2007年1月31日水曜日

Somethingとなりうる情報の流れ

前々回のエントリのコメントで考えていたことを図示するとこのようになるでしょうか。
この絵でもすべてを言い切れていませんが。
(画像をクリックすると拡大したものが見れます)

『Web進化論』で言う「(≒無限大)×(≒無)=Something」となりうるためには、ただ単に情報を垂れ流すだけでなく、情報の流れ方、集約のされ方が重要なのではないか?と考えています。
まずは、その問題点の指摘のエントリです。


・インターネット以前の情報の流れ

極論すると、今までは、マスメディアにしか社会への影響力はありませんでしたし、人々にとっての情報収集源の主なものもマスメディアでした。
ただし、人々は選挙によって社会に影響を与えることができました。
また、マスメディアに対しても投稿やアンケートなど限られて入るものの意見を吸い上げるパスはありました。



・初期インターネット時代の理想

そこにインターネットが登場してきて、すべての人の有象無象の意見が発信され、その中のいくつかが社会に影響を与え、極端な場合マスメディアはもはや不要になる、という夢のような物語が語られるようになりました。




・インターネット時代の情報の流れの現実

ところが、インターネットが普及した現在でも、実際には、

(1)マスメディアは依然として社会に大きな影響力があり、人々の主な情報源のままです。ブログ等で話題になるのもマスメディアによって報道されたニュースが中心だったりします。

(2)ごく一部のブロガー達は、自身のブログで意見を発信し、マスメディアや社会に影響を与えています。私の個人的な観察では、ここに所属するのは、元マスコミにいたフリーのジャーナリストの人々や学者(の卵含む)が個人名で発信しているものがメインです。あとは、フリーウェアなどを公開している方々でしょうか。ここの予備軍となるようなブログは数多くあるもののなかなか吸い上げ影響力を持たせるようになるようなパス/回路が少ないのが現状です。

(3)言い方は悪いですが、不特定多数の意見は、自己撞着的かつ情緒的に閉じたコミュニティ内で垂れ流されています。
かつ、ここに所属する人々がもし選挙に行かないとすると(ここは私の勝手な想像です)、これらの人々の意見は選挙を通しての社会への影響もまったくないことになります。



もともとインターネットの力として夢みられていたのは、(2)のような形態なのだと思いますが、実際に(2)と(3)の格差/壁は想像以上にあるのではないでしょうか?

別に(3)で井戸端会議をインターネットでしようがいいじゃないか、というのはそのとおりです。このブログ自体がそうですし。インターネットのおかげで会ったこともない人とも井戸端会議ができるようになったのは、それはそれでよいことでしょう。

それを踏まえたうえで自分がまずは言いたいのは次の3つ。
少々過激かつ扇動的な言い方で書くと。

■幻想を捨てよ、現実へ出よ
有象無象の情報の錯綜こそが力を持つという初期民主主義の幻想は捨てよう。インターネットがそういう力を持ちうる初期段階は脱したのではないか?そんな夢に甘んじている間にも、旧来のマスメディア勢力が着実に地盤を築いていっており、そうなるとインターネットの本当の力が骨抜きにされる可能性もある、ということです。そうなると、けっきょくインターネットは"サブ"カルチャーであり、"アングラ"である、ということになりかねません。

■開き直ってとどまらず、回路を開こう
(3)から(2)への回路を開くことが重要です。そして、(2)の力の増強のために(2)から(1)への回路を太くしていくことも重要です。
(3)は(3)で存在価値はありますしよいのですが、少なくとも(3)にとどまることが情報を発信しているのではない、という認識が必要なのではないでしょうか。
つまり、多くの人が、(2)と(3)の壁を乗り越え両方にまたがった活動をするということこそ、初期インターネットの理想に近いのだと思います。
(3)にとどまることで開き直ることも可能ですが、そのままなにもせずにSomethingの情報となることはよっぽど幸運な場合だけじゃないでしょうか。

もちろん、必ずしも(2)に活動領域を広げなくとも会社などの実社会や選挙で社会に関係していくこともできるので、私も含めて(3)にとどまっている人がぜったいに(2)に出て行く必要は無いとは思います。ただし、インターネットの世界の中だけで考えるとそれは必ずしもインターネットの力の増大には手伝っていないかもしれません。

いずれにせよ、どうやって回路を開き太くしていくのか、というところがポイントですが、すみません、このエントリではそこまで触れられません。(私自身答えもありませんし)

■情報を保護しつつ共有できる社会へ
実は(3)の人が一番情報の所有権に反発しているのかもしれません。が、何も発信しないのにタダで情報を得ようというのはムシがよすぎると言われてもしょうがないかもしれません。事実上、公共物のフリーライダーです。
他方で、マスメディアや情報の卸となっているところが、情報の所有権をたてに情報を独占し、情報の自由な流通を妨げている、というのも事実です。

情報を自由に共有するためには、まずは情報を保護し(少なくとも作品と創作者のクレジットが紐づくようにし)、その上で対価を得る仕組み(対価を得ない仕組みも含めて)を作っていく必要があります。
それについては、これまでも著作権がらみで私の意見は述べてきていますし、今後考えていきたいテーマでもあります。ので、このエントリではこのくらいで。


少々扇動的だったかもしれませんが、インターネット時代に夢描ける状態と現実にかなりの乖離があり、実はその乖離を固定化しようとしているのがインターネットの夢を見続けている初期インターネット・ユーザ達で、そうこうしている間にも、インターネットの夢は押しつぶされていくのではないか、という危機感からのエントリのつもりです。

「イノベーションのジレンマ」*1と呼ばれるものにインターネットが囚われないことを祈りつつ。

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*1 イノベーションを起こした当初の成功戦略や体験に居座り続けることで、イノベーションの普及期に後続に追い抜かれたりシェアを落としてしまったりすること。しかも居座り続けることが正しい戦略であるというのがジレンマとなっています。

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