2007年1月31日水曜日

Somethingとなりうる情報の流れ

前々回のエントリのコメントで考えていたことを図示するとこのようになるでしょうか。
この絵でもすべてを言い切れていませんが。
(画像をクリックすると拡大したものが見れます)

『Web進化論』で言う「(≒無限大)×(≒無)=Something」となりうるためには、ただ単に情報を垂れ流すだけでなく、情報の流れ方、集約のされ方が重要なのではないか?と考えています。
まずは、その問題点の指摘のエントリです。


・インターネット以前の情報の流れ

極論すると、今までは、マスメディアにしか社会への影響力はありませんでしたし、人々にとっての情報収集源の主なものもマスメディアでした。
ただし、人々は選挙によって社会に影響を与えることができました。
また、マスメディアに対しても投稿やアンケートなど限られて入るものの意見を吸い上げるパスはありました。



・初期インターネット時代の理想

そこにインターネットが登場してきて、すべての人の有象無象の意見が発信され、その中のいくつかが社会に影響を与え、極端な場合マスメディアはもはや不要になる、という夢のような物語が語られるようになりました。




・インターネット時代の情報の流れの現実

ところが、インターネットが普及した現在でも、実際には、

(1)マスメディアは依然として社会に大きな影響力があり、人々の主な情報源のままです。ブログ等で話題になるのもマスメディアによって報道されたニュースが中心だったりします。

(2)ごく一部のブロガー達は、自身のブログで意見を発信し、マスメディアや社会に影響を与えています。私の個人的な観察では、ここに所属するのは、元マスコミにいたフリーのジャーナリストの人々や学者(の卵含む)が個人名で発信しているものがメインです。あとは、フリーウェアなどを公開している方々でしょうか。ここの予備軍となるようなブログは数多くあるもののなかなか吸い上げ影響力を持たせるようになるようなパス/回路が少ないのが現状です。

(3)言い方は悪いですが、不特定多数の意見は、自己撞着的かつ情緒的に閉じたコミュニティ内で垂れ流されています。
かつ、ここに所属する人々がもし選挙に行かないとすると(ここは私の勝手な想像です)、これらの人々の意見は選挙を通しての社会への影響もまったくないことになります。



もともとインターネットの力として夢みられていたのは、(2)のような形態なのだと思いますが、実際に(2)と(3)の格差/壁は想像以上にあるのではないでしょうか?

別に(3)で井戸端会議をインターネットでしようがいいじゃないか、というのはそのとおりです。このブログ自体がそうですし。インターネットのおかげで会ったこともない人とも井戸端会議ができるようになったのは、それはそれでよいことでしょう。

それを踏まえたうえで自分がまずは言いたいのは次の3つ。
少々過激かつ扇動的な言い方で書くと。

■幻想を捨てよ、現実へ出よ
有象無象の情報の錯綜こそが力を持つという初期民主主義の幻想は捨てよう。インターネットがそういう力を持ちうる初期段階は脱したのではないか?そんな夢に甘んじている間にも、旧来のマスメディア勢力が着実に地盤を築いていっており、そうなるとインターネットの本当の力が骨抜きにされる可能性もある、ということです。そうなると、けっきょくインターネットは"サブ"カルチャーであり、"アングラ"である、ということになりかねません。

■開き直ってとどまらず、回路を開こう
(3)から(2)への回路を開くことが重要です。そして、(2)の力の増強のために(2)から(1)への回路を太くしていくことも重要です。
(3)は(3)で存在価値はありますしよいのですが、少なくとも(3)にとどまることが情報を発信しているのではない、という認識が必要なのではないでしょうか。
つまり、多くの人が、(2)と(3)の壁を乗り越え両方にまたがった活動をするということこそ、初期インターネットの理想に近いのだと思います。
(3)にとどまることで開き直ることも可能ですが、そのままなにもせずにSomethingの情報となることはよっぽど幸運な場合だけじゃないでしょうか。

もちろん、必ずしも(2)に活動領域を広げなくとも会社などの実社会や選挙で社会に関係していくこともできるので、私も含めて(3)にとどまっている人がぜったいに(2)に出て行く必要は無いとは思います。ただし、インターネットの世界の中だけで考えるとそれは必ずしもインターネットの力の増大には手伝っていないかもしれません。

いずれにせよ、どうやって回路を開き太くしていくのか、というところがポイントですが、すみません、このエントリではそこまで触れられません。(私自身答えもありませんし)

■情報を保護しつつ共有できる社会へ
実は(3)の人が一番情報の所有権に反発しているのかもしれません。が、何も発信しないのにタダで情報を得ようというのはムシがよすぎると言われてもしょうがないかもしれません。事実上、公共物のフリーライダーです。
他方で、マスメディアや情報の卸となっているところが、情報の所有権をたてに情報を独占し、情報の自由な流通を妨げている、というのも事実です。

情報を自由に共有するためには、まずは情報を保護し(少なくとも作品と創作者のクレジットが紐づくようにし)、その上で対価を得る仕組み(対価を得ない仕組みも含めて)を作っていく必要があります。
それについては、これまでも著作権がらみで私の意見は述べてきていますし、今後考えていきたいテーマでもあります。ので、このエントリではこのくらいで。


少々扇動的だったかもしれませんが、インターネット時代に夢描ける状態と現実にかなりの乖離があり、実はその乖離を固定化しようとしているのがインターネットの夢を見続けている初期インターネット・ユーザ達で、そうこうしている間にも、インターネットの夢は押しつぶされていくのではないか、という危機感からのエントリのつもりです。

「イノベーションのジレンマ」*1と呼ばれるものにインターネットが囚われないことを祈りつつ。

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*1 イノベーションを起こした当初の成功戦略や体験に居座り続けることで、イノベーションの普及期に後続に追い抜かれたりシェアを落としてしまったりすること。しかも居座り続けることが正しい戦略であるというのがジレンマとなっています。

2007年1月28日日曜日

進化論と歴史は価値判断をどう取り扱うのか

前エントリでどうしていまさら『Web進化論』を取り上げたかというと、『日本の200年』のエントリと並べたかったからです。
どうして並べたかったかというと、「進化論」に対して「歴史」を対置したかったからです。


■進化論における真理は物理的因果関係の解明
前エントリで書いたように、正統派進化論は自然科学であり、きわめて機械論的に現象を捉える考え方です。この考え方にのっとれば、人の意思の入る余地はなく、物理現象として生物の変化を捉えることができます。
進化論においては、そこに起こった変化や現象の価値判断は行われず、その現象を物理的要素に還元しその因果関係を解明していくことになります。


■歴史における真理は歴史的意味付けの発見
歴史もまた、いろんな方法論が混在しています。だれそれという偉人がどんなことをしたというような属人的(非科学的)歴史から、技術の革新による歴史の進展を描くような科学的歴史までいろいろあると思います。
正統派(と私が考える)歴史学では、科学的方法論に立脚し客観的描写を行いますが、人間の意志を完全には排除しません。というのも、歴史は人間が営むものだからというのもありますが、歴史を人間の意志の及ばない物理的要素に還元するのが難しいからだと思います。
歴史学においても、現象をある要素に分解してその因果関係を解明していくのですが、そこで分解されたAtom(要素)は、自然科学における物理的なものにはなりえません。もちろん、歴史においても最小まで分解していけば物理的要素に還元できるのでしょうが、その因果関係では歴史的スパンを描けないのだと思います。実際、きわめて科学的方法論に忠実に歴史を描こうとされた試みもあると思いますが、それが歴史的真実を捉えているとは言いがたく、現在まで正統派にはなりえていません。

何を還元された歴史的要素とするかということがその歴史家におけるスタンスであり価値観の反映でもあります。物理的現象に還元できない以上、要素の捉え方は歴史家の意識に影響されます。
正統派の歴史学では、この部分を可能な限り客観的なものとするために、歴史書などの当時の文献、歴史的データ、今まで正しいとされてきた歴史的見解などに依拠しつつ、自らが打ち立てる歴史的要素の因果論を展開することになります。

進化論などの自然科学における真実は、物理的因果関係の解明なのだと思いますが、歴史における真実は、今まで無かった歴史的事実(歴史的要素)や見解(歴史的因果関係)の発見なのであり、それは新たな文献の発掘によらないのであれば、新しい価値観やものの見方の提示となります。

過去の変化の現象を扱う「進化論」と「歴史」の違いは、扱う対象が自然か社会かという違いとともに、そもそもの方法論が異なっているのだと思います。


■「Web進化論」と「Web歴史学」の想像
ということを踏まえたうえで、ありうべき「Web進化論」を想像するに、たとえば、HTML、SGML、XML、RSS、AJAX、、等々の多様なWeb 技術の変遷とどのように採用されてきたかについて記述することになるでしょう。Web技術系統樹のようなものが作成されるはずです。
あるいは、ホームページ、BBS、CMS、Blog、SNSなどの変遷によってどのように人々の意識が表出されるようになってきたかの因果関係を記述することになるでしょう。
ただし、進化論の範疇ではその価値判断はなされないはずです。

「Web歴史学」のようなものがあるとすれば、そうした「Web進化論」に価値判断を載せていくことになると思います。いわば「Web進化論」の後日談のように、けっきょくその技術がどうして出てきて何を変えていったかの描写となります。さらには、人類の歴史にとってどのような意味合いを持っていたのかが記述されていくでしょう。

過去に起こった変化に対して、自然科学である進化論は物理的因果関係の解明を、人文科学である歴史学は歴史的意味付けを行うことでそれぞれ真理を見出していくのです。


■進化論的自由主義と歴史学的社会民主主義
「進化論」も「歴史学」も過去の現象を扱うものなのですが、これを現在や未来に適用してみるとどうなるでしょうか。

進化論的立場では、何でもありの多様化を肯定し、これが後々には淘汰(自然選択)されていくことが期待されます。これはいわば自由主義的立場に近いでしょう。

歴史学的立場では、将来のありうべき姿に対しての意味のある活動を肯定していきます。その中には最初から弱者救済も含まれます。これは社会民主主義的(人権主義的)立場に近いものとなるでしょう。

ただし、実際には、自由主義立場であっても、人間社会は自然界のような完全な弱肉強食は人権上許されず、最低限のセーフティーネットを設けることで弱者も救出していくことになるでしょうし、社会民主主義的立場であっても、すべてにおいて全国民一致した将来のありうべき姿を描けるわけではなく部分的には自由主義的競争を取り入れていかざるを得ません。

個人的には、新しいものを創出する分野では自由主義的(進化論的)多産多死モデルが有効だと思いますし、成熟分野での価値配分は社会民主主義的(歴史学的)価値判断が必要だと思っています。
Webの世界1つをとってみてもどちらか一方だけでうまくいくというものではなく、新しいものの自由な多産とその価値付けによる平等の実現という両輪を回していかないといけないのでしょう。

強引にまとめるのであれば、社会における革新と保守、自由と平等の相互作用、闘争は、進化論と歴史の相互作用でもあると言えるかもしれません。

2007年1月25日木曜日

進化論のあやうさ:コンサルワークとしての『Web進化論』

いまさらですが、梅田望夫さんの『Web進化論』について。随分前に読んだものの記憶に頼ってですが。

まず、あっという間に読めて、かつ今のインターネットがいったいどういう状況なのかをざっと知ることができるという意味では、非常に良い本だと言えると思います。(いちおうITという)専門の内容について「読める」本を書くというのは実は非常に難しいので、その点では良書です。また、ベストセラーになって専門外の非常に多くの人に読まれたという意味でも、画期的な書物だと思います。

私個人的には、池田信夫blog(「ウェブ進化論」)にもあるように、正直「何をいまさら」、「ティム・オライリーがうまく概念化してまとめたもの(「Web 2.0:次世代ソフトウェアのデザインパターンとビジネスモデル訳」)と、その後にWeb上で展開された議論がうまくまとめられただけで、とくに新しい情報はないなぁ」というものでした。
でも、うまくまとめる、というのがすごいことではあるので、画期的な本であることは間違いないのですが。

この本で気になったことは、

* 二分法による煽り
* 現状追認 - 分析のなさ
* 進化論というタイトル

です。


■二分法による煽り
阿部重夫編集長ブログ「最後から2番目の真実」ウェブ進化論1――梅田望夫氏の「神の視点」」でも指摘されているとおり、梅田氏は、「こちら側」と「あちら側」の単純な二分法で現状をとらえようとします。これ自体は、非常にわかりやすくてよいのですが、それが「煽り」に結びついていることにすごく引っかかりました。
つまり、「もうインターネットの新しい世界は「あちら側」に行ってしまってるのですよ、それに気づかずまだ「こちら側」にいる人は早く「あちら側」に行くようにしてください。」と言っているのです。

私のようなひねくれ者は、このような「アゲアゲ」感、煽り感にはすごく反発してしまいます。「あなたに言われなくても自分の行くところは自分で決めます」と。
しかも、社会現象として煽りをかけていて、素直な人や気の弱い人は「わー自分はこんなに遅れてるんだ。まずいなぁ」と思ってしまうかもしれません。

その上、どうやって「あちら側」に行くのかについては、がんばって追いついてください、としか言ってない。ん~、これでは「こちら側」の人も動きようがないですね。
結果、この本に煽られた人も、少しだけ危機感が高まっただけで、けっきょく日常に戻って具体的なアクションは何も取れてないのではないでしょうか。新書なんてそんなもんだと言えばそうなのかもしれませんが。


■現状追認 - 分析のなさ
次に、現状追認です。この本でなされていることは、インターネットで今起こっている現象をただただ「良いもの」として認めていく作業です。多くの現象を後追いで認めていっているだけ(と言ったら言い過ぎかもしれませんが)で、1つ1つについて分析を深めるということがなされていません。

たとえば、ブログ1つ取ってみても当然メリット/デメリットがあったり、今までの多くのメディアとの違いがあるはずですが、ひたすら、みんなが発信できるのはすばらしい、取るに足らない情報が無限に発信されることで何かが生まれる、『みんなの意見は「案外」正しい』を実現していっている、と現象を賞賛し追認しているだけです。
自分のブログで『みんなの意見は「案外」正しい』について書きましたが、正直、梅田さんははたしてこの本をちゃんと読んだのかな?と思いました。タイトルだけで引用してないか?と。

新しいものに対して、その価値がまだわからないため保守的についつい反発しがちなところをとりあえず認めて受け入れていく、という態度はよいことだと思います。実際、私もそれを心がけているつもりです。

しかし、ここまで新しいことの負の面を見ず、ひたすら賞賛していくだけだと、またまた私のようなひねくれ者は眉唾に感じてしまいます。もう少し1つ1つ深めて分析していくべきなのでは?と思ってしまいました。


■進化論というタイトル
進化論は、いまや小学生でも知っている考え方かもしれませんが、実は非常にあやうい考え方です。正しく進化論を捉らえられている人は案外少ないのではないでしょうか?(私自身正しく捉えているかあやしいですが)

進化論にもいろんな亜流があるようですが、正統派はきわめて機械論的に進化論を捉えています。目的論的ではありません。
何を言っているかというと、進化は、ある環境に適応しようとして起こるのではなく(=目的論的)、たまたま起こった多様な形態の変化のうち環境の制約によって数多く残ったものが結果として進化した形態なのだ(=機械論的)、ということです。
現代的な科学者にとって受け入れやすいのは、ほぼすべてを物理現象として表現できる機械論的なものの方でしょう。目的論の立場を取ると、どうしても最終的には人の意志や意識、あるいは神的なものまで出てきてしまう、トンデモの方向に走る可能性があります。

進化論は、生物学だけではなくて、社会学やその他の分野にも影響を与えています。マルクスも、自身の唯物史観がダーウィンの進化論の影響を受けていることを認めているようです。
いろいろ与えた影響のうち、最悪の影響だったのが、優生学です。雄と雌の脳は遺伝構造的に異なり、雄の方がより進化した優れたものだ、とかいうようなものです。科学者がまじめにこういう議論をしていた時代もあったのです。
こうした優生学は、後にナチスに利用されて民族の優劣付けが行われました。

もちろん、本来の多様性を認める進化論と、優劣を固定的に考える優生学は似て非なるものではあります。

進化論については、
ウィキペディア:進化論
はじめての進化論


と、ここまで進化論のことを書いてきて、何が言いたいかもうおわかりだと思います。
『Web進化論』の考え方が、正統派の進化論というよりはむしろきわめて優生学的なものに考え方が似通っていると思えてこないでしょうか?
と書くと梅田さんが見たら怒るかもしれませんが。

『Web進化論』は遺伝や民族によって優劣を固定化していないので、その意味では優生学なんかとはぜんぜん違いますが、でも、「あちら側」と「こちら側」で明らかに優劣をつけています。そして、まだ「こちら側」にいる人は遅れているからはやく「あちら側」に上がって来い、と言うのです。
こういう考え方は、正統派の進化論の考え方とは相容れないものです。

「進化論」というメタファーは非常に強力なのですが、人文系で下手に使うとトンデモない方向に走ってしまいます。強力なだけに使用には注意が必要な概念です。
人文系の本で「進化論」という概念が出てきたときは、非常に緻密かつ周到に概念が練られた良書か、何も考えずに強力なメタファーとして使った愚書かの両極端に分かれてしまいがちだと思います。

そういう観点でも、私はこの本のタイトルを見た段階で、すでに身構えて読み始めてしまっていたのでした。
あまり、こういう読み方が良いとは思いませんが。でも、自分の予想通りだったと思います。


実は、最初、この本を読んだときは、梅田望夫という人はてっきり学者なんだと勘違いしていました。
それで、学者でこんないい加減でアゲアゲなことを書く奴はぜったい信用できんと勝手に思い込んでいました。(すみません)
でも、よく見てみると、梅田さんという人は、コンサルな方なんですね。
二分法で分かりやすく説明し、かつ強力なメタファーなどを使いながら自分の主張を強く主張する、というのは、まさにコンサルの王道ですし、コンサルとはそういう仕事なので、この本は見事なコンサルの成果だと言えると思います。これだけ影響も与えたのですから、コンサル冥利につきるでしょう。私も、コンサルの方が書いた本だと最初から思って読めば、ここまでひねくれた態度は取らなかったかもしれません。(重ねてすみません)

ちょっと否定的に書きすぎたかもしれませんが、ブログ肯定者の梅田氏ならこんな愚ブログも許してくれることを期待しつつ。

最後に、繰り返しになりますが、この本が社会に与えた影響は他に比肩できるようなものはなく、その意味ではすばらしい出版だったということは言うまでもありません。ということを付け加えておきます。

2007年1月21日日曜日

保守と革新、強者と弱者のダイナミクス:『日本の200年』

日本の200年〈上・下〉―徳川時代から現代まで
アンドルー・ゴードン、森谷文昭 訳、みすず書房

を読みました。

江戸後期から2000年までを通史として読むのは初めてだったので非常に面白かったです。

歴史書物に埋もれがちな、一般労働者や女性の観点も盛り込まれており、日本の特異性よりも、世界の中の日本地域で営まれた近代史という書き方になっていて、バランスのよい歴史本になってると思いました。

作者の専門が日本の労使史のようなので、あるいはアメリカ的政治図式の影響からか、社会の勝ち組(=薩長、エリート、官僚、企業経営者)と負け組(=民権運動家、労働者、女性、一般大衆)の相互影響の歴史というか負け組の権利獲得の歴史、という構図になりがちではあります。

でも、翻って考えてみると、いわゆる歴史を書くということは、歴史的出来事を描写するということであり、つまりは人や社会のダイナミクスを描くということであり、それはすなわち、ある現象を、ある人や集団の闘争として浮き彫りにするということなんでしょう。その意味で、この本の書き方はやっぱり正しい歴史なのだと思います。
そうでなければ、ただの表面上の変化の流れを書くだけでは、記録や日誌、せいぜいノンフィクション小説たりえても、"歴史"とはならないでしょうから。

そう考えると、まさに今起きているいろんな事件や現象も、歴史的観点から捉えると、弱者や負け組の叫びなのであり、権利拡大の動きなのであり、闘争なんだと捉えることができます。
そういう見方で、今の現象を捉えてみてもおもしろいです。たとえば、今インターネットでもいろんな新しいものが出てきていますが、それは弱者の権利獲得の動きの1つの現れなのかもしれません。

ところで、弱者や負け組が権利を得ていくことは圧倒的に正しいのですが、こうまとめてよければ、大衆が完全なる自由や平等を求めていくことは絶対に正しいのですが、それは全員が自由で平等にはなり得ないという自己矛盾を含んだ正義なのであり、正義とはまさに自己矛盾とその自己矛盾をいかに解消するかの判断なのだと思います。だからこそ難しい。

近代以降の過去の強者=特権階級の少なからずは、大衆がさまざまな権利を獲得することで、自分の既得権益が侵されるということよりも、むしろ正義の矛盾が露呈し社会が混乱することを恐れていたとも言えると思います。
この本を読んでもそう思いました。過去の為政者(の少なからず)は、民衆を苦しめようとして自由や平等を制限したのではなく、民衆が力を得ていくことが正しいことだと認識しつつも、同時に社会の安定をも実現するために、限定的にしか民衆による力の獲得を許容していかなかったのだと思います。

あらゆる社会の保守主義は、それの主張するところが崩壊していく必然の真っ只中にあるものの、やはり正しいのです。

古い世代が保守主義となり、若い世代が革新となるとすれば、これを裏返した言い方として次のようなものがあります。

一般に、青年の主張するところは正しくない。しかし、それを彼らが主張するということは正しい。(『愛の断層・日々の断層』 ジンメル)


このエントリの文脈に合わせて言うと、

一般に、大人の主張するところは正しい。しかし、彼らの主張するものは正しくなくなっていく。


保守と革新、強者と弱者、そうした集団のダイナミクスが起こることこそ生きた正しい社会なのであり、近代の歴史なんだと思います。どちらか一方に大きく転ぶことは社会の混乱や不正義を引き起こしてしまうのだと思います。
日本の200年においては、まさにこういう歴史が繰り返されてきているのであり、すべてがうまくいっているわけではないですが、少なくとも学ぶべきものはたくさんあると思います。

たとえば、インターネットの世界における新しい現象についても、その背後にこういう保守と革新の相互作用や闘争を読み取ってもおもしろいですし、やはりどちらかに傾きすぎては社会はうまくいかないんだとも思っています。


ところで、日本の(中高の)歴史教育でも、"稲作伝来"とか"大化の改新"とか一から教えるよりも(もちろんそれも重要なんですが)、まずはここ最近の200年のことを中心に教えたほうがいいんじゃないでしょうか?

「郷土愛」とかを新教育指導要領に入れる入れないで紛糾するよりも、歴史教育を近年の200年を中心に置き換えて、どうやって今の日本が作られてきたのかを知識として教える方が、よっぽど彼らの言う愛国心によい気がします。人によっては嫌国心になるかもしれないけど、まあそういうばらつきがあったほうがよいでしょうし。

2007年1月7日日曜日

"左右"という概念:南半球での月の満ち欠け

友人のブログで面白い記事があったので。

Ramble On...:しょーもない発見

オーストラリア(南半球)では、月の満ち欠けが左右逆になるという話です。

日本では、新月から右側が光っている半月=上弦の月、そして満月へと移っていきますが、おそらく南半球ではこの逆で左側が光っている半月を経て満月になっていくのでしょう。

この不思議のキモは、"左右"という概念にあると思います。

プラトンの昔から、鏡に映る像はどうして左右逆なのか(上下は逆ではないのか)という問題がありました。『ティマイオス』で論じられているといいます(ちなみにこのブログのタイトルのデミウルゴスも『ティマイオス』に出てきます)。
いまだ最終的には解けていない問題だとか。

鏡で左右が逆になる問題の自分なりの理解では、次の3点がポイントです。

* "左右"はある人の主観に基づく相対的な方向概念である(それに対して、たとえば"東西"はある世界の中=地球上では絶対的な方向である)
* 人は鏡に映る像に自分の感覚を反映させてしまう
* 人は見た目が左右対称にできている

北側の壁に貼ってある姿見の鏡を前にして北向きに立ち、右手を上げると、鏡の中では左手を上げているように見えます。

でも、東西南北という絶対的方位で考えると、自分は東側の手をあげて、鏡の中の自分も東側の手をあげています。逆転していません。
実際、自分の右手に小指が無いとすると(左右対称の崩れ)、鏡の中でも小指の無い方の手を上げています。

つまり、鏡の中の自分が左手を上げているように感じるのは、自分が前を向いたときの左右という相対的方向概念と、鏡に映る像の観点に立ってしまう錯覚と(鏡の中の自分はこちら側=ほんとの自分とは反対方向が"前"になっている)、人間の体が左右対称であるための錯覚が組み合わさっての認識の結果だといえます。


さて、月の満ち欠けの左右逆転ですが、これも、東西南北という地球上での絶対方位で考えると、北半球でも南半球でも逆転はしないはずです。

北半球でも、新月のあと、右側、つまり西側から光りだし上弦の月となります。南半球でも同じく、西側から光りだすと思われます。ただし、南半球では太陽や月は北にのぼるので、北に向かって西側、つまり左側から光りだすということになります。

絶対的方向で考えると同じ方向なのですが、自分が向いている前の方向が北と南で異なるために、相対的方向概念である"左右"が逆に感じてしまうということなのだと思います。月もまた左右対称に見えるものです。

人間の認識やその認識を表す概念の曖昧さ、といったところを突っ込んでいくことから哲学が始まるんだろうなぁと思いました。

ちなみに、自分は南半球に行ったことがないのでうそを書いているかもしれません。その場合はすみません。

参照リンク
ことば・その周辺:鏡像における左右反転という現象について

 
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