2008年3月25日火曜日

共通感覚としてのアダム・スミスの「神の手」

引っ越して早2週間。
そろそろ再開しようと思いつつも、家具などが到着せずまだ地べたMacで、なかなか再開できていませんでした。

が、なかなか興味深い記事があったので、ここから再開。

池田信夫blog:「見えざる手」は誰の手か

アダム・スミスが『国富論』で、「人々が利己心にもとづいて行動すれば、おのずと秩序が成立するという」有名な「見えざる手」を説きました。
かたや、『道徳感情論』では、「他人に対する共感(empathy)が秩序の基礎だ」とも説いています。

アダム・スミスが「見えざる手」で想定したのは、池田信夫さんが指摘する通り、理神論というのが素直な気がします。神の手です。
同時代、ニュートンは自然法則を科学的に明らかにしながら、こうした完璧な法則は神が作ったのだと理神論を唱えています。
同じようにアダム・スミスも、社会現象(経済)を科学的に明らかにしながらその根本原因を神に求めたのでしょう。これは(ニュートンも含めて)、本心から神を根本原因と信じたというよりも、この時代のレトリックだとも言えると思います。

アダム・スミスが扱ったような、個と集団(社会)の矛盾は、人文科学の主要テーマです。
そして、結論から言ってしまうと、多くの人文科学の大家がそう説くように、社会が小悪を含みつつも総じて正義を実現したり、少しずつ発展したりするのは、人間が(たとえ自分の損になっても)人を信じたり、共感したりする"傾向"があるという事実なのだと思います。それは、ある社会での共通感覚(common sense=常識)や公正につながります。
どうしてそういう"傾向"があるのかまでは誰も明らかにはできていません。ただ言えるとすると、共同体的慣性のようなものがあり、昔からの傾向はそのまま引き継がれがちだということなのかもしれません。なので、反発したくなる気持ちとは裏腹に"伝統"や"共同体"が重要なのです。(自分は保守ではないつもりですが、やはり大事だとは思います)
池田信夫さんの言葉で引用すると、

ではスミス自身は、この矛盾をどう理解していたのだろうか?一つのヒントは、本書の指摘するように、『道徳感情論』にも「見えざる手」という言葉が1回だけ出てくることだ。これは資本家が労働者を雇う際に、利潤最大化のためには労働者をフェアに扱わないと逃げてしまう、といった文脈で使われている。つまり公正(fairness)の感覚を共有していることが均衡を実現するというわけだ。これはRawlsの『正義論』の考え方に近い。


blog休んでいる間に読んだ本で、『自由はどこまで可能か—リバタリアニズム入門』森村進というのがあります。また、ここで読書メモを公開したいですが、この本は、国家は最小でよくすべては自由市場で解決できるという自由主義を解説した本ですが、そうしたリバタリアン(自由主義者)がどうして国家の介入なくうまくいくのかの最終根拠にいつも社会の"共通感覚"のようなものをあげていたのは興味深かったです。

自由主義者(=社会よりも個人を最大限に重要視する)であっても、社会がうまくいくためには、ある共同体での共通感覚が重要だということになります。

リンク先の池田信夫さんのblogでは、利己心を求めながらも公正な均衡を求める社会が生き残ってきたと進化論的結論を出しています。
一見わかりやすいですが、どうして公正な均衡が淘汰されて残るのか、社会の進化とは何か(社会進化論などもありますが)、といったようなところの論理は省略されているように思います。進化論的マジック(論理の飛躍)があるように思えます。このあたりについて、個と社会の論理を深めていけるのかもしれません。

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