2006年11月10日金曜日

「みんなの意見」は信用するにたるか

「みんなの意見」は案外正しい』 ジェームズ・スロウィッキー
を読みました。
納得できない部分も多々ありましたが、総じて非常におもしろかったです。

『「みんなの意見」は案外正しい』の主張は、一般的に思われているように大衆は烏合の衆でも衆愚政治の担い手でもなく、好き勝手な個人の意見が集まればなぜか正しいものとなるんだというものです。
ただし、そのためにはいくつか条件が必要であり、あるタイプの問題では必ず正しくなるとも言えないという限定付きです。それは著者自身がその限界を念入りに説明しています。
つまり、この本をよく読むと、「みんなの意見」は正しくもなり間違いもする、ということを言っているに過ぎないということにもなります。ただし、正しくある可能性が高いための条件が具体例とともに整理されている点は興味深いです。

まず、集合知が活用される場として、認知、調整、協調という3つの問題系が取り上げられます。この本の中では、認知と調整については、条件と仕組みさえ整えば、みんなの意見は案外正しくなる、としています。しかし、協調の問題については、人間の向社会性という性質のようなものを想定しないと、みんなの意見が正しくならないとしています。

・認知
ある時期に答えがはっきりするような問題において、評価をするための基準単位を明確にしてなるべく多くの人から数字を集め、その平均値を出せば、正解を出す確度がかなり高いとされます。
ただし、そこで取り上げられる例には偏りがあるような気もしますし、平均値が正しいとされているため、一回一回の予想値は大きくかけ離れている可能性も考えられます。

・調整
正解がない、もしくは時期や状況によって正解が変わってくるような問題において、集団内の各人の意見をうまく集約する仕組みがあれば、正解を出す確度がかなり高いとされます。
集約する仕組みとしては、明示されてはいませんが、読み取りうるのは次の3つです。
-慣習など規範が内面化されていて多くの人が自然と集団として正しい行動を取る
-意見を集めて判断する人なり組織が存在する
-売る買うなど2つの立場から出てくる意見が価格など明確な基準値によってバランスをとる仕組みがある

・協調
税金など公益、公共財の問題です。個人の最適化が全体としての最適化に反するケースです。個人が自己の最適化をはかればフリーライダーと呼ばれる公共財のただ乗りをする人が出てきて公共の仕組みが崩壊します。実際には、社会の構成員は、自己の最適化を追求せずにある程度公益を考えた行動をします。それには、社会の構成員間の信頼関係が重要であり、向社会性と表現するしかない人間の性向が重要です。
ただし、協調の状態は、誰かがズルをしだせば容易に崩壊しうる弱いものであり、状態を維持するためには、不正をモニターし、不正を行った人には罰が下されることが重要だとされます。


3つの問題系で集合知が賢くある条件としては、集団内の各個人が、多様、独立、分散であること、かつ、各個人の知をうまく集約する仕組みがあること、としています。

・多様
特定の偏りがなく、できるだけ多くの意見が取り入れられることが、集団として正しい判断をする条件となります。多ければ多いほど、多様な意見が取り入れられるほどよいとされています。

・独立
お互いが影響を与えず、多様性が維持されることが条件となります。とくに小さい集団には、間違いが伝播する集団極性化のリスクがあります。集団極性化を無くす前提として、各人が独立して意見を言い判断するということが重要になります。

・分散
権限が集中していないこと、独裁者による判断が行われないことが条件となります。ただし、次に述べる集約の仕組みがキーとなり、これがないと分散は縦割りなど逆にマイナス要素ともなりえます。

・集約
単になるべくたくさんの意見があればよいだけではなくて、それらの意見を集約する仕組みが必要です。たとえば、市場は価格という基準によりうまく情報を集約できています。Linuxでの取り組みを見てもそうですが、中央で意見を調整する人は存在するし、しないとうまくいかない、ということです。ただし、それと分散とは矛盾するものではないとされています。


この本で取り扱われているテーマに対する根本的な疑問としては、予測が当たったからといって正しいのか?ということです。社会的に正しい、歴史的に正しいなど、正しさはその文脈により相対的なものとなりえます。
群集の予想がある時期の状態を言い当てたとして、それが正しいと言えるのか、ということが根本的疑問です。


また、理論的反論としては、次のものが興味深いです。

「みんなの意見」は正しいか

Lessig Blog (JP):集団に知はあるのか?

ただし、最初のリンク先で指摘されている、「むしろ重要なのは、間違いを事後的に修正するフィードバック装置だ。」や「代議制民主主義には、投票の個人的便益(1票の差で選挙結果が変わる確率)がゼロに等しいという致命的な欠陥があるので」という点は、すでに本書の中で指摘されており、スロウィッキーさんも意識されています。

両方で指摘されている「コンドルセ定理」については気づいた範囲で本書では触れられていなかったです。これについては、触れるべきだったでしょう。


けっきょく、『「みんなの意見」は案外正しい』という本は、みんなの意見は正しくもあり間違いもするということを周到に述べているのであり、たくさん間違うにもかかわらず、これを信用するに足る何かがあり、現実世界でも「みんなの意見」を信用する方向に進んでいるように見受けられる、と指摘しているにすぎません。「みんなの意見」を信用しうるなんら客観的な根拠は示せていないと思います。
にもかかわらず、この本が興味深く多くの人の共感を呼ぶのは、この本が、よりよい社会にしていくために「みんなの意見」を信用しようと呼びかけているからなのだと思います。それはそれとして、個人的には重要な取り組みであり共感するところでもあります。

著者の主張をまとめると、「みんなの意見」を尊重することは、数々の問題も抱えているが他の仕組みよりも劣っているということはなく、現場の意見を反映させたり、さまざまな意見を取りうるという意味では優れているということなのでしょう。
「みんなの意見」を尊重すれば、それによる数々の失敗も他の人の意見を取り込むために必要なものとなり、「民主主義の経験は」、「いつか自分が勝利する機会もあると信じられる」ような「敗北の経験であり、敗北を受け入れる経験である」のでしょう。


この本の読書メモとしては、次のリンク先もまとまっていて非常に参考になります。

読書メモ:tokuriki.com:The Wisdom of Crowds (みんなの意見は案外正しい)

Casual Thoughts:『「みんなの意見」は案外正しい』の読書上の注意

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