2008年5月30日金曜日

ネット法への批判

ネット法の動き」で紹介した北岡弘章弁護士の続編記事が出ていました。

ITPro:ネット法(2)権利制限は著作権保護の流れに逆行するとの批判も

主にネット法の提案に対する批判をまとめて掲載されています。

ダビング10の泥仕合

ダビング10が、グダグダにもめてます。

28日に、まずはメーカー側団体のJEITAが、消費者アンケート結果を出して私的録音録画補償金制度を批判し、

TechON:JEITAが私的録音録画に関する調査,「コピー制限下では録画の補償金不要」が78%
JEITAコンテンツ保護検討委員会委員長へのインタビュー:nikkeiTRENDYnet:ダビング10は土壇場でも手詰まり状態 次回の委員会開催も不透明

29日に、権利者団体が、その結果を批判して会見します。曰く、メーカーが負担を消費者に押し付けている、と。

ITPro:「消費者のみが負担」を消費者は本当に望んでいるのか,補償金制度とコピーワンス問題で権利者会議が会見

情報通信審議会情報通信政策部会のデジタル・コンテンツの流通の促進等に関する検討委員会がダビング10の導入を確認することになっているようなのですが、6月2日に導入するにはその合意形成ができていないと報告して、次回会合の日程も決まっていない状況です。

ITPRo:「ダビング10」移行で合意形成に至らず,デジコン委のWGが報告


「無名の一知財政策ウォッチャーの独言」で、今回の騒動の記事まとめと権利者団体への批判が行われています。

無名の一知財政策ウォッチャーの独言:第98回:文化審議会という茶番


メーカー側もメーカー側な気もしますが、権利者団体の反論にはめちゃくちゃなロジックが入っていて、なんだかなぁと思ってしまいます。

いろいろ経緯を見ていると、今回一番問題なのは、文化庁の審議会の進め方な気がしました。業界や省庁間をまたがっての幅広い合意を形成していかないと解決しない問題で、あまりにも一方的で自分たちに都合のよい(従来通りの官の)審議会の進め方を行ったのではないでしょうか。

また、そもそもB-CASやコピーワンスといったようないわくのある制度を押し進めてきたせいで、先送りにされていた問題があらためて問い直されることになってしまい、傷口を広げているようにも思います。


個人的な極論を言うと、日本がコンテンツ立国を目指すのであれば、私的保証金制度をやめて代わりにコンテンツ税を導入し、あらゆる記憶メディアの消費税の一環として組み込んで全国民から徴収し、その代わりにすべてコピーフリーにする、とでもした方がよいようにも思います。(これは、すべての著作権を報酬請求権化するということでもあります)

2008年5月29日木曜日

厳しさがないと勝てない

ITPro:第7回 建築設計事務所で見た 巨匠のすごいレビュー

ある建築業界の巨匠のレビューがどんなものかが紹介されています。
優れた提案を行うためには、こういうアーキテクトも必要でしょうね。

同じ一つの言葉は二度語られなければならない

これまた少し以前のエントリですが。

内田樹の研究室:X氏の生活と意見

「書く」ということの本質について触れられていたので、引用します。
まずは、ブランショ(現代フランスの思想家)からの孫引用。

「どうしてただ一人の語り手では、ただ一つのことばでは、決して中間的なものを名指すことができないのだろう?それを名指すには二人が必要なのだろうか?」
「そう。私たちは二人いなければならない。」
「なぜ二人なのだろう?どうして同じ一つのことを言うためには二人の人間が必要なのだろう?」
「それは同じ一つのことを言うのがつねに他者だからだ。」
続いて、内田さんからの引用。
ある言葉が人に届くためには、それが「二人の人間によって語られていることが必要である」
私と「私と名乗る他者」によって、同じ一つの言葉は二度語られなければならない。

ここにはいろんな深さのレベルの含意があります。解説してしまうと野暮ったいのですが、少し補足説明します

まず、一番浅いレベルで、私たちが紡ぎだした言葉は生のままでは別の人に伝わらないことが多いという事実があります。そのため、われわれは推敲して他人が読んでも意味の分かるように文章を整えます。これは学校でも教わることです。

次にもう少し深く考えてみると、私が意図した内容を他人に理解してもらおうとすると、実は私自身の言葉よりもすでに語られている言葉で語った方が伝わりやすいです。なぜなら、私が新しく語る言葉はまだ他人にどのように解釈されるかわかりませんが、すでに語られた言葉はある一定の範囲の意味のとられていることがほぼ確実だからです。したがって、私がなにか意味を伝えようとすると、私自身ではなく第三者の観点で意味を捉え直し言葉を既存の言葉に置き換える必要があります。文章を書く鍛錬の中でこのような第三者的言葉遣いを、多くの場合は無意識的に訓練されています。

さらにもっと深く考えてみると、実は私が意味しようとしていることはもともとすでに語られた言葉で表現されていなければなりません。何かを意味しようとする私は言葉以前の私でいられるかもしれませんが(それもあやしくなってきますが)、何かを意味したとたんに、それが自分にとっても意味をなす以上すでに語られた言葉で組み立てられているのです。文章を書くとは、もっと言うと、思考するとは、こうして他者の言葉にのっかって、それでもその言葉を紡ぎだし続けることに他なりません。

実は、言葉の本質はそうした他者性にあります。言葉は自分が考えたものではないがゆえに、他人にも、そして自分にも意味をなしうるものとして存在します。そのレベルでは、「自分の言葉」というのがすでにして形容矛盾だったわけです。

「X氏の生活と意見」は高橋源一郎氏の著書でもあるわけですが、高橋源一郎の本は以前「アイディア作りの処方箋としての『一億三千万人のための小説教室』」で紹介しています。

書く、思考する、アイディアを作り出す、といったことについて深く考えられている一例です。いわゆるハウツーものとはほど遠いですが。

2008年5月28日水曜日

著作権侵害で有罪判決

CNET:米陪審、著作権侵害の被告に初の有罪評決

以前書いた「違法ダウンロード問題にたいして2500万円の罰金」での判決との違いはなんでしょうか?
今回初の刑事事件としての有罪、というように読み取れます。(不正確かもしれません)

被害者意識の権利と戦略と精神衛生

ずいぶん前のエントリですが。

内田樹の研究室:被害者の呪い

オリンピック聖火リレーの騒動について、「被害者意識」という観点で分析されています。

「被害者意識」は、統合失調症にも通じる有毒性を持っているそうです。なるほどと思いました。

人がいったん強烈な被害者意識に陥ると、自分の権利の主張は元に戻る(被害が無くなる)ための絶対に正当な主張となり譲ることのできないものになってしまいます。

そして、当事者同士が「被害者意識」になってしまうと、どちらも譲れなくなり解決の糸口が無くなってしまいます。

ところが、現実の問題を解決していくためには、譲り合いや妥協点が必要です。自分の言い分がすべて通ることなどありえなくて、ある部分で自分の主張が通ると別の部分で譲歩するといったように、お互いにメリットが最大になるよう調整することで現実の問題は解かれていきます。

「被害者意識」に陥ってしまうとこうした妥協点の模索ができなくなってしまうという問題があります。

もちろん、被害者やある権力に対する弱者がその権利を主張することは正当なことなのですが、そこに固執してしまうとデッド・ロック状態となりにっちもさっちもいかなくなってしまいます。

権利上は、被害を根絶することを主張してよいと思いますが、戦略(政治)上は、交渉のツールとしてうまく活用して解決策を模索するような努力も必要で、かつ、精神衛生上は、被害を被っていることや弱者であることを(たいへん厳しいことですが)ある程度運命と受け止めていかないといけないときもあるのかもしれません。
泣き寝入りをしろと言うつもりはないので、そのあたりのバランスの取り方が難しいところですが。

ルワンダ大虐殺におけるメディアの恐ろしさ

友人のstemy氏のブログでコンゴ民主共和国における内戦の話がありました。
incubator@london:Rape of a Nation by Marcus Bleasdale

最近読んだ記事でちょうど隣国ルワンダの大虐殺について扱ったものがあったので紹介します。

NBonline:伊東 乾の「常識の源流探訪」:メディアで憎悪を増幅してはいけない!ルワンダ大虐殺:本当に起きたことは何なのか

アフリカのこの辺りの内戦や虐殺には必ずツチ族とフツ族の対立という図式が出てきますが、この対立がいわゆる民族の対立ではないという重要な指摘です。著者の伊東氏は、ルワンダ外交官にも話を聞いていますし、ルワンダにも行っているので情報源からするとこれは正しいのでしょう。

記事では、日本史との関連で語られていたり、国民の暴走とそれを増長するメディアという観点もあり、非常に興味深いです。これからルワンダについて連載されていくということなので楽しみです。

被害者意識による報復の正当性感覚が勝手な共同体的正義へと発展し、虐殺へと進んでいくことは人類史で何度か繰り返されています。そこには、メディアによる憎悪の増幅というものも大きな威力を発揮しています。今の日本においても、メディアが発する(煽る)"憎悪"に対してはそうとう用心してかからないといけないでしょう。

最近は、凶悪犯への憎悪から国民が望む形で厳罰化が進んでいるように感じます。個人が抱える"憎悪"は、とくに被害者の場合しょうがないですし同情もしますが、社会的雰囲気として憎悪が増大するのはあまりよいことに思えません。実際、統計上は殺人事件などは減少傾向にあるにもかかわらず治安が悪化しているかのように感じさせられています。
メディアは視聴者が望むからそうした憎悪を流し、視聴者はそれを見てさらに憎悪を膨らませるという悪循環が起きているようにも思います。これが悪循環なのだとしたら、どうすればこれを止められるでしょうか。

なお、記事の執筆者の伊東乾氏については、著書の『さよなら、サイレント・ネイビー』を読んでいてこのブログにもメモを残しています(「日本的近代社会とオウム事件:『さよなら、サイレント・ネイビー』」)。そのときも自分は生意気なことを書いていますが、伊東氏はジャーナリストとしても(本業は違うと思いますが)バランス感覚に優れ、ものごとを的確に説明してくれるので、この連載にも期待です。

2008年5月27日火曜日

自動車業界も水平統合化へ?!

TechON:ATIスペシャル・インタビュー(第1回)「日本のモノづくりは擦り合わせから」

2004年9月に発足したJASPARの話です。JASPARは、カー・エレクトロニクスの標準化を行う団体。トヨタ主導ですが、数多くのサプライヤーが参加しているそうです。

ヨーロッパにも同様の標準化団体はすでに数年前からあって、そこの標準が世界標準になるのではないかという危機感もあり設立されたようです。

車は、垂直統合型の擦り合せ型ビジネスモデルがもっとも適していると言われて久しいですが、いよいよPCなどで起こった水平統合型への変化が起こっているのでしょうか。少なくともカー・エレクトロニクスの分野ではそうなりつつあるようです。

ネット規制法案まとめ:フィルタリングと情報アクセスの自由

ネット規制法案のまとめがあったので、リンクをメモしておきます。

無名の一知財政策ウォッチャーの独言:第96回:ネット規制法と児童ポルノ規制強化法の自民党案と民主党案の比較

自分の意見としては、消費者側に選択の自由さえ担保されれば、ある程度の規制はしょうがないと思っています。情報弱者を自己責任として打ち捨てるのか、最低限のセイフティーネットを設けるのか。セイフティーネットを設けるにはフィルタリングの強制は必要で、ただし、フィルタリング業者を自由に選択できるようにすれば、個人の自由を犯されることはありません。

元々、学術的な研究目的であればどんな情報にもアクセスできるべきですが、それにはアカデミズム社会に連綿と続く倫理観を各研究者が持っているという前提があってのことです。

インターネットはすでにそうした狭い世界でのネットワークから社会的メディアへと変化してきています。メディアには報道の自由や表現の自由が権利としてありますが、それらも業界の自主規制を前提としてのものです。既存メディアは、国家による規制と戦いながらそうした自主規制を作り上げてきました。メディアの倫理という積み上げが存在しています。

インターネットの世界にもそうした倫理観の積み上げが必要になってきているという認識です。そこに国家を介在させず市民の手で倫理観を積み上げるためには、規制を受け入れつつその規制の主導権を市民の側に持つということが重要に思います。
国家にとって、完全なる自由放任というのはありえません。国家の根底を否定しないかぎりは。今までのメディアにも国家による規制は存在しています。であれば、むやみに反対するだけではなくて、規制自体は受け入れつつ、ただしその主導権をいかに市民の側に残すのかというところを考えた方がよいように思えます。

ビジネスモデルのシミュレーション

NBOnline:宮田流「新しいビジネスモデルの創り方」

ビジネスモデルを創るとは、

  1. 新しい状況の中で、関係する人と人、組織と組織がWin-Winになるような仕組みを考える
  2. ビジョン(目標)を明確にする
  3. 現場(実際のオペレーション)を把握する、細かいデータとして把握する
  4. データを使ってシミュレーションを行う

ということにまとめられています。
とくにシミュレーションの勝つように重点が置かれています。

正確なシミュレーションを行うためにも、いかにデータ取りを行うかがまた重要ですね。

2008年5月26日月曜日

特許オンラインの国際化

日経ベンチャーonline:特許制度の国際化・電子化で世界に先駆けよう

4月に特許法が改正されたそうです。
メインは、電子出願の国際化に関する内容だそうです。

ナップスターがDRMフリーMP3販売開始

CNET:米ナップスター、米国内でDRMフリーのMP3楽曲販売を開始

ナップスターがサブスクリプション方式のダウンロードし放題に加えて、楽曲ごとの販売も始めるそうです。しかもDRMフリーのMP3で99セント(当初はアメリカのみ)。

Amazonもすでに始めていますし、iTunesもDRMフリーが増えてきています。

CD派だった自分も、最近オンラインで買うことが多くなってきました。

裁判員制度の日本での歴史的経緯

司法への市民参加の可能性—日本の陪審制度・裁判員制度の実証的研究
藤田政博
有斐閣

1年後、日本でも裁判員制度が導入されます。いろいろ議論もよんでいますが、日本での裁判員制度について過去の導入の歴史をふまえて検討されているのが本書です。日本人の文化に合わないという曖昧な理由で否定的判断がなされたりしていますが、もう少し制度として正しい事実に基づきながら考えるのと、模擬裁判を通じてのアンケート結果に基づいて検討を加えようとしています。裁判員制度の問題を論じるにあたって必読の本のように思います。

本エントリでは、とくに制度的な面についてこの本に書かれていることの概要をまとめてみます。


1.陪審制と参審制
一般的に有名なのがアメリカの陪審制度です。日本の裁判員制度は似てはいますが、正確には陪審制ではなく参審制で、陪審制ではありません。

陪審制も参審制も刑事事件に市民が参加して審議する制度ですが、一般的に陪審制は陪審員だけで議論して有罪かどうかを判断します。量刑までは判断しません。
他方で、参審制は市民が裁判官といっしょに議論して量刑まで判断します。日本の裁判員制度は、参審制です。


2.世界の現状
主要先進国では、古くから陪審制もしくは参審制が採用されています。たとえば、「裁判員制度:世界各国の市民参加制度」を参照。


3.日本の陪審制導入の歴史
実は、日本でも過去において陪審制が導入されていました(参審制ではない)。

もともと不平等条約改正と明治憲法(および治罪法等)の制定時期に、各国から陪審制導入の圧力があったようです。ところが、西欧視察で陪審制のマイナス面を認識していた井上毅らが断固反対し、けっきょく導入は見送られました。一般市民が独立した個人として判断できるレベルにないという理由からです。(政府に都合の良い裁判ができるようにでもあったのでしょう)

次に、自由民権運動の盛り上がりの中で、陪審制導入が検討されていきます。
そして、平民宰相原敬が導入を強力に推進しました。政党政治を軍部や官僚から守るためだと言います。司法は当時(今もですが)法務省配下にあり、ややもすると軍部や官僚の干渉を受けやすかったようです。

陪審制度は1923年に成立し、1928年に施行されました。当初、年2000件くらいの利用があると予想されていましたが、実際には初年度(10月から)で25件、2年目133件、3年目には早くも2桁の件数になっていました。だんだんと利用されなくなり、最終的には1943年に停止されます。


4.陪審制失敗の原因
日本で陪審制が失敗した原因として次のことが指摘されていました。

  • そもそも被告人が辞退することが可能で、次の3つの理由から辞退が多発した
    1. 陪審を(辞退せずに)利用すると目立ってしまう
    2. 陪審で一度判断がくだれば事実認定をめぐって控訴できなかったため、事実上二審までしかできない(陪審公判で判決が決定してしまう)リスクがあった
    3. 費用負担が重かった(現在価値に換算して平均で約130万円)
  • 陪審員の選抜対象の基準も狭く国民に浸透するのにはほど遠かった(国税3円以上納める30歳以上男子)
  • 裁判官より低い権限しかなく、裁判官が陪審判断結果に不服であれば陪審員の更新が可能だった(実際に行使されたのは数件だが)
  • 陪審員には事実認定のみの権限しかなかった
  • 予審(陪審員による審議の前の検察や裁判官による取り調べ)が必須でその調書が公判に使われるため最初から陪審員にバイアスがかかる可能性があった
  • 法曹界が消極的であった
  • 戦争へと向かっていく時代背景があった
  • 権威従順、集団主義といった国民性が影響しているかもしれない


5.過去の陪審制をふまえての今回の裁判員制度
今回の裁判員制度では、4で見た過去の陪審制とはいくつか異なる部分があります。対比して書くと、
  • 被告人が辞退することはできない
    1. 最初は目立つかもしれないが辞退できないため件数は多いと考えられる
    2. 通常と同様控訴可能
    3. 有罪の場合費用負担が発生する(*1)
  • 裁判員は被選挙民から選ばれる
  • 裁判官と協議して判断する
  • 裁判官と協議し量刑を決定する権利を持つ
  • 公判前整理手続きと呼ばれる予審の仕組みがある。したがって、予審の問題は残ったままで、裁判員の議論がそこでの調書に引っ張られる可能性がある
  • 法曹界は前回よりは積極的だが反対する人も多い
  • とくに裁判員制度の実現が難しいような時代背景はない
  • 国民性がどう影響するか不明
*1 公判前整理手続きで被告人は小規模(裁判官1人+裁判員4人)か大規模(裁判官3人+裁判員6人)を選ぶことができる。訴訟費用を最小化するために、よくもわるくも自白して小規模な費用が安い方を選ぶことが可能。


その他、ここでは省略しますが、模擬裁判員公判を行った際のアンケート結果などから実証的な調査も行われていました。
模擬公判に参加するくらいなので法律に興味のある人の可能性が高いですが、それでも、予想通り、もしくは予想以上に適切に公判を進められたという判断をする人が多かったようです。


最後に、本書で言及されていたことで、気になった点を1つ。

そもそもどうして参審制度のようなものがあるかといえば、歴史上陪審制が始まった頃は科学捜査などもなく、制約の多い証拠をもとに国が出した判決を鵜呑みにするしかありませんでした。そこで、国家の権力を制限するためにも、証拠に制約がある中で市民が納得する判決を出すためにも、常識を持つ市民をこの制度に取り組んで市民自身による判断にする制度が作られました。最初はイギリスで、その後大陸ヨーロッパやアメリカにも広まっていきます。
そういう意味では、科学捜査が発達した今となっては、裁判員の常識を信用するよりも、その分科学捜査の発展に税金を使って証拠の客観性を確保した方がよいのではないか?とう意見もあるようです。
なるほどと思いました。
ただ、高度な科学捜査によっても証拠を確保できないような事例はあるでしょうから、そういう意味では科学捜査の発展だけでは問題は解決しないというのはたしかにそうでしょう。


現代では立法はもちろん行政にも市民が参加するようになっています。そんな中司法の分野においても市民をどんどん参加させるべきだという考えにはたしかに納得させられます。
他方で、起訴されると有罪になる確率が99.5%な日本において(「日本の検事事情」)、ディスカバリ(請求すれば検察側の証拠をすべて閲覧できる)制度もなく、自供のビデオ取りも完全にはできず、司法取引などもできない中、公判前整理手続きが正しく行われたかをどう判断すればよいのか、また、裁判官による裁判員へのバイアスのない適切な説明は実際にはどのようにやればよいのか、といった部分に不安要素は多分にあるのも間違いありません。

2008年5月25日日曜日

専門家の叡智と群衆の叡智

群衆の叡智という古くて新しい問題」で書いたシンポジウムの第2回があったようです。

CNET:「みんなの意見」は専門家より正しい?--「群衆の叡智」をテーマにした2度目の討論会が開催

ITPro:「企業でも群衆の叡智は活用できる」,WOCS2008でIBMやNECなどが報告

ただ、今回の議論の中では、「多くの群衆が感じ取ったことよりも専門家や情報を多く持った限られた人たちが数人集まったほうが精度の高い結果が得られるのでは?」という疑問も出ていたようです。

これはたしかにそのとおりで、群衆の叡智を信じるパネリスト側でも、群衆の叡智が必ず正しいと考えている人はいないでしょう。

群衆の叡智も必ずしも正しくないし、専門家もまた間違いうる。

そんな中でどのようにすれば間違わない精度が高まるかを考える必要があり、「「みんなの意見」は信用するにたるか」に書いたように、群衆の叡智では、"多様"、"独立"、"分散"、"集約"が非常に重要になってくるということになります。

さらには、群衆の叡智の場合は、全員で決めたという納得感と、次は自分の意見が通るかもしれないという民主主義的希望がうまく働く可能性が高いです。ここが、限られた専門家が判断するのと大きく違うところだと言えます。(誰でも専門家になれる社会であれば、違うとはいえその境目はわかりにくくなりますが)

翻ってみると、「保守と革新、強者と弱者のダイナミクス:『日本の200年』」にも書いたように、歴史を見れば、ここの文脈で言う専門家と群衆の間のダイナミクスこそが歴史を動かしていることがわかります。

歴史を書くとはそういうことだ(ごく一部の強い為政者と多数の弱い権利者の闘争)という点はおいておくとしても、専門家による叡智と群衆による叡智はどちらか一方が常に正しいというわけではなくて、そのときの状況であったり問題の内容であったりで変わりうると思います。

専門家vs群衆という図式よりも、どのようにうまく集約できるのかと、間違っていた場合にどのように修正していくのか、という仕組みづくりの方が重要に思います。

なお、そのディスカッションに参加された人が「ITPro:オープンソースは品質が良い?」という記事を書いています。オープンソースだからといってなんでもよい(ベンダ製よりよい)とは限らないという実例です。

2008年5月24日土曜日

エンタープライズとコンシューマライゼーション

ITPro:さよならエンタープライズ

少々扇動的なタイトルですが、要するにコンシューマライゼーションの話です。
当たり前ですが、ITに関して、別にエンタープライズ領域が無くなるわけでもないし、エンタープライズの分野にイノベーションがなくなるわけでもないです。ただ、コンシューマ領域でのイノベーションが増えてきているのは事実です。

コンシューマライゼーション(消費者先導型IT)」にも書いたように、構造的なデータを扱う業務の自動化という意味でのITが一定の成熟段階に来ている一方で、ITが非構造化データを効率的に扱えるイノベーションがたくさん起こって知的生産性の分野での変化速度がずっと速くなっています。

とはいうものの、先日の銀行システム統合に見られるように、"ベスト・エフォート"ではすましてもらえないエンタープライズ分野がまだまだあるのも事実です。

エンタープライズとコンシューマライゼーション的流れには、補い合う部分や融合できる部分も多数あり、両方とも重要なものだと考えています。どっちかだけあればいいというものではなく。

"エンタープライズ"でミスが起きると騒ぎ立てる記者が、「エンタープライズは終わった」かのような記事を書くのはどうなんだろうとちょっと思いました。日経BPなんて今までエンタープライズで食ってきたのにそこを否定すると新興IT系メディアと比べてやってけるのかな?っておおきなお世話ですが。"IT技術"の捉え方が狭すぎる気がします。

2008年5月21日水曜日

読み書きインタフェース

ITPro:ITの負の影響から社会を守る“情報化会計”の提案(前編)

増岡さんの言いたいことの全体の趣旨からするとどうでもいいことなのですが。

キーボード入力は文字を書くことよりも精神的営みの活性化が弱いというような指摘がありました。

この記事で書かれている通り、読むことと書くことは文化的にも教育上も非常に重要だと思います。

ただ、ITでも読めるし書くことができます。
ITが読み書きに直接影響しているのはインタフェースのみで、読むこと書くことという行為自体は変わりません。

記事では,

「『雨が降る』と書きたいにもかかわらず,手が『amegafuru』や『アメガフル』と打たねばならない分裂は、手の動きと思考との間にずれを生む」
と石川九楊さんの文章が引用されています。引用文しか読んでいないので真意はよくわかりませんが、この文章だけだと誤認があるように思います。というのも、手の動きと思考との間にずれを生むのは、鉛筆やペンで文字を書くときも同じだからです。

むしろ、「アメガフル」と書いた方が、頭の中で文字を読み上げているとすると手の動きとのずれが小さくなります。「アメガフル」と頭の中で文を組み立てておいて、それを「雨が降る」と頭で文字に変換して書くことの方がずれが大きいでしょう。amegafuruもあわせて一般的に表音文字の方がずれが少ないと思います。(それでもずれがあるというのがオングらの指摘だと思いますが)

その後に引用されているW・J・オングの『声の文化と文字の文化』でも文字の重要性は指摘されていますが、筆なのかキーボードなのかについては指摘はあったでしょうか?抽象的思考にとっては、声と文字にずれがあることが重要で、そのずれによって即物的声ではなく、抽象的思考が可能になるのだという認識です。

ただ、たしかに入出力インタフェースが変わることで、人間の思考になんらかの影響を与えているとは思います。

自分が感じるのは、インタフェースがキーボードとディスプレイになると、情報が軽薄になるということです。というのも、読むときは指先のちょっとした動きで文字を流していくことができますし、文章の途中でも(リンクなどで)あっちこっちに飛んでいきがちです。また、書くときもとりあえず書き出してコピー&ペーストで後から組み替えていけるからです。これはよい面もあって大量の情報をさばきやすいです。調査するときなどや軽く情報をメモするには非常に役立ちます。

他方で、たしかに人生の中には、こうした高速の情報処理ばかりではなくじっくりと長文に取り組む(読み書く)ことも重要だと個人的には思います。大きな論理の展開の中でこそわかってくるものや感じることもあります。その場合は、たしかに、キーボードとディスプレイではなく、紙とペンの方がよいです。

けっきょく結論としてはおそらく同じようなものになると思うのですが(ネットもいいが紙とペンもね、という)、声と文字のずれがキーボードの方が大きいというのはちょっと違うと思うので書いておきました。

ブログやSNSでの法律沙汰

最近いくつかブログやSNS関連で裁判沙汰があったので概要を列記します。

まずは、日本で、ブログに書いた内容についてオリコン社が損害賠償を求めた裁判で、東京地裁で賠償判決が出ました。内容についてはリンク先。

ITPro:ブログのリスク

訴えられたのはジャーナリストで、実名でブログを書いていた人です。
"実名"にはこういうデメリットがあることは事実です。何かについて否定的に書く場合には注意が必要です。
もっとも訴えられたのはジャーナリストでそういうリスクを承知してのプロとして書いたのだと思いますが(実際の内容も読んでないのでよくわかりませんが)。
また、もしジャーナリストではなかった場合、オリコンは訴訟までは起こさず、判決もまた違ったものになったかもしれません。まずは注意や反論ができるはずですので。

次に、海外でFacebookやGoogleが利用者情報を提供して逮捕となった事例が紹介されています。

TechCrunch:悪事停止ボタン押す:Googleがインド人男性逮捕に協力。

これをもってGoogleを批判する向きもありますが、個人的にはまっとうな対応だと思います。ネットも実社会の一員である以上、自由を最大限に尊重するとしても法律や慣習には従う必要があります。

アメリカでは、SNSを通じて犯罪被害にあった人がSNSを訴えていましたが、これは却下されました。

CNET:「オフラインでの性的暴行の責任はMySpaceに問えない」--米で裁定

明らかにSNSがほう助していれば問題ですが、そうではない場合は罪を問えないという判決です。

ネット法の動き

いつでも好きなときにコンテンツを見たいという視聴者の利益を顧みない日本のコンテンツ業界に角川会長がコメントしています。

CNET:「放送側が番組の見逃し需要に対応していればYouTubeの成功はなかった」--角川会長が分析

小倉秀夫さんもblogでこの記事を引用して指摘しています。「benli:It's too late

「気軽にタイムシフト視聴」を行うシステムをテレビ局側がつぶしにかかれば,別の,よりアングラなシステムに飛びつくか,または,テレビ離れをするかしてしまうことは目に見えていたはずです。

YouTubeとJRCが包括利用許諾契約」にも書いた通り、一部のコンテンツホルダーはこうした意識とはほど遠い後ろ向きな状況です。

ちなみに、アメリカでは、FOXやNBCがHuluという動画配信サイトで動画投稿とともに番組配信も行っています。

ITPro:消費者主導というミッションを打ち出す−−動画配信サイトHuluのCEO

インタフェースもよさげ。ただし、日本からは閲覧できませんが。


ところで、この記事でも述べられていますが、角川氏をはじめとする有識者は、今年の3月にネット配信についての"ネット権"創設という政策提言をしています。

ITMedia:映像・音楽配信を許諾不要に 「ネット権」創設、有識者が提言

その解説記事も最近公開されていました。

ITPro:ネット法(1)許諾権者の一本化でデジタル・コンテンツの流通促進を狙う

今の著作権法のままでは、肖像権や隣接権が邪魔をして再配信のために許諾を得るのが非常にたいへんです。ネット法は、インターネットではこのプロセスを単純化してその代わり事後的に利益の再配分を行うのと、フェアユースの考え方を取り入れるというものです。
ただし、利益の再配分を過去の権利者に遡って管理するのはやっぱりたいへんだと思いますが。

2008年5月20日火曜日

新興技術系メディアvs既存メディア

先週から今週にかけて技術系メディアの買収ニュースが相次ぎました。

CNET:CBS、CNET Networksを18億ドルで買収

CNET:Conde Nast、人気技術ブログArs Technicaを買収へ

mediba pub:人気技術ブログArs Technica,Condé Nast/Wiredが買収へ」が引用しているTechmemeのランキングで2位と6位の新興技術系メディアが既存メディアに買収されたことになります。

同じくランキング1位のTechCrunchでは、「TechCrunch:「CNETがCBSを」ではなく「CBSがCNETを買収」に結末が逆転した理由」という記事を組んで、CNETの歴史と失敗をまとめています。

CNETは最近株主とももめていました。たしかに、かつては飛ぶ鳥を落とす勢いで既存メディアの買収も可能なくらいの存在だったのが、ここ数年で10分の1近く企業価値を下げていることになります。

media pubでも書かれている通り、TechCrunchは記事の提供でWashingtonPostと提携しています。今後も再編はあるのでしょうか。

松下幸之助を支えたエンジニア

日経BP経営とIT:真髄を語る:幸之助を支えたエンジニア、中尾哲二郎が遺したもの


松下幸之助の右腕技術者中尾哲二郎についての記事です。
自分へのメモとして。

2008年5月19日月曜日

エンタープライズ・クラウド・コンピューティング:ユーティリティ+コンシューマライゼーション

Google App Engineの発表とSalesForce.comとの提携が相次いで行われたことから、クラウド・コンピューティングがエンタープライズ分野にも進出し、クラウド vs エンタープライズかのような構図で語られることもあるようです。

ITPro:「あなたのビジネスをクラウドへ」,SalesforceとGoogleがMS/IBMに宣戦布告

ITMedia:Googleのクラウドユートピアは企業ニーズに合致せず——MuleSourceのCEOが指摘

クラウド・コンピューティングが企業でも使われようとしているのは、1つにはコンシューマライゼーションの流れの一環としてあるように思います。

また、もともとエンタープライズでは、ユーティリティー・コンピューティングというIBMやSun、Oracleなどが提唱していたITのアウトソーシングの流れもあり、クラウド・コンピューティングはこの流れの1つとも言えるかもしれません。

そもそも、IT業界にいる人にとっては、クラウド・コンピューティングはユーティリティー・コンピューティングの焼き直しのようにも思えます。

上のITProの記事の中でGoogleのEric Schmidt氏がこの2つの違いを指摘しています。

「企業向けのクラウド・コンピューティング」は,既存ITベンダーが語るユーティリティ・コンピューティングとはいくつかの面で異なるとも主張する。「1 つめは,ブロードバンド・ネットワークが前提になっていること。エンドユーザーが無線LANを使っていつでもどこでも情報を使えるのが,我々のクラウド・コンピューティングだ。2つめは,GoogleとSalesforceがそうであるように,アプリケーションを簡単に融合できること。3つめは,現実のビジネスに今すぐ適用できる点である」

要するに、自分なりにまとめると、ユーティリティー・コンピューティングは、
  • 必ずしもインターネットが前提でない(クローズドなネットワークによるサービスとしてもありうる)
  • ユーザ企業ごとに切り離されている
  • カスタム開発された企業内アプリケーションを企業外のシステムに配置して利用することを想定されている
それに対して、クラウド・コンピューティングは、次の点が前提になっています。
  • インターネットによるオープンなネットワーク
  • マッシュアップ
  • 部品の再利用による迅速な開発

シュミット氏自身が意識しているとおり、クラウド・コンピューティングはユーティリティ・コンピューティングとは異なるものの、その流れにあるものだとは言えると思います。

今までITベンダが理想像を唱えるだけでほとんど実現できていなかったユーティリティ・コンピューティングが、コンシューマライゼーションの流れによって企業の中にも取り込まれるようになってきたと言えるのかもしれません。

ITPro:IBM、グーグルが創る次世代IT、クラウド・コンピューティングの正体(前編)
ITPro:IBM、グーグルが創る次世代IT、クラウド・コンピューティングの正体(後編)

という解説記事もありました。

2008年5月16日金曜日

メディアには人気投票ではない集合知が重要

TechCrunch:NewsCred:お気に入りブログの信用度はいかに?

記事を投票で評価するという今までもあったようなサービスですが、この紹介記事に、こうした"クラウド"による記事評価の難しさが指摘されています。

オンラインのブログにも主流メディアにも、根拠のない噂や偏向記事や情報源不明の事実が山ほどある。しかし、黒か白かの投票システムが、著者の評判を確立する最良の方法だとは思えない。そんなシステムはすぐに人気投票と大差ないものへと落ちぶれてしまうだろう。NewsCredが成功するためには、事実に基づく議論を促すような頑強な評価システムを確立する必要がある。そうでなければ、それ自体が大した信用を得られないだろう。

TechCrunchは、元記者も参加しているため、メディアであることの困難さを十分理解されているように思えます。それでも記事の内容を通してクラウドの価値を十分評価していることは伝わってきます。

単なる人気投票では"集合知"にならない。それ以上の意見集約の仕組みがあってはじめて"集合知"になりうるという正しい指摘に思います。

メディアは、少数派を無視することになってしまう多数決(人気投票)による民主主義の欠陥をうまく修正していく動力でもあるべきで、それであってこそのメディアの価値なのでしょう。したがって、"集合知"とメディアはあるときは見方になりあるときは敵になるかもしれない。

それに対して、はてブはあまりにも素朴すぎるように思えます。

CNET:今夏に新はてなブックマーク登場--その進化と情熱

メディアを目指すと言いながら、その発信内容に対するあまりにもの無責任さ。それがネットのパワーだということなのでしょうが、あまりにも内向き(ネットのことしか見ていない)のパワーで素朴ナイーブすぎるように感じてしまいます。
もちろん、はてブ自体はよいサービスだと思うのですが。

また別に書きたい、最近の小倉秀夫さんによる実名/匿名議論で匿名支持の方々の意見を読んでいても、これまでのネットの価値を純朴に信じられていて、もう一段階ネットがブレークスルーにはそうした素朴さが障壁になっている気がしてなりません。

2008年5月15日木曜日

反省と確信と

TEch-ON:谷島宣之の「虚實の谷間に花が咲く」:俳優の心得、記者の心得、そして技術者の心得

山口瞳氏が紹介した歌舞伎役者中村翫右衛門の「演技心覚え」は技術者や記者に対しても言えるのではないか?という記事です。なるほどと思わせる心覚えになっています。引用します。

一、俳優は、いつでもこれでよいという満足を感じずに一生を過ごすものだ。
一、批評は大切なものだが、善悪を見極めずにあまりに批評に動かされては自分を見失うことになる。
一、俳優はいつまでも若く、感激性を保持せねばならない。でないと舞台の感激・役の感激にひたれず、合理主義的演技に陥ってしまう。
一、俳優は絶対の確信と、限りない反省と、この裏表を絶えず忘れてはならない。
一、巧くやろうと思うな、唯全力をつくせ。
一、人の真似をするな、拙くとも自ら創り出せ。
一、行詰まれ、打破れ!行詰まれ!!そして打破れ。
一、昨日よくできても昨日のように演ろうと思うな、今日は今日の気もちで演れ。
一、稽古中は臆病に、舞台に出たら自信をもて。
一、早く言う時は、心もちゆっくりしゃべれ。
一、修業はこれからだ。

どんな分野でもあてはまりそうですね。

ダビング10問題

「ダビング10」が一時凍結、情報通信審議会で事実上決定

ITPro:「関係者で合意が得られ次第,日時確定」,Dpaが「ダビング10」の準備状況を発表

というわけで、2008年6月2日に予定されていたダビング10が見送られることになりそうです。

この問題は、JASRACなどの著作権者団体が私的録音録画補償金の対象機器を拡大しようとする思惑と、電機メーカの業界団体である電子情報技術産業協会(JEITA)が補償金の上乗せで機器が高くなることを避けようという思惑の対立から、文化庁審議会での議論が錯綜していることによるものです。
私的録音録画補償金とは、録音録画メディアの販売価格に著作権料を上乗せすることで著作権者に利益を還元する仕組みで、今回ハードディスクレコーダなどもその対象になりつつあります。

JEITA側が補償金に反対する根拠として、ダビング10で著作物が保護されているうえに補償金まで徴収するのは著作権料の二重取りになるとしています。そのために、補償金とは直接関係のないダビング10の導入が頓挫してしまいそうになっています。

ITMedia:「JEITAの対応、憤り禁じ得ない」と権利者団体 私的録音録画補償金問題で

ただし、著作権者団体側も、将来的な補償金廃止には言及しています。

Tech-ON:【続報】「補償金廃止へ明確に舵を切った点を評価してほしい」,私的録音録画補償金制度で文化庁の担当官

個人的には、今まで書いてきている通り、著作権者への利益還元のためには、極端ですが、

  • DRMと著作権申請管理DBで利益を得たい著作物を個別に管理する
  • 著作物はオープンにして税金のようなかたちで著作者への還元利益を確保する
のどちらかしかないと考えています。現実的にはこの間の落としどころを探るのかもしれませんが。
自分としては、2つ目の方が、デジタルでオープンなコンテンツ活用のためには有効な気がするのですが、なぜかネット業界で反対が多い気がします。(彼らは著作物はすべて無料にしろとでも言いたいのでしょうか)

その意味では、税金ではないけれども補償金と有料放送の視聴料という二重取りを批判しているJEITAの主張はまっとうであり、支持できるものではあります。ただし、JEITAとしてはあくまで補償金に反対なのでしょうが。

なお、そもそもどうしてダビング10のようなものが登場してきたのかについては、

池田信夫blog:B-CASは独禁法違反である


に、その裏話が出ています。たしかに、最近地デジ対応テレビを買って初めて知ったのですが、B-CASってなんなんだ?と思いました。

他方で、知財本部では、デジタル・ネット時代における知財制度専門調査会がまっとうな著作権(知財)の議論がされていると紹介されています。

無名の一知財政策ウォッチャーの独言:第93回:知財本部・知財規制緩和調査会の資料の紹介

上に書いた通り、個人的には税金的に補償金をとって著作権者に還元する仕組みは悪くないと思うのですが、どうもこれに素直に賛同できない理由に、文化庁と著作権者団体の下心が見えているということがあります。メーカは消費者と向き合って競争していますが、文化庁と著作権者団体は競争もしていないし、そもそも消費者の方をいっさい向いていません。

池田信夫blog:総務省の首を絞める文化庁

無名の一知財政策ウォッチャーの独言:第94回:B-CASと独禁法、ダビング10の泥沼の果て


などを読んでも(あるいはそれ以外の情報でも)、文化庁が一部の著作権者団体の既得権益を守ることに必死なのと天下り利権べったりなのが伺い知れます。本来の著作権者の主張ともほど遠いように思えます。これには、総務省のみならず、経産省も公取委も内閣府(知的財産戦略本部)もみんな不満を募らせていると書かれています(JASRACへの公取の調査もそのためではないかという話も)。

いずれにせよ、著作権者と消費者がおきざりになって、業界団体同士でもめているこの状況は見ていてもあまり気持ちのよいものではありません。

2008年5月14日水曜日

オープンになっていくプロフィール情報

MySpace、Facebook、Googleが続けざまに、ユーザのプロフィール情報を外部で利用できる仕組みを発表しています。

CNET:グーグル、「Friend Connect」を発表--ウェブサイトにソーシャル機能を追加可能に

CNET:「データポータビリティ」の行方--グーグル、Facebook、マイスペースの施策を探る

昨年、GoogleはOpen Social APIやSocial Graph APIを公開しており、これとの関係や、それぞれ三者の違いなどについて、少々混乱したので調べた範囲でここに整理してみます。
(Social GraphやOpen Social APIについては、「Googleがオープンなソーシャルグラフを目指すようです」や「GoogleのOpenSocial」。ただし、この段階では混乱しているところがあります。)






ベンダサービス名サービス概要データ保管場所利用場所
GoogleSocial Graph API自分のブログやプロフィールがどことつながっているか(リンクされているか)などを、XFNやFOAFといった(今後標準となるかもしれない)情報をもとに取得するGoogleおよびXFN/FOAF保管サイト対応Webアプリケーション
GoogleOpen Social API各SNSが保持するプロフィール情報を参照更新?する各SNSサイト各SNS内
MySpaceData AvailabilityMySpaceのプロフィール情報をパートナーサイトから参照更新?するMySpaceが保持パートナーサイト
FacebookFacebook ConnectFacebookのプロフィール情報をサードパーティサイトから参照更新?するFacebookが保持サードパーティサイト
GoogleFriend ConnectFacebookやGoogle Talk、Hi5などのプロフィール情報を参照更新?する各SNSサイトが保持サードパーティサイト


というわけで、それぞれで微妙にサービス内容が異なるようです。
とくに、2008年2月に発表されたSocial Graph APIと、2008年5月に続けざまに発表されたプロフィール交換APIは似ているけれども根本的に違うものです(GoogleのFriend ConnectはSocial Graph APIを使っていません)。

また、プロフィール交換APIも、主にどこにプロフィール情報を保持するのか、どこで利用できるのかといった観点でそれぞれ違いがあるようです。

いずれにせよ、Social Graph APIおよびOpen Social API以外はまだリリースされていません。

(もしかすると勘違いしているところがあるかもしれません)

ソフトウェア・ファクトリの実践

ソフトウェア・ファクトリ最前線」の実践編と称して記事が出ています。

ITPro:[実践編]なぜ改造に時間とお金がかかるのか?

ITPro:[実践編]トラブルが起きた個所を指で指してほしい

「IT業界のここがおかしい」というところが的確に指摘され、その解決策案も提示し、さらにこれを実践しているというから驚きです。Biglobeだそうですが。

たとえば、IT業界にはこんな疑問を感じないでしょうか?

【疑問1】なぜこんなに改造に時間とお金がかかるのだろう?
【疑問2】なぜ見積もり工数の妥当性を判断できないのだろう?
【疑問3】なぜスーパーSEがいないと大規模システムはできないのだろう?
【疑問4】なぜ“ソフトウエア業界”と呼ぶのだろう?
【疑問5】なぜ技術やノウハウが蓄積しないのだろう?
【疑問6】なぜコンポーネントの粒度がまちまちなのだろう?
【疑問7】なぜ仕様が文章で書かれているのだろう?
【疑問8】プログラミングが本当に必要なのだろうか?

この手の手法は、理論的な解説書やUSでの事例などは読むことができますが、日本の企業の中でこれを実践できているという話はあまり聞いたことがありませんでした。自分のいる周りが古いだけでしょうか。

Biglobeも実態としてどこまでできているかはまた別なのかもしれませんが、もしこのとおりだとするとすごいなと思います。
内容としては日本の企業でもできないことはないはずなのですが、どうしても今までのやり方の易きに流れてしまったり、新しい手法は不安だったり、技術以外のビジネス上の制約等によって、なかなか実現しきれていないということも多いと思います。
そもそもこんなやり方は邪道だ(今まで通りのサブシステムxウォーターフォールが一番いいんだ)という意見もまだまだあるでしょうし。

EPFとJazz(アジャイル開発)

@IT:アジャイル開発の広範な普及を目指して

IBMのdeveloperworksからの転載記事です。

乱立するアジャイル開発プロセスの統一に取り組んでいるEclipse Process Frameworkの紹介や、IBMが開発中のアジャイル開発に適したコラボレーション・プラットフォームである「Jazz」の簡単な紹介があります。

2008年5月13日火曜日

大企業でもポジティブな炎上はある

正解のない問いに知の集約と他者をどう考えるか」で紹介した梅田望夫さんとまつもとゆきひろさんの対談の後編が出ています。

ITPro:梅田望夫×まつもとゆきひろ対談 第2弾「ネットのエネルギーと個の幸福」(後編)

それにしても梅田さんは日本の大企業が嫌いのようですね。対談の中では、日本企業は希望が持てない、アメリカの企業は自分のやりたいことができるとおっしゃってます。前からそういうご意見ですよね。

でも、ポジティブな炎上やオープンソース的協力というのは、大企業の中であってもたとえばプロジェクトの佳境やトラブル発生時の対策などのときにうまくいけば発生しうるものですし、個人的には経験しているつもりです。もちろん発生せずに負のスパイラルに陥ることもあるわけですが。それはでもオープンソースでも同じだと思うんですけどね。

そんなときはやっぱり、この対談でも話題に出ているように、問題がうまく小さく切り分けられて1つ1つの問題にみんなの意識が共通に向かっているように感じます。
メンバーが疲弊することなくそういう状況を醸成するにはどうすればよいのかは大きなテーマです。

技術とデザインとトレードオフ

桜井宏氏の「社会教養としての技術」の紹介がありました。

ITPro:桜井宏氏 『「社会教養としての技術」の重要性を訴える』

ITPro:経営の情識 第59回:「技術とは何か」、学校で習いましたか?

「技術と科学は違う。日本の教育では、科学を教えても技術を教えることがない。」というご指摘はもっともです。

(技術リテラシーについて)米国のInternational Technology Education Association(ITEA、国際技術教育学会)は、テクノロジカルリテラシーを次のように定義している。「技術を使用し、管理し、理解し、評価する能力」。つまり技術そのものに習熟するというよりも、「技術を使いこなせる」能力を指している。
「技術の本質はデザイン(設計)にある」「デザインとは相反する複数の要求あるいは制約のバランスをとっていくこと」

日本の学校教育では科学知識の詰め込みが主流となっていて、その応用力とでもいうべき技術リテラシーはまったくといってよいほど教えられていません。「技術リテラシー」といえば、せいぜいパソコンの使い方ということになってしまいます。

それに対してアメリカでは,将来の国を背負って立つ主権者を育成していくために、技術の原則や手法をしっかり教えているといいます。

社会には唯一絶対の答えはほとんどありません(「正解のない問いに知の集約と他者をどう考えるか」)。そこに技術を適用していくときに、あるいは技術を利用していくときに、どのように考えればよりよい解を導きだせるのかについての考え方を知ることは重要だと思います。

自分は文系ですが、文系にもこうした方法論があるものの、まともに学んだのは大学でした。たとえば、『方法論序説』(「方法論(メソドロジー)について」)の内容は今見直しても非常に有効でこれは集合知についてもいえるんじゃないか?などと新しいアイディアに結びついていったりしますが、こうしたことをもっと卑近な例を使って学校で学べてもいいのではないかと思います。

2008年5月12日月曜日

ブログをここに移転してきました

ブログを、
http://qog.blog.drecom.jp/
からここに移しました。

一括検索したいので、古いエントリも一通りこちらに移しました。
ただし、連絡用なエントリは移してません。あと、コメントも移せませんでした。
なお、今日より古いエントリは、bloggerでは多少体裁がずれているところもあります。見やすさという意味では、もしよければ古いブログサイト(http://qog.blog.drecom.jp/)の方をご覧ください。

2008年5月8日木曜日

正解のない問いに知の集約と他者をどう考えるか

ITProに梅田望夫さんとまつもとゆきひろさんの対談が出ていました。

ITPro:梅田望夫×まつもとゆきひろ対談 第2弾「ネットのエネルギーと個の幸福」

そこで、しばしばネガティブの方へ傾く"炎上"をもっとポジティブなパワーに向けられないかという話がありました。
そこで炎上を起こさない秘訣として梅田さんが次のように述べています。

これはやらない方がいい,ということをわきまえていれば炎上は起きない。そういった情報をもっとみんなで共有するといいんじゃないか。例えば政治について語る,イデオロギー,宗教について語る,アイドルをけなす,つまり誰かが信奉している人を批判するとか。そういうことをしちゃいけいないというわけじゃなく,そういうことをする自由はあるんだけど,やるのなら覚悟したほうがいい。覚悟して戦う強さを自分が持っていると思えば,書けばいい。そうではなく自分が傷つきたくない,批判されたくないという人は,今言ったようないくつかのテーマを避けて,自分の好きなことや専門性,読んだ本の感想やごく普通の日記を書けば,僕は炎上というのはほとんどないと感じています。

ネガティブな炎上を起こしたくなければ、人がこうだと信じていることについては意見を述べない方がよいという処方術です。

当たり前と言えばそうなのですが、このことをもう少し深堀してみたいと思います。つまり、どうして専門的なことや些末なことでは起こらないのに、政治的な内容では炎上してしまうのか。

これで思い出したのが、糸井重里さんも同様のことを言っていたということです。「ネット社会(仮想社会)での調整の難しさ」で紹介した引用をそのまま再掲載すると、ほぼ日サイトでコメントを設けない理由について、

 このネット直接民主主義では、例えば「商品」の良い、悪いという話に関してはみんな割と健康にできるんです。

 商品への投票権はお金です。嫌だという人は買わないだけで、ほかの人が買うことまで邪魔するというところにはいかない。

 ところが、ご意見ものは違う。Aの意見が通ったら、Bの意見が通らないだけじゃなくて、Bは追放されるかもしれない。

ということを述べられています。

これは、実は、少し前のエントリで述べた他者と自己同一性の話がその根本の原因にあると考えています(「"仕事"と"他者"」)。

簡単に言うと、世の中の大半のものごとは、無限の他者との関係性の中で成り立っており、ある地域的時代的共同体的仮定をおいて他者を限定しないと自己同一性が維持できないような正解のない問題を成しているということです。つねに自己同一的である正解があるような問題は実は少数派です。

ところが、そうした正解のない問題に対しても、正解があるかのように、もしくは正解を期待して接するがゆえに、正しいか間違っているかという二律背反に追い込まれ、自己同一的だと信じている主体(自分)までもまっぷたつの間で揺さぶられてしまってネガティブな感情が生まれるのだと思います。

そうではなくて、その問題について自己同一的であるためには、どういう他者を想定すればどのような正解が導けるかという分析を行うことが重要に思います。

先のエントリでも述べましたが、主体的であったり客観的であるためには、自己同一性が重要です。主体は、過去も未来も一貫した意見と行動を伴うことで(=自己同一性)主体的たりえます。客観性も、いつどこでも不変であること(=自己同一性)が客観的であることと言えます。

ところが、他者というものは、つねに自己同一性を揺るがしてきます。自分とは意見も行動もまったく異なる他者を受け入れようとするとき(=寛容の問題系)、過去の自分の意見を修正したりそれまで正しいと考えてきたことを訂正したりする必要が出てくる可能性があります。そのとき、自己同一性は担保されないものとなります。実際いろんなレベルで他者の影響は受けます。

逆に、自分の意見や考えを修正せずに他者を受け入れたかのように見えることがあれば、それは実際には他者に自分の考えやイメージを押し付けているだけであって、独りよがりな優しさ(真の寛容ではない)である可能性があります。

専門的なことや些末なことは、関係する他者を絞り込めます。したがって、狭い範囲の他者は受け入れやすく、共通の目的を共有しやすいため、自己同一性を維持でき、その範囲での正解を導きだしやすいです。

ところが、政治的なことや社会的なことは、関係する他者が幅広いため、自己同一性は大いに揺さぶられます。そんなところに自己同一的な正解を求めても、独りよがりな解となるか、自分の自己同一的であってほしい主体までもまっぷたつに切り倒されるだけに思います。

そうではなくて、他者を受け入れつつ、今この時代のこの地域において、自分の信ずるところと他者との境界線を探っていくことが重要でしょう。それはけっして正解を得られることのない模索となりますが、民主主義の最良のところは、何度でもやり直しができるということです。やり直していく中で、自分の考えと時代や地域の他者がもっとも接近する機会が現れる可能性があるということもまた確かなことなのです。

ネットのエネルギーとは、こうした民主主義的機会が生じるところにあると思います。そのためにどういう制度的設計が必要なのかが考えるべきことです。
梅田さんもまつもとさんを通して探求しようとされているように、どういう知の集約のあり方が民主主義的機会にもとづくパワーを生むのかというのが重要なテーマに思います。

ただ、梅田さんが言うように、小さい範囲に絞り込むことだけがそのあり方なのかは疑問もありますが。

自分としては、

* やり直しのきく(フィードバックのある)意見評価
* 小さい範囲への絞り込み(ただし、他者の排除につながる)
* 上の2つのいずれの場合でも、漏れた他者の救済処置

を考えることが、知の集約にとって重要に考えています。

2008年5月5日月曜日

2008年5月4日日曜日

フィルタリング実現のためには

消費者とサービス提供者が1対1契約できないような広域サービスを、公的に行う方がよいのか民間で行う方がよいのかについて簡潔な議論が池田信夫blogにまとめられていました。

池田信夫blog:フィルタリングの法と経済学

けっきょくミニマムには"コスト"重視か"質"重視かという問題になってしまうのですが。

ただし、それ以外にも、池田さんが指摘している通り、今回の場合は"表現の自由"という問題もからんできますし、コメント欄で小倉秀夫さんが指摘されているように、民間にした場合は質に加えて、個人の責任にしてしまうと必ず出てくる救われない人たちに対するセイフティーネットの問題もあります。

単にコストか質かということであれば民間での方がよいように思いますが、どこまで表現の自由でどこから公共の秩序を乱す情報なのか、どこまで個人の責任にできてどこから救わなければいけないのかという観点が入ってくると難しくなります。

表現の自由については、今までのメディアでは業界の自主規制できているので(官による検閲は許容しない)民間がよいように思いますが、セイフティーネットについては公的サービスとした方がよいようにも思います。

ということをふまえると、落としどころとしては、評価機関は複数の民間業者で行い、フィルタリング機能の実装を公的に義務づけるということになるでしょうか。(ちなみに、Macでは標準でついてますが)

また、携帯フィルタリング用サイト評価の民間機関EMAの初総会が開かれていて、審査料も話題にのぼっています。これだと(この金額だと)個人が気楽に子供向けのサービスを提供するようなことはできなさそうですね。

ITPro:携帯向け“健全”サイト認定機関EMAが初総会,審査料は100万円前後に

"仕事"と"他者"

内田樹の研究室:キャリアを考える

仕事をするということについて、なるほどと思わせることが書いてあったので紹介します。

就職活動のときも、会社に入ってからも、いろんな資格を取ったり、キャリアシートのようなものに何をしてきて何ができるのかを書いたりして、自分は何ができるかをアピールします(させられます)が、"仕事"の本質は実はその真逆のところにあるという指摘です。

「仕事をする」というのは「私のもっているどんな知識を求め、私の蔵しているどんな能力を必要としているのかがわからない他者」とコラボレーションすることである。
相手構わず、「私はこれこれのことを知っています。これこれのことができます」というリストを読み上げても意味はない。
「私はあなたのために何ができるのですか?」
そうまっすぐに問いかける人だけが他者とのコラボレーションに入ることができる。

自分にはこういう能力があると自己評価し、その能力を活用できると思える仕事しかしないというのは、実は"仕事"をしていることにならない。それは自己満足に過ぎない可能性が高い。
そうではなくて、いっしょに仕事をする人たちに対して、どういうことができるかを考えることが重要であり、そうしたやり取りを通して成し遂げられることが"仕事"だということです。

これは、リーダー的立場にある人も同じです。
「自分はこのプロジェクトの目標を知っています。目標達成のためにはこれこれのことをする必要があります。」と読み上げてもしかたがない。「私はあなた(メンバー)のために何ができるのですか?」と問いかけることが重要になります。

とはいうものの、自分に何ができるかを知って表現していないと向こうから問いかけられることもないし、問いかけに対して答えるための軸もないことになってしまいます。その意味で、自分に何ができるかを自己評価することは重要なことです。実際の"仕事"において、その自己評価に固執するのはよくないということだと思います。
リーダー的立場にあっても、プロジェクトの目標やToDoの把握は最重要なことです。実際の"仕事"において、メンバーへの対応を疎かにして目標やToDoのみに固執するのはよくないということだと思います。

ところで、リンク先のエントリでは、"他者"という言葉がよく出てきますが、これは内田さんの研究内容からして、レヴィナスや(フランス系)精神分析のl'Autre(他者)のことだと思われます。

"他者"は、戦後の思想界での最重要タームの1つです。西欧近代の基底には、"Identity(自己同一性)"という日本語にしにくい用語があります。主体性や客観性は、この自己同一性にもとづくものです(自己同一性がないと客観的にも主体的にもなれません)。
ところが、戦後、自己同一性の信奉に一定の批判が加えられ、その対概念としての"他者"が重視されるようになりました。それは、戦前において自己同一性をあまりにも厳密に純粋に突き詰めた結果、自己同一性から外れるものの排除(体の不自由な人や精神疾患者、さらには他民族まで)が起こってしまったからです。

現代では、自己同一性なるものも、実は"他者"との交流の中で形成されていくものであり、また"他者"との交流を通して常に変化して行くものだという考え方が主流となっていると思います。
そのため、主体や客観性というものもまた不変なものではなく、"他者"との関係性の中で捉え直されていくものになります。

自己同一性により主体と客観性が唯一不変に決まれば、ロジックも平明になり、科学的あるいは数学的計算でロジックを表現できるのかもしれませんが、実際にはいろいろな(無限の)"他者"との関係性の中でつねに主体や客観性を捉え直していかないといけないところが難しいところです。

ただし、このことは科学的数学的なロジックに意味がないということではまったくなく、むしろ重要で、ただ、いかに多くの人が納得できるかたちの"他者"との関係性の中で、自己同一性を仮定したロジックを平明に表現できるかということがポイントになってきているようには思います。

"仕事"の成功も、どういう"他者"との関係性を仮定すれば、主体(プロジェクト体制)と客観性(Objective:目的)がどのように決まり、それに基づいたロジック(スケジュールとWBS)が決まるか、というところに依っているのではないでしょうか。

2008年5月2日金曜日

十代若者の携帯文化とフィルタリング

nikkeiTRENDYnet:親の安心によって子供が"失う"もの「携帯フィルタリング」の波紋

十代の若者がいかに携帯を使いこなして自分たちの文化を形作っているか、という紹介記事です。
自由は多くの創意工夫とごく一部の悪を生み出します。
今の携帯フィルタリングは粒度が粗すぎて、mixiのようなSNSも一律アクセスできなくなるというのが問題ですね。

レディオヘッドの「お好きな価格で」は1回かぎり

CNET:レディオヘッド、pay-what-you-wantプロモーションは続けず

やめちゃうんですね。
次どういう配信の仕方をするのでしょうか。

同じ記事には、無料ダウンロードを提供したNine Inch Nailsが最終的に160万ドル売り上げているということも紹介されています。

(関連リンク「レディオヘッドが音楽レーベルなしの楽曲ダウンロード」)

審議会の乱立

少し前ですが、知財政策関連の各省庁の審議会がまとめられているエントリがあったので紹介します。

無名の一知財政策ウォッチャーの独言:第89回:日本の奇怪な審議会(有識者会議)システム

まったくバカバカしい話ですが、似たような審議会が省庁ごとに山ほど作られています。審議会を作ることはその省庁にも一家言あるぞという意思表明であり既得権限の保護になっています。さらには、台本のある名ばかりの審議会を通してその政策に関するイニシアティブをとることで、既得権益を最大化しようとする各省庁の涙ぐましい努力の結晶とも言えます。

本来は行政を検討する会であるはずですが、このエントリでも指摘されている通り審議会の結果から法律案が提出されたりして立法まで踏み込んだりしているばかりか、司法で判断すべき内容についても審議会を通しての立法行為によって判断されたりもしています。
各種審議会は、官僚が、権力を議員や裁判官から取り上げるための重要な機関だとさえ言えるかもしれません。

ただし、今までは、こうした審議会システムが制度の効率的な形成に大きな役割を果たしてきたという側面もあるかと思います。
すべてを司法の判断に任せていては膨大な費用と時間がかかりますし、なんの意見調整もせずにすべてを国会に任せることも時間の浪費につながりがちです。
(前にも触れた『裁判と社会』でも、日本の司法が行政判断を下すことが少ない要因としてこの点に触れられていました。)

とはいうものの、知財政策関連の審議会の数とその活動内容を見ていると、社会インフラが一定程度整備された現代において、かつて効率的だった審議会システムが非常に非効率なものになってしまっているような気がしてなりません。

 
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