「死と抽象化」でも、書評だけ紹介した
『死刑』
森達也
朝日出版社
を読みました。
一見タイトルからして読むのに重たい気がしますが、関係者へインタビューしていくドキュメンタリーとして一気に読めてしまうようなおもしろい(言い方が不謹慎ですが)本でした。
筆者は死刑存置にどうしても賛成できないものの、廃止にも納得できるわけでもない、というように揺れるところから出発して、ならばまず死刑というものを知らなければならないと考えて行動していきます。
まずは、刑場を見ようと刑場のある全国の刑務所や拘置所に手紙を送りますがこれは拒否され、拘置所に押し掛けても慇懃に拒否され、ならばと以前刑場を視察した国会議員や、死刑を見る立場にあった元検察官、さらには執行を行った元刑務官、冤罪で帰ってきた元確定死刑囚などにインタビューし、日本で死刑がどのように行われているかを明らかにしていきます。
先進国で死刑を残しているもう一つの国アメリカでは、死刑はかなりオープンになっており、刑場などもホームページで紹介していたり、死刑執行も事前に告知されたり、死刑自体死刑囚の家族や被害者遺族も立ち会うことが可能になっているそうです。
また、アメリカでも当初は絞首刑でしたが、苦痛を伴うとしてその後電気椅子に換わり、さらに薬物注入(まずは睡眠薬でその後心肺停止させる薬)によるものになっています。最近では、薬物注入も苦痛を伴うという調査結果を受けて連邦政府から死刑執行を止めるようガイドが出て、多くの州では事実上執行を取りやめています。
かたや、日本では、死刑は徹底して隠されています。執行の本人への通達は当日の朝食後、そして午前中には執行されてしまいます。家族に会ったり、下手したらまともに遺書を書く時間さえありません。執行のある日の朝食後の時間帯は、死刑囚棟は張りつめた空気になるようです。昔は違ったようで、前日には通達があり電報も打てたので家族や弁護士と会ったりする時間があったようです。
また、死刑確定後は、家族や弁護士としか面会できなくなり、その時間や回数も著しく制限されます。手紙でさえ回数と宛先が決められてしまいます。昔は、死刑囚同士で交流することもあったようですが、拘置所内でも他の死刑囚と会うことも会わないようにされているようです。死刑執行まで10年かかるとすると、10年間はほとんど誰ともコミュニケーションがとれないような境遇におかれてしまいます。これは精神的にそうとうつらいものではないでしょうか。
日本ではドロップ方式の絞首刑です。これは明治以来変わっていないと言います。刑場には、複数名の吊るす刑務官、ボタンを押す3人の刑務官、そして医師が立ち会い、ガラス越しに閲覧できるバルコニーのようなところがあってそこには検察官が立ち会います。これ以上の描写は、本を読んでみてください。
筆者は、死刑廃止派の人、存置派の人にも会ってインタビューしていきます。
まともな廃止派の人も存置派の人も、言っている内容はほとんど同じだということに気づきます。ただ、結論だけ違う。被害者の立場や権利の保護が著しく不十分であること、死刑執行自体は無くてすむなら無い方よいこと、多くの被害者には応報感情があってそれで苦しむこと。そうしたことはどちらも理解した上で、かたや賛成しかたや反対するというように結論だけが異なってきます。
これは筆者も言うように、論理だけでは済ませられない情緒の領域に入っているからだと思います。
存置派も廃止派もまとに考えている人はわかっていますが、死刑は論理的には整合性がつきません。主権者を国家が殺すあくまでも例外ケースとするしかないのですが、この特殊ケースの殺人を認めるというロジックは、戦争や自殺、正当な(?)殺人といったようないろんなケースにリンクしていってしまいます。
死刑は刑罰の目的にも合致しません。報復権を主権者から取り上げ、犯罪者の更生を行うという目的から外れます。
死刑は法技術上も問題があります。つまりは裁判も人間がやるものなので、誤審、冤罪を0%にはできないという問題です。少し昔までは死刑が確定すると事実上再審請求もできませんでした。執行されてしまうともう取り返しがつきません。そして、実際、戦後の日本においても冤罪で死刑執行されている人が何人もいそうなのです。昨今の痴漢裁判でもそうですが、いったん捕まって起訴されてしまうと、日本では99.5%の確率で有罪になります。第3者としては、凶悪犯罪報道に不安を煽られて被害者になる不安もありますが、実は加害者に仕立て上げられる可能性もあるということです。
それでも死刑が必要なのは、多くの被害者には応報感情があるからです。当事者のこの感情を誰も否定できません。まともな法学者で存置派の人も、論理的抽象的には死刑廃止となるが、実際の事件に即して被害者感情を考慮すると存置とせざるをえないという主張のように思えます。某弁護士の台詞で言うなら「法に魂を吹き込むなら」死刑にせざるをえないということでしょうか。
また、被害者遺族で存置派の方が、廃止派は抽象的でキレイゴトを言ってるだけだという話もありました。
この本では本村さんからの手紙も紹介されています。その内容は当事者の言葉として非常に重みがあります。そこには、この事件に関しては死刑を求めるが、死刑一般としては私には是非は語れないと書かれていました。
自分としてもこれが死刑というものを言い当てている真理に思えます。
当事者が死刑を求める、この心情を誰も否定することはできません。でも、一個人の感情と社会のルールは異なることもあるということです。「国家が国民の"感情"に動かされていいのか」にも書いたように、被害者の方が死刑を求めることと国として死刑を執行することをリンクさせるのは非常に危険に思います。さらにはそれを煽るメディアは醜悪です。本村さんも存置派に仕立て上げられてメディアにはそうとう不信感があるようです。
報道は客観的事実を伝えるべきですが、あまりにも憎悪を煽る方に偏りすぎています。「ルワンダ大虐殺におけるメディアの恐ろしさ」でも引用しましたが、憎悪は憎悪を増幅してしまいます。そうした負のスパイラルに陥ってしまうと行き着く先は悲惨な状態しかありません。
被害者で存置派の方の意見として、死刑は日本の文化だという話もありました。でも、文化だからこそ修正していける部分もあると思います(多くの伝統文化は廃れています)。文化として死刑が廃れれば、被害者の応報感情も死刑に向かうことは無くなるかもしれません。つまり、今、被害者の応報感情が死刑に向かうのは、そういう文化の中で育ってきたからなのかもしれません。死刑が無いことが当たり前の環境で育てば死刑には向かわないかもしれません。
一方で、西欧諸国でさえも死刑が無くなったのはここ数十年でそれより何百年前から死刑という文化はありました。ということは、今は廃止していてもまた復活する可能性もなくはないし(ただ復活に賛成は割合としてはかなり少ないようですが)、応報感情が死刑に向かわないとも限らないです。
やはり、個人的意見としては、被害者の応報感情の鎮め方にはいろいろな方法があるのではないかと思います。死刑によって憎悪を解消するというやり方でなくても。
キレイゴトではありますが、社会としてはキレイゴトも語り実践していく必要があります。当事者になってもそんなこと言ってられるのかと言われれば答えようがありませんが、それと社会としてどうするかは区別して考えてもよいはずです。被害者遺族の中でも死刑廃止運動されている人もいます。人によって事情が大きく異なる中、当事者にはなれない第3者としては、個人の感情を尊重しつつ社会として考えなければいけないことがあり、現状の追認ではなくて善くなる方へ改善する方向へと考えていく必要があるでしょう。(まずは、被害者ケアや再犯防止のための施策などでしょうか)
2008年6月2日月曜日
個人の感情と国家のルールの狭間
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 コメント:
コメントを投稿