「検察の実情、バブルのあやうさ:『反転』を読む」で、検察の実情について書かれている本を紹介しましたが、先週末の「朝まで生テレビ」で、元検事も出席しての、日本の検事、とくに特捜と政治犯罪についての問題が取り上げられていました。
田原総一朗自身が取り上げたリクルート事件や、鈴木宗男事件、賄賂の現場にいた人たちが起訴されず落選中の元議員が有罪になっている日歯連事件、そして冤罪が確定した志布志事件、等々。
日本の検事が、当初作った犯罪ストーリーが検挙後うまく成立しなかったときに、かなり無理に事件をこじつけてきていることが分かります。その際には、精神的にも肉体的にも威圧的な取り調べが行われることも多々あるようです。志布志事件では、拘留期間が1年を越えています。重大な人権侵害でしょう。
日本では、起訴された事件の有罪率が99.5%を越えますが(ヨーロッパ等では5割を割るらしい)、そもそもこの構図がおかしいですね。
元検事の方々のもっともな言い訳としては、とくに政治犯罪や経済犯罪に関して、日本では、司法取引もおとり捜査も盗聴も禁止されている、もしくは事実上実施できないため、拘留中の供述調書が唯一の証拠となることが多く、供述調書をいかにうまく作るかに検事の全精力が注がれ、しばしば恐喝じみた取り調べになってしまう、という指摘がありました。
また、検事と司法の結びつきも強いため、通常、いったん検事の取り調べで供述してしまったものは、裁判の中で否定しても覆ることは稀だと言います。
閉じた空間で行われる取り調べの方が、開かれた場で行われる裁判よりも優先されているわけです。
こう書くと、日本の司法の仕組みが、非近代的というか非民主的というか、けっこう危険な方に転がりやすいようにも思えてしまいますね。
もっとも、裁判では、被告は弁護士の助言をもらって発言するため、たとえ開かれた場とはいえ真実を語っているとはかぎらないわけで、そう考えると、検事による取り調べとどちらが真実なのかはやはり難しいところですが。
などと考えてくると、日本でもおとり捜査を認めてなるべく客観的証拠を押さえやすくしたり、司法取引を認めたりすることで、長期間の拘留という半分拷問とも言える非人道的手法は減らすべきなのではないかと思えました。
そうすることで、より供述調書の信憑性が増えるのではないかと。そして、取り調べと裁判でのねじれも減るのではないかと。
というのも、日本のこの手の事件では、取り調べによる虚偽の自白→一転裁判での否定→でもやっぱり有罪、というパターンが非常に多いようですので。
あと、この手の政治事件を並べると、ロッキード事件以来の特捜vs旧田中派という図式がものの見事に現れるという指摘もありました。
2007年12月3日月曜日
日本の検事事情
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