2010年9月14日火曜日

一般意志という法理と現実を埋めるTweetする生身のわれわれ

お久しぶりです。
内田樹さんのブログから、法の制定について

生身の供物、緊密な連帯、法の制定、革命という問題系と、一般意志2.0の問題系がつながったようなつながっていないような。

「法理と現実のあいだの乖離を埋めることができるのは固有名を名乗る人間がその『生身』を供物として差し出す場合だけである。」というのもたしかにおもしろいです。サラリーマンとして働いていても同感することしきり。

もともと、ルソーの一般意志なり、一般意志2.0なりが、原理的すぎて、ロジカルには理解できるもののいざ現実にというと難しかったりします。いくらTwitterで個人の意志がコミュニケートし始めると言っても、Twitterが一般意志かというと、、、

と考えると、一般意志という法理と現実の乖離を埋める生身のわれわれが重要なのであって、Twitterで意志を表明する生身のわれわれが重要なのであって、いったんTwitterが生身の供物を離れて一般意志なる法理を目指し始めるとそれは一般意志とはかけ離れた制度の崩壊なのかもしれません。
やっぱり変な表現になるのですが、Twitterは一般意志を実現するツールなのではなく、Twitterでつぶやく生身のわれわれが一般意志を現実のものにするのです。そこでいう「われわれ」とは、、、

高橋源一郎さんが驚かれるように、ルソーの思想の射程の深さにはいろいろ気付かせられます。

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