い人には多い気がします(自分も年寄りではないつもりですが)。

どうして、「だから、負けないように日本でもっとがんばろう」にならないのか。どうして「日本から逃げろ」になるのでしょうか。
日本がつまらない国だから?
世界のどこの国と比べても経済的に発展し、格差が広がったとはいえ世界の国の中では圧倒的に貧困がなく、最近物騒になってきたとはいえ安全な国なのに?

ないものねだりではないのか。それともやっぱり日本は脱出すべき価値のない国なのか。

ちなみに、自分は、韓国でも中国でもアメリカでも日本外に出て行って活躍してやろうということに対しては大賛成です。そういう心意気の人にはぜひがんばっていただきたい。
反対に、(きつい言い方をすると)日本から逃げていった人が逃げた先で逃げずに成功できるのだろうか?と思ったりもします。
同じ行動でも心意気の違いでずいぶん違ったものになる気がします。

あと、もう1点。
これは、自分も若いときにはなかなか理解できないというか、わざと理解したくなかったですが(重ねて、自分は年寄りではないつもりです)、やっぱり自分をここまで育ててくれたのは家族や社会、ひいては日本なのです。
たとえば、世界の最貧国に生まれていたらはたして今の自分はあったのか。世界の紛争国に生まれていたらどうか。
偶然日本に生まれたにすぎませんが、その偶然を尊重して感謝する気持ちは重要と思います。自分の親世代や先祖が、長い時間をかけて文化と体制を作ってきてくれたこと。そうしたことにも敬意を払う必要があります。それが健全な愛国心にもつながっていくと(愛国心なんてあらためて主張しなくてもよいと思いますが)。
さんざん日本のメリットを享受しておきながら、「じゃあ、そろそろヤバいから逃げるか」では人としてどうなのか、と。
もちろん、日本と心中せよなんて毛頭言うつもりはなく、日本から逃げることも選択肢の1つとしてもっていてもいいとは思いますが。

いずれにせよ、(日本でもなんでも)社会というものをもっと意識して、社会のために自分に何ができるのか?ということをほんの少しでも意識しているのは重要なことと思います。
まずは海外で自分の能力と利益を最大限伸ばしてやろうという場合でも、どこかで日本の社会や活躍した国の社会を意識しておくのは重要だと思います。
その意識がないと、どこが一番得かなぁ?ということばかり追っかけて本当のものづくりはできなくなってしまうでしょう。
他方で、たしかにもっとも得な場所を見つけるという戦略意識も重要です。バランスが重要。というか、戦略的にもっとも利益があがるところを目指しつつどこかで社会についても考えておく必要があるということでしょう。

2006年10月26日木曜日

ブログの倫理についての各国の反応

ブログについて世界各国でいろんな動きがあるようです。

「ブログ実名制」へ向かう中国政府

ブログの倫理を語るソーシャルメディア記者クラブが旗揚げ

中国では政府が強制的に実名にする動きです。かつては韓国でも実名化の動きがありました。
アメリカでは、フリージャーナリストによる一種の業界自主規制のようなものを形成しつつあるようです。

ブログの世界では、もちろん、匿名ブログがあってもいし、実名ブログがあってもいい。固定ハンドルネーム・ブログでもいい。
でも、書く側も読む側も社会的責任を伴う発言(書き込み)かどうかということには多少なりとも意識的である必要はあると思います。

ある文章(契約でもなんでも)に信頼性を与えるために、人は署名をします。それは、固有名が特権的に現実の人と結びつきうるからです。

言葉は、とくに一般名詞と呼ばれるものは、単なる概念です。「犬」と言っても、特定の犬を指すこともあれば犬一般を指すこともできます。「ポチ」と言うとずいぶん範囲が狭まります。「佐藤さん家のポチ」と言うとその文脈の中でほぼ特定されます。一般名詞でなく、固有名が、現実と言葉を結びつけるのがわかります。
ちなみに、固有名以外に、言葉と現実を結びつけるのには、指示代名詞もあります。「この犬」というように表現すると、ある文脈では現実の対象が特定されます。そのほかに、「今日」なども言葉と現実を結びつける言葉になりうることが知られています。

言葉や文章は、真実を語ることもできますし、嘘を言うこともできる、さらには嘘でも真実でもないことを言うこともできるし、意味不明にしてしまうことも可能です。

そうした言葉や文章が真実であるためには、

* 誰か特定でき正気である現実の人が書いたことを証明する(署名)
* 独立した複数の人が同じことを言っている
* 客観的証拠がある

などが必要です。

ブログは、継続的に書くことで、限りなく特定の現実の人(正気の人)が書いたことを証明することに近くなります。
さらには、リンクによる引用やトラックバックなどで結びつくことで、傍証を得ることも可能です。
もちろん、実名ブログにすれば、それだけ真実味も増すと思います。(下手な誹謗中傷は書けないでしょう)
さらには、ジャーナリズムの手法にのっとって書けばもっと真実味は増すでしょう。

これからインターネットが真のインフラとなるためには、何が真実を語っていてどれはそうではないのか、ということを法律としてあるいはガイドラインとしてさらには教育としてきちんと整備していくことも必要なのではないでしょうか。

ちなみに、"倫理"というのは、正しくやれとか正義であれとかの単なる精神論ではありません。そういう精神論は"道徳"にすぎません。
"倫理"それ自体についてはまた別の機会に。

2006年10月25日水曜日

Web2.0に対して深まる分析:Fake Sharing vs Switchboard

「ユーチューブは本当にWeb 2.0か」--「Web 2.0の倫理」をめぐって盛り上がる議論

クリエイティブ・コモンズで有名なレッシング教授が、YouTubeを"Fake Sharing"と批評しているようです。

とくにクリエイティブ・コモンズのような立場からは、価値の増大に向けて情報を積極的に共有していくことがよいことだと考えられているわけですが、YouTubeは仕組みとして情報のダウンロードや加工を許していないので"Fake"だ、と。

たしかに、YouTubeはリンクを自由に貼れるという意味では共有を促しているように見えますが、実際には自サイトに情報を溜め込んでいっているのであり、情報の発散(積極的共有)とは言い切れない部分があります。

最近のGoogleの一連のサービスも含めて、Web2.0の提唱者Tim O'Reillyは、"Switchboard vs Repository"という概念を出し、もともとのGoogleは広範囲のサイトに情報や注意を発散していくSwitchboardだったが、最近は情報を溜め込むRepositoryになってきていると指摘しているようです。

自分は、「情報の猛烈な再活用を行うWeb2.0」で、レッシングさんの言う"Fake Sharing"も含めて、つまり肯定的のみならず否定的な意味も含めてWeb2.0について書きました。
ただし、それだけでは何も言っていないも同然です。

が、こういう"Real Sharing vs Fake Sharing"や"Switchboard vs Repository"という分析概念にはなるほどと思うと同時に、いよいよ本格的かつ本質的な分析が深まってきたな、という気もします。

今までは、Web2.0的な動向について、単純に現状を追認するだけのような浅い分析が多かったように思います。とくに既存の理論を現状に無理やりあてはめて分析したかのように見せるようなものが多く見受けられました。
みんな、何かが起こっているのはわかるのだが、それをどう扱ってよいのかわからなかったというのが実際だったんだと思います。

レッシングさんは、クリエイティブ・コモンズのようなしっかり筋の通った価値軸をもっているので、賛成するかどうかは別として、現状に対してより批判的客観的立場に立てるんだと思います。

今後、こういう本格的な議論が深まっていくんでしょうね。この議論自体についてもまだまだ続きがあるようなのでウォッチしていきたいです。
置いていかれないようにしないといけないですね。

ちなみに、レッシングさんにしても、YouTubeがダメだというのではなくて、YouTubeにはクリエイティブ・コモンズ的な考え方がなく、その意味でFlickr等のようなクリエイティブ・コモンズを適用しているようなサイトとは区別して考えるべきだ、というのが主張だとは思います。

2006年10月24日火曜日

知財活用と技術者のインセンティブ

青色LED訴訟や、日立の光ディスク読み取り技術訴訟の弁護士をした升永英俊さんによる記事です。

知財新時代に備えよ——第1回 職務発明訴訟の勝ち組弁護士が技術企業に緊急提言

知財新時代に備えよ——第2回 巨額の発明対価は欧米が真似できないニッポンの競争力だ

自画自賛というか自己正当化のロジックもあるのでしょうが、こういう戦略が背後にあったのかと興味深く読みました。

青色LEDの中村修二さんは、発明者に正当な対価を支払わせないような国は捨てて、しかるべき報酬が得られるアメリカに行くと言ってアメリカに行かれましたが、いやいやアメリカの企業でこそそんな対価は支払われていないだろうとみなが突っ込みを入れたと思います。

実際、アメリカでは社員は企業との契約で縛られすごい発明をしたからといって莫大な報酬を得ることはできません。
升永弁護士は、逆に、今回、日本(の特許法)で発明への報酬を認める判決が出たことから、アメリカや他国にない強みとしてそれを活用しよう、と言います。
つまり、日本の技術者にとって発明への強いインセンティブが働き、技術革新が活性化する機会が増大する、企業も知的財産を使った利益独占による超過余剰金を報酬に当てるので財務的にもそれほど痛いわけではなく、かつ社員に技術革新意欲を沸かせることができて効果的だ、というものです。

記事の中で、あるアメリカの知財弁護士の発言として、

米国では、社員は入社時の契約で発明の譲渡対価の請求権を放棄させられるため、従業員発明者は法的には発明の譲渡対価を得ることはできない。発明者に超過利益の一部を分配する日本方式が技術者を勇気づけ、次々と大型発明が生まれれば、米国は日本に後れをとるのではないかと危惧している

という発言が引用されています。

まあ、そんなにうまくいくものか?とも思ったりしますが。

アメリカでは、技術者はベンチャーを起こし、その技術革新の対価を、高騰した自社株、あるいはより大きい企業の買収というかたちで得ているように思えます。技術者にはそういうインセンティブがあり、場合によっては莫大な富を得ることができます。
ただし、このモデルでは、ソフトウェア産業など研究に設備や資産がそれほど必要のない産業でしかなりたたないように思えます。

他方で、升永弁護士モデルだと、技術者は企業の中で研究を行い、画期的な発明をした場合には、その超過営業利益の何パーセントかを得ることができるようになります。
ベンチャーを立ち上げるよりは儲け幅が小さいかもしれませんが、企業に守られて研究することができ、かつ企業の知的財産やノウハウを使うこともできます。

どちらがいいのかはわかりませんが、升永弁護士モデルはそれはそれでひとつのあり方としてなりたっていると思います。
日本の企業風土や歴史からいってもそっちの方が適しているケースが多いかもしれませんね。

2006年10月23日月曜日

ナップスター:定額聴き放題サービス

自分はまだまだHMVなど大手輸入CDショップにCDを買いにいったりしているのですが、iTunesのブレーク以降確実にオンラインでの音楽購入が普及しているようですね。
音楽はTSUTAYAで借りるかiPodでダウンロードするか、というのが一般的になってきているのでしょうか?
しかも借りるとしてもDJなりレコードショップなりセレクトショップなりが編集したオムニバス盤か、オンラインで気に入ったものを一曲ずつダウンロードというように、かつてのアルバムの概念がなくなってきている気もします。

そんな中、タワーレコードとナップスター(Napster)が組んで定額聴き放題サービスを始めました。

使用感などについては、

タワレコが自宅にやってきた——「ナップスタージャパン」を試す
打倒iTunes Store? 聴き放題「ナップスター」の実力を検証

聴き放題対象曲数は150万曲と多いものの、どちらの記事でも邦楽の少なさが指摘されていました。なんでもオリコンチャートに出ている曲があまりないんだとか。
あとは、対応ポータブルプレイヤー数が少ないということも。

実は自分もナップスターサービスを使ってみました。
結論から言うと、さっそく解約しています。一週間の無料お試し期間中に。
個人的な感想を。

■自分の好きな曲が少ない
先の記事に書かれているとおり、曲のラインナップはタワーレコードが強いところがメインです。
実際、タワーレコードはかなりロック偏重です。記事では邦楽のヒット曲が少ないとありましたが、それだけではなく洋楽でもテクノやハウスなどは(そここそ自分が好きな分野)タワーレコードはすごく弱いし少ないです。それがナップスターでも如実に出ていました。
(FatBoy Slimとか超有名どころもなかった)

■聴きたい曲は有料
ロックでも、レッチリの新譜など自分が聴きたい曲は有料でした。聴き放題では聴けません。

というわけで、自分が聴きたい曲があまりなかったので即解約してしまいました。
でも、洋楽ロック好きにはとてもよいサービスかもしれません。

音楽配信には別のモデルもあります。
Amie Street、革新的な音楽モデルがついにベータ公開

AmiStreetでは、需要によって曲の値段が決まる仕組みだそうです。

音楽のオンライン配信は確実に一歩を踏み出している感はありますね(もうとっくに!という指摘もあるかもしれませんが)。それによって若者の音楽の聴き方も変わってきている。
ただし、配信の仕組みについてもまだもう少し右往左往がありそうです。

著作権と著作物に対する経済的対価でも書きましたが、ポイントは、
・DRMをつけるかつけないか
・課金は何に対して行うか

DRMをつけるとして
・コピー回数か
・コピー場所か

課金は
・曲に対してか
・著作権に対してか(著作権料)
・定額か
・需要に対してか
・寄付方式か

などなど。
利用者が何を受け入れ、コンテンツ提供者がどう利益を得るか、そのバランスが今模索されていると言えます。

ちなみに、お役所ももめています。
総務省のコンテンツ流通促進検討会,私的複製の現状を議論
コピーワンスは見直しか堅持か,総務省の姿勢はっきりせず議論長期化も

お役所は各業界の言い分の調整をしているだけなので、コピー規制を緩めて機械を売りたい家電業界とコピー規制を維持したい放送等コンテンツ業界の言い分が真っ向対立したまま平行となっているようです。

2006年10月22日日曜日

先送り地獄

ITMediaのBiz.IDで、「シゴトハック研究所」という連載があります。
そこで、ついついやってしまう先送りに対する解決策が書かれていました。

「先送り繰り返し症候群」根絶法【解決編】

関連して。
「マイ締め切り」で間際のバタバタをなくす【解決編】

当たり前のことなのですが、、、なかなかできませんね。
今現在、先送りにしているタスクが何個かあります。
いつも締め切りぎりぎりになってしまう。
ほんと、自分は先送りの病に取り付かれています。

先送りになりつつあるタスクは、さらに細かく具体的なタスクに細分化していくべきなのですが、なかなかその作業にさえ取り掛かるのがおっくうになってしまいます。
忙しくなってくるとついついタスクの見直しも流れて怠ってしまいますし。

自分なりに考えるポイントは、

# 必ず週一回タスクを見直す
# 週の中にタスクを見直す時間を明示的に作る
# 手の空いた時間にやることや雑用もタスク化する
# タスクを作業する時間もいつやるかスケジュールするようにする
# 自分の時間でこなせる以上に仕事を受け付けない

ちなみに、自分は現在これらの何一つできていません。
でも、過去に一瞬こういうことができていた期間があったのですが、そのときは心もすっきり仕事ができていた気がします。なので、早くその状態に戻すべきなのですが。。。

2006年10月19日木曜日

IBMと富士通の知的財産権紛争

日経コンピュータ誌25周年企画として、80年代のIBMと富士通および日立との知的財産権紛争記事を取り扱っています。

「IBM・富士通紛争」徹底報道の舞台裏

富士通や日立が、IBMメーンフレームOS互換ソフトを作成した際に契約の内容と知的財産権で問題になった事件です。

80年代は、アメリカでITプログラムの保護に著作権法が活用されるようになり、日本でも改訂著作権法が施行されたばかりでした。

が、最終的な法的第三者機関の判断としては著作権の問題は棚上げし、最終的にはライセンス料支払いで和解した係争です。

当時、IBMは日本橋に極秘オフィスを設け、副社長クラスが数十人大挙来日して問題にあたったとか。

プログラムは著作権で保護されていますが、実際の適用はいろいろと難しいということでしょうか。司法の人がソースコードを判断できないというのもあると思います。

つい先日のIBMがLinuxに関してSCOにUNIX著作権侵害で訴えられた件も、けっきょくどうなったのでしょうか?

2006年10月18日水曜日

Family2.0

今欲しいWebアプリを絵に書いてみました。
誰かこういうの作ってくれないかなぁ、、、と他力本願です。

次々に登場するFamily 2.0サイト--テーマは家族のつながり

上のような記事を読んで、もっといろいろできそうだなぁ、というか、もっといろいろ機能が欲しいなぁ、と思ったのが発端です。
家族が使うので、広告主にとってもマーケット対象が絞り込めてメリットが多そうかな、とか。
あと、とくに広告を出すとなると、家族SNSには普通のSNSよりもずっとプライバシ機能が重要になるでしょう。

2006年10月7日土曜日

映画の著作権

『映画監督って何だ!』
という映画が11月に公開されます。
http://www.dgj.or.jp/modules/contents2/index.php?id=1

それにも出演している黒沢清監督が映画の著作権について語っています。

映画は「作品」、作者は「監督」。黒沢清、映画の著作権を語る
(今や、一部の外国人には日本のクロサワと言えば、黒澤明ではなく黒沢清といえるのでは?)

日本の法律において、映画の著作権は映画制作会社にあります。監督でも主演俳優でもありません。

映画の製作には関係者も多く全員を著作者とすることもできないため、一番資金を多く出している映画制作会社に著作権があることになっています。まあ、要するに過去の法律論争で企業の側に押し切られてきてるということです。その歴史の長さと根の深さにおいて青色発光ダイオードどころではありません。

詳しくは、
Wikipedia 映画の著作物

いまや日本の文化を代表するゲームの著作権についても、映画の著作権が適用されることもあるので、ゲームの著作権者はゲームソフト会社にあるのでは???すみません。ちょっと調べましたが正確にはわかりませんでした。もしかしたら、まだだれもゲーム制作者個人が著作権を主張したことがないからかもしれません。

ゲームと著作権については、
ゲームソフトと著作権
ゲームと著作権

ちなみに、ITのプログラムも、著作権保持者は企業の場合がほとんどですね(契約の中でうたわれていることがほとんどと思います)。以前に書いたものでも、企業が著作権法違反で個人を訴えていました。

もし、著作権が"表現"を守るものだとするならば、出資者が著作権者というのはどうもやっぱり変ですね。
著作権がプログラムに適用される歴史的経緯でも書いたように、プログラムを守るためには著作権ではなくそのための概念と法律を作ったほうがよいような気もします。たとえば、情報の所有権のようなものを。

2006年10月5日木曜日

人生にもビジネスにも"余裕"と"懐の深さ"を

最近、このブログを書くのに睡眠時間が削られている気がします。そこまでして書く意味があるのか。。。

さて、そんな弱気な気持ちからではないですが。

95年前に漱石が憂いた「技術がもたらす神経衰弱」

という記事がありました。夏目漱石の『私の個人主義』を引いて、コンピュータ業界について述べられています。

『私の個人主義』はまだ読んだことがないですが、この記事を読んでぜひ読もうと思いました。
若いときは古いものに触れることの価値が今ひとつ分からずあまり触れないものですが、さすがにこの歳になってくると温故知新が身にしみます。

この本は、夏目漱石の講演を集めたものであり、その中で漱石は、開化とは近代化のことであり、人間活力の発現の経路であると定義し、活力の発現には活力節約と活力消耗の二通りあるとしているそうです。
活力節約は、技術力(当時は汽車や電話)による労働時間やめんどうなことの節約による生活レベルの向上のことです。
活力消耗とは、文学や哲学なども含めた"道楽"のことで、それによる生活レベルの向上を指します。

しかし、こうした開化は、西洋においては内発的なものだが、日本では外発的なものであり、「皮相上滑りの開化」である、とします。そして、それはどうしようもない、と言います。

「どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります」。これが漱石の結論であり、「どうすることも出来ない」と言う。さすがにあんまりだと思ったのか、「神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うより外に仕方がない」と言い直して、『現代日本の開化』の講演を締めくくっている。

西洋の文化をいかに取り入れていくか(そしていかないのか)、というのは、おそらく日本だけでなく非西洋諸国にとって大きく普遍的な問題でしょう。
2000年を越えた日本においてもいまだにこの問題が根深く横たわっています。それは、社会にも思想にも技術にもあらゆるところで目にすることができます。夏目漱石の指摘はまったく色あせていません。

そして、この記事では、開化の活力節約を担う技術の専門家について述べられた講演へと話が進んでいきます。

夏目漱石は、専門化が高度に進むと隣の専門が見えなくなってしまうと指摘します。

「現今のように各自の職業が細く深くなって知識や興味の面積が日に日に狭められて行くならば、吾人は表面上社会的共同生活を営んでいるとは申しながら、その実銘々孤立して山の中に立て籠もっていると一般で、隣り合せに居を卜(ぼく)していながら心は天涯に懸け離れて暮らしているとでも評するより外に仕方がない有様に陥って来ます。これでは相互を了解する知識も同情も起こりようがなく、せっかくかたまって生きていても内部の生活はむしろバラバラで何の連鎖もない。(中略)根ッから面白くないでしょう」

それを解決するためには、乏しい余裕を割いて自分の専門以外についても時間を割いていかないといけない、とします。

「個々介立の弊が相互の知識の欠乏と同情の稀薄から起ったとすれば、我々は自分の家業商売に逐われて日もまた足らぬ時間しか有たない身分であるにもかかわらず、その乏しい余裕を割いて一般の人を広く了解しまたこれに同情し得る程度に互の温味(あたたかみ)を醸(かも)す法を講じなければならない」

ここまで読んで、次の記事を思い出しました。

アングラ研究が消えたIT部門の行く末

この記事では、昔は、ビジネスにならないが個人的に興味をもったことがらについて、個人が勝手に深く探求し、それが長期的には次のビジネスにつながっていくということがあった。ところが、最近は、内部監査やら効率化やらでそういう"アングラ研究"ができなくなってきているのではないか?という指摘です。

やはり、人生にもビジネスにも、関係のないことに手を伸ばす"余裕"、"懐の深さ"のようなものは重要です。
これが無くなると、ジリ貧になるのが目に見えています。

夏目漱石が、専門化が進んで外が見えなくなると言ったこととそのままつながるわけではないですが、効率化などによって余裕がなくなり今のビジネスと関係のないことに目が届かなくなるというのは、新しい関連を生み出さなくなるし、そもそも面白くない、と漱石にならって言うことができます。

夏目漱石はそこで、道楽を進めます。道楽(酒や女だそうですが)を通じて、垣根を飛び越えた交流を持つことがそうした孤立化から逃れる方策だ、と。そして、我田引水ではないがそれには小説を読むことがもっとも効果的だ、と言います。

ITのビジネスにおいても(他のビジネスでもそうだと思いますが)、懐の深さや余裕をなくさないように、なんとか余裕を割いて、"道楽"を通じて外の世界とつながっていきたいものです。

2006年10月4日水曜日

みんなが納得する枠組み作りの難しさ

みんなが納得する枠組み作りというのはほんとうに難しいものです。

クリエイティブ・コモンズ改訂に立ちはだかるGPLと同種の問題

GPLについては、GPLの新しいバージョンに対してLinus Torvaldsさんを中心にGPLv2を適用してきたLinux陣営が反発しているようです。
ちなみに、LinuxはGPLv2で運用されています。

「GPLv3は瀕死の状態」--Linuxカーネルプログラマーの多くが低評価

GPLは主にプログラムについてのかなり強制力の強いライセンスです。
それに対して、クリエイティブ・コモンズは、もっと柔軟に使え、かつもう少し幅広くコンテンツに対しても使えるライセンスです。

このクリエイティブ・コモンズについても、各所から異論が出ているようで、とくにDebianグループからこれではDebianには適用できないという意見が出ているようです。そのため、クリエイティブ・コモンズ陣営との会合が持たれたようですが、けっきょく事実上の物別れになったとか。

GPLと違って、クリエイティブ・コモンズはかなり柔軟かつシンプルに考えられるようにできているので、みんなが納得しやすいものだとは思うのですが、それでも異論は出てきます。

全員が納得するものを作るのは、人類の長い歴史を見ても明らかに不可能なので、なるべく時代に即した多くの人が納得できるものを地道に作っていくということになるのでしょう。

そのあたりの調整が、ものづくりのインフラを整備するにあたってもっとも難しいところです。

クリエイティブ・コモンズのすごいところは、そういう非常に手間のかかる整備作業を、国に任せたりせず、1人(レッシング教授)を中心にいろいろな有志が集まって進めているところです。

2006年10月3日火曜日

世界特許制度の第一歩

以前の特許についての記事へのフォローです。

鮫島正洋の知財スキャン
米国の先願主義移行でいよいよ始まる「世界特許制度」

で、最近アメリカが特許を与える基準について他先進国と同等の方式を採用しそうだということについて、詳細が解説されています。
とはいえ、まだまだ基準の標準化について第一歩が踏み出された段階で、これで1回の特許出願で各国の特許が取れるわけではないですが。
でも、基準が統一されるだけで出願する企業の負担は大きく減るでしょう。

2006年10月2日月曜日

著作権と著作物に対する経済的対価

最近の著作権にまつわる動向をいくつかまとめて紹介します。

「著作権保護期間の延長を」——権利者団体が要望書 ネット時代も意識
著作権の保護機関が今日本は50年ですが、それを欧米(英米仏)並にあわせて70年にしたいという要求です。

それに対して、池田信夫blogで、著作権保護期間を伸ばしても、出版社や流通業者が喜ぶだけで著作者には何のメリットもないという批判があります。
悲しい嘘

著作権そのものは、著作者にとって非常に重要です。自分が作ったアイディアを盗まれ勝手に使われていい思いをする人はほとんどいないでしょう。
ただ、なんら経済的対価が支払われなくても、そのアイディアをつくったのが自分だと明示してもらうだけで満足する人はかなり増えると思いますし、それが非商業的に利用される分には文化や社会の貢献としてその活用に満足する人もいるでしょう。

そうした著作権の考え方に応えるのが、クリエイティブ・コモンズです。
著作権を守りつつ共有モデルを融合する

誰もが自分が作ったものに対して著作権を求める、というところまでは非常にシンプルです。
ところが、著作権を求めるだけでなく、著作物から経済的対価を求めるとき、コピーワンスなどのDRMの技術の話と絡んでややこしくなってきます。

著作物に対する経済的対価の生み出し方はいろいろな方法が考えられてきています。

NapSterなどは定額制の音楽ダウンロードサービスを考えているようです。
定額制音楽サービスはアリか

また、音楽ダウンロードの売上高に対するマージンを著作権料として支払うパターンもあります。
Appleとモバイル事業者4社,英国で音楽著作権使用料支払いに合意

気に入った場合だけ対価を支払うDonationモデルもあるようです。

これらは、基本的にDRMによりコピー回数や条件が制限されています。

もちろん、1枚/1曲いくらという従来型のモデルもあります。

他方で、
「補償金もDRMも必要ない」——音楽家 平沢進氏の提言
という人もいます。

翻って考えてみるに、多くの著作者にとって、自分の作品が多くの人に届くことは喜ばしいことです。そこから少しばかりの対価が得られればそれでいいという人もいるでしょう。自分の作品が広がれば、"著作物を売る"というビジネスモデル以外の経済的活動もいくらでも考えられそうです。

著作物を売りたいのは、やっぱり仲介業者であり流通業者でしょう。そして、ほんの一部の著作者だけがこうした仲介業者と結託して巨万の富を得ようとするでしょう。
これが悪いという気はさらさらなく、むしろ健全な経済的活動に思えます。

大多数の著作者による著作権の柔軟な活用と、ごく一部の著作者と仲介業者による著作物の独占、という対立の図式がここには成り立ちます。

趣味が多様化し、インターネットでのダウンロードなど新しい流通モデルが出てきている現在、たしかに確実に、著作物に対する対価の得方は変わってきているし、変わっていかないといけないようには思います。
ただし、間違ってはいけないのは、それは、著作権の否定ではまったくないです。
著作権を強く言う人の論調をよく聞いてみると、本来の著作権のことなんかまったく考えておらず著作物に対する経済的対価のことだけを語っていることが多いのも事実で、そこは注意して話を聞く必要があります。

最後に、従来から特別な著作権のはからいを受けている図書館の意見と、
英国図書館、著作権法の改正を訴え--デジタルコンテンツ規定の盛り込みを要請
(図書館の立場でDRMによるコピー制限を批判しています)

現状での著作権の最前線(著作権違反ぎりぎりのところ)について。
著作権侵害の問題は未解決のまま見切り発車した無料動画共有サービス

YouTubeで一番問題なのは、タダでコンテンツを配信していることではなくて、本来の著作権が無視され著作者に無許可で配信されているケースが多々あることです。

特許と著作権

書きたいことはいろいろあるのですが、最近なかなか時間を取れません。。。

IT産業のおけるものづくりの社会的(法的)基盤として、著作権と並んで大きいのが特許の問題です。
最近、特許について動きがありました。

特許は各国の国内法によって規定されており、現状では国際的に特許をとろうとすると各国に対して特許の出願をしなくてはなりません。
この特許について、国際的な共通の枠組みを作ろうという動きがあります。
が、先進国に有利となるということで一部の発展途上国は反対していますし、先進国内でも、先発明主義のアメリカが日欧の洗願主義に反発したりしています。(先に発明した人に特許権があるのか、先に出願した人に特許権があるのか)

特許「先願主義」に統一、日米など41か国大筋合意

と読売は伝えていますが、実際はまだまだアメリカの動きがどうなるかわからないところです。

先進国41カ国が「先願主義」を含めた特許認定基準統一で合意,だが米国議会の合意は不透明

このあたりのもろもろの話は、次のサイトで紹介されています。

栗原潔のテクノロジー時評Ver2
世界特許について


これとはとくに関連はないですが、世界最大の特許出願会社IBMが、自社の特許出願について新しいポリシーを公開しています。

IBMが特許に関する新しい企業ポリシーを発表,特許申請書を公開へ

ITの世界では、著作権と特許は混同されることも多いです。次の5つの観点で比較してみました。

■保護対象
著作権は表現を保護し、特許は内容を保護します。

■権利の発生
著作権は、その権利取得のために登録や出願の必要はありません。特許は、権利を得るために出願し登録する必要があります。

■公表
それにともない著作権は公表する必要はありませんが(とはいえ、実体としては公表されますが)、特許は必ず公表されます。これに対しては、企業秘密が対立項目としてあります。
特許をとるとその内容について必ず公開しなくてはいけないので、ライバル企業は模倣品を作りやすくなります。したがって、新規のものを作り出してもあえて特許をとらず企業秘密とすることもあります。

■維持費
著作権は維持費がかかりませんが、特許権は維持費用がかかります。

■保護期間
著作権は50年(一部、75年に延長の動きあり)で、特許権は出願後20年です。

ITのプログラムは著作権で守られます。アルゴリズムやアイディアは特許権で守られます。

著作権をもつプログラムは、原理上コピーには許諾が必要ですが利用は自由です(コピーせず利用するというのは事実上不可能ですが)。また、許諾さえ得れればコピーして利用することも可能です。
特許を取得したアルゴリズムは、利用する際に特許権をもつ事業者と契約し、無料もしくは対価を支払って利用することが可能です。

それぞれ、優れた表現や新規のアイディアを保護し、その創作者に利益があるようにすると同時に、適切に利用されることを通じて文化や産業の発展に貢献するためのものです。

デジタルな情報であるITのプログラムやコンテンツは、この著作権と特許権の境を曖昧にし、かつそれぞれ国内運用されているものを国際的な土台になし崩し的に移していきます。

今、こうした新しい事態に耐えうる著作権や特許のインフラが必要とされていると言えます。

 
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