『フィクションと証言の間で―現代ラテンアメリカにおける政治・社会動乱と小説創作』
寺尾隆吉、松籟社、2007
ラテンアメリカの政治情勢にからめたラテンアメリカ小説の発展史です。
かつてラテンアメリカ諸国の独立前後は、小説は詩と比べてあまり価値をおかれず数としてもあまり生み出されなかったそうです。ところが、19201930年代にメキシコで革命小説が大量に出版されるところからラテンアメリカ文学が興隆していきます。メキシコ革命小説では、革命の意義あるいは矛盾が、単に記録されるだけでなくフィクションを含めることでより作者の意図を込めるものとして書かれました。作者としてはプロの小説家というよりは従軍した知識人が主な担い手だったようです。
その後、ラテンアメリカでの先住民研究が文化人類学の分野で進んだこともあり、先住民の立場から見た植民化について小説として書かれるようになります。先住民の文化的コンテクストにもとづいた筋立てや現象をリアリスティックに描写する手法というのもこのころから始まりだします。ラテンアメリカ文学を一言で形容するときによく使われるいわゆる「魔術的リアリズム」の手法です。ただし、作者はあくまで白人側です。
やがて、ラテンアメリカの政治情勢を記録しようというよりも、ラテンアメリカの情勢を通じて、人間存在自体への問いかけという普遍的テーマを扱う文学が登場します。その代表格が、ノーベル賞作家でもあるガルシア=マルケスです。ガルシア=マルケスは、コロンビアの内戦状態の惨状を告発した一連の暴力小説群を批判する形で小説を発表しだします。ガルシア=マルケス自身、新聞記者でキューバの社会主義革命に共鳴しカストロ議長とも親交のある人ですが、ラテンアメリカ社会の惨状を政治的には批判しつつ、文学としては単純に告発するのではなく、もっと普遍的なテーマとして小説世界を描写します。
人が何かを書き表すのは、まずはその現象や事態を広く知らしめ、告発するためでしょう。そのとき、その文体はジャーナリスティックなものとなります。速報性と事実上の正確さが求められます。次に、その現象をより広く後世にも知らしめるために、そしてその現象がどうして起こったのかの真実を明らかにするために、歴史書が書かれます。歴史は、歴史としての客観性や歴史的意味が書かれることになります。ジャーナリスティックな文章にしろ歴史としての文章にしろ、フィクションを織り交ぜることで、より作者の意図を強調するような文章にすることが可能です。ただし、そのようなフィクションは、小説とはいうもののいわゆる純文学的な近代小説と呼べるようなものではないかもしれません。
純文学は、フィクションを交えつつ思索を深めて、より人間に関する普遍的なテーマを問い直すことになります。それに対して、歴史学は、あくまでも史実に基づき思索を深めて、社会現象や人間の営みの本質を描き出そうとします。より第三者の視点、神の視点に立つのが歴史学的文章で、個人の視点に降り立つのが文学とも言えるかもしれません。もっとも、文学がいくら一人称で語られようともあくまでも第三者の視点が維持されているのではありますが(そして、現代純文学小説にはそこの部分を批判的につくものが多いですが)。
最近、『ニッポンの小説 百年の孤独』(高橋源一郎)と、この本と、『歴史学の名著30』(山内昌之)を続けざまに読んで、ものを書くとはどういうことかということを、いろいろ考えさせられました。
2007年5月30日水曜日
ラテンアメリカにおける政治と文学:『フィクションと証言の間で』
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