2007年7月2日月曜日

自由意志、慣習、インセンティブ(倫理学、法学、経済学):市場主義とその境界

ちょっと古いですが、日経新聞の6月24日(日曜)号の書評欄に、
「経済論壇から 市場重視の経済学を問う」松井彰彦
というものがありました。
要するに、市場と規制(=慣習や法律)は相反するものではなく互いに補い合うものだ、という論旨です。
そこで、大竹文雄氏の論座7月号の論文からの引用で、当たり前のことかもしれませんが、経済学なるものを言い得て妙な部分があったので引用します。

主流の経済学が市場を重視する理由として、人々がインセンティブに基づいて行動していること、そして市場が人々のインセンティブをうまく利用する点を挙げる。反対に、「人々のインセンティブを無視して組織や制度をつくると必ず失敗」するし、「最悪の場合、規制の意図とは全く逆のことが発生」してしまいかねないという。

まったくそのとおりだと思うのですが、他方で、こう言えるのは一般論としてであって、すべてがこう言えるわけではないし、例外的な状況でこうは言えない場面もある、とも思います。つまり、一般論としてあるいは大枠として、市場原理を適用するのは正しいのですが、社会の中にはそれでは不足な部分もあるのではないか、と。

科学としては、一般化は当然の手続きであり、そうしないと帰納法的な"科学"になりえません。とはいうものの、自然世界においては小さい誤差を無視できるとしても、人間社会における小さい誤差は無視できない場合があります。たとえば、殺人や戦争など例外的状況をインセンティブだけで説明すると不足があるのではないか、と思います。他方で、組織論や政策実行論などにおいてインセンティブを語ることは非常に重要です。

話は少しそれるかもしれませんが、たとえば、フロイトは、無意識やエゴなどの概念を使って人間心理をインセンティブで客観的に描写しようとしたのだとも言えます。が、晩年のフロイトの著作の中には、『快感原則の彼岸』のように、快感(インセンティブ)に流れるはずの心理がどうしてもそれに抗するような動きをすることがあることを、半ば困惑的に指摘しているものもあります。

人間は、合理的=理性的(reasonable)であるはず、まさに日本語英語としての"リーズナブル"な方に流れて行動するはずですが、たしかに大枠としてはそう描写できるのですが、例外的にそうは行動しないことがありえます。
そこにこそ、単なるインセンティブに対する条件反射動物ではない人間の自由意志を認め、倫理の立ち上がり(善く行動する)を認識するのが、近代哲学が長年取り組んできた主要なテーマの一つです。

と書くとあまりにも我田引水なので、元々の文脈に沿って書くと、合理的な人間はインセンティブにのっとって行動するが、過去の慣習や規制にのっとって、あるいは慣習や規制に引っ張られて一見"非"合理的な行動をとることもある、ということになります。
ただし、慣習/規制がイコール自由意志や倫理ではないので、我ながら論理がねじれているのですが("自由意志/倫理"、"慣習/法律"、"インセンティブ/経済学"という3つを三位一体として論じられればいいですねぇ、自分には力不足です)。

さらに付け加えるならば、インセンティブが"善い"方向に向かうインセンティブであるためには、合理的=理性的なだけでは十分でなく、慣習や規制に基づくインセンティブである必要があります。その場合の慣習や規制は、単なるしがらみなのではなく、"善い"という価値判断が、その社会が育み形成してきた過去からの遺産(=慣習)に基づいてしか最終的に判断できないというような、そういう慣習や規制を指します。
合理的=理性的な思考は、必ず現実からのフィードバックによる補正が必要です。フィードバック無いまま思考を走らせると暴走してしまうというのは歴史を紐解けば多数見つけることができます。つまり、合理的=理性的なだけではダメなのです。そういう合理的=理性的な思考にフィードバックを与えるもの、それこそが慣習に他ならない、とここでは言い切っておきます(ちゃんと考えたわけではない)。

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