2007年5月6日日曜日

行為には理念よりも現実が宿る:『雪』

雪』オルハン・パムク、2002
 和久井路子訳、藤原書店、2006

トルコ人作家の小説です。

=====(内容紹介)=====
十数年間ドイツへ政治亡命していた詩人Kaがトルコへ戻り、田舎町カルスで起きたイスラム原理主義派の少女たちの連続自殺と市長選挙に取材に行く。Kaにとっての裏の意図は、かつての政治運動のマドンナ的存在だったイペッキが離婚したと知り、彼女に会いにいくことでもあった。
雪の降りしきるカルスでは、政教分離派とイスラム原理主義がモザイク状に対立しており、カルスに通じる道が大雪のため遮断された夜、革命が起きる。Kaは、革命に巻き込まれつつ、なんとかイペッキとともにドイツへ逃亡しようとするが、、、
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先月には、こんなニュースも流れていました。

Asahi.com:トルコ軍部「懸念を持ち注視」 親イスラム大統領誕生に

近代トルコは、トルコ建国の父、ケマル・パシャ(アタチュルク)を中心に、政教分離を国是として成立しました。ケマル・アタチュルクは、トルコ語の表記としてそれまでのアラビア文字をやめアルファベット化するなど、かなり急進的な近代化を実現しています。明治時代には日本語もアルファベット化しようという動きもありましたが、それが実現していたことを考えるといかに急進的だったかがわかります。

トルコは、イスタンブールなど西部では、ギリシャやブルガリアに接し、EU加盟を目指すなど準ヨーロッパ国ですが、東部では、シリアやイラク、イランとも接するイスラム国家でもあります。
政教分離を国是としているとはいえ、とくに東部地域を中心に生活の中にイスラム教が根付いていることは容易に想像できます。

上のニュースでは、民主的選挙の結果としてイスラム原理主義に近い大統領が生まれようとしており、それに対してケマル・パシャ以来の政教分離の守護者としての軍部が遺憾を表明しているというものです。政教分離の立場からの大規模なデモもおこっているようです。ただし、EUは、民主的選挙の尊重から軍部の動きをたしなめています。複雑ですね。
ちなみに、トルコ軍が政教分離の守護者として振る舞うのは小説『雪』でも出てきます。日本では、軍=右=保守というイメージがあるので(ほんとは必ずしもそうでないところもあると思いますが)、最初少々戸惑うところでもあります。

政治上の錯綜もありますが、この小説では、東部の田舎町であるカルスのイスラム原理主義の若者が自身の世俗化に悩み、逆に政教分離派の人間がイスラム原理主義に惹かれていったりするなど、現代トルコ人個人の悩みが小説として満載されています。主人公のKa自身も、政教分離を支持する人間だったにもかかわらず、カルスに来て詩のインスピレーションが沸き出し、降りしきる雪を見て、アラーやイスラム教に親近感を持っていきます。

宗教の弱い日本では、政教分離に悩むことなどあまりないのかもしれませんが、いわゆる保守主義的傾向、自由の裏返しとしての(と捉えられがちの)風紀の乱れなどへの反発や、過去や伝統への感謝や尊重という美しく見える理念、といったものに同調する人は多いと思われ、とくに最近ではこうした保守化、右傾化が強くなってきているように見えます。
自由主義vs保守主義といったような構図は、終わったものではなく、何度もさまざまなパターンとレベルで現れてくるものだと思います。トルコでは、政教分離vsイスラム原理主義という形で現れているということになります。そういう意味で、日本人でもいろいろ考えさせられる小説です。

ちなみに、この小説の舞台であるカルスという町はここにあります。
http://maps.google.co.jp/?ie=UTF8&ll=40.610369,43.093228&spn=0.011777,0.021329&t=k&z=16&om=1
最近はこうして小説の舞台を見ることができ、便利ですねぇ。

ちなみに、著者のオルハン・パムクさんは、2006年にノーベル文学賞を受賞しました。

考えたことをいくつか。

■政治と文学
著者のオルハン・パムクさんは、この小説を、最初で最後の政治小説としているようです。たしかに、テーマとして政治的なものが扱われていますが、内容としてはむしろ、政治を巡る人間ドラマとして描かれており、そこがこの小説の奥行きにもなっていると思います。

小説内に、巡業小劇団が出てきます。その劇団がカルスという保守色の強い町で、女性のベールを取る(=反イスラム的、政教分離的)という象徴的行為を劇中に行います。と同時に、革命的行為の主体となります。
また、Kaのかつての詩作仲間が、いまやイスラム原理主義の側に裏返って市長選に立候補していたりします。

演劇や文学、詩が、政治と結びつくことは少なくありません。とくに植民地時代のアジア、独立後のラテンアメリカ、民主化後の東欧などでは、詩人が大統領(や運動の代表)になったりしているケースも多々見られるようです。
近代的な思想がまずは詩として自国語に導入され、理念として定着し、それが政治へと伝播していくということでしょうか。

他方で、日本の明治維新では、あまり文学者が政治家になるということは少なかったように思います。文筆家でもあった福沢諭吉も在野のままですし(政治家を輩出はしましたが)、中江兆民なんかも在野のままです。
その後、文筆家が民権運動などに関わることはあっても、実際の政治家として力を発揮するような例はほとんどないように思います。だれかいるでしょうか?最近だと、石原慎太郎や田中康夫ですかねぇ?


■理念と現実
この小説では、政教分離やイスラム原理主義といった理念と実際の現実のはざまで思い悩む人がたくさん出てきます。
イスラム原理主義こそ社会を規律正しくしみんなを幸福にさせると信じつつも、他方で異性に対する思いや自分が思いを寄せる人が自殺という反イスラム的行為をとったことについて悩んだり、政教分離的立場にいながらも、イスラム原理主義者を愛してしまったり、娘がイスラム原理主義となり、それでもなおいっしょに住んで生活することになったり。

小説内では、理念を純粋に守り続ける人は最終的に悲劇的結末になっている気がします。一概にはいえないかもしれませんが。あるいは、悲劇的結末を予感、覚悟しつつ行為に出る登場人物に対して、読者が純粋な理念をもっている人と感じるだけなのかもしれません。

他方で、小説内では、理念は理念として置いておいてより現実的に生きる人の方が圧倒的に多く描かれます。それがこの小説にリアリティを与えているようにも思います。
実際のところ、その人をいったん愛してしまえば、理念の違いは脇に置いておけるのかもしれません。あるいは、愛する人と別れることになっても、それは理念の違いというよりも実際の現実的生活のすれ違いが原因のことの方が圧倒的に多いのでしょう。

というように、この小説では、政教分離vsイスラム原理主義という理念上の対立があるのですが、登場人物の行動は、いっけん理念に基づくように見えるものでも、きわめて現実的判断、もっというならば、色恋や怨念などといったものが原因となっていることが大半です。
そのため主義主張が入り乱れているようにも見えます。
したがって、一見大きな理念に従って行動しているように見えても、その実はより個人的な思いが行動の原因となっています。でも、実際の人間の行動なんてそんなもんなのかもしれません。いくら大きいことを言っていても、実際にはちっぽけな日々の現実的な思いの積み重ねがその人の行為を作っていっているのでしょう。

登場人物のそれぞれが、きわめて理念的な人物であっても実際の行動は現実的な判断に基づいているということが、この小説の奥行きでありおもしろさでもあります。
純粋にストーリーとしてもおもしろいですし、トルコの現状を知るという意味でもおもしろかったです。

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