『日本国の原則—自由と民主主義を問い直す』
原田泰
日本経済新聞出版社
著者によれば、明治以来、自由が尊重されている時期に日本は発展しかつ平和な時代を迎えており、政府による統制が強まる(自由が束縛される)時期に衰退し戦争などへ突入していっているとのことです。
いろいろ歴史的論拠も示されていますが、自分にはそれがまっとうなものかどうかは判断できません。が、感覚としては、自由こそが社会や文化の繁栄をもたらし、統制は社会の停滞をもたらすという著者の主張は正しいように思えます。
ここで語られている「自由」はもちろん、自由放任ということではなくて、私的所有権がきちんと認められた上での自由市場であり、権力(人の自由を奪いうるもの)に対する個人の言論の自由です。
第二次世界大戦前夜、日本はけっして窮屈で貧しい国だったわけではなく、自由で豊かだったと言います。国民(やメディア)は、さらなる経済的発展を求めて戦争を支持します。満州国の建国には、日産コンツェルンの鮎川義介等による国際的自由主義経済圏の設立構想もあったと言います。
ところが、当時の軍部は、長期間戦争がない状態で、かたや経済謳歌している事業家を尻目に鬱憤がたまっていたそうです。軍人は戦功をあげると昇進し、最終的には華族にまでなれます。ところが戦争がないと昇進も望めず、経済的名誉的欲求を満たせません。
同級生が資本家としてサラリーマンとして経済的に満たされている一方で、軍人を選んだ自分は先の見えない軍隊生活に甘んじているという屈折した状態だったのかもしれません。
したがって、日中戦争開戦時は、軍部と国民の意図は合致していたが、さらなる経済的発展を求める民間企業に対して、軍部ははなから戦争を目的にしていて、むしろ自由に基づく資本主義的発展は望んでいなかったとも言えます。
そして、軍部による政府の掌握と、戦争のための経済統制および言論統制が強められていきます。この段階で、国民から自由がとりあげられ、日本がまだ修正できたかもしれないポイントを決定的に逸脱していきます。
自由で民主主義的であれば、間違いを犯すことはあっても(戦争を始めることがあっても)、それを批判したり、戦争以外の目的の行動をとることも可能です。
引用されるヒュームやカントなどにおいても、理想的な自由かつ民主主義的国家は戦争をしないとされます。それは、戦争がけっきょくは国民の不利益(戦死等)になるため、戦争すればするほど(戦死者が増えるほど)、民主主義国家は戦争に反対していくということになるからです。
理論上(政治哲学)も、歴史的事実としても、大規模な戦争を回避するためには、自由と民主主義が非常に重要だと言えます。
著者はまた、日本の軍国主義と共産主義の類似性も指摘しています。とくにレーニン的な共産主義では、共産党が民意の先を読める前衛党として実際の国民から意見を聞くことなく経済と言論を統制していきます。前衛党である共産党と違う意見の国民は、まだ共産党的レベルに達していないためだとして粛正されていきます。
日本の軍部も天皇の意をもっとも直接に理解している組織として民意を聞くことなく独走し経済や言論を統制していくという点で類似性が指摘されます。
もちろん、その後の社会主義による経済言論統制体制の腐敗/崩壊、日本軍国主義の暴走は指摘するまでもありません。権力による統制は、一見、公平の実現、効率的なリソース配分、規律の維持、等が一元的に効果的に実現できそうですが、実際には腐敗と非効率、その先の暴走が待っているのが現実と言えるでしょう。
著者の主張としては、日本は江戸時代から自由と民主主義を受け入れることのできる文化的背景があって、明治期に導入した際にはその意味を深いレベルで理解し、例外的な時期はあるものの自由と民主主義を実現してきたのだから、近代日本の原則としての自由と民主主義をきちんと理解すべきだというものでしょう。
2007年10月13日土曜日
統制と自由
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