『新戦争論』
伊藤憲一
新潮新書
著者はまず、国際関係や平和を考えるにあたって、法制的思考、観念論ではなく、戦略的思考、現実論で世界を考える必要があるとします。
法制的思考、観念論とは、まず理想を描いて法律として整備していくというやり方です。そして法律や条約が平和をもたらすという考え方になります。正論ですが、これにこだわりすぎると現実に対応できません。また、現実の平和に対して片手落ちの議論となります。
それに対して、筆者は、今までの歴史上簡単に破られてきた法律や条約の世界よりも、実際に戦争を押しとどめてきた力の均衡を現実として認識し、そうした力による戦略論を考えていくべきだとします。
筆者によれば、戦争と紛争は異なるもので、戦争は、国家(あるいは政治的主体)が行う紛争であり、クラウゼビッツを引用して「戦争とは政治におけるとは異なる手段をもってする政治の延長にほかならない」とします。単なる個人間、集団間の争いである紛争(そしてこうした紛争は人類の歴史と同じだけ古い物ですが)と、国家間の政治の延長は違う、という主張です。
そう考えると、人類は生まれながらに戦争をしてきているわけではなくて、あるときから戦争を開始し、そして現在は戦争をしない時代になっている、とします。
つまり、紛争はあったが戦争はなかった「無戦争時代」、人類が定住を初めて土地の所有から共同体間の戦争が始まった「戦争時代」、そして核兵器の開発により現実問題として戦争が行えなくなってしまった「不戦争時代」という3つの時代区分を提示します。
現代においては、アメリカの核の威力のもと、国家間の戦争は不可能となっており、各地での紛争があるだけだということになります。
冷戦という「不戦争時代」の始まりにおいては、ソ連とアメリカで核の均衡がとれていました。他の国にも核兵器はありましたが、第一撃で90%の戦力が失われても第二撃で敵国をも壊滅させてしまう報復能力を持つ国はこの2国だけでした。
その後、ソ連邦崩壊で、現在では実質この戦力を維持できているのはアメリカだけとなっています。
国連のような形での「世界政府」の樹立による平和の実現が人類にとっての理想ではあります。が、現実的にはそのような世界政府は存在したことがないし、国連の力もそこまではいたっていません。
他方で、現実的にはアメリカがその経済力や軍事力で事実上の「世界帝国」となって、その帝国のもと世界不戦体制ができあがりつつあります。
著者の主張では、こうした世界不戦体制のもと積極的平和主義を追求しなければならない、ということになります。
そのためには、日本は、憲法第九条第一項の不戦事項は順守しつつ、その不戦体制を維持するために第二項は変えて集団的自衛権は認めなければいけないとします。
つまり、国家間の戦争が起こらない体制を維持するために、紛争を解決する手段を持つ必要があるというものです。現代においては、ならずもの国家やテロ集団による紛争が起こりえ、これが不戦体制を脅かしています。日本は、積極的平和主義のためにこれに抗する手段を持たないといけない、ということになります。
また、現代の不戦体制ができてきた理由の一つとして、最終兵器としての核の威力以外に、戦争は土地の所有と結びついて発展してきて最終的に世界の土地を取り合う世界大戦へといたったものの、グローバリズムの時代では土地の所有が相対的に小さいものとなってきているということもあげられています。
こうした世界観はいわば、ドゥルーズ=ガタリの戦争機械論からネグリの帝国論を敷衍したものにも見えますが、ちなみに本書にこれらからの引用はありませんでした。
筆者の主張に賛否両論あるとは思いますが、現実の世界を考えるためには有益な視野を与えてはくれます。
他方で、この本ではまったく触れられない理想論は語っていかなくてもよいのか、という疑問もあります。
歴史にはいろいろな波があるのだと思いますが、少なくとも現在では、こうした現実論、パワーポリティクスが支持を得ているし、信憑性も増していますね。
それがどうしてかは非常に面白いテーマだとは思いますが。
NBonline:「消極的平和主義を捨てて〜『新・戦争論』伊藤憲一著(評:小田嶋隆)」
に書評がありました。
評者はわかりにくいと言っていますが、けっしてそんなことはなくむしろわかりやすい本だと思いました。評者は左翼史観に偏りすぎているのでそう思われたのではないでしょうか。古い左翼史観のままこの本を読むと、そもそも概念の使い方が違うので納得がいかず(同じ議論の土俵に立てず)、たしかにわかりにくいかもしれません。
他方で、イラク戦争等が著者の言う"戦争"ではない紛争だとしたところで、"戦争"と同じく多くの若者や一般市民が死んでいっているのは確かで、そうした視点も見失ってはいけないでしょう。
この本の主張と相反するものではないと思っていますが。
2007年11月28日水曜日
戦争を現実論で考える(という視点が優勢な時代)
2007年11月27日火曜日
CD販売とネット配信の関係
池田信夫blog:「ネットはクリエイターの敵か」
CD販売とネット配信の関係と現状が効果的にまとめられています。
ミリオンセラーを連発するようなCD販売ビジネスモデルが崩壊し、別の(より裾野の広いロングテールな)音楽配信モデルが登場しつつあります。
科学的質感の重要さ:『生物と無生物のあいだ』
「科学と非科学のあいだ:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 1」と「反復できない時間を生きる生物:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 2」で紹介した『生物と無生物のあいだ』について別の観点で紹介してある記事がありました。
Tech-On:藤堂安人の材料で勝つ「偉大な発見を実現する「条件」とは」
科学の世界における競争の話や、輝かしい科学的発見(しばしば演繹的な思考によるもの)の背後にある帰納的発見の重要性、帰納的発見の過程における科学的 "質感"による自信の話など、たしかにこの本のメインテーマ(が、自分は取り上げなかった)が取り上げられ紹介されています。
「価格はファンが決定」のレディオヘッドの最新アルバム、日本でもネット販売
CNet:「「価格はファンが決定」のレディオヘッドの最新アルバム、日本でもネット販売」
Radioheadの中抜きネット販売(「レディオヘッドが音楽レーベルなしの楽曲ダウンロード」)が日本でも12月3日から販売開始するそうです。
www.inrainbows.jp
2007年11月23日金曜日
ウィキノミクス
『ウィキノミクス マスコラボレーションによる開発・生産の世紀へ』
ドン・タプスコット、アンソニー・D・ウィリアムズ
日経BP社
ウィキペディアを代表とする、自由参加型コミュニティが社会にイノベーションを起こしているという事例のまとめです。
内容的には、すでに知っているような事例の紹介ばかりです。こんなにすばらしいですよという説明のオンパレードで、そういう意味では本質を描ききれているようには思えませんでした。
ただ、Web2.0的な内容かと思っていたのですが、それよりも『フラット化する世界』の方に近く、物理的生産拠点のグローバル化などのテーマも範囲に含まれています。
また、訴えかけているのが企業やそこで働く人々だったりもするので、そういう意味では、ここで描かれているようなことを実践できている会社はまだまだ少なく、今後の進むべき方向を示されたという意味ではよいのかもしれません。
そして、実際にまさにウィキノミクスで唱えられている方向へいろいろな企業が進みだしているように思えます。グローバル企業で働く人にとっては、今後の会社の方向性がこの本の中に垣間見えると思えるのではないでしょうか。
企業以外でも、いろいろな形の参加型コミュニティが社会的影響を持つものになってきているのは確かで、それをまとめたものとしての価値も高いです。
あとやっぱり、あるものごとを指し示す用語のネーミングはすごくいいですね。"ウィキノミクス"をはじめいろいろな概念が作られていて、そのネーミングセンスはすごいと思います。
2007年11月21日水曜日
ネット動画(今のところ音楽のみ)はカラオケにならって:YouTubeとニコニコ動画がJASRACとの協議開始
もうずいぶん前(先月末)のニュースですがやっぱり取り上げとこうかと。
JASRACとYahoo!で進めていた著作権の包括契約について、YouTubeとニコニコ動画も参加していくようです。
ITPro:「YouTubeとニコニコ動画、「脱違法」へ——JASRACと著作権協議開始」
これが現実解という気はします。ラディカルな著作権批判論が大勢を占めるようなことがないかぎり。
カラオケでの著作権問題の解決策と同じですね。
他方で、今度は、より大きな権利者団体となるJASRACに対する第3者監査をどうするかが気になります。
一般消費者としては、自分で細かいことを気にすることなく、YouTubeやニコニコ動画のコンテンツを楽しめるというのは大きなメリットです。
YouTubeやニコニコ動画も、より視聴アクセス数が増えることで広告収入が伸びることが期待されるでしょう。
ただ、YouTubeなどでは音楽だけではなくTVなどの映像コンテンツに対する著作権の問題がまだ残っています。それらについても同様の包括契約で解決していってほしいですね。そのための余力(資金的なものも含めて)を残しておいてほしいものです。
2007年11月17日土曜日
群衆の叡智という古くて新しい問題
今月初め、The wisdom of Couwdsについてのパネルディスカッションがありました。
自腹で行こうかとも若干迷いましたが、記事を読むに内容的に自分が期待した物は少なかったようです。
ITPro:「「群集の叡智」をテーマにした討論会が開催」
小飼弾氏がそこで話した内容をブログに載せています。
404 Blog Not Found:「叡智の値段」
叡智の値段は0円だが、それをいかに技術的に実現するかについては特許権が(登録すれば)、それをいかに表現したかは著作権が発生し、お金につながっていきます。
また、叡智はなるべく多くの散らばった意見を集めた方がよりよいものが出てきますが、その叡智を実現しようとすると、なるべく少数にまとめて群れた方が実現できます。群衆の叡智にまつわるそうした矛盾も指摘されています。
ところで、最近、日本の戦間期の思想や文化を扱った『近代による超克』という本を読んでいますが、20世紀に入ってからの日本においても、大衆や群衆(の叡智)というのは大きな思考対象だったんだなぁと再認識しています。
西欧においても、オルテガやベンヤミンのように真正面から捉えた思想家以外にも、よく考えるとフッサールの現象学やハイデガーの存在論における日常(生活)という概念においても、大衆や群衆なるものの思想化の側面があるように思えます。
遡れば、マルクスやフランス革命、ルソーの一般意志などにまでたどり着けそうで、やはり「群衆の叡智」(個人的には「大衆の意志」と読み替えたいですが)は古くて新しい問題なんですね。(さらにはもちろんギリシャ哲学にまで。。。)
問題は、群衆にも叡智はあるんだと言い張るだけではなくて、インターネットの時代になって、そうした古くて新しい問題がどう焼き直されているかを分析することに思えます。答えは持ち合わせていませんが。
2007年11月16日金曜日
Radioheadによるダウンロード中抜き販売の1次結果
先日の「レディオヘッドが音楽レーベルなしの楽曲ダウンロード」の結果が出つつあります。
11月4日の池田信夫blog:「レディオヘッドの実験」では、100万ダウンロードで平均価格は9.1ドル、バンドの取り分は90%とありました。
11月6日のCNet:「大半が無料で入手--レディオヘッド最新アルバムのダウンロード販売」によれば、全体の62%が"タダ"でダウンロードし、残りの17%の人が1セント〜4ドル、12%の人が8〜12ドルを支払ったとあります。
どちらが正しい統計なのでしょうか。
(それとも4日まではちゃんとしたファンがお金を払ってダウンロードしたが、その後の数日で無料ダウンローダーが一気に増えたということか?)
いずれにせよ、レコード会社に払う分がないので、Radiohead自体が今までより儲かったのかそうじゃないかは不明です。
2007年11月15日木曜日
新聞社サイトの動向:ニュースアグリゲーション
アメリカの大手新聞社は着実にインターネットへと軸足を変えつつあります。
「大手ニュースサイトがソーシャルニュースサイトを買収」などもありましたが、ニュースサイト自身が他のニュースサイトをリンクするという"ニュースアグリゲーション"も大きな流れとしてあるようです。
media pub:「米新聞社サイトが打つ次の一手とは」
つまり、ニュースの元ネタは、自社の記者が集めてくるだけではなくて、他社からも、一般読者からも集めてくるということになります。
その場合、ニュースサイトの大きな役割としては、その記事の集めかた表示(表現)の仕方などの編集者的なものとなってくるのでしょう。
リンク先では、NYTimesが買収したニュースアグリゲーションツールBlogrunnerの特性(記事の集められかた)が記述されています。
新聞社も自社で囲い込むのではなく、適材適所でリソースを活用していくようになっていくのでしょう。
その際、アメリカでは、大学にジャーナリズム学科があったりして、社会としてジャーナリストを育成できる環境がありますが、日本では記者は通常新聞社に入ってから徒弟制的に(?)鍛えられます。
日本でも、ジャーナリストの流動化(転職や独立促進)と教育環境の整備が、今後の日本でのニュースの配信にとって重要な課題になってくるのかもしれません。
2007年11月14日水曜日
GoogleのOpenSocial
ちょっと前の話になってしまいますが、「Googleがオープンなソーシャルグラフを目指すようです」で書いていたGoogleのSocialGraphへの取り組みが公開されました。"OpenSocial"だそうです。
TechCrunch:「Googleの野心的「OpenSocial」APIの詳細判明—木曜日にローンチへ」
media pub:「Googleの“OpenSocial”の全貌が明らかに」
Facebookに先を行かれているSNSの分野において、Googleのこの取り組みは起死回生のものとなるのでしょうか。
ただ、SNS上で動くアプリケーション開発者にとっては非常にいいのでしょうが、一般ユーザにとってどういいかはあまり伝わってこない気もします。
それならば、FacebookのSocialAdsの方が、ユーザにも企業にもいいツールに思えます。
ちなみに、さっそくOpenSocial対応アプリがハックされたり(TechCrunch:「OpenSocial、再度ハックされる」)、オライリー氏による批判があったりもしています(TechCrunch:「「データを開放せよ」〜オライリー氏が説くOpenSocialの問題点とは?」)。
2007年11月13日火曜日
口コミとネット広告の自動融合:インターネットの特性と広告を結びつける画期的手法!?
百式さんのところのIDEAxIDEAで、FacebookのSocial Adsが紹介されていました。
なぜか日本の大手メディアではあまり紹介されていませんね(Impress除く)。Facebookが日本にはほとんど浸透していないためでしょうか?
IDEA x IDEA:「Facebookの「Social Ads」ってすごくね?」
内容は、リンク先を読んでみてください。
今まで、インターネット上の広告は正直ほとんどクリックしたことがなかったですが、たしかにこの広告の出されかたは思わずクリックしてしまいそうですね。
(広告を出す)企業という観点からは、はじめてSNSのメリットが出てきた気がします。
SNSやインターネット自体が今後も主流メディアとして発展していくためには、このような広告手法は大きな役割を担いうるものの1つになるのではないでしょうか。まさに、インターネットの特性を最大限に活かしてそれを広告を介したお金に結びつけうるという意味で。
ただし、法律上解決しなければ行けない問題も出ているようです。とくにプライバシーの問題。
Techcrunch:「Facebookの新広告プラットホームは違法か」
その他にもFacebookの魅力がIDEA x IDEAで伝えられています。
IDEA x IDEA:「Facebookってやっぱりすごいな・・・」
あと、IBMがこれからの広告のあり方についてペーパーを出しているようでその紹介記事も。
TechCrunch:「IBM—「現在の広告モデルの終焉」を説く」
2007年11月11日日曜日
団塊ジュニア世代が抱えた負の遺産
忙しくてちょっと更新できていませんでした。この間も書きたいネタはたくさんあったのですが。。。
数日前になりますが、池田信夫blogに、梅田望夫さんの最新著作に対する批判記事がありました。
池田信夫blog:「ウェブ時代をゆく」
批判自体はおいておくとして、ここで興味深い関連が指摘されていました。
1976年世代。
梅田望夫さんが、これからのIT時代の日本を背負いうる人たちと期待して名付けられている世代です。ぎりぎり団塊ジュニアかその直後くらいの世代ですね。
この世代の人たちが、今ベンチャーを起こし、新しい風を日本に吹き込んでいるというものです。
他方で、最近しばしば池田信夫blogに引用されている赤木智弘さんの書いた本(論考)が評判を生んでいます。赤木さんは、まさに1976年世代(の前後)です。
池田信夫blog:「丸山眞男をひっぱたけ」
就職氷河期に就職できなかった32歳フリーターの赤木さんは、この論考でまっとうな論理で戦争を期待しかねない状況を説明し話題を呼んでいます。
2000年前後の就職氷河期は、企業が既存の正社員を保護して派遣社員を増やし新卒採用を控えた時期です。その結果、ちょうどこの時期に新卒だった若者たちが、たとえ優秀だったとしても大量に職からあぶれました。
今まで通り新卒を採用してくれるか、あるいは既存正社員も含めて労働者の流動化が進めばよかったのですが、既存正社員だけが保護されていわば新卒の若者が見殺しにされてしまったかたちになります。そして、その数年後、いまやバブル期に迫る新卒売り手市場となっています。
1976年世代は、かたやベンチャー起業家、かたやフリーターという二極分割となってしまっています。
大人は、怠け者の若者がフリーターとなってると批判するが、これは構造的な問題であってわれわれ若者はその犠牲者だ、というのが赤木さんの論旨となります。
その上で、日本の戦後最大の知識人の一人、丸山眞男が徴兵されたときに中卒の上官にひっぱたかれたことを述懐していることを引用して、今戦争が起これば、自分にも一発逆転のチャンスがあるのに(フリーターの自分がベンチャー起業家や一流企業サラリーマンをひっぱたける)、と期待しているというものになります。
戦争を期待しているという部分は本心ではないと思いますが、今のフリーターの問題が、終身雇用が崩壊したにもかかわらず労働者の流動化が進んでいないという構造的問題なのだという指摘は重要です。戻すか進めるかするか、あるいはこの問題の保護策を社会的に講じないと、後々にいたるまで大きな社会的遺恨として残りかねないのでしょうか。
私もちょうど団塊ジュニア世代ですが、われわれの世代に課されてしまったたくさんの課題のうちの1つです。