2008年5月4日日曜日

"仕事"と"他者"

内田樹の研究室:キャリアを考える

仕事をするということについて、なるほどと思わせることが書いてあったので紹介します。

就職活動のときも、会社に入ってからも、いろんな資格を取ったり、キャリアシートのようなものに何をしてきて何ができるのかを書いたりして、自分は何ができるかをアピールします(させられます)が、"仕事"の本質は実はその真逆のところにあるという指摘です。

「仕事をする」というのは「私のもっているどんな知識を求め、私の蔵しているどんな能力を必要としているのかがわからない他者」とコラボレーションすることである。
相手構わず、「私はこれこれのことを知っています。これこれのことができます」というリストを読み上げても意味はない。
「私はあなたのために何ができるのですか?」
そうまっすぐに問いかける人だけが他者とのコラボレーションに入ることができる。

自分にはこういう能力があると自己評価し、その能力を活用できると思える仕事しかしないというのは、実は"仕事"をしていることにならない。それは自己満足に過ぎない可能性が高い。
そうではなくて、いっしょに仕事をする人たちに対して、どういうことができるかを考えることが重要であり、そうしたやり取りを通して成し遂げられることが"仕事"だということです。

これは、リーダー的立場にある人も同じです。
「自分はこのプロジェクトの目標を知っています。目標達成のためにはこれこれのことをする必要があります。」と読み上げてもしかたがない。「私はあなた(メンバー)のために何ができるのですか?」と問いかけることが重要になります。

とはいうものの、自分に何ができるかを知って表現していないと向こうから問いかけられることもないし、問いかけに対して答えるための軸もないことになってしまいます。その意味で、自分に何ができるかを自己評価することは重要なことです。実際の"仕事"において、その自己評価に固執するのはよくないということだと思います。
リーダー的立場にあっても、プロジェクトの目標やToDoの把握は最重要なことです。実際の"仕事"において、メンバーへの対応を疎かにして目標やToDoのみに固執するのはよくないということだと思います。

ところで、リンク先のエントリでは、"他者"という言葉がよく出てきますが、これは内田さんの研究内容からして、レヴィナスや(フランス系)精神分析のl'Autre(他者)のことだと思われます。

"他者"は、戦後の思想界での最重要タームの1つです。西欧近代の基底には、"Identity(自己同一性)"という日本語にしにくい用語があります。主体性や客観性は、この自己同一性にもとづくものです(自己同一性がないと客観的にも主体的にもなれません)。
ところが、戦後、自己同一性の信奉に一定の批判が加えられ、その対概念としての"他者"が重視されるようになりました。それは、戦前において自己同一性をあまりにも厳密に純粋に突き詰めた結果、自己同一性から外れるものの排除(体の不自由な人や精神疾患者、さらには他民族まで)が起こってしまったからです。

現代では、自己同一性なるものも、実は"他者"との交流の中で形成されていくものであり、また"他者"との交流を通して常に変化して行くものだという考え方が主流となっていると思います。
そのため、主体や客観性というものもまた不変なものではなく、"他者"との関係性の中で捉え直されていくものになります。

自己同一性により主体と客観性が唯一不変に決まれば、ロジックも平明になり、科学的あるいは数学的計算でロジックを表現できるのかもしれませんが、実際にはいろいろな(無限の)"他者"との関係性の中でつねに主体や客観性を捉え直していかないといけないところが難しいところです。

ただし、このことは科学的数学的なロジックに意味がないということではまったくなく、むしろ重要で、ただ、いかに多くの人が納得できるかたちの"他者"との関係性の中で、自己同一性を仮定したロジックを平明に表現できるかということがポイントになってきているようには思います。

"仕事"の成功も、どういう"他者"との関係性を仮定すれば、主体(プロジェクト体制)と客観性(Objective:目的)がどのように決まり、それに基づいたロジック(スケジュールとWBS)が決まるか、というところに依っているのではないでしょうか。

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