2006年12月30日土曜日

死刑についての国際情勢と日本の事情

このブログのテーマとは直接関係ありませんが。

30日、フセイン大統領の死刑が執行されたニュースが流れています(たとえば、asahi.com)。
日本でも、今月25日に4名の死刑が執行されました。

他方で、27日に、フランスのシラク大統領が、「死刑廃止」を憲法に盛り込む意思表明をしています。(Yahoo!ニュース:仏憲法「死刑廃止」明記へ シラク大統領、新年に提案(12月29日8時0分配信 産経新聞)

ちなみに、ヨーロッパ各国は、イギリスも含めフセイン大統領の死刑に反対しています。フセイン裁判が国際法廷ではなく米国主導のため、その意見はフセイン裁判には反映されていません。

世界の流れとしては死刑廃止の国が増加しているのですが、先進国の中ではアメリカと日本だけが死刑を存続させています。

死刑に関する客観的事実を列挙すると、

【国際社会の流れ】

* 2006年12月現在、世界197ヶ国中128ヶ国で死刑が廃止
* 1989年12月に国連総会で死刑廃止条約が採択されるも日本は反対、現在まで批准せず
* 先進国で死刑を執行している国は、日本とアメリカ(50州中13州は死刑廃止済み)のみ

【国内の状況】

* 国民の大多数(8割以上)は死刑賛成
* 切腹等の死生観、文化的背景(悪いことをした者は死んで当然という感覚)


世界では死刑は廃止の流れなのですが、日本ではそうはなっていません。
その理由としては、

1. 日本独自の国民感情や意見、文化的背景を反映している
2. 国民が死刑に関する世界動向を知らない

のどちらでしょうか。
前者(1)であれば問題ないのですが、後者(2)であればあまりよくないと考えています。このエントリが少しでも死刑に関する世界動向を知るためのの補助になればと思います。

それにしても国連などの国際的権威に弱い日本が、こと死刑に関しては反対し続けているというのも不思議な感じです。
環境問題で京都議定書にアメリカが批准しないことに憤りを覚えている人は多いように思いますが、日本も批准していない国際条約があるということは認識しておくべきと思います。
(環境問題は一国内の問題ではないと思われるかもしれませんが、死刑も、日本国内で犯罪を犯した外国人が死刑になりうるという意味では単純な国内問題ではありません。)

死刑については、

* 文芸春秋編 日本の論点Plus [死刑廃止についての基礎知識]
* 世界:死刑執行:国内世論と国際社会から見えること


死刑に消極的賛成の方のサイト

* 犯罪の世界を漂う


中立的立場ながらも死刑反対の方の意見

* ビジネスのための雑学知ったかぶり:死刑廃止をめぐって



=====
(個人的意見)
私は、基本的には死刑に反対です。
が、法律はその国に住む人の意見を抽出したものであるべき、とも思いますので、大多数が死刑賛成の現状では日本で死刑が存続してもしょうがないとは思っています。
せめて、日本で死刑が存続する理由が、死刑に関する世界の動向に無知であるため「ではない」ことを願います。

多くの人が指摘するように、終身刑がないことも問題と思っています。

私が死刑に反対な理由は、

* 何人たりとも人を殺してはいけない、という原則を社会全体として尊重すべき
* 死刑の犯罪抑止効果に疑問
* 死刑が被害者の気持ちを慰安するか疑問
* 近代社会においては、応報を招く"報復"を禁止し、国家による罰金や禁固などの刑罰によって換算することで社会的安定を得ているが、死刑は"報復"的である

です。

犯罪被害者のケアは第一に考えられなければなりませんが、それが死刑だとは考えないという立場です。死刑よりももっとすべきことはあるはずです。

いずれにせよ、2006年12月で128ヶ国もの国が死刑を廃止しても、社会的不安定になることなく、被害者のケアを行い、加害者に相応の懲罰を与えている、ということからも、「犯罪抑止力」と「被害者のケア」という問題に死刑が直接関係ないと言えるとも思います。
日本では、死刑があっても凶悪犯罪は後を絶たないですしね。(死刑の適用が甘いからだという意見もあるでしょうが)

死刑存続の理由として、社会機能の効用があまり考えられないのだとしたら、文化的背景が大きいというのはそのとおりかもしれません。

私自身、昔は死刑についてなんの疑問も抱いていませんでした。私より上の世代では「死刑っ!」というギャグまであったくらいですから。

日本人の国民意識として「悪いことをした者は死んで償うべき」というものはある気がします。それと、自分で責任をとって命を絶つことの潔さというような死ぬ美学があるような気もしています。

ただし、個人的にはこの死生観は非常に危険で、改めていった方がいいのではないか?と考えています。(何十年、何百年かかるのかもしれませんが)
第2次世界大戦の玉砕精神や神風特攻隊のようなもの、浅間山荘事件や日本赤軍、最近ではオウムなどで、まさにこの精神が悪い方向に出てしまっているのではないでしょうか。


最近でこの死生観が悪い方向に出ていると思えるのは、いじめ自殺の問題です。(さらに脱線していってしまいますが)

ワイドショーなどで、凶悪犯事件のときにコメンテイターが「卑劣な犯罪者は死ぬべき」などと言った直後に、いじめ事件で「ぜったい死んではいけない」とか言っているのを見るにつけて矛盾を感じます。

「悪いことをしたら死ね」という言葉を、極悪犯罪予備軍の人が聞いて「そのとおりだ!」と思って考えを改めるでしょうか?
逆に、こういう言葉が一番突き刺さるのが、まじめで心の弱い人たちなのではないかと思います。

いじめ自殺した人の遺書に「私がいるとみんなに迷惑がかかるから死にます」というようなことが書かれていることが多いように思います。
いじめで自殺してしまう人の中には、自分が悪いと思い込んでしまう人が少なくないように思います。もちろん、その先にはいじめた人への怨念のようなものはあるとは思いますが。でも、普通に人のせいにできているうちは自殺にまで思いつめないと思います。

実は、私には、自殺した知り合いがいます。
また、自殺未遂で大怪我の後生き残った知り合いもいます。
さらには、自殺願望のある(あった)知り合いもいます。

こういう境遇にあるのは特異なのかもしれませんが(私はカウンセラーでもなんでもありません)、彼らと話していて感じるのは、「自分がいると周りに迷惑がかかる」「自分のせいでみんなが困る」といったような気持ちがあることです。

「悪いことをしたら死ぬべき」という死生観が、今一番心に響いているのはまじめで心の弱い善良な人たちではないでしょうか?
「何人たりとも死んではいけない」というメッセージを社会として出していくためにも、死刑は存続するとしても、マスコミを通じて死刑を声高に主張するのは控えたほうがよいのではないか?と思ったりもします。

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