2007年9月4日火曜日

反復できない時間を生きる生物:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 2

「科学と非科学のあいだ:『生物と無生物のあいだ』を読んで」のつづき。

3."流れ"として捉える生物学
エントロピーの法則にあらがうものの1つとして、生物が存在します。
拡大解釈したエントロピーの法則では、秩序あるものは時間が経つにつれ無秩序な状態へと遷移していきます。長い年月をかけて、生物は腐敗して土に戻り、建物は崩れ山は削られ平地となっていきます。

このエントロピーに抗するためには、より強固な秩序を形成し崩壊の進行を遅くするか、自分で先に無秩序へと崩壊させてしまうかのどちらかです。

生物は、後者の方法によって、生きている間このエントロピーに抗して存在するのだ、とこの本では言われています。エントロピーの増大は時間の進行でもあるので、言ってみれば、生物は時間の進行を早めて自ら先に崩壊することでエントロピーに抗し、死んだ後、エントロピーの法則に従うようになって自然界の時間に戻るということでもあります。

では、具体的には生物はどのようにエントロピーの法則に抗っているのか。

生物は、エントロピーの法則によって自らが崩壊するよりも先に自分で自分の体を崩していきます。具体的には、エントロピーを増大させる古い組織を廃棄物として外に放出することで自分の体の系のエントロピーの増大を防いでいます。

そして、重要なことなのですが、生物の廃棄物には、運動の結果できた不要なものだけではなくて、自分の体を構成していた古い組織も含まれているということです。
一見、成人の体はいったん形成されればそのまま維持されているように思えますが、実は、筋肉や臓器ばかりか骨さえも分子レベルでは古いものが廃棄され新しい分子と交換されていると言います。人間の体で言えば、1年半くらいで分子レベルではすべて入れ替わっているそうです。
とくに骨などは、いったん形成されればあとは物質として朽ちていくだけだと勝手に思っていたのですが、実際には、生きている間はつねに分子レベルで交換されて刷新されているのだそうです。

生物は、このようにエントロピーの増大に抗するために食物摂取に工夫があります。体に必要なものがタンパク質であっても、外から取り入れたタンパク質をそのまま肉体の一部としていくのではなくて、タンパク質を構成するアミノ酸よりも細かいレベル、つまり、分子レベルで摂取し、自らの体の細胞に取り込んでいると言います。
外からタンパク質を取り込んでいてはエントロピーに支配されてしまいますが、いったん分子レベルにまで分解して取り込むことで、タンパク質という秩序を自分で崩壊させてエントロピーの法則から逃れられるようにしています。

このように、分子レベルで生物を考えると、静的個体として考えていた生物が、実際には分子レベルでは次から次へと新しい分子に取り替えられていく非常に動的な流れの中にあるということがわかります。
言ってみれば、そこだけ時間の流れが早まって分子が高密度かつ高秩序に寄り集まった分子系の流れの渦、あるいは淀みだと考えられないでしょうか。
著者の言葉で言えば、

肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支があわなくなる。


著者はこのことを、「動的平衡」という概念として表現しています。エントロピーの最大化=静的平衡状態になるより先に平衡状態=分子の淀みを作っていくのが生物だということになります。

著者は、この本の「序」で、たとえば砂浜で、人間が、一目で砂粒や石と区別して貝やカニといった物を生物と判断できるのはなぜだろう?川の流れの中で、めだかなどを生物とすぐに判断できるのはなぜだろう?とい問いをたてています。そして、生物学の教科書的にいったん生物の定義を「自己複製するもの」としますが、先の問いには答えられていないように思えます。その後、最後に「動的平衡」こそ生物の定義だとします。これは先の問いに答えています。つまり、無秩序の中の秩序として存在する物はエントロピーの増大に簡単に負けないような固く屈強なものか、動的平衡を維持している物かどちらかで、人間はそれらを簡単に区別できるのだ、したがって、けっして強固なものでもないのに動的平衡を維持してエントロピーに抗している物を生物と認識できるのだ、ということです。

ところで、このように、生物を流れの淀みとして捉えたり動的平衡として捉えたりするのは、けっして抽象論などではなく、筆者の実際の実験結果を踏まえたものであり、その事例が紹介されていることが非常に興味深いです。

筆者の研究の中で、ある生物学的現象を証明するために、特定の遺伝子が働かないようにしそれに対応したタンパク質を体内に作れない"ノックアウトマウス"の実験があったそうです。
あるタンパク質が形成できないので特定の体の機能が失われると推測したわけです。ところが、実験結果はマウスはその機能を失わず生き続けます。そのタンパク質が体内にないにもかかわらず、そしてそのタンパク質と機能の関連はあることが証明できているにもかかわらず。

実験としては失敗だったわけですが、著者はここにこそ生物の動的平衡の力強さを認めます。生物は動的平衡によって、特定のタンパク質が形成できないことを別のタンパク質などを使って補えるのです。逆に、補えないほど遺伝子をノックアウトしてしまうと、もはやそのマウスは動的平衡を保てなくなり、そもそも生まれてこないものとなってしまいます。生物が生きている限り、動的平衡が保たれ、分子レベルでの流れが生じ(それに必要な機能は実現され)、エントロピーの増大に抗します。

ノックアウトマウスの実験は、機械論的な(因果論的な)生物観によるものです。ある機能を発現させる元の遺伝子情報(原因)を操作すれば、その機能は現れない(結果)はずだ、というものです。

ところが、実際の生物の動的平衡は、こうした機械論(因果論)を逃れていきます。生物はエントロピーの増大という時間の流れに抗して自らの時間を生きます。エントロピーよりも時間を早めて秩序の崩壊を先取りしています。その過程で、分子の流れの阻害となるようなものは修復していくし、分子の流れを起こせないほどの障害があれば、生物としての存在からはずれ(=死に)、エントロピーの時間の中へと入っていきます。

機械論(因果論)は、エントロピーの法則に抗う強固な個体物体に対して、エントロピーの法則に抗っている(=個体として維持されている)間だけに適用されえます。言ってみれば、人間の感覚に対して十分抗っている時間が長いため、エントロピーの法則を無視して繰り返し実現しうるものの中でのみ有効となります。同じ条件下で何度も反復できることが機械論による客観的事実にとっては重要です。

他方で、動的平衡は、エントロピーの法則の時間よりも早い時間の中で実現し、同じ条件での反復が難しいものとなります。一回限りの時間の中でこそ動的平衡は実現し、機械論的に反復しようとしたとたんに動的平衡は崩れ、生物は死の状態へ、エントロピーの法則の中へ崩壊していくのです。

機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない。
生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる。


生物には本質的に、機械論的=因果論的ロジックでは捉えきれないものが含まれているのかもしれません。その可能性が示唆されています。

そして、こうした個体/物体としてものごとを捉えるのではなく、流れとして捉える認識論は、現代的な大きな潮流として存在します。この本は、そうした潮流を分子生物学の分野から裏付けるものとなっています。その話についてはまた別の機会に。

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