Twitterで流した「科学的思考における一般と具体の区別の重要性について」の一連のtweetをblogに採録(一部修正追加)。
=====
科学信仰について。社会学や経済学などの文系学問は明快な答えを教えてくれないから信用できない、とか、未来の天気が予測できないのは情報や計算力、場合によっては理論が今は足りてないだけだという意見を聞くことがあります。これは、科学にはただひとつの答えがあるはずだという素朴な科学信仰です。
素朴な科学信仰はほとんど宗教信仰と変わらない。いまだすべての現象がやものごとに答えがあると証明された訳ではなく、真に科学的態度は、証明できないものがあるかもしれないと考えることです。
ただし、今までの科学の証明実績は尊重されるべきで、その意味で今は証明できていないだけと考えるのは最初の態度として部分的には正しい。
もうひとつは、今は情報が足りてないだけで、必要なものが揃えば原因=答えがわかるはずということに対しては、そこで言っている原因とは何かということが重要になります。科学的原因とは、前提が整えば必ず原因-結果の因果が再現可能なものです。このような原因をここで一般原因と呼びます。
もちろんものごとには必ず事象の連鎖があります。見えている現象の連鎖の前にあるものが原因として認識されるものです。ところがこの個別事象の原因は一般化できないことがあります。
たとえば、未来の天気には何らかの原因(現象の連鎖の前の部分)があるはずですが、あまりにも個別的すぎて一般化できないものになります。というのも、そのときその地域での天気という気象は一回性の高いものだからです。個別的原因はあれど一般的原因はありません。現象の連鎖(個別的原因と結果の流れ)はあれど、それを一般原因と結果にまで汎化できないのです。
つまり、必ず原因=答えがあるという考えは、個別的原因については言えますが、科学的な意味での原因=一般原因については言えないこともあるということになります。とくに、生物や人間社会、気象地学や天文には一回性の高いものがあるため、一般的原因が求められないことがあると考えられます。(ただ、天文などは、非常にタイムスケールが長いため、時間の取りようによっては一般化可能だとは思いますが。)
個別原因を一般的に理解されている"科学的原因"と言えないのは、個別原因を厳密に特定できて再現できたとしても、それはけっきょく他に理論的展開ができないような原因、一般化できない原因だからです。そのような再現は科学的な実験や検証とは呼べません。なので、個別原因を科学的原因とするのは語義矛盾なのです。
社会科学の分野では、この原因の一般化が非常に難しく、いろいろな条件や時間の切り方で一般化された数だけ答えが出てしまいます。その中からどのように解を導きだすのかが社会科学にとっての永遠のテーマでもあります
したがって、社会科学では、唯一の解などは存在せず、切り口ごとの解=一般原因を比較検討し、最適な意思決定をしていかなければいけないという難しさがあります。それにはトレードオフのエンジニアリング、議論や投票などの民主主義アプローチ、市場などの一定評価軸での競争などが重要です。
ところが、日本の義務教育では一切そういう教育がない、ほぼすべてがひとつの解を追い求めるものになっているのが日本の教育の大きな問題、偏りと言えます。そして、それが素朴な科学信仰につながっています。
他方で、アメリカでは、"技術"の授業では(日本の「技術」の授業などではなく)、エンジニアリングにおけるトレードオフをきちんと学ぶようですし(教科書もある)、社会的問題に対するディスカッションも授業に取り入れられています。そこでは、答えは一つではなく、いろいろな立場や考え方を尊重しつつ、さまざまなプロセスを経てその時点での(一つではない)解答を導き出す方法を学んでいるのです。
日本で優秀な理系学生が新興宗教にのめりこむことがあるのも、こうした答えが明確に一つでないといけないというメンタリティがあるからじゃないかと思ったりもしています。というのも、こうした科学信仰は、陰謀説、つまり裏側に"必ず"何か決めているやつ=唯一の解があるはずだと思い込んで冷静なものの見方ができなくなったりすることにつながりうるからです。
2010年5月30日日曜日
科学的思考における一般と個別の区別の重要性について
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 コメント:
コメントを投稿