2007年9月29日土曜日

記事紹介「デジタルコンテンツの流通を促進する著作権制度のあり方とは」

「意味のある著作権の登録制度とは」でとりあげたICPFシンポジウムの内容がCNETに記事として出ました。

CNET: デジタルコンテンツの流通を促進する著作権制度のあり方とは

前回の「DRMフリーの音楽配信の流れ」などを見ていると、日本でまじめに政策的に議論している間に、アメリカではあっという間にビジネスイノベーションとして話が進んでいっている感があります。

日本人はグランドデザインが描けないとよく言いますが、描こうとしているけれども細かいところまで配慮しすぎるために遅々として進まず、結果、配慮のお化けみたいないびつなデザインになってしまっているのかもしれません。
他方で、アメリカでは、ユーザの利益という民主主義的軸が明確で、それに向けて自分といくつかの関係ステークホルダーの利害調整のみ行って後は突っ走るということができているように見えます。問題が出ても後で片付けるという形で。
軸が社会的正義を体現しているからこそ、後付けでの問題対処も可能なのでしょう。そういう民主主義的軸を明確に描けるというのがグランドデザイン力なのでしょうね。

そもそも国家や国民としても軸があるから後付けでの問題対処でも納得されるのかもしれません。そういう軸のコンセンサスがあるのは、歴史が浅い他民族国家としてのアメリカならではに思えます。
長い島国根性歴史を持つ日本で同じことを行うのはなかなか難しそうです。

2007年9月26日水曜日

DRMフリーの音楽配信の流れ

ITPro:著作権管理にはメリットなし!? 欧米で広がるDRMフリーの音楽配信

いよいよオンライン音楽業界は、DRMフリーの流れになってきているようです。
すでにiTunesでは、EMIの曲をDRMフリーで購入可能です。DRM版より少し高めですが。
AmazonもDRMフリーの曲をダウンロードするサービスをβ版で開始したそうです。

ついこの間、iTunesがDRMで音楽業界を味方につけて音楽ダウンロードサービスをビジネスにしたと思っていたら、あっという間にDRMフリーです。早いですね。日本ではいまだ何回コピー可能にするかとか議論している間に。

購入したものを自分の自由にできないということに対してはユーザから不満が多かったようですね。そうしたユーザの声に逆らえないようになってきているようです。

クリエータにとっても、名声と経済的対価さえ確保できるのだったら、自由に聴いてもらえる方がよいはずです。コンテンツを囲い込んで独占することによってメリットを受けるのは主に音楽会社(配給会社)です。

DRMフリーの音楽ダウンロードモデルは、言ってみればクリエータとリスナーの仲介部分を薄くする中抜きビジネスモデルなのかもしれません。

この場合課題になるのは次の2点ではないでしょうか。

1.メガヒットの消滅???
ミリオンセラーの多くは、音楽仲介業者のプロモーションによるところが大きいです。中抜きモデルでこれらプロモーションにお金をかけられなくなると、メガヒットがなくなるかもしれません。
ほとんどのクリエータにとっては、極端なメガヒットは不要で、メガヒットがなくても中抜きであれば金銭的にも問題ないでしょう。
ただ、ユーザの中にはヒットしたものだけ聴くという人もいるかもしれず、メガヒットがなくなるとそういうユーザが音楽から離れる可能性もあります。

これについては、たしかに今まで通りの音楽流通の形はなくなるのかもしれません。新しいまた別の音楽流通、音楽の聴き方、音楽の創り方になっていく可能性はあります。
その中でメガヒットなんてなくなってもよいと考えられるようになるかもしれません。


2.海賊版の取り扱い
DRMを徹底することによるメリットは海賊版を防御できる可能性が高まることです。ただし、記事でも指摘されているように、オンライン配信だけDRMかけてもCDなどからDRMのない形で流れてしまいますし、海賊版を完全に撲滅するのはかなり難しいことなのでしょう。

DRMフリーにして海賊版を取り締まるためには、地道な違法コピーの指摘と摘発しかないのでしょう。

海賊行為についても程度問題で、クリエータの経済的対価が減少するまで影響があるようであったら問題になりうるかもしれません。

根本的解決策としては、海賊行為をしても意味がない、海賊版が海賊版たりえなくしてしまうことです。つまり、禁止しているから海賊行為が出るわけで、自由にしてしまえば流れているのが海賊版なのかどうかわからなくなってしまいます。

クリエータに対する経済的対価については、ライブやそれ以外のものでのビジネスモデルとするか、CMや映画などでの商用利用では料金をとるようにするなどでしょうか。曲の自由流通や曲製作に対して証券化するようなことができれば新しいビジネスになるのかもしれません。


それにしてもアップルはうまいですね。DRM使ってiTunesで大稼ぎしておいて、DRM機能のAPIを解放するような圧力が出てきたとたんに、DRMフリーに議論の土台をかえて一気に形勢挽回してしまう。
どんどんオープンになっていく大きな世の中の流れは変わらないとして、企業としてはそのオープン加減をうまく調整しつつ機先を制してリードしているようにすることで利益を得ていくという、そういうビジネスモデルが今一番有利なものなのかもしれません。
ただ、そういう流れに乗り流れを作っていくことはそうとう難しいのだと思いますが。

2007年9月22日土曜日

Googleがオープンなソーシャルグラフを目指すようです

Googleを中心に、なにやらソーシャルグラフ情報に関する新しい動きがあるようです。ちょっと調べてみたのでメモ代わりに書き残しておきます。

ソーシャルグラフとは、人のつながりをインターネット上で表した情報であり、具体的にはmixyのマイミク等、SNSの友人関係情報のことになります。

インターネット上では、情報と情報、人と人が縦横無尽につながってきています。たとえその人のことを知らなくてもつながっていくことが可能です。こうしたつながり方を3つのパターンに分類してみることができます。

1. 一時的なつながり
2. 恒常的なつながり
3. 社会的なつながり

ここで、「1.一時的なつながり」は、特定の目的のためだけに、ある一時点に匿名同士でやり取りするような場合です。オークションサイトでの売買関係、匿名掲示板サイトでのコメント関係などです。
「2.恒常的なつながり」は、識別可能なID同士のつながりです。ブログでのリンク集やトラックバック、定期購読などが該当します。共有写真サイト、共有ブックマークサイトなどもこれになります。
「3.現実のつながり」は、リアルの社会でも知り合い同士の人がネット上でつながるケースです。ブログなどでもつながりますが、SNSサイトでの関係が主に当てはまります。

1.や2.もインターネットの強力な側面を示していますが、実は3.も、インターネットの協力な一面を示しています。
SNSの強み、ブログ等との差異、それがまさに3.になります。

ソーシャルグラフは主に、3.の情報ということになります。もちろん、2.のつながり方も一部含まれてくるとは思います。

こうしたソーシャルグラフ情報の価値については、たとえば、Wired Visonで次のような形で表明されています。
2007年8月の「Wired Vision:「SNSのオープン化」を提案する」で、既存のサービスを利用してアメリカ第2位のSNSサイトFacebookと同じような機能のものを作ろうとしたが失敗に終わった、その理由は人と人とのつながりを機能として実現できなかったからだということです。

おそらく、Facebookの機能の90%までは再現できたと思うのだが、人と人をリンクし、両者の関係を示すという、最も重要な機能が作成できなかったのだ。

つまり、SNSの強みとはまさにその関係情報を保持しているということにあることになります。

他方で、そのFacebookはと言えば、APIなどをオープンにし、Facebookのプラットフォーム上で自由にアプリケーションが作れるようにしています(Facebook(SNS)が展開するオープンなソーシャルネットワーキングの世界)。つまり、Facebookの中であれば人と人との関係情報などを使いながらいろいろなアプリケーションが作れるようになっているということです。先のWiredは、人同士の関係情報(=ソーシャルグラフ)がFacebookの中に閉じていることに対する批判でした。

ここに来て、最初に指摘したような、SNS内の関係情報が閉じている問題に呼応するような動きが出てきています。

まず、LiveJournalの創設者で、SixApartのチーフアーキテクトであったBrad Fitzpatrick氏が、「3.社会的なつながり」をインターネット上の情報として表現したものを"ソーシャルグラフ"と呼び、今後その情報がどう取り扱われていくべきかについての論文を公開しています(2007年8月17日)。

antipop:[翻訳] ソーシャルグラフについて

Thoughts on the Social Graph

さらに、このFitzpatrick氏を含めた複数名がGoogle本社で会合を持ち(2007年9月20日)、このソーシャルグラフについて、もっと言えば、Googleがソーシャルグラフをどうしていくかの戦略について議論していることがリークされました。

グーグル、Facebook潰滅のXデーは11月5日

具体的には、Googleは、Orkut(Googleが買収したSNSサイト、でもパッとしない)とiGoogle、GMail、Google Talkなどのソーシャルグラフ情報を外部から読み書きできるAPIを公開していくようです。その第1弾が11月5日のようです。

今までは、Facebookにユーザ登録された人同士が、Facebook上でしか、ソーシャルグラフ情報を取り扱えませんでした。
Googleのこの取り組みが実現すると、さまざまなサイトやサービスからソーシャルグラフ情報がやり取りできるようになります。

先日のエントリで、共通ネットIDについての議論を紹介しました。その議論で言うと、ソーシャルグラフは匿名性の議論と関係してきます。
アメリカでは、インターネット上でも実名で活動することが多いため、こうしたソーシャルグラフ情報をオープンにすることに非常にメリットがあるのだと思います。
日本では、ほとんどの人が匿名で活動しており、mixyならmixyの中で閉じた活動で満足しているようなので、すぐに影響してくるようなことはないのかもしれません。

が、最近OpenIDを採用するサイトも増えてきており(アメリカではとくに)、長期的には複数のサイトやサービス間を同じIDで活動することも増えてくると思われます。そのときに、こうしたソーシャルグラフ情報をどのようにオープンに取り扱うのかということが、サービスにとって重要になってくるかもしれません。

また別途紹介したい最近の著作権の議論の中でも、「デジタル社会で権利をもつには、IDをもつことが出発点だ。何もしないで権利が発生するという現行法は根本的に間違っている」という発言が紹介されていました

いろいろ考えると、前から書いているように、やっぱりインターネット上でも固定IDで活動した方がなにかとよいと思うのですが、日本では長い道のりになってしまうのでしょうか。

2007年9月20日木曜日

匿名性を維持しつつトレーサブルなIDを

ネットの書き込みにトレーサビリティは必要か--「ネットID」を識者が激論
 前編
 後編

ジャーナリストの佐々木俊尚氏、弁護士の小倉秀夫氏、独立行政法人産業技術総合研究所の高木浩光氏、ゼロスタートコミュニケーションズ専務取締役の伊地知晋一氏という4人による、共通ネットIDについての議論です。

この議論では、論点が2つに分かれています。

1. トレーサブルなIDが必要か
2. 匿名性はどこまで有益か


1.トレーサブルなIDは必要
これについては4人で共通見解が出ていると思います。すなわち、何かあったときに追跡可能なIDは導入すべきである、ということです。

これは、個人的にも賛成です。
インターネットの側からこういう仕組みを提案し作っていかないと、ただでさえ既存社会勢力からの反発もあるので変な制度を押し付けられかねないとさえ思っています。それくらいなら先手を取って自分たちで作っていくべきです。

近代社会においては、論理一貫した意志を持つ個人が社会の大前提となっています。法の世界はこうした個人を前提に成立しています。なので、論理一貫した意志を持たない=狂気の個人は法で裁くことができないのです。
インターネットが現代の社会で社会的ツールとなるためには、この個人というものをインターネットの世界で成立させないといろいろ難しいものがあると思います。

これに反発する人は、個を前提とする近代社会のその先を、匿名のインターネットに見ようとするのですが、実際にそれがどういう世界になるのか具体的なものは何も出てきていません。戦中の「近代の超克」議論と同等なのではないでしょうか。近代を乗り越えようとしてけっきょくなにものも生み出しえない。。。

インターネットの世界で個を成り立たせるために、ネットIDのような個を特定できる仕組みが必要です。

ただし、実際には、このIDをどこがどう管理するのかというのは非常に難しい問題です。
国家が管理すればプライバシーの問題が生じます。個人は国家の監視から自由である権利があるためです。
ただでさえ社保庁など、公務員に信頼はよせられません。
そのため、たとえば以前の投稿では複数のネットID管理会社があるようなインターネット世界を想定していました。


2.匿名性は維持されるべき
2.の匿名性については4人で意見が分かれているようです。ただし、匿名性を完全に排除せよと言っている人はいないように思います。

たしかに、匿名は必要なときがあります。
たとえば、利害関係のある団体や人を告発するときに匿名性は力を発揮します。また、佐々木氏が主張するように、匿名性のおかげで肩書きに左右されないフラットな議論も期待できます。

そういう意味で匿名性にも一定の役割があり、守られるべき権利でもあります。

匿名性を維持しつつトレーサブルになるような制度と仕組み、それを実現するためのIDを作っていくべきではないでしょうか。

2007年9月16日日曜日

日本のDiggを探して(ソーシャルニュースサイト調査)

昨日、「インターネットが今までの価値観でいうところの社会的たりえるか」と書いたこともあって、また便利で楽しめるものがないかと探していたこともあって、ソーシャルニュースサイトについてまとめて調べました。

アメリカではDiggが有名ですが、日本でDiggに代わるサイトはないかと探してみたのですがなかなかありませんでした(下表)。
やはりこういうサービスはどれだけ多くの人から使われているかがサービスの有用度として重要ですね。

Hatena::Questionの「ソーシャルニュースのdigg に相当するサービスで、日本で一番使われているのはどこでしょうか?」
http://q.hatena.ne.jp/1187395437

にたくさんソーシャルニュースサイトが紹介されていますが、

狐の王国:#2 ソーシャルニュースサイトの得票数比較
http://www.misao.gr.jp/~koshian/?20070322S2

にもあるとおり、実際多くのユーザを集めているのは、はてなブックマークnewsingくらいとも言えます。それにしても本家のDiggと比べればぜんぜん少なく、集合知として機能しうるサンプル数なのか不明です。

ソーシャルニュースということであれば、OhMyNewsもとりあげられると思います。こちらもそこそこのユーザは集めています。あと、投稿者が一般人ながら記者なので取り上げられるニュースもユニークです。

1年ほど前、日本のソーシャルニュースを調べたときには、OhMyNews日本版とnewsingの他にblogmemes日本版が主要なものとしてあった気がしますが、blogmemesはすでになくなっているようです(!?)。
その代わりといってはなんですが、アメリカではメジャーなredditの日本語版が始まっています。が、まだまだぜんぜんユーザが集まってないようです。

アメリカでは、Diggクローン以外にも、ランダムに記事を見せる部分を強調したStumbleUponがかなりのユーザ数を集めてブレークしてきているし、記事の特定部分だけを引用できるClipMarksや共有者を限定できるBlueDot、投稿元を登録制にしアクセス数で評価するSpotPlexなど、Diggにない機能を盛り込んだり、Diggの課題を解消しようとするようなサービスが多数出てきています。
個人的には、ma.gnoliaが好きです。見た目で。

TechCrunch:よりよいDiggへ向けて」参照


翻って日本を見るに、OhMyNewsは韓国からの輸入だし、newsing等のサービスはどれもDiggに似たり寄ったりのものです。

そう考えると、日本では、ユーザを集めてかつそれなりの独自性があるという意味で、やっぱり2チャンネルなんですかね?
個人的には好きじゃありませんが。

アメリカのDigg、韓国のOhMyNews、日本の2チャンネル、というそれぞれの国発祥のサービスが、それぞれのお国柄を表していると考えるとおもしろいのかもしれません。


ソーシャルニュースサイトの比較表です。あくまでざっとした見た目に基づく個人的評価ですのであしからず。

【欄の意味】
「投稿」:一般ユーザが投稿できるか(一般or限定)
「投票」:一般ユーザによる投票機能があるか(一般orなし)
「投票数」:そのサービスの利用数を評価する元情報として。ただし、全サービスの機能をわかっているわけではないので、もしかすると不正確な数字を載せているかもしれません。
「社会性」:社会問題ニュースが多い(=高)のか、身近なネタが多いのか(=低)
「下ねた」:一部のサービスは下ねたであふれていたため、この評価軸も入れました。
「カテゴリ分類」:投稿はカテゴリごとに分けられているか
「見た目」:完全に個人的主観です。






















2007年9月15日土曜日

インターネットが今までの価値観でいうところの社会的たりえるか

media pub:プロが編集したニュース 対 集合知で編集したニュース
http://zen.seesaa.net/article/55183313.html

Diggやredditなどのソーシャルニュースサイトとメインストリームニュースサイトでの、取り上げる記事の種類やソース元の比較情報が出ています。
やはり、メインストリームでは、国際問題や社会問題が取り上げられる一方で、ソーシャルニュースサイトでは、もっと身近なネタが多いようです。
アメリカでもそうなのだから、日本はもっとそうなのでしょう。


ところで、この結果を受けて、やっぱりみんなの意見が集まるソーシャルニュースではニュースたりえないなぁ、という感想を持つこともできます。

さらにもう少し踏み込んで、世の中で日々起こっている事柄について、メインストリームのメディアが取り扱う情報の偏りをどう評価するか、つまり、本来はみんなはもっと身近なことに興味があるにもかかわらず、いわゆる今までのメディアのニュースが社会問題ばかり取り上げているということが、はたしてよいことなのかどうか、社会問題のニュースは既存メディがなければ元々は知りえないような情報であり本当はわれわれにとってたいしたことじゃないんじゃないかと問い直すことも可能です。

さらにさらに翻ってみると、それでもやはり、社会に属するメンバーとして、一見われわれにとって直接関係のない社会問題であっても、そのことを知り考えるということは重要だと言えると思います。

それが重要なのは、客観的根拠があって、あるいは数えきれない出来事や情報と比較して、重要なわけではなくて、「お年寄りに席を譲ろう」「選挙に行こう」といったスローガンから、一方的情報伝達である義務教育、さらにはマスメディアによる情報取捨選択の偏りといった社会の隅々に行き渡る啓蒙的価値観から重要なだけではあります。

が、すでにそういう社会が存在し、そういう社会に属している以上、その価値観を真っ向から否定してもしょうがなくて、意味がなくて(ただのクレーマーにしかならない)、そうした価値観をいかに継承していくのかということも、インターネットに課された重要な使命だと個人的には思っています。
そこを否定すると、インターネットはただの反社会的道具にすぎなくなってしまう。
自分は、インターネットにはもっと可能性があると考えています。

というこういう文章も、まさに啓蒙的価値観による情報発信ではあるのですが。

2007年9月14日金曜日

技術開発理論「TRIZ(トゥリーズ)」

ITMedia:“旧ソ連の発明法則”でアイデア出し──「智慧カード」

「旧ソ連の、、、」とかいうとなんだか怪しくも隠された気になるものになってはしまいますが。

要するに技術的トレードオフの一覧と、そのトレードオフを解決するための方法がまとめられているというわけで、もしかすると非常に有用なノウハウ集になっているのかもしれませんね。

2007年9月10日月曜日

粒子の流れと淀みから時間があふれだす:『時間はどこで生まれるのか』を読んで

時間はどこで生まれるのか
橋元淳一郎
集英社新書

現代物理学の成果をふまえて、物理学者が(哲学的に)時間とはなにかを考えた本です。非常に面白いです。短時間で一気に読めます。

以下、要旨の部分は本に戻らず記憶だけを頼りに書いているので不正確なところもあるかもしれません。

■相対性理論や量子力学の世界には時間は存在しない
著者はまず、相対性理論や量子力学を紹介し、相対性理論の世界や量子力学の世界では時間は実在しないとします。"実在"の意味があいまいではありますが、要するに意味をなさないということです。

そして、マクタガートの時間論を参照しながら、主観的時間と、客観的カレンダー的時間と、数列的時間の3種類を区別しなければならないとします。主観的時間は人間の経験で感じられる時間で、客観的時間は過去から未来へと流れていく古典物理学の時間であり、数列的時間は数字が並んだだけの可逆的な並びというイメージです。

相対性理論や量子力学の数式上は時間は可逆だそうで、未来から過去に遡っていく反粒子の存在などが想定されます。したがって、そこでは数列的時間だけが存在します。
これはなにも奇天烈なことを言っているのではなくて、まずは数式上に抽象化された時間はただのパラメータであって因果関係の前後を気にしないということですし、実際の量子力学の世界も観察者の意識が介入しないと時間的要素が現れてこないという本当の物理現象でもあります。

ここから著者は、相対性理論的世界や量子力学的世界には存在しない時間が、どうして人には存在するように感じられるのか、と説き起こしていきます。

■エントロピーの法則と不可逆的前後関係
そこで登場するのがエントロピーの法則です。エントロピーの法則は、自然界のある系の中では必ず秩序ある状態から無秩序へと進行していくのでありこの逆はなりたたない、というものです。したがって、エントロピーの法則には必ず前後があり、時間的経過があります。

そもそもエントロピーの法則はなにかというと、粒子がランダムに運動すれば整列していたもの(秩序ある状態)が徐々に崩れていくという動きであり、これは、粒子の並びの総組み合わせの中で秩序ある状態が1つしかないということから、確率論として必ず秩序ある(1つしかない)状態からそうでない事実上無限の状態への遷移として現れます。

秩序があるなしは人間が認識する"意味"であって、自然界にとっては秩序あるなしは関係ありません。したがって、秩序ある状態から乱雑な状態へ遷移するというエントロピーの法則は人間にとって意味があり認識されうるものだということになります。

■エントロピーの法則に抗う生物
そもそも自然界の中で秩序あるものとは何かというと、それは生物です。自然界の中で生物が一定期間エントロピーの法則から逃れて生きています。
エントロピーの法則は生物にとってのみ意味のあることで、無生物の世界では系の内外で秩序があろうがなかろうが関係ありません。したがって、生物こそが乱雑に散らばっていく粒子の中で秩序を形成し、自らが抗する秩序の崩壊に時間を見いだしていると言えます。

著者は、微生物にも接触に反応して左か右に動く"意思"があり、この進化の過程で淘汰されてきた"意思"がエントロピーの増大=死を逃れようとして時間を生み出しているとします。
ここからが自分とは考えの違うところです。

先日、「反復できない時間を生きる生物:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 2」に書いたように、生物とエントロピーの法則については、『生物と無生物のあいだ』の説明の方がしっくりきます。

つまり、死=エントロピーの増大を逃れようとする"意思"など持ち出さなくても、生物は摂取と排泄の過程でエントロピーの法則より先に秩序を自ら壊しているのであり、秩序の崩壊を先回りすることによってエントロピーの法則に抗しているのです。

■粒子の流れと淀み
純粋物質世界においては、粒子のマクロな流れが、運動があるだけです。そして、それはミクロな確率論的存在が膨大な数集まって現れてくる流れで、その流れに時間的前後関係は意味をなしません。どっちからどっちに流れてもいいのです。そこに、流れが、運動があるだけです。

そうした粒子の流れ、運動に、不可逆的前後関係を生じさせるのは、秩序立った粒子の集まりである生物であり、乱雑な粒子の運動の中で秩序があるがゆえに、粒子の流れの中の淀みがあるがために、粒子の運動、流れに秩序の崩壊、淀みの解消という不可逆的前後関係を生じさせます。

そこにこそ時間が流れだす契機があるのでしょう。ただし、この時間も、人間がいないと認識されえないので、そういう意味では人間の意識が生命によって生じた不可逆な前後関係を意識するところからが、正確な時間の発生ポイントなのかもしれません。

■哲学における時間へ
このことは、哲学的にも表現されてきているのであって、著者がしばしば引用するハイデガーにおいても、死=生物がエントロピーの法則に屈するときを意識することで時間性の中に生きる世界-内-存在としての現存在を見いだしたのでした。著者はハイデガーの解釈を生物一般にまで拡張しますが、ハイデガーが言ったのはあくまで人間としての現存在までです。

この本には、時間に関する考察以外にも、量子力学において、確率論的にしか存在しない粒子が観察されるとどうして1点に集約されるのかなどについても著者の解釈も論じられていて非常におもしろいです。納得できる解釈です。

ただ、文系畑の人間として気になったのは、著者が、「現代の哲学者が説く時間論は、現代物理学(おもに相対論と量子論)が明らかにした時間の本性をほとんど無視している」とさかんに主張しながら、引用したり参照してる哲学者がせいぜい戦前のハイデガーまでで、戦後のほんとうの"現代の"哲学者にはいっさい触れていないのはどうかと思いました。まあ、しょうがないですね。

というわけで、現代の哲学者には、これら科学的成果を認識して時間論を論じている人もいるので、そういうのを紹介できればなぁ、と思っています。次回以降に。

2007年9月9日日曜日

意味のある著作権の登録制度とは

著作権登録制度についての最近の話題。

■権利者情報を検索するための情報システムを作る?
著作権団体17法人で組織する「著作権問題を考える著作者団体協議会」が、2009年1月から、"権利者情報を検索するための情報システム"なるものの運営を始めるそうです。

著作権17団体、権利者データベースを2009年1月に開設

個人的には、17団体もあるのか、とまずそっちに愕然としてしまいましたが、これは、著作権期間を70年に延長することに対する「権利者を調べるのが困難で2次利用が阻害される」という批判への対策となっているようです。

著作権の保護期間延長問題、権利者側への反論相次ぐ——文化審


権利者データベースを用意すること自体は、前に名和小太郎さんの本を紹介したエントリ「情報に対する所有権(著作権でどこまで取り扱えるのか)」でも書きましたが、名和さん以外にも多くの人が主張されています。

この制度が、このデータベースに登録されていないコンテンツは自由に使用&複製しうる、ということであれば、パブリックドメインの明確な定義となり2次利用促進という観点でも意味は大きいでしょう。
ただし、「著作権問題を考える著作者団体協議会」はそこまで言っていないように見えます。つまり、彼らはあくまで便宜上のツールとしてデータベースを用意すると言っているだけで、ここに登録されていないものについてももろもろの著作権を主張しそうです。そこが大きな問題だと思います。

あと、IT業界の人間としては、このシステム構築を200-300万円で行うと言っているのにも、ほんとに使えるシステムを作る気あるのか?ただのエクスキューズじゃないのか?と思ってしまいました。


■著作権の登録制度
著作物の登録制度については、最近の池田信夫blogでも取り上げられていました「著作物の登録制度」。
ただし、こちらは、白田秀彰さんのICPFセミナーの話です。

白田秀彰さんの唱える著作権制度は、個人的には大賛成です。「ICPF第21回セミナー「オンライン社会における著作権のあり方」要旨
というか、以前から白田さんのホームページ等を読んできているので、単純に自分が影響されているだけなのでしょうが。

ここで主張されている著作権制度は、2階建て方式で、まず、経済的流通とは無関係に著作者の権利を定義します。これはベルヌ条約がベースとなります。
その上で、経済的流通のための制度を用意します。そこでは、作品は登録制となり、作品に対する証券売買市場を作るなど作品の経済的価値を最大限に高めるための仕組みが用意されます。

経済的価値を生むものとしての著作物を登録制にし、登録されていないものについては著作者の権利は守られるが2次利用は自由となるというものだと思います。これは、自分の表現で言うならば、「権利の問題と経済的対価の問題をきちんと切り分けて、Creative Commonsでもなんでも権利の維持と著作物のコストの低い伝播方法をルールや制度として整え」るべきということになると思っています。

ただ、残念というか気になるのは、自分的にまっとうな議論をしているICPFが民間フォーラムで、???な議論が錯綜しているのが文化庁の文化審議会著作権分科会だということです。文化審議会での議論は形骸的なパブコメなどを経て法制化へとつながっていくのでしょう。
官僚機構は、過去の制度を踏襲しつつ各権利者間の調整を行うのがやっとなので(実際には、強い権利者の言いなりになることが多いので)、ほんとうにあるべき姿が描けないのが問題です。
これからの時代、情報としてのコンテンツをどう扱うかが非常に重要なので、ここはいったん抜本的に著作権制度を考え直してほしいところですが。

同じ著作権の登録制度でもぜんぜん違うものになりそうですね。
著作権の登録制度を意味あるものにするためには、単にデータベース用意しましたではなく、きちんと制度の中に位置づけてほしいものです。


ところで、文化庁にはすでに著作権の登録制度があることを発見しました。
著作権登録制度について
これってまともに運用されているのでしょうか?


ちなみに、話はずれますが、補償金制度については、文化審議会著作権分科会の私的録音録画小委員会で議論されているようで、そこで進んでいる話は、「音楽配信メモ:ダウンロード違法化/iPodの補償金対象化」がほぼ決定した件と、ITmediaの記事で抜粋されている発言についての補足」に紹介がありました。

2007年9月7日金曜日

国家が国民の"感情"に動かされていいのか

昨日、「個人的感情と社会的正義の葛藤:死刑制度を巡って」を書きました。

ひどいことをされた人に対する憎悪感は否定できないけれど、それと社会的正義は違う、と書きました。

死刑うんぬんはいったん置いておいて、やっぱり、社会が国民の"感情"に動かされるというのは、はたして社会として正しいあり方かというのは疑問です。
"感情"に動かされた政策ほど危なっかしいものはないでしょう。

そういう意味でも、たとえ個人の感情としては正しいとしても、社会としてそれを反映すべきか、というのは直結しないし、多くの人に共感される感情を社会的に反映できないことが冷たい社会だと受け止められたとしても、社会とはそういうもんだとしか言えないでしょう。

感情論がどこまで世論となり、社会的政策となっていくべきかの線引き、落としどころは、人によって異なるのでしょうが、少なくとも社会が直接的に"感情"に左右されるとしたらそれは危険なことだとは指摘できると思います。

最近のマスコミでの悲惨さの煽りとそれに対する視聴者の反射神経的反応を見ていると、ちょっとそういうことを感じました。

個人的感情と社会的正義の葛藤:死刑制度を巡って

good2ndの日記というところの「抑止効果という神話」をたまたま読んで、最近も死刑執行があったり橋下弁護士のワイドショーネタがあったりして、いろいろあるなぁと思い、「死刑」でブログ検索したらたくさんエントリが出てきてびっくりしました。それも、どちらかというと死刑肯定が多いように思います。日本でのアンケート調査で死刑賛成が多数というのは正しいようですね。

引用させていただいたgood2ndさんのところでは、最近死刑に抑止効果があるという研究発表がされていて、それへの(というかその研究結果に対する反応への)批判となっています。

ところで、私は以前も書いた通り基本的には死刑廃止論者です。
それにしても、死刑存在論争はイデオロギー論争ですね。収集つかなくなってるところが多数ありました。
そもそも死刑に関して"正しい"あり方というものはないからなんでしょう。なので、議論が起き両論唱えられていくことはよいことなのかもしれません。

死刑肯定論は次のような観点がその論拠となっているように思います。

* 懲罰と抑止効果
* 被害者の感情と報復


■懲罰と抑止効果
抑止効果については、存廃両側からの統計情報が存在しなんともいえないというのが正直なところです。

ただし、世界100カ国以上で死刑を停止しても総じて見れば社会的秩序が悪化したということはないようですので、死刑廃止が即社会的無秩序に直結するという論拠は弱い気がします。他方で、死刑を廃止した国でも死刑賛成論はあるようですし、個別統計情報では犯罪が増えたというのもあるようで、そういう意味で、ケースによっては死刑の存在が犯罪を抑止することも起こりえるかもしれず、1件でもそういうケースがあるなら残した方がよいというのはたしかにそのとおりにも思います。

いずれにせよ抑止効果のあるなしで死刑存廃を論じるのは堂々巡りになるだけな気がします。

世界の死刑動向については、
sr400yoshiさんのSmenaな日々・裏版…Know your role「死刑を考える…死刑に対する反定立
luxemburgさんのA Tree at ease「行刑の現場とは


■被害者の感情と報復
まともな死刑肯定論で一番多いのが、被害者遺族の感情を考えると卑劣な殺人者は死んで当然だ、というものです。
この感情論は、死刑廃止論者に対してしばしば、自分の愛する人が殺されても死んでほしいと思わないのか?思わないような人はそもそも人として感覚がおかしい、という論調になります。

この感情論は、感情論としては正しい。ほとんどの人が反対できないでしょう。

ただし、たしかに、身内が殺されるようなときがあった場合、その場ではそういう感情になったとしても、本当にそういう行為をしてその感情が収まるものでしょうか。その場では行為はぐっとこらえて耐えた方が、後々長期的に見て、被害者遺族自身や亡くなった被害者にとってもよかったと思えるようになるのではないでしょうか。
短絡的にそういう行為に走ると、遺族の家族や加害者の家族にもどんどん感情が飛び火していってしまいます。
報復は報復を呼びます。

被害者の観点からは、この悪循環を防ぐために、死刑制度というものがあるのだとも言えます(国家論からするとそのかぎりではないですが)。
第3者である国家が被害者に代わって加害者を殺してくれることで、報復の連鎖を止めることになります。

報復の悪循環を防ぐためには国家による死刑は有効だと思います。

が、そもそも被害者遺族が報復したいと思うほどの感情が、死刑によって加害者が死ぬことで落ち着くものでしょうか。死刑で溜飲が下がるものでしょうか。
けっして失った尊い命への感情は消えないはずです。
それでも、自分の愛する人を手篭めにした人間が同じ世界にいるとも思いたくない、という感情もあるでしょう。死刑によって、そういう感情や報復感情が少しでも気が楽になればそれでいいという意見もあるでしょう。

ただ、そういったことは、なにも死刑でなくても、被害者の心のケアの充実や終身刑の導入など他にも代替策はあるのではないでしょうか。

被害者遺族の感情を考えても、死刑だけが解決策なのか、むしろ死刑によって、本来行われるべき被害者遺族の心のケアが疎かになるようであればそれは本末転倒で、まずは心のケアから取り組むべきではないのか、というのが死刑廃止論者としての意見となります。

ただし、あくまで感情の話なので、人によって感じ方は違うとは思います。しかも、個人の感情の範囲内で済むわけではなく、社会に関わる個人の感情だからこそ難しい。論争になりうるテーマです。

1つ言えるのは、旧約聖書のイサクの話などでもそうですが、西欧的発想の中では、個人の感情と社会的正義や倫理は相反することがあり、その場合、個人の感情を抑えて社会的正義や倫理を優先することの方が重視され、正しいとされてきたということがあります。
そして、人の生命を守ることは人権を守る社会的正義なのです。
他方で、日本では、赤穂浪士の話ではないですが、個人の感情に従って行動することが倫理的であるとされることが多々あるように思います。
このあたりの文化の違いが、世界の先進国の中で日本が死刑を続ける根拠になりうるのかもしれません。

自分は西欧かぶれなので、どうしても前者の考えになってしまいますが(後者のような考えはどうしても好きになれません。。。)

[補記]
死刑(や赤穂浪士的報復)は何も個人的感情なだけではなくて、社会的正義だ、つまりは、被害者の死と平等の状態に加害者を置くという正義なのだという意見もあるかもしれません。
これについては、民主主義的平等は機会の平等のことを言うのであって、生命はもちろん所有物などの平等ではない、と言えると思っています。つまり、次元が違います。

2007年9月4日火曜日

反復できない時間を生きる生物:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 2

「科学と非科学のあいだ:『生物と無生物のあいだ』を読んで」のつづき。

3."流れ"として捉える生物学
エントロピーの法則にあらがうものの1つとして、生物が存在します。
拡大解釈したエントロピーの法則では、秩序あるものは時間が経つにつれ無秩序な状態へと遷移していきます。長い年月をかけて、生物は腐敗して土に戻り、建物は崩れ山は削られ平地となっていきます。

このエントロピーに抗するためには、より強固な秩序を形成し崩壊の進行を遅くするか、自分で先に無秩序へと崩壊させてしまうかのどちらかです。

生物は、後者の方法によって、生きている間このエントロピーに抗して存在するのだ、とこの本では言われています。エントロピーの増大は時間の進行でもあるので、言ってみれば、生物は時間の進行を早めて自ら先に崩壊することでエントロピーに抗し、死んだ後、エントロピーの法則に従うようになって自然界の時間に戻るということでもあります。

では、具体的には生物はどのようにエントロピーの法則に抗っているのか。

生物は、エントロピーの法則によって自らが崩壊するよりも先に自分で自分の体を崩していきます。具体的には、エントロピーを増大させる古い組織を廃棄物として外に放出することで自分の体の系のエントロピーの増大を防いでいます。

そして、重要なことなのですが、生物の廃棄物には、運動の結果できた不要なものだけではなくて、自分の体を構成していた古い組織も含まれているということです。
一見、成人の体はいったん形成されればそのまま維持されているように思えますが、実は、筋肉や臓器ばかりか骨さえも分子レベルでは古いものが廃棄され新しい分子と交換されていると言います。人間の体で言えば、1年半くらいで分子レベルではすべて入れ替わっているそうです。
とくに骨などは、いったん形成されればあとは物質として朽ちていくだけだと勝手に思っていたのですが、実際には、生きている間はつねに分子レベルで交換されて刷新されているのだそうです。

生物は、このようにエントロピーの増大に抗するために食物摂取に工夫があります。体に必要なものがタンパク質であっても、外から取り入れたタンパク質をそのまま肉体の一部としていくのではなくて、タンパク質を構成するアミノ酸よりも細かいレベル、つまり、分子レベルで摂取し、自らの体の細胞に取り込んでいると言います。
外からタンパク質を取り込んでいてはエントロピーに支配されてしまいますが、いったん分子レベルにまで分解して取り込むことで、タンパク質という秩序を自分で崩壊させてエントロピーの法則から逃れられるようにしています。

このように、分子レベルで生物を考えると、静的個体として考えていた生物が、実際には分子レベルでは次から次へと新しい分子に取り替えられていく非常に動的な流れの中にあるということがわかります。
言ってみれば、そこだけ時間の流れが早まって分子が高密度かつ高秩序に寄り集まった分子系の流れの渦、あるいは淀みだと考えられないでしょうか。
著者の言葉で言えば、

肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支があわなくなる。


著者はこのことを、「動的平衡」という概念として表現しています。エントロピーの最大化=静的平衡状態になるより先に平衡状態=分子の淀みを作っていくのが生物だということになります。

著者は、この本の「序」で、たとえば砂浜で、人間が、一目で砂粒や石と区別して貝やカニといった物を生物と判断できるのはなぜだろう?川の流れの中で、めだかなどを生物とすぐに判断できるのはなぜだろう?とい問いをたてています。そして、生物学の教科書的にいったん生物の定義を「自己複製するもの」としますが、先の問いには答えられていないように思えます。その後、最後に「動的平衡」こそ生物の定義だとします。これは先の問いに答えています。つまり、無秩序の中の秩序として存在する物はエントロピーの増大に簡単に負けないような固く屈強なものか、動的平衡を維持している物かどちらかで、人間はそれらを簡単に区別できるのだ、したがって、けっして強固なものでもないのに動的平衡を維持してエントロピーに抗している物を生物と認識できるのだ、ということです。

ところで、このように、生物を流れの淀みとして捉えたり動的平衡として捉えたりするのは、けっして抽象論などではなく、筆者の実際の実験結果を踏まえたものであり、その事例が紹介されていることが非常に興味深いです。

筆者の研究の中で、ある生物学的現象を証明するために、特定の遺伝子が働かないようにしそれに対応したタンパク質を体内に作れない"ノックアウトマウス"の実験があったそうです。
あるタンパク質が形成できないので特定の体の機能が失われると推測したわけです。ところが、実験結果はマウスはその機能を失わず生き続けます。そのタンパク質が体内にないにもかかわらず、そしてそのタンパク質と機能の関連はあることが証明できているにもかかわらず。

実験としては失敗だったわけですが、著者はここにこそ生物の動的平衡の力強さを認めます。生物は動的平衡によって、特定のタンパク質が形成できないことを別のタンパク質などを使って補えるのです。逆に、補えないほど遺伝子をノックアウトしてしまうと、もはやそのマウスは動的平衡を保てなくなり、そもそも生まれてこないものとなってしまいます。生物が生きている限り、動的平衡が保たれ、分子レベルでの流れが生じ(それに必要な機能は実現され)、エントロピーの増大に抗します。

ノックアウトマウスの実験は、機械論的な(因果論的な)生物観によるものです。ある機能を発現させる元の遺伝子情報(原因)を操作すれば、その機能は現れない(結果)はずだ、というものです。

ところが、実際の生物の動的平衡は、こうした機械論(因果論)を逃れていきます。生物はエントロピーの増大という時間の流れに抗して自らの時間を生きます。エントロピーよりも時間を早めて秩序の崩壊を先取りしています。その過程で、分子の流れの阻害となるようなものは修復していくし、分子の流れを起こせないほどの障害があれば、生物としての存在からはずれ(=死に)、エントロピーの時間の中へと入っていきます。

機械論(因果論)は、エントロピーの法則に抗う強固な個体物体に対して、エントロピーの法則に抗っている(=個体として維持されている)間だけに適用されえます。言ってみれば、人間の感覚に対して十分抗っている時間が長いため、エントロピーの法則を無視して繰り返し実現しうるものの中でのみ有効となります。同じ条件下で何度も反復できることが機械論による客観的事実にとっては重要です。

他方で、動的平衡は、エントロピーの法則の時間よりも早い時間の中で実現し、同じ条件での反復が難しいものとなります。一回限りの時間の中でこそ動的平衡は実現し、機械論的に反復しようとしたとたんに動的平衡は崩れ、生物は死の状態へ、エントロピーの法則の中へ崩壊していくのです。

機械には時間がない。原理的にはどの部分からでも作ることができ、完成した後からでも部品を抜き取ったり、交換することができる。そこには二度とやり直すことのできない一回性というものがない。機械の内部には、折りたたまれて開くことのできない時間というものがない。
生物には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度折りたたんだら二度と解くことのできないものとして生物はある。生命とはどのようなものかと問われれば、そう答えることができる。


生物には本質的に、機械論的=因果論的ロジックでは捉えきれないものが含まれているのかもしれません。その可能性が示唆されています。

そして、こうした個体/物体としてものごとを捉えるのではなく、流れとして捉える認識論は、現代的な大きな潮流として存在します。この本は、そうした潮流を分子生物学の分野から裏付けるものとなっています。その話についてはまた別の機会に。

2007年9月2日日曜日

科学と非科学のあいだ:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 1

生物と無生物のあいだ
福岡伸一
講談社現代新書

各所で評判のよい『生物と無生物のあいだ』を読んでみました。著者は分子生物学の最先端にいる人ですが、文章力が高く非常におもしろい読み物になっています。おすすめです。

この本内容は大きく3つのパートに分けられるかなと思います。長くなるので今回は2.まで。

1. 科学的方法論の難しさ
2. 興味深い人物の紹介
3. "流れ"として捉える生物学


1.科学的方法論の難しさ
日本国内ではお札になるほど人気で、当時多数の論文を発表したものの、現代にはなんの実質的業績も残していない野口英世を引き合いに、"科学的事実"なるものの難しさが述べられています。
野口英世は功名心に旺盛で、当時の権威に気に入られ多数の論文を発表します。アメリカで成功した日本人生物/医学者となるわけですが、それら論文は現代ではすべて間違っているとされています。当時どうして正しくない論文がこんなに多数受け入れられ"科学的事実"になってしまったのか。そこは野口英世の背後にいた権威の威力が大きいとされます。

現代では、科学者は新しい発見をすると論文にまとめ、特定の科学誌に投稿します。科学誌編集部では、その論文が掲載する価値のある物かどうかを判断するために同業他者にピアレビューを頼みます。
現代の科学は高度に専門化されているため、一般にピアレビューを通れば、それ以外の人が内容を吟味することはほとんどないと言います。つまり、ある科学的発見は誰でもレビューできるようオープンになっているものの、実際に内容まで吟味しているのは世界で数人しかいないというのが現状のようです。

言ってみれば、特定の1人もしくは数人に認められているということだけが、科学的事実の正しさの保証となっています。しかも、その後別の発見があるまでその内容が吟味されることもほぼないことになります。

とは言うものの、誰でも評価できるようにオープンになっていること、ということこそが科学的事実の客観性を保証しているのでしょう。オープンだということが科学的事実の客観性にとって重要なわけです。これが科学哲学家のカール ポパーの言う反証可能性だと言うこともできます。

ピアレビューには別の問題もあります。高度に専門化されているため内容は同業他者にしかレビューできません。ところが、多くの場合、同業他者も同じ課題を研究中だったりして論文発表競争を行っているわけです。いわば、ピアレビューをお願いするということはライバルに情報を明け渡すことになるわけです。また、レビュアーは同業他者なのでなんらかの裏の取引が発生しないとも言い切れません。

ここに、科学が非常に政治的、戦略的になるポイントがあります。
無垢に正しければよいというだけでなく、駆け引きを行わなければいけないのです。

『生物と無生物のあいだ』では、DNAの二重螺旋構造という世紀の発見の裏にも、非正規の情報の受け渡しがあり、うまく立ち回った者だけが恩恵を受け取っているという事実が紹介されています。
研究者間の確執から、発表前の実験結果がワトソンとクリックのもとに流れ、それが二重螺旋構造の解明の裏付け情報として役立ったのだそうです。しかも、その情報を裏で流したウィルキンズは、ワトソンとクリックとともにノーベル医学生理学賞を受賞します。一方、情報元の実験を行ったロザリンドフランクリンはそのときにはノーベル賞受賞を知ることなく若くして他界していたといいます。

今日科学はますます政治化しています。
うまく予算を集め、権威付けし、論文生産の効率化を行う研究者が評価され、実直にひたすら研究をしているだけでは研究者としての功を成せないばかりか生活にさえ困ってしまうでしょう。
他方で、韓国のES細胞詐称のようなことが起こったりもしています。

考えてみれば、今日に限らず科学はつねにいわば政治的だったのでした。
第二次世界対戦や冷戦のころは、科学者が原爆開発に関わっていましたし、それ以前も帝国主義的拡大に科学は役立っています。もっとさかのぼれば、コペルニクスやガリレイはときの権力に抗して科学的事実を主張したのでした。
最先端の科学は、政治と無関係ではいられないということです。

そういうことに対処する能力もまたすぐれた科学者には求められるのかもしれません。


2.興味深い人物の紹介
この本では、36歳から本格的研究を始め遺伝子学の基礎を作ったエイブリーや、サーファーで自由人ながら分子生物学で大きな発見をしノーベル賞もとっているマリスといった有名人から、ニューヨークで研究していたときいっしょに研究したラボテクニシャンで、優秀なのにもかかわらず本業はミュージシャンでポスドクには行かなかったラフォージといった魅力あふれる人物が紹介されています。なんとラフォージは、SkaバンドThe Toastersのメンバーらしいです。コンピでですが自分もThe Toasters持ってます。まさかメンバーがそんなインテリだったとは。

やっぱり意外性のあるのがおもしろいですね。科学の分野にはまだまだこういう人がたくさんいそうです。


3."流れ"として捉える生物学
著者の研究結果から、生物の特徴として動的平衡ということが取り上げられています。これについては、また次回に。

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