2007年1月28日日曜日

進化論と歴史は価値判断をどう取り扱うのか

前エントリでどうしていまさら『Web進化論』を取り上げたかというと、『日本の200年』のエントリと並べたかったからです。
どうして並べたかったかというと、「進化論」に対して「歴史」を対置したかったからです。


■進化論における真理は物理的因果関係の解明
前エントリで書いたように、正統派進化論は自然科学であり、きわめて機械論的に現象を捉える考え方です。この考え方にのっとれば、人の意思の入る余地はなく、物理現象として生物の変化を捉えることができます。
進化論においては、そこに起こった変化や現象の価値判断は行われず、その現象を物理的要素に還元しその因果関係を解明していくことになります。


■歴史における真理は歴史的意味付けの発見
歴史もまた、いろんな方法論が混在しています。だれそれという偉人がどんなことをしたというような属人的(非科学的)歴史から、技術の革新による歴史の進展を描くような科学的歴史までいろいろあると思います。
正統派(と私が考える)歴史学では、科学的方法論に立脚し客観的描写を行いますが、人間の意志を完全には排除しません。というのも、歴史は人間が営むものだからというのもありますが、歴史を人間の意志の及ばない物理的要素に還元するのが難しいからだと思います。
歴史学においても、現象をある要素に分解してその因果関係を解明していくのですが、そこで分解されたAtom(要素)は、自然科学における物理的なものにはなりえません。もちろん、歴史においても最小まで分解していけば物理的要素に還元できるのでしょうが、その因果関係では歴史的スパンを描けないのだと思います。実際、きわめて科学的方法論に忠実に歴史を描こうとされた試みもあると思いますが、それが歴史的真実を捉えているとは言いがたく、現在まで正統派にはなりえていません。

何を還元された歴史的要素とするかということがその歴史家におけるスタンスであり価値観の反映でもあります。物理的現象に還元できない以上、要素の捉え方は歴史家の意識に影響されます。
正統派の歴史学では、この部分を可能な限り客観的なものとするために、歴史書などの当時の文献、歴史的データ、今まで正しいとされてきた歴史的見解などに依拠しつつ、自らが打ち立てる歴史的要素の因果論を展開することになります。

進化論などの自然科学における真実は、物理的因果関係の解明なのだと思いますが、歴史における真実は、今まで無かった歴史的事実(歴史的要素)や見解(歴史的因果関係)の発見なのであり、それは新たな文献の発掘によらないのであれば、新しい価値観やものの見方の提示となります。

過去の変化の現象を扱う「進化論」と「歴史」の違いは、扱う対象が自然か社会かという違いとともに、そもそもの方法論が異なっているのだと思います。


■「Web進化論」と「Web歴史学」の想像
ということを踏まえたうえで、ありうべき「Web進化論」を想像するに、たとえば、HTML、SGML、XML、RSS、AJAX、、等々の多様なWeb 技術の変遷とどのように採用されてきたかについて記述することになるでしょう。Web技術系統樹のようなものが作成されるはずです。
あるいは、ホームページ、BBS、CMS、Blog、SNSなどの変遷によってどのように人々の意識が表出されるようになってきたかの因果関係を記述することになるでしょう。
ただし、進化論の範疇ではその価値判断はなされないはずです。

「Web歴史学」のようなものがあるとすれば、そうした「Web進化論」に価値判断を載せていくことになると思います。いわば「Web進化論」の後日談のように、けっきょくその技術がどうして出てきて何を変えていったかの描写となります。さらには、人類の歴史にとってどのような意味合いを持っていたのかが記述されていくでしょう。

過去に起こった変化に対して、自然科学である進化論は物理的因果関係の解明を、人文科学である歴史学は歴史的意味付けを行うことでそれぞれ真理を見出していくのです。


■進化論的自由主義と歴史学的社会民主主義
「進化論」も「歴史学」も過去の現象を扱うものなのですが、これを現在や未来に適用してみるとどうなるでしょうか。

進化論的立場では、何でもありの多様化を肯定し、これが後々には淘汰(自然選択)されていくことが期待されます。これはいわば自由主義的立場に近いでしょう。

歴史学的立場では、将来のありうべき姿に対しての意味のある活動を肯定していきます。その中には最初から弱者救済も含まれます。これは社会民主主義的(人権主義的)立場に近いものとなるでしょう。

ただし、実際には、自由主義立場であっても、人間社会は自然界のような完全な弱肉強食は人権上許されず、最低限のセーフティーネットを設けることで弱者も救出していくことになるでしょうし、社会民主主義的立場であっても、すべてにおいて全国民一致した将来のありうべき姿を描けるわけではなく部分的には自由主義的競争を取り入れていかざるを得ません。

個人的には、新しいものを創出する分野では自由主義的(進化論的)多産多死モデルが有効だと思いますし、成熟分野での価値配分は社会民主主義的(歴史学的)価値判断が必要だと思っています。
Webの世界1つをとってみてもどちらか一方だけでうまくいくというものではなく、新しいものの自由な多産とその価値付けによる平等の実現という両輪を回していかないといけないのでしょう。

強引にまとめるのであれば、社会における革新と保守、自由と平等の相互作用、闘争は、進化論と歴史の相互作用でもあると言えるかもしれません。

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