昨日、「個人的感情と社会的正義の葛藤:死刑制度を巡って」を書きました。
ひどいことをされた人に対する憎悪感は否定できないけれど、それと社会的正義は違う、と書きました。
死刑うんぬんはいったん置いておいて、やっぱり、社会が国民の"感情"に動かされるというのは、はたして社会として正しいあり方かというのは疑問です。
"感情"に動かされた政策ほど危なっかしいものはないでしょう。
そういう意味でも、たとえ個人の感情としては正しいとしても、社会としてそれを反映すべきか、というのは直結しないし、多くの人に共感される感情を社会的に反映できないことが冷たい社会だと受け止められたとしても、社会とはそういうもんだとしか言えないでしょう。
感情論がどこまで世論となり、社会的政策となっていくべきかの線引き、落としどころは、人によって異なるのでしょうが、少なくとも社会が直接的に"感情"に左右されるとしたらそれは危険なことだとは指摘できると思います。
最近のマスコミでの悲惨さの煽りとそれに対する視聴者の反射神経的反応を見ていると、ちょっとそういうことを感じました。
2007年9月7日金曜日
国家が国民の"感情"に動かされていいのか
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