『漢文脈と近代日本 -もう一つのことばの世界』
齋藤希史
NTTブックス
近世から近代の日本が、いかにして「ことば」を獲得していったのかの歴史を、漢文を中心にたどったものです。近代の言語の問題を扱う場合は普通、二葉亭四迷らの"言文一致"運動や夏目漱石らの近代小説がその中心にくると思うのですが、この本では、漢文を中心にその歴史がまとめられているところがポイントです。
漢文は、近代日本がことばを獲得していく上で、訓読体として近代国家の均質的な言語空間の創出に貢献し、そしてその後の新しい国民言語を作り出す際の対概念として機能していったということがわかります。
最近も、教養としての漢文のちょっとしたブームがあったり、漢字をよく知っている人=頭のいい人というような俗信があったり、そもそも国語の教科書には漢文が出てきて大学受験でも漢文が存在したりというように、漢文なるものは現代日本人の中でも生き続けていると言えます。某大学の入試では漢文が必須であり、理系の人(文系でも)の中にはどうして今後一切使用しない漢文なんか勉強しなきゃいけないんだと思う人も多いでしょう。
明治時代までの日本では6種類の文体が存在し、その中で漢文は公の文書で使われていました。
ただし、漢文が広く教養としての知識体系となったのはこの本では江戸時代とされています。寛政の改革で、徳川政府が朱子学を中心に学問の体系化をし異学を禁止したこと、同じタイミングで『日本外史』といった漢文で書かれたベストセラーが広く普及したこと、がその原因です。
すでに兵士ではなく官僚となっていた武士階級の士族は、子供の頃から藩学などで漢文および漢文訓読体を習得していきます。明治初期の政治家を含む文筆家もことごとく漢文訓読体を習得し、それを使って書物を著しました。
この漢文訓読体が、新しい国家の言語として、明治政府のもと推進されていきます。
ここで、漢文や漢文訓読体というのは、古代中国で書かれた漢文が典故としてその参照先となっているものです(近代中国語は参照先となりません)。
したがって、漢文を習得するとはすなわち、古典に現れる紋切り型表現(=クリシェ)を覚えていくということになります。いったん漢文を習得すると、ある感情を表現したり、ある論理を表現したりしようとするときに、この紋切り型表現をいかに組み合わせるかというところが腕の見せ所であり、漢文を読む読者もこの紋切り型表現の使い方でより深く感動したり、よりよく理解できたりするわけです。
ちなみに、英語でもシェイクスピアなどを典故とするクリシェはたくさんあり、辞書も出ているほどです。イディオムなどもその1つと言えるかもしれません。
言文一致運動は、この漢文的表現からいかに自由になるかの運動だったとも言えます。内面を表現したいときに、漢文だと大げさになり、かつ古典の世界のしがらみがどうしても取れません。そうではなく古典に縛られない新しい人間の内面を描くためには、新しいことばが必要だったのです。そのために今まで書き言葉としてはほとんど表現されてこなかった口語体が使われたわけです。
言文一致が達成された後も、支那趣味の作家は漢文調を使いましたし、現代においても、熟語などに漢文が生き続けています。現代日本語と対照しうる一つの自立的言語空間として今後も漢文は存在し続けるでしょう。
文体は思考と結びついており、漢文には漢文的思考というのが確実に存在しました。
今、インターネット文体が創出されつつある過渡期なのかもしれません。漢文訓読体や口語体が成立していったあとを見るに、ある文体が成立するためには、
* 広く読まれること(かつ模倣されること)
* 新しいものを表現しうること
* 権威化(authorize)されること=教科書に載ること
がポイントのように思えます。
インターネットの世界の文体と言えるようなものははたして今後大きな潮流となりうるでしょうか。そのとき、インターネット思考は、従来の思考法とどう異なるものとなっていくのでしょうか。
2007年8月12日日曜日
文体は思考を形成する:『漢文脈と近代日本』
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