2011年6月23日木曜日
公のことばと日常のことば
2010年9月14日火曜日
一般意志という法理と現実を埋めるTweetする生身のわれわれ
お久しぶりです。
内田樹さんのブログから、法の制定について。
生身の供物、緊密な連帯、法の制定、革命という問題系と、一般意志2.0の問題系がつながったようなつながっていないような。
「法理と現実のあいだの乖離を埋めることができるのは固有名を名乗る人間がその『生身』を供物として差し出す場合だけである。」というのもたしかにおもしろいです。サラリーマンとして働いていても同感することしきり。
もともと、ルソーの一般意志なり、一般意志2.0なりが、原理的すぎて、ロジカルには理解できるもののいざ現実にというと難しかったりします。いくらTwitterで個人の意志がコミュニケートし始めると言っても、Twitterが一般意志かというと、、、
と考えると、一般意志という法理と現実の乖離を埋める生身のわれわれが重要なのであって、Twitterで意志を表明する生身のわれわれが重要なのであって、いったんTwitterが生身の供物を離れて一般意志なる法理を目指し始めるとそれは一般意志とはかけ離れた制度の崩壊なのかもしれません。
やっぱり変な表現になるのですが、Twitterは一般意志を実現するツールなのではなく、Twitterでつぶやく生身のわれわれが一般意志を現実のものにするのです。そこでいう「われわれ」とは、、、
高橋源一郎さんが驚かれるように、ルソーの思想の射程の深さにはいろいろ気付かせられます。
2010年5月30日日曜日
科学的思考における一般と個別の区別の重要性について
Twitterで流した「科学的思考における一般と具体の区別の重要性について」の一連のtweetをblogに採録(一部修正追加)。
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科学信仰について。社会学や経済学などの文系学問は明快な答えを教えてくれないから信用できない、とか、未来の天気が予測できないのは情報や計算力、場合によっては理論が今は足りてないだけだという意見を聞くことがあります。これは、科学にはただひとつの答えがあるはずだという素朴な科学信仰です。
素朴な科学信仰はほとんど宗教信仰と変わらない。いまだすべての現象がやものごとに答えがあると証明された訳ではなく、真に科学的態度は、証明できないものがあるかもしれないと考えることです。
ただし、今までの科学の証明実績は尊重されるべきで、その意味で今は証明できていないだけと考えるのは最初の態度として部分的には正しい。
もうひとつは、今は情報が足りてないだけで、必要なものが揃えば原因=答えがわかるはずということに対しては、そこで言っている原因とは何かということが重要になります。科学的原因とは、前提が整えば必ず原因-結果の因果が再現可能なものです。このような原因をここで一般原因と呼びます。
もちろんものごとには必ず事象の連鎖があります。見えている現象の連鎖の前にあるものが原因として認識されるものです。ところがこの個別事象の原因は一般化できないことがあります。
たとえば、未来の天気には何らかの原因(現象の連鎖の前の部分)があるはずですが、あまりにも個別的すぎて一般化できないものになります。というのも、そのときその地域での天気という気象は一回性の高いものだからです。個別的原因はあれど一般的原因はありません。現象の連鎖(個別的原因と結果の流れ)はあれど、それを一般原因と結果にまで汎化できないのです。
つまり、必ず原因=答えがあるという考えは、個別的原因については言えますが、科学的な意味での原因=一般原因については言えないこともあるということになります。とくに、生物や人間社会、気象地学や天文には一回性の高いものがあるため、一般的原因が求められないことがあると考えられます。(ただ、天文などは、非常にタイムスケールが長いため、時間の取りようによっては一般化可能だとは思いますが。)
個別原因を一般的に理解されている"科学的原因"と言えないのは、個別原因を厳密に特定できて再現できたとしても、それはけっきょく他に理論的展開ができないような原因、一般化できない原因だからです。そのような再現は科学的な実験や検証とは呼べません。なので、個別原因を科学的原因とするのは語義矛盾なのです。
社会科学の分野では、この原因の一般化が非常に難しく、いろいろな条件や時間の切り方で一般化された数だけ答えが出てしまいます。その中からどのように解を導きだすのかが社会科学にとっての永遠のテーマでもあります
したがって、社会科学では、唯一の解などは存在せず、切り口ごとの解=一般原因を比較検討し、最適な意思決定をしていかなければいけないという難しさがあります。それにはトレードオフのエンジニアリング、議論や投票などの民主主義アプローチ、市場などの一定評価軸での競争などが重要です。
ところが、日本の義務教育では一切そういう教育がない、ほぼすべてがひとつの解を追い求めるものになっているのが日本の教育の大きな問題、偏りと言えます。そして、それが素朴な科学信仰につながっています。
他方で、アメリカでは、"技術"の授業では(日本の「技術」の授業などではなく)、エンジニアリングにおけるトレードオフをきちんと学ぶようですし(教科書もある)、社会的問題に対するディスカッションも授業に取り入れられています。そこでは、答えは一つではなく、いろいろな立場や考え方を尊重しつつ、さまざまなプロセスを経てその時点での(一つではない)解答を導き出す方法を学んでいるのです。
日本で優秀な理系学生が新興宗教にのめりこむことがあるのも、こうした答えが明確に一つでないといけないというメンタリティがあるからじゃないかと思ったりもしています。というのも、こうした科学信仰は、陰謀説、つまり裏側に"必ず"何か決めているやつ=唯一の解があるはずだと思い込んで冷静なものの見方ができなくなったりすることにつながりうるからです。
2010年5月29日土曜日
マウスからタッチスクリーン
IPad購入。
第一印象としては、「非常におしい!」
やっぱりちょっと重いんですよね。片手で長時間持つのはつらい。でも、もうちょっと軽ければ、なんというかPCの概念を変えてしまうガジェットになりうると思います。もうノートパソコンなんて持たなくてもこれでいいじゃん、という。
そういう意味で「おしい」なあ、と。
ここ数年でパソコン市場は大きく変わるかもですね。
そう考えると、やっぱりジョブズはすごいですね。どんなにイヤなやつだろうと、クローズドな発想だろうと、20数年前にマウスでのユーザインタフェースを実用的に定着させ、ここ数年でタッチスクリーンでのUIを定着させつつある。パソコンなるものの外側の(UIの)、とくにハードウェアのアーキテクチャは、ほとんどジョブズが決めてきているとさえ言えるかもしれないですね。
2010年4月13日火曜日
"思想"と郷愁
『ニッポンの思想』佐々木敦、講談社現代新書
を読みました。
80年代の浅田彰、中沢新一、蓮實重彦、柄谷行人、90年代の福田和也、大塚英志、宮台真司、そしてゼロ年代の東浩紀まで、いわゆる"ニューアカ"以降の日本のポストモダン思想を解説した新書です。
自分の学生時代とも重なって非常におもしろく読みました。
が、いったん離れた身からすると、正直あまり変わってないなぁというか、変わっているんでしょうけれど、あまりにも微細すぎてどっちでもいいというか、そういう印象を受けたのも事実です。
前の世代との差別化という観点ではそうせざるをえないのでしょうけれど、どうも射程がこじんまりとしてしまっているというか、閉じた世界の中の論争に映ってしまいます。80年代に、もはや主義思想で社会を動かすことはできない、という思想で社会を動かしかけて、やっぱり動かせないまま社会と一緒に停滞しちゃったというか。
かつて、思想や理論科学を目指した優秀な人材が、今はビジネスを目指している、というようにも世の中が見えます。自分の見方の偏りや変遷のゆえかもしれませんが。
佐々木さんのまとめによれば、かつて、自分がそうではなかったかもしれない可能性をとらまえようと逃走を企てていたのが(80年代)、自分はけっきょくこうでしかなかったんだという終わりなき日常を生きざるをえない運命論が趨勢となり(90年代)、その後、そのどちらでもないところを模索してパフォーマティブに演じるようになってきている(ゼロ年代)、というのが見立てです。
なるほど、と膝を打ちつつも、どこか寂しいというか、それでいいんだっけ?という思いが生じます。
海外においても、大物思想家は60年代、70年代を境にぱたりと登場しなくなり、最近までもその年代の人が長生きして活躍していたというのが実情ではないでしょうか。海外の最近の思想家も小粒と言わざるをえない。
自分が無知なだけなのかもしれませんが、一度は思想に傾倒した人間として、物見櫓からなんだか寂しい思いでいます。歳をとってしまった人間のただの個人的な郷愁かもしれませんが。
すべてを疑い過ぎ、すべてをメタのメタから見過ぎてしまった後に、さらに新しい地平が開けるものなのでしょうか。
2010年3月19日金曜日
Nujabesさん急逝
Nujabesさんが交通事故で亡くなったそうです。36歳。
http://hydeout.net/hydeout/index.html
世界に通用する数少ない日本人Hiphop/House DJのNujabesさんが亡くなったという突然のニュースがありました。
かっこよかったあの音楽がもう聴けないとは。。。
2010年2月2日火曜日
『東欧革命1989』で民衆の力強さにあらためて驚く
『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』ヴィクター・セベスチェン
を読みました。500頁以上ある大著ながらすごくおもしろくて一気に読みました。
1989年のあのベルリンの壁崩壊やチャウシェスク処刑の過程がよくわかります。明らかになってきている各国の文書や関係者へのインタビュー等詳細な調査から、あれよあれよという間に崩壊していった東欧諸国でいったい何が起こっていたのかがよくわかるように書かれています。
同時に、国家が崩壊していく様を見るにつけ、果たして我が国は大丈夫かと案じてしまう部分もあります。
まず、ソ連から物語は始まります。
1970年代のソ連はすでに経済的に崩壊の一途をたどりつつあり、当時の書記長ブレジネフは晩年権力の座にありながらかなり耄碌してしまっていたようです。その後、ブレジネフの取り巻きが順番に書記長の座につくものの、ソ連の経済体制の崩壊に歯止めはかけられず、権力サークルの一角まで這い上がってきていた若きゴルバチョフに白羽の矢が止まります。
ゴルバチョフが書記長の座につくと、まずは当時軍拡やアフガン戦争で支出が伸びきり、かつ石油価格安で収入も減って崩壊直前だった経済体制を立て直そうと、アフガン撤退および、ペレストロイカとグラスノスチによる西欧諸国への接近と軍縮による支出削減を企てます。それと同時に衛星国であった東欧諸国への内政干渉を一切引き上げます。
時は約10年前の1978年。ポーランドの大司教がヨハネ・パウロ2世としてローマ法王の座につきます。従来強いカトリック国だったポーランドが、共産党政権下で無宗教化されていたところに、力強い反共の軸ができあがることになります。
その2年後、1980年、同じくポーランドで、後にノーベル平和賞も受賞するものの当時は一電気工だったレフ・ワレサを中心として、共産党直属ではない労働組合が結成され"連帯"として活動を始めます。この後、ポーランドは10年の歳月をかけて、現実主義的な反体制のワレサと、軍あがりの共産党体制派でこれまた現実主義者であるヤルゼルスキとのあいだで、民主化の過程がゆっくりと進みます。1989年にあっという間に民主化して大混乱に陥った東欧諸国の中で、唯一ポーランドのみが漸進的に民主化を遂げたことになります。
東ドイツは、ホーネッカーが長年権力の座にいて、シュタージと呼ばれる秘密警察網がいたるところに張り巡らされ恐怖政治をひいていました。が、後年は病にも倒れ、東欧諸国の民主化の波の中で東ドイツ内の各地のデモ活動などに何も手を打てず事実上の権力を失い、共産党内部から議長の座を奪われてしまいます。ところが、その後、新政権も民衆の支持を得ることができず権力を掌握しきれないまま、かの11月9日を迎えます。このときまでに、多くの東ドイツ市民が、西側との国境を開きつつあったハンガリーやチェコスロバキアの西独大使館経由で西側に逃亡していたのでした。この日、政府で広報的任務をつとめていたシャボウスキが、外国記者を含めた定例記者会見で、その日決議されたばかりの国外旅行の一定程度の自由化の政令を、自身の認識不足と誤りから、たった今からベルリン市内も含めて旅行が自由化されると発言してしまいます。その記者会見がTVで報道されるや否や、東ベルリン市民が大挙してベルリンの壁の複数の検問所に押し掛け、その混乱と熱気に検問所の現場の警備隊が独自の判断で門を開いてベルリンの壁を崩壊へと誘ったのでした。
チェコスロバキアでは、哲学者ハベルを中心とした"憲章77"が反体制組織としてありましたが1989年まではそれほど強い動きはありませんでした。が、この年周りの東欧諸国の揺らぎを受けて、学生デモなどが盛り上がり、11月のあるデモで軍部とデモ隊が衝突して学生の1人が死亡する事件が起こります。これを機にデモは全国へと広がり、その後軍部が民衆側につくことになって、長年権力の座にいたヤケシュは辞任します。ここに"ビロード革命"と呼ばれた少し奇妙な革命が成就したのでした。奇妙というのは、憲章77の中心メンバーや権力禅譲に活躍したのが哲学者やロックバンドメンバーだったというだけでなく、大規模デモのきっかけとなった1人の学生の死が、実は、元々体制側だったはずの治安警察StBの一部が企てた"演技"で"デマ"だったことが後年判明しているからでもあります。もはや体制の維持は困難と考えたStBの一部が民衆側について、この革命を仕込んだということになります。
ハンガリーでは、1989年より一足早い1988年に、長年権力の座にいたカダルが権力の座から去っていました。カダルは独裁者ながらも他の東欧諸国とは異なり穏健で質素、ゴルバチョフはじめ他国からも尊敬を集めていました。ハンガリーに部分的に資本主義を取り入れたり、そもそも1956年の民衆蜂起の際は改革派について人でもあります。
その跡を継いだグロースやネーメトは、東ドイツの崩壊へと結びつくハンガリー国境の開放へと矛先を進めていきます。
偶然にも権力の座を追われたカダルは翌1989年東欧革命の中天寿を全うします。
ブルガリアでは、こちらも長年権力の座に座り続けたジフコフに対する党内クーデターが隠密に進んでおり、偶然にもベルリンの壁崩壊と同じ11月9日にそれが実行に移されました。世界はベルリンの壁崩壊の翌日11月10日にブルガリアでも革命が起きたことを知ります。ただし、引き続き共産党政権が続きます。
もっとも過激な革命が起きたのはルーマニアでした。それはもっとも傲慢で私腹を肥やしていた独裁者チャウシェスク夫妻に対して起こります。ティミショアラという小さな街でのデモ行動に対して、チャウシェスクの指示で軍と秘密警察セクリターテが攻撃を加え60人以上の市民が殺されるという事件が起きます。その数日後、12月21日の正午に、急遽宮殿広場に市民を集めて党本部のバルコニーからチャウシェスクが演説を行いました。このとき、後方の群衆からヤジやシュプレッヒコールがわき起こります。それに対してチャウシェスクはたじろぎ、固まり、動転してしまいました。その様子がTV中継され、その弱さを見た市民がさらにデモとして街に繰り出します。政府側は軍やセクリターテが攻撃を加えますが中途半端なものに終わり、翌日、チャウシェスクの命令で国防省のミレア将軍が責任を取って処刑されると、軍は一斉に翻って民衆側につき、チャウシェスクの命運はつきました。その後、ヘリコプターや奪った車を使って映画さながらに党本部から地方都市へ逃亡しますが、軍によって拘束されます。その間、まだチャウシェスクに忠実だったセクリターテはテロ活動的に市民や軍部に混じって散発的な戦闘を繰り返しブカレストは大混乱の無秩序状態に陥ります。これを受けて権力を掌握しつつあったイリエスクらは、チャウシェスクへの簡易裁判と処刑を決定しそれを即座に実行に移します。
この様子はニュースとして全世界へ報道され衝撃を与え、そして劇的な東欧革命の幕切れへと向かいます。
各国の共通点としては、長年権力の座に座り続けた老齢独裁者の力が弱まっていたこと、経済が崩壊状態だったこと、ソ連からの干渉が一切なくなったこと、などでしょうか。
そして、民衆が"動く"ことの力強さです。これはもしかしたら諸刃の刃で、いい面も悪い面もあるのかもしれませんが。