2007年11月28日水曜日

戦争を現実論で考える(という視点が優勢な時代)

新戦争論
伊藤憲一
新潮新書

著者はまず、国際関係や平和を考えるにあたって、法制的思考、観念論ではなく、戦略的思考、現実論で世界を考える必要があるとします。
法制的思考、観念論とは、まず理想を描いて法律として整備していくというやり方です。そして法律や条約が平和をもたらすという考え方になります。正論ですが、これにこだわりすぎると現実に対応できません。また、現実の平和に対して片手落ちの議論となります。

それに対して、筆者は、今までの歴史上簡単に破られてきた法律や条約の世界よりも、実際に戦争を押しとどめてきた力の均衡を現実として認識し、そうした力による戦略論を考えていくべきだとします。

筆者によれば、戦争と紛争は異なるもので、戦争は、国家(あるいは政治的主体)が行う紛争であり、クラウゼビッツを引用して「戦争とは政治におけるとは異なる手段をもってする政治の延長にほかならない」とします。単なる個人間、集団間の争いである紛争(そしてこうした紛争は人類の歴史と同じだけ古い物ですが)と、国家間の政治の延長は違う、という主張です。

そう考えると、人類は生まれながらに戦争をしてきているわけではなくて、あるときから戦争を開始し、そして現在は戦争をしない時代になっている、とします。
つまり、紛争はあったが戦争はなかった「無戦争時代」、人類が定住を初めて土地の所有から共同体間の戦争が始まった「戦争時代」、そして核兵器の開発により現実問題として戦争が行えなくなってしまった「不戦争時代」という3つの時代区分を提示します。

現代においては、アメリカの核の威力のもと、国家間の戦争は不可能となっており、各地での紛争があるだけだということになります。

冷戦という「不戦争時代」の始まりにおいては、ソ連とアメリカで核の均衡がとれていました。他の国にも核兵器はありましたが、第一撃で90%の戦力が失われても第二撃で敵国をも壊滅させてしまう報復能力を持つ国はこの2国だけでした。
その後、ソ連邦崩壊で、現在では実質この戦力を維持できているのはアメリカだけとなっています。

国連のような形での「世界政府」の樹立による平和の実現が人類にとっての理想ではあります。が、現実的にはそのような世界政府は存在したことがないし、国連の力もそこまではいたっていません。
他方で、現実的にはアメリカがその経済力や軍事力で事実上の「世界帝国」となって、その帝国のもと世界不戦体制ができあがりつつあります。

著者の主張では、こうした世界不戦体制のもと積極的平和主義を追求しなければならない、ということになります。
そのためには、日本は、憲法第九条第一項の不戦事項は順守しつつ、その不戦体制を維持するために第二項は変えて集団的自衛権は認めなければいけないとします。

つまり、国家間の戦争が起こらない体制を維持するために、紛争を解決する手段を持つ必要があるというものです。現代においては、ならずもの国家やテロ集団による紛争が起こりえ、これが不戦体制を脅かしています。日本は、積極的平和主義のためにこれに抗する手段を持たないといけない、ということになります。

また、現代の不戦体制ができてきた理由の一つとして、最終兵器としての核の威力以外に、戦争は土地の所有と結びついて発展してきて最終的に世界の土地を取り合う世界大戦へといたったものの、グローバリズムの時代では土地の所有が相対的に小さいものとなってきているということもあげられています。

こうした世界観はいわば、ドゥルーズ=ガタリの戦争機械論からネグリの帝国論を敷衍したものにも見えますが、ちなみに本書にこれらからの引用はありませんでした。

筆者の主張に賛否両論あるとは思いますが、現実の世界を考えるためには有益な視野を与えてはくれます。
他方で、この本ではまったく触れられない理想論は語っていかなくてもよいのか、という疑問もあります。

歴史にはいろいろな波があるのだと思いますが、少なくとも現在では、こうした現実論、パワーポリティクスが支持を得ているし、信憑性も増していますね。
それがどうしてかは非常に面白いテーマだとは思いますが。


NBonline:「消極的平和主義を捨てて〜『新・戦争論』伊藤憲一著(評:小田嶋隆)」
に書評がありました。
評者はわかりにくいと言っていますが、けっしてそんなことはなくむしろわかりやすい本だと思いました。評者は左翼史観に偏りすぎているのでそう思われたのではないでしょうか。古い左翼史観のままこの本を読むと、そもそも概念の使い方が違うので納得がいかず(同じ議論の土俵に立てず)、たしかにわかりにくいかもしれません。

他方で、イラク戦争等が著者の言う"戦争"ではない紛争だとしたところで、"戦争"と同じく多くの若者や一般市民が死んでいっているのは確かで、そうした視点も見失ってはいけないでしょう。
この本の主張と相反するものではないと思っていますが。

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