2010年4月13日火曜日

"思想"と郷愁

ニッポンの思想』佐々木敦、講談社現代新書

を読みました。
80年代の浅田彰、中沢新一、蓮實重彦、柄谷行人、90年代の福田和也、大塚英志、宮台真司、そしてゼロ年代の東浩紀まで、いわゆる"ニューアカ"以降の日本のポストモダン思想を解説した新書です。
自分の学生時代とも重なって非常におもしろく読みました。
が、いったん離れた身からすると、正直あまり変わってないなぁというか、変わっているんでしょうけれど、あまりにも微細すぎてどっちでもいいというか、そういう印象を受けたのも事実です。
前の世代との差別化という観点ではそうせざるをえないのでしょうけれど、どうも射程がこじんまりとしてしまっているというか、閉じた世界の中の論争に映ってしまいます。80年代に、もはや主義思想で社会を動かすことはできない、という思想で社会を動かしかけて、やっぱり動かせないまま社会と一緒に停滞しちゃったというか。
かつて、思想や理論科学を目指した優秀な人材が、今はビジネスを目指している、というようにも世の中が見えます。自分の見方の偏りや変遷のゆえかもしれませんが。

佐々木さんのまとめによれば、かつて、自分がそうではなかったかもしれない可能性をとらまえようと逃走を企てていたのが(80年代)、自分はけっきょくこうでしかなかったんだという終わりなき日常を生きざるをえない運命論が趨勢となり(90年代)、その後、そのどちらでもないところを模索してパフォーマティブに演じるようになってきている(ゼロ年代)、というのが見立てです。

なるほど、と膝を打ちつつも、どこか寂しいというか、それでいいんだっけ?という思いが生じます。
海外においても、大物思想家は60年代、70年代を境にぱたりと登場しなくなり、最近までもその年代の人が長生きして活躍していたというのが実情ではないでしょうか。海外の最近の思想家も小粒と言わざるをえない。

自分が無知なだけなのかもしれませんが、一度は思想に傾倒した人間として、物見櫓からなんだか寂しい思いでいます。歳をとってしまった人間のただの個人的な郷愁かもしれませんが。

すべてを疑い過ぎ、すべてをメタのメタから見過ぎてしまった後に、さらに新しい地平が開けるものなのでしょうか。

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