2007年9月7日金曜日

個人的感情と社会的正義の葛藤:死刑制度を巡って

good2ndの日記というところの「抑止効果という神話」をたまたま読んで、最近も死刑執行があったり橋下弁護士のワイドショーネタがあったりして、いろいろあるなぁと思い、「死刑」でブログ検索したらたくさんエントリが出てきてびっくりしました。それも、どちらかというと死刑肯定が多いように思います。日本でのアンケート調査で死刑賛成が多数というのは正しいようですね。

引用させていただいたgood2ndさんのところでは、最近死刑に抑止効果があるという研究発表がされていて、それへの(というかその研究結果に対する反応への)批判となっています。

ところで、私は以前も書いた通り基本的には死刑廃止論者です。
それにしても、死刑存在論争はイデオロギー論争ですね。収集つかなくなってるところが多数ありました。
そもそも死刑に関して"正しい"あり方というものはないからなんでしょう。なので、議論が起き両論唱えられていくことはよいことなのかもしれません。

死刑肯定論は次のような観点がその論拠となっているように思います。

* 懲罰と抑止効果
* 被害者の感情と報復


■懲罰と抑止効果
抑止効果については、存廃両側からの統計情報が存在しなんともいえないというのが正直なところです。

ただし、世界100カ国以上で死刑を停止しても総じて見れば社会的秩序が悪化したということはないようですので、死刑廃止が即社会的無秩序に直結するという論拠は弱い気がします。他方で、死刑を廃止した国でも死刑賛成論はあるようですし、個別統計情報では犯罪が増えたというのもあるようで、そういう意味で、ケースによっては死刑の存在が犯罪を抑止することも起こりえるかもしれず、1件でもそういうケースがあるなら残した方がよいというのはたしかにそのとおりにも思います。

いずれにせよ抑止効果のあるなしで死刑存廃を論じるのは堂々巡りになるだけな気がします。

世界の死刑動向については、
sr400yoshiさんのSmenaな日々・裏版…Know your role「死刑を考える…死刑に対する反定立
luxemburgさんのA Tree at ease「行刑の現場とは


■被害者の感情と報復
まともな死刑肯定論で一番多いのが、被害者遺族の感情を考えると卑劣な殺人者は死んで当然だ、というものです。
この感情論は、死刑廃止論者に対してしばしば、自分の愛する人が殺されても死んでほしいと思わないのか?思わないような人はそもそも人として感覚がおかしい、という論調になります。

この感情論は、感情論としては正しい。ほとんどの人が反対できないでしょう。

ただし、たしかに、身内が殺されるようなときがあった場合、その場ではそういう感情になったとしても、本当にそういう行為をしてその感情が収まるものでしょうか。その場では行為はぐっとこらえて耐えた方が、後々長期的に見て、被害者遺族自身や亡くなった被害者にとってもよかったと思えるようになるのではないでしょうか。
短絡的にそういう行為に走ると、遺族の家族や加害者の家族にもどんどん感情が飛び火していってしまいます。
報復は報復を呼びます。

被害者の観点からは、この悪循環を防ぐために、死刑制度というものがあるのだとも言えます(国家論からするとそのかぎりではないですが)。
第3者である国家が被害者に代わって加害者を殺してくれることで、報復の連鎖を止めることになります。

報復の悪循環を防ぐためには国家による死刑は有効だと思います。

が、そもそも被害者遺族が報復したいと思うほどの感情が、死刑によって加害者が死ぬことで落ち着くものでしょうか。死刑で溜飲が下がるものでしょうか。
けっして失った尊い命への感情は消えないはずです。
それでも、自分の愛する人を手篭めにした人間が同じ世界にいるとも思いたくない、という感情もあるでしょう。死刑によって、そういう感情や報復感情が少しでも気が楽になればそれでいいという意見もあるでしょう。

ただ、そういったことは、なにも死刑でなくても、被害者の心のケアの充実や終身刑の導入など他にも代替策はあるのではないでしょうか。

被害者遺族の感情を考えても、死刑だけが解決策なのか、むしろ死刑によって、本来行われるべき被害者遺族の心のケアが疎かになるようであればそれは本末転倒で、まずは心のケアから取り組むべきではないのか、というのが死刑廃止論者としての意見となります。

ただし、あくまで感情の話なので、人によって感じ方は違うとは思います。しかも、個人の感情の範囲内で済むわけではなく、社会に関わる個人の感情だからこそ難しい。論争になりうるテーマです。

1つ言えるのは、旧約聖書のイサクの話などでもそうですが、西欧的発想の中では、個人の感情と社会的正義や倫理は相反することがあり、その場合、個人の感情を抑えて社会的正義や倫理を優先することの方が重視され、正しいとされてきたということがあります。
そして、人の生命を守ることは人権を守る社会的正義なのです。
他方で、日本では、赤穂浪士の話ではないですが、個人の感情に従って行動することが倫理的であるとされることが多々あるように思います。
このあたりの文化の違いが、世界の先進国の中で日本が死刑を続ける根拠になりうるのかもしれません。

自分は西欧かぶれなので、どうしても前者の考えになってしまいますが(後者のような考えはどうしても好きになれません。。。)

[補記]
死刑(や赤穂浪士的報復)は何も個人的感情なだけではなくて、社会的正義だ、つまりは、被害者の死と平等の状態に加害者を置くという正義なのだという意見もあるかもしれません。
これについては、民主主義的平等は機会の平等のことを言うのであって、生命はもちろん所有物などの平等ではない、と言えると思っています。つまり、次元が違います。

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