昨日は、「ある神経の働きと次の神経の働きがどのようにして意味のある思考の論理展開となっていくのか、それはコントロールされた必然的なものなのか、偶然の連なりがあたかも意味があるかのような論理的思考の脳の働きになっていくのか。」
と書きましたが、子育てをしていると、脳の活動が、当初は単なる神経の働きの偶然の連なりにすぎないというのがよくわかります。幼児がずーっと意味不明語を話しているのを見るに、エピソード記憶に入った音声的記憶をほぼランダムな順番に再生しているにすぎず、そこに意味はほとんどありません。
ところが、そういうランダムな発話行為に対して、大人がいろいろな反応を示すことで、特定の発話行為が現実の意味に結びついていきます。これは、その発話行為に関連する神経の働きと、現実の反応がより強く結びつけられていっているのでしょう。
さらには、子供時代の教育において、これは正しい正しくない、と家庭や学校で規律づけられていきます。それによって、特定の神経の働きが強められていくのでしょう。
というように、偶然の神経の働きが、外からのフィードバックによって強められて残るようになっていくというようには言えます。
ただ、今度は、遭遇するある場面に対してどうして似たような場面に関連づけられた神経細胞が活動し出すのか、あるいはいろいろな意味のあるひらめきや創造はどのようにして発生するのか、ということの説明が難しいです。
これも因果論でコンピュータ処理的に説明しようとすると、ある場面に対して脳内の関連するすべての神経細胞が強い順番に反応していって最適なものだけが残って意識にのぼるとしか説明できないです。本当に脳の中でそういう(無駄な)ことが起こっているのか、それとももっと特定の目的に沿うような働きとなっているのか、ということについてはやはり謎のままです。
2009年2月15日日曜日
発育と教育による脳の因果論
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13 コメント:
論理的思考は、言語の習得の延長線上にはないんじゃないかと思います。
論理的思考を生み出すのは自我であって、言語は表現(もしくは確認)方法に過ぎないんじゃないでしょうか。
だとすれば、言語の習得過程を分析しても、論理的思考を含む自我の形成を説明することはできないことになります。
どう思いますか?
たしかに、そこは意見がいろいろあるところですね。
自分は、論理的思考は言語と切り離せないと考えているのでそこを前提にしてしまっていました。
論理的思考は、表現方法とは別にあるのではなく、表現することそのものに含まれるという認識です。
逆にそう考えないと、論理的思考や自我を唯物論的に語れない気がします。
言語とは別の論理的思考なるものが存在するとして、それっていったい何なのか、と。そのような表現しようもないものを認めるのは、魂やら神やらの一歩手前に来ているのでは、と。
もちろん、魂なるものを前提にする議論もあり得るとは思いますが。
脳の機能論としても、論理的思考が言語と切り離されてしまうと、もうどうにも説明つけられなくなりそうですよね?
論理的思考を唯物論的に語るために何かが足りないんだけれども、それが何かはまだ解明できていないのでしょう。
それは、量子力学が出てきたときのアインシュタインの「神はサイコロを振らない」というのと似ているように思えます。
まだ見つかっていない何かで量子を決定論的に定義できるに違いない、という。
もちろんそうかもしれないけれど、今のところはそういう考えは趨勢じゃない。
論理的思考についても、それを決定論的に定義できる何かがあるに違いないと考えることはできるけれど、この分野はプラトンのイデア論以降でも2000年以上人類が考え続けてきていていまだにそういうものは見つかっていない。
一方で、最近では、論理的思考というものは言語そのものではないけれど言語が無いと成立しえないものだという考え方があります。
もちろん言語は世界中に複数あるし、曖昧さもたくさん持つし、非論理的なことも表現できるのだけれど、それでも論理はそういう言語を使って、非論理との境界がはっきりしないような中かろうじて成り立っている(ように見える)ものだ、という考え方です。
と考えると、非論理と論理を区別するのは、言語学習過程における、正しいもの(論理的)と正しくないもの(非論理的)を教育し規律化していくことにより成り立っていると考えることもできます。
量子論の不確定性原理は本質的な観測の限界に根ざすものなので、覆ることはないでしょう。
決定論的な解釈ができないことについては、量子論について詳しく学ばなかったのでよくわかりません。
脳の活動についての観測の限界についてはまだまだ(というか限界を議論するほど理解できてない)なので、不確定性原理と結びつけるのはおかしいでしょう。
自分は単純に、脳の活動の生物学的な理解(たとえばニューロン)とシステム的な解釈(たとえばニューロネットワーク)が進むことで、コンピュータ上に原始的な自我を構成できるんじゃないかと思っています。(唯物論的ですよね?)
今のところ、今日の朝ごはんの内容が「どの辺で記憶されるか」とかは分かっていますが、それが具体的にどのような物理的状態で表現されているかは全く分からない。
こんな状態では、コンピュータでの自我の形成はまだまだですね。
言語を扱うシステムは検索システムや翻訳システムをはじめとして既にたくさんありますが、それらの発展の延長上には論理的思考の形成はなく、上記のようなシステムが必要なんじゃないかと思います。
たしかに、不確定性原理とそのまま結びつけるのはおかしいですね。
でも、脳についても本質的な認識論の限界に根ざしていると考えています。認識論の限界は十分語り尽くされていると思いますが、たしかに脳活動との結びつけはまだまだだとは思います。
ニューロンとニューロンネットワークだけでは自我は構成できないと思うんですよね。コンテンツがないと。
>それが具体的にどのような物理的状態で表現されているかは全く分からない。
なので、この部分がないと自我の構成は無理でしょう。で、この部分が、言語でも映像でもないまだ発見されていない何かがあるに違いないと考えているんですよね?それが発見/解明されれば決定論的に自我なり論理なりが解明されると。
その部分が「神はサイコロ〜」の考え方とかと似ているなぁと思ったわけです。量子力学と似ているわけではなく。
けっきょく、朝ご飯の内容が、最終的にはシナプスなのかなんなのか知りませんが、ニューロン上に保管されているとして、そのニューロンが活動して脳に浮かんでくるのは言語か映像なのであれば、そのニューロンと言語なり映像を結びつける必要があります。その結びつきの間にまだ発見されていない未知のものがあったとしても。
で、目玉焼きといっても人によって認識が違うように、目玉焼きを保管するニューロンのあり方も人によって千差万別であることは想像できます。そもそも、脳自体物理的にも個人差が非常にあるので。
なので、ある人のコンテンツ含めたニューロンのあり方が解明されたとしても、他の人も同じというわけではないと言えます。
ということから、本質的に、ニューロン(ネットワーク)の物理状態を解明したとしても、それを人間一般に般化するためには言語(か映像)との関連付けを行う必要があり、その関連付けが人によって異なる以上、物理的なニューロンの状態を明らかにしただけでは何の意味もない神経ネットワークができるだけです。
けっきょく、ニューロンネットワークをまねてあるシステムを作ったとしても、そのシステムが動いているだけでうんともすんとも言わなければ、自我とも論理的思考を行っているとも言えません。
そのシステム自らが発言するか、傍にいる人間が電気信号を意味に読み取ってあげるかいずれかが必要で、どちらにしても、言語での発話なり読み取りが必要です。
と考えると、言語なき論理的思考はありえませんし、そのとき脳内のニューロンがどう働いていようと、けっきょくどういう言葉がその思考の中で紡ぎ出されたかが自我や論理的思考には重要なのではないでしょうか。
だからといってニューロン研究に意味が無いというわけではまったくなく、ニューロンのどういう働きがどういう言語現象を引き起こしたかというところの解明こそが重要だと考えています。
> それが発見/解明されれば決定論的に自我なり論理なりが解明されると。
いや、「唯物論的に」ですね。
ひょっとすると脳の活動も突き詰めていくと本質的に不確定性原理の闇の中に逃げていくかもしれませんので。
> ということから、本質的に、ニューロン(ネットワーク)の物理状態を解明したとしても、それを人間一般に般化するためには言語(か映像)との関連付けを行う必要があり、その関連付けが人によって異なる以上、物理的なニューロンの状態を明らかにしただけでは何の意味もない神経ネットワークができるだけです。
ええ、物理的な解釈の次にシステム的な解釈が必要だと思います。
ところで、言語とは何でしょう?
人間がコミュニケーションに使用する聴覚的もしくは視覚的な記号のことでしょうか。
言語を論理的な内容が記述できる記号体系と定義するのであれば、言語こそ論理的思考なしには成立しなくなってしまいます。
逆に、ほかの動物が原始的なコミュニケーションに用いるような記号を言語とみなすのであれば、言語のない状態というのはどのような状態を指すことになるのでしょう?
というようなことが、ふと気になりました。
未だ発見されていない何かを前提に唯物論だとされると、UFOだって唯物論的に解明されるかもしれないし、不確定性原理の闇に消えていくかもしれない、と言うのと何が違ってくるのでしょうか。まあ、たしかにUFOも唯物論的に解明されるだろうと言うことはできると思いますが。
せめて、クォークのように存在が予想されないと唯物論的に意味のある形で語れないように思いますが。
>言語を論理的な内容が記述できる記号体系と定義するのであれば、言語こそ論理的思考なしには成立しなくなってしまいます。
言語は論理的な内容を記述できる記号体系ですが、非論理的な内容も記述できます。論理的思考なしに成立しますね。他方で、言語無しに論理的思考は成立しないと思います。
現時点で分からないこと(予想もつかないこと)を分からないと認めると、
唯物論でなくなる、
もしくは
唯物論として意味がない、
と言われているように感じましたが、合っていますか?
UFOについても唯物論的に解釈されることはありえると思います。ただし、「UFO」と言ってしまうと概念に過ぎず唯物論的に扱えないので、「UFOの物的証拠」とされているもの(および「脳内でUFOという概念を形成するものの状態」)だけになるでしょうが。
えっと、一応言っておくと、超能力についても同じです。超能力と言われている個別具体的な事象については全て唯物論的に解釈されると思っています。まあ、全否定の方向でしょうが、方向性については別の話です。
> 言語は論理的な内容を記述できる記号体系ですが、非論理的な内容も記述できます。
つまり他の動物の身振り手振りや鳴き声も言語とみなすことができるということでしょうか?
それとも、論理的な内容が記述できないと言語ではないので、他の動物の鳴き声などは言語ではない、ということでしょうか。
自分の考えとしては言語はなくとも論理的な思考はできると思います。もちろん、言語のサポートがないと高度に論理的な思考はできませんが。
例えばサルは以下のような思考はできると思います。
1. 高いところに果物がある。でも手が届かない。(認識)
2. あの果物は食べるとおいしい。おなかもいっぱいになるから食べたい。(知識との結合)
3. 登れば届くかな? 登っても届かなかった。(試行錯誤)
4. ジャンプすれば届くかな? ジャンプしても届かない。(試行錯誤)
5-A. 落ちている長い木の枝は、長いからあの果物をゆらすことができるかもしれない。果物をゆらせば落ちてくるかもしれない。落ちてきた果物をうまくキャッチすれば食べることができるかもしれない。(程度の高い論理的思考)
5-B. 落ちている長い木の枝は、長いからあの果物を届くかもしれない。とにかく何かしてみたい。(程度の低い論理的思考)
6. 落ちてきたからキャッチした。食べれて満足。(結果)
テレビの動物番組でこういった実験を見たことがありますが、明確な言語を持たないサルにこのようなことはできないと考えますか?
もしくは、ただの偶然であって論理的思考の結果ではないと思いますか?
それとも、このような過程は論理的思考とみなせないと思いますか?
サルもこのような論理的思考ができるとしたとき、彼らは言語を用いてこのような思考をするのでしょうか?
おそらく同じ状況にいる仲間がいれば身振り手振りで伝えることはできるので、伝えるための言語は持っていると思います。しかし、論理的思考に必要だった、もしくは用いられたのでしょうか?
もしくは言語がなくても論理的思考は可能であると考えますか?
この過程は本能や偶然と見做すには論理性が高く、論理的な思考が介在していると思いますが、言語は介在しないと思います。
(「?」が多くてうざい文章で申し訳ないのですが、「?」の部分はほぼMECEにをつけたつもりなので、抜け漏れがない限りどれかにはなると思います。一箇所だけexclusiveではないです)
長文失礼しました。歳をとると文章が長くなるのかな・・・
念のために補足すると、サルの例の5番目のステップは、「長い木の枝を手にとって果物を揺らそうとする過程」に関わる思考について記述しています。
いや、UFOや超能力については、自分も同感です。ただ、個別に語ってもUFOや超能力それ自体を肯定も否定もできず、脳についても、未知の論理的思考なるものを個別に語っても、この先ずっと論理的思考それ自体は肯定も否定もされないのだろうなぁと思っただけです。けっきょくそれは、論理的思考なるものを唯物論的に扱ったことになるのだろうか、と。個別の事象を扱っているだけで。
サルの例はたしかに微妙なところですよね。ただ、サルがほんとうにそのように考えて道具を使っているかはわからないと思っています。道具を試行錯誤に使っているのであって、道具を使う前に推論しているかはわからないのでは。自分にはその解釈は多分に擬人化しているように見えます。サルがその場にあった道具を使って果実を取った、という事実に対して、こう考えているに違いないと観察している人間の側が推論しているにすぎない、と。
また、サルが推論しているかどうかは、たとえサルの脳に電極指してもわからないのではないでしょうか。道具を使う前に一定の脳の活動が認められてもそれが推論かどうかは本質的にわかりようがないです。そこが脳解釈(認識論)の本質的限界だと思います。
いずれにせよ、道具を試行錯誤に使えることも論理的思考に含まれるなら、たしかに言語を使わない論理的思考はありえますね。
自分が考えていた論理的思考は、この例で言うなら、その場を見て、「あの果実を取るために、まず木を揺らす、それでダメなら落ちている枝を使う」というように事前に考えるなり表明するというようなことでした。
擬人化は表現上の意図的なものです。「人間が推論しているに過ぎない」という立場は当然ありえるのですが、だとすれば現象の解釈としては「ただの偶然であって論理的思考の結果ではない」もしくは「このような過程は論理的思考とみなせない」のいずれかになります。qog氏は後者に近い考えである(もしくは、であった)ように思いました。
自分が主張したかったのは、論理的思考の原始的な部分は言語に依存しないものであり、言語という道具を得ることで飛躍的に向上したということです。この立場では、言語そのものは論理的思考の原始的な部分に関与していないので、言語学習をいくら分析しても論理的思考には到達できないことになります。
自分の子供をみていても、しゃべれる以上に考えることはできて、でも言葉という道具を習得するにつれて考える程度も格段に上がっていくように感じます。
他人のブログで長々と持論を展開してしまい失礼しました。
余談ですが、脳活動の観察限界を語るにはまだまだ早計と感じています。電極を挿せば新しい肢を動かせるようになってきたので、そのうちに物理的な処置なしに脳波をパッシブにキャッチするデバイスも登場するかもしれません。脳波テンペスト対策キャップがバカ売れする時代が来ないとも限りません。
自分はどちらかと言えば、「ただの偶然であって論理的思考の結果ではない」に近い考えでした。
もちろん、サルにも短期的記憶はあるので、失敗したことは繰り返さないようにするだろうし、成功したら(しかけたら)それを繰り返すでしょう。物を使うことを他で覚えていれば、それを応用もするでしょう。他のサルのまねをしたりもするでしょう。でも、それが論理的思考の結果だと言い切れる証拠は何も無いように思えます。
また、論理的思考の原始的な部分が動物にあるとしても、動物に「わたし」や心、意識がないのだとしたら、けっきょく「わたし」につながりうるような論理的思考は、原始的な部分からかなり飛躍したほとんど別物なのではないでしょうか。
さらに、もし原始的な部分から「わたし」につながりうる高度な論理的思考への飛躍的発達が言語によってなされるのなら、やっぱり言語習得を研究することが大事なんじゃないでしょうか。
論理的思考の原始的な部分をいくら研究しても「わたし」や「意識」にはつながってこないように思えます。
さらには、論理的思考の原始的な部分が、言語を持たない動物や幼児が持ち得たかもしれないものの、もはや大人の人間が忘れたり意識できなくなってしまっているのだとしたら、どうやってそれを説明するのでしょう?
自分が言いたいのは、脳波をキャッチできる技術が開発できないということではなく、どんなに精密に脳波をキャッチできるようになったとしても、どうやって言語を持たないサルの脳波からどの活動が論理的思考のものだと識別するのでしょうか?サルに聞きようもないのに。前頭葉に当たる部分が活動すればそれが論理的思考なんでしょうか?どうやって確認するのでしょう?そこが限界だと考えているところです。
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