『情報の私有・共有・公有 ユーザーから見た著作権』
名和小太郎
NTT出版
著作権にまつわる豊富な事例がまとめられていて非常に参考になります。その部分がこの本の価値となっているので、この本で言いたいことだけをまとめてしまうと非常にシンプルになってしまって元も子もないのですが、まとめてみます。
基本的な構成は、「従来の著作権の枠組み」→「デジタル時代にはそぐわなくなってきている」→「筆者の考えるあるべき著作権制度」という展開で、その間に多数の事例が取り上げられています。
【従来の著作権の枠組み】
国際的な著作権の取り決めであるベルヌ条約は次のような枠組みを持っている。
(1)表現の保護:制度の目的は著作物の「表現」を保護することであり、その「意味」、あるいは「内容」は自由にコピーできる(第2章2節)。
(2)コピーの保護:制度のもう一つの目的は著作物の「コピー」を保護することであり、それに「アクセス」すること、あるいはそれを「使用」することは自由である(第2章2節)。
(3)著作権の優位:著作権のほうが著作隣接権よりも優位にある。前者は創作性をもつことを前提とするが、後者はそうではないからである(第3章1節)。
(4)天才的な著作者:著作物は少数の天才的な著作者によって制作される希少な商品であり、多数のユーザーはこれを消費するだけである。つまり著作物の流通は一方向的である。
(5)私的領域の分離:著作権の及ぶ範囲は市場のなかに限られる。したがって私人の行為は「私的使用」として著作権の保護範囲から外れる(第5章1節)。
(6)コピー製品の劣化:著作物はコピーによってその品質が劣化する。この技術的な制約によって、既存のコピー製品から市場価値をもつコピー製品を作ることはできない。
【かつての著作権が成り立つ前提は総崩れ】
これらの枠組みは現代のデジタル技術の時代においてはことごとく崩れてきている。かつての著作権が成り立っていた基盤は現代の社会情勢の正反対となってしまっている。
現に、たとえば日本の著作権法は、1970年に成立した後、
1970年代前半に2回、後半に2回
1980年代前半に3回、後半に5回
1990年代前半に6回、後半に7回
改訂されてきている。
こんなに頻繁に改定されるような法律はすでに法としての自律性を失っていると言えるし、現に補填に次ぐ補填でスパゲッティ状態となってきている。
【筆者の考えるあるべき著作権制度】
ユーザのためになる著作権制度をゼロベースで考えると次のようになる。
(1)著作権の取得にあたっては、著作物への権利情報の付加と、その公的機関への登録を、著作者に対して義務化する。
(2)保護期間中には著作権の維持に対して登録料を徴収する。登録料の納入がなければ、その著作物を公有にする。
(3)許諾権については、これを行使できる機関を短縮し、これを超える場合の権利は報酬請求権にかぎる。
(4)著作者人格権の中心に氏名表示権を置き、同一性保持権は廃止する。
(5)原著作者が、そのすべての二次的著作物について、強い権利をもつことを抑制する。
(6)公正使用の条項を導入する。
(7)録音録画保証金システムを拡張する。
著者の考えるあるべき著作権制度は、
* 特許制度のように登録制として権利の有無を明確化して著作者の権利を保護するとともに、なんでも著作権でがんじがらめにせず著作権フリーのものをも明確にする
* 著作者人格権など隣接権を限定的にし二次利用を促進させる
* 保証金システムをもっと幅広く導入して、ガソリン税等の目的税のように、利用者全員で著作物に対する報酬を負担する
というのが要点となります。
賛否は別として、制度で公の権利を保護しようとすると、たしかにこういう形になるんだろうなぁとは思います。
"物"ではない"表現"は、従来通りに個物として市場で取引できるようなものではない一方で、文化の発展のためにも二次利用は促進されていくべきものとなります。したがって、保証金システムのような形で一種の税金として著作物に対する経済的報酬を考えるというのが1つの解決策ではあります。
この発想は、すでに、著作権=著作物に対する権利というよりも、情報所有権という発想に近づいているように思えます。
たしかに、近代法制度は、ある主体の"物"に対する権利を所有権として自然権の1つとして自明視してきました。今までは、情報も"物"に紐づいていたために所有権の範疇で処理できてきました。
現在では、情報は"物"の呪縛から解放されています。
この情報に対してどのような権利を与えるのか、ということが問題系として現れつつあるのであり、これは、近代法制度の根本、および資本主義制度の根本を揺るがすものでもあると思います。つまり、"物"に紐づかないものに対する権利をどのように保護し、そういうものをどのように市場に取り込むか、という問題です。
今までの隣接する権利や仕組みの考え方を継承、援用するのであれば、名和さんが考えられたとおり、"物"に紐づかないものの権利は特許権を参照し、"物" ではないものを市場に取り込むためには参加者全員からお金を集めて配分する税金のやり方を参照することになるのかもしれません。
他方で、DRMのような技術的進展により、情報を"物"として取り扱えるようにしていくという方向性もありますし、税金ではない公有財の取り扱い方というものもあるのかもしれません(GPLのように?)。あるいは、復古主義的に情報を"物"に紐付け直し続けるとか?
デジタル時代において、従来の所有権という自然権を継承しつつ、どのようにデジタルに対する権利を持たせていくのかというのは、この時代に課された大きな制度的テーマだと思っています。
2007年8月17日金曜日
情報に対する所有権(著作権でどこまで取り扱えるのか)
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