先日、オーストラリアの政府機関が自身に都合の悪いWikipediaの記事を修正していたニュースを紹介しましたが、日本でも同じようなことが行われていたようです。意味不明な修正もありますが。
ITMedia:総務省や文科省もWikipediaを編集していた 「WikiScanner」日本語版で判明
2007年8月30日木曜日
日本でも政治的に利用される集合知
2007年8月28日火曜日
著作権保護問題のグローバリズムとローカリズム
「年次改革要望書に見る著作権の動き」で書いたように、アメリカから著作権法の改正を求められているわけですが、そういう動きもふまえてパネルディスカッションがあったようです。
CNET:著作権保護問題は欧米に迎合せず、日本モデルを策定すべき
グローバルと逆行してもいけないし、かといってアメリカの言うがままというのもよくない。
著作権問題でもバランスが求められていますね。
ちなみに、会場には官僚もいたようで、省内ではアメリカの年次改革要望書はまったく影響していない、とのことです。
2007年8月25日土曜日
政治的に利用されうる集合知
TechCrunch:Wikipediaの編集が豪政界スキャンダルに
オーストラリアで政治家が自分たちの都合のいいようにWikipediaを書き直していた、という問題です。
みんなで書き寄るWikipediaは多くのメリットがある反面、たしかにとくに政治的なテーマについてはいろんな問題が起こりえますね。
影響力が大きいだけにネガティブキャンペーンも可能です。
今回はWikiscannerの活動から発覚したようです。
Wikiscannerは、Wikipediaへの匿名書き込みについて、ソースIPアドレスからそのIPアドレス所有団体をリストするということを行っているようです。
今回はこれで発覚しましたが、やろうとすればWikiscannerでもわからないように編集も可能なわけで、Wikipediaを政治的不正に使用するというのは今後大きな問題となっていくかもしれませんね。
こういうことを考えると、選挙活動にインターネットを使用してはいけないという今の選挙のあり方はあながちまちがっていないのかもしれません。もちろん、正しく運用すればなにも全面禁止にしなくてもよいとは思うのですが。最初は混乱する可能性はありますね。
ところで、『ウィキノミクス』の邦訳が発売されています。読みたいと思いつつ、読めていません。
Wikinomicsと聞いたときに、その書評内容もあって、自分もWikipedia + economicsというイメージを抱いたのですが、でもよく考えると、Wiki-economicsでもないし、Wikipedia-nomicsでもないんですよね。
そのあたりについては、内容含めて、
極東ブログ:[書評]Wikinomics:ウィキノミクス(Don Tapscott:ドン・タプスコット)に書かれています。
ウィキノミクスは、素直に読むと、経営書的に昨今のオープンソース的活動について書いたもののようですが、極東ブログでも指摘されているように、実は、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』的に読んだ方がしっくり来るのでは?と思ったりしています。
いずれにせよ、近いうちに読んでみてからまた書きます。
2007年8月23日木曜日
日本でも中国のコンテンツの著作権侵害やってるんですね
中国、放送権侵害で日本のTV局提訴事件、賠償手続き入りに
http://www.nikkeibp.co.jp/news/flash/542729.html
地上波TV局だとわりあいきちんとやっているかと思うのですが(それでも問題あるという話も)、CSだとチェックが甘いのでしょうか。
2007年8月17日金曜日
情報に対する所有権(著作権でどこまで取り扱えるのか)
『情報の私有・共有・公有 ユーザーから見た著作権』
名和小太郎
NTT出版
著作権にまつわる豊富な事例がまとめられていて非常に参考になります。その部分がこの本の価値となっているので、この本で言いたいことだけをまとめてしまうと非常にシンプルになってしまって元も子もないのですが、まとめてみます。
基本的な構成は、「従来の著作権の枠組み」→「デジタル時代にはそぐわなくなってきている」→「筆者の考えるあるべき著作権制度」という展開で、その間に多数の事例が取り上げられています。
【従来の著作権の枠組み】
国際的な著作権の取り決めであるベルヌ条約は次のような枠組みを持っている。
(1)表現の保護:制度の目的は著作物の「表現」を保護することであり、その「意味」、あるいは「内容」は自由にコピーできる(第2章2節)。
(2)コピーの保護:制度のもう一つの目的は著作物の「コピー」を保護することであり、それに「アクセス」すること、あるいはそれを「使用」することは自由である(第2章2節)。
(3)著作権の優位:著作権のほうが著作隣接権よりも優位にある。前者は創作性をもつことを前提とするが、後者はそうではないからである(第3章1節)。
(4)天才的な著作者:著作物は少数の天才的な著作者によって制作される希少な商品であり、多数のユーザーはこれを消費するだけである。つまり著作物の流通は一方向的である。
(5)私的領域の分離:著作権の及ぶ範囲は市場のなかに限られる。したがって私人の行為は「私的使用」として著作権の保護範囲から外れる(第5章1節)。
(6)コピー製品の劣化:著作物はコピーによってその品質が劣化する。この技術的な制約によって、既存のコピー製品から市場価値をもつコピー製品を作ることはできない。
【かつての著作権が成り立つ前提は総崩れ】
これらの枠組みは現代のデジタル技術の時代においてはことごとく崩れてきている。かつての著作権が成り立っていた基盤は現代の社会情勢の正反対となってしまっている。
現に、たとえば日本の著作権法は、1970年に成立した後、
1970年代前半に2回、後半に2回
1980年代前半に3回、後半に5回
1990年代前半に6回、後半に7回
改訂されてきている。
こんなに頻繁に改定されるような法律はすでに法としての自律性を失っていると言えるし、現に補填に次ぐ補填でスパゲッティ状態となってきている。
【筆者の考えるあるべき著作権制度】
ユーザのためになる著作権制度をゼロベースで考えると次のようになる。
(1)著作権の取得にあたっては、著作物への権利情報の付加と、その公的機関への登録を、著作者に対して義務化する。
(2)保護期間中には著作権の維持に対して登録料を徴収する。登録料の納入がなければ、その著作物を公有にする。
(3)許諾権については、これを行使できる機関を短縮し、これを超える場合の権利は報酬請求権にかぎる。
(4)著作者人格権の中心に氏名表示権を置き、同一性保持権は廃止する。
(5)原著作者が、そのすべての二次的著作物について、強い権利をもつことを抑制する。
(6)公正使用の条項を導入する。
(7)録音録画保証金システムを拡張する。
著者の考えるあるべき著作権制度は、
* 特許制度のように登録制として権利の有無を明確化して著作者の権利を保護するとともに、なんでも著作権でがんじがらめにせず著作権フリーのものをも明確にする
* 著作者人格権など隣接権を限定的にし二次利用を促進させる
* 保証金システムをもっと幅広く導入して、ガソリン税等の目的税のように、利用者全員で著作物に対する報酬を負担する
というのが要点となります。
賛否は別として、制度で公の権利を保護しようとすると、たしかにこういう形になるんだろうなぁとは思います。
"物"ではない"表現"は、従来通りに個物として市場で取引できるようなものではない一方で、文化の発展のためにも二次利用は促進されていくべきものとなります。したがって、保証金システムのような形で一種の税金として著作物に対する経済的報酬を考えるというのが1つの解決策ではあります。
この発想は、すでに、著作権=著作物に対する権利というよりも、情報所有権という発想に近づいているように思えます。
たしかに、近代法制度は、ある主体の"物"に対する権利を所有権として自然権の1つとして自明視してきました。今までは、情報も"物"に紐づいていたために所有権の範疇で処理できてきました。
現在では、情報は"物"の呪縛から解放されています。
この情報に対してどのような権利を与えるのか、ということが問題系として現れつつあるのであり、これは、近代法制度の根本、および資本主義制度の根本を揺るがすものでもあると思います。つまり、"物"に紐づかないものに対する権利をどのように保護し、そういうものをどのように市場に取り込むか、という問題です。
今までの隣接する権利や仕組みの考え方を継承、援用するのであれば、名和さんが考えられたとおり、"物"に紐づかないものの権利は特許権を参照し、"物" ではないものを市場に取り込むためには参加者全員からお金を集めて配分する税金のやり方を参照することになるのかもしれません。
他方で、DRMのような技術的進展により、情報を"物"として取り扱えるようにしていくという方向性もありますし、税金ではない公有財の取り扱い方というものもあるのかもしれません(GPLのように?)。あるいは、復古主義的に情報を"物"に紐付け直し続けるとか?
デジタル時代において、従来の所有権という自然権を継承しつつ、どのようにデジタルに対する権利を持たせていくのかというのは、この時代に課された大きな制度的テーマだと思っています。
2007年8月14日火曜日
民主主義の希望のために:『政治学の名著30』
『政治学の名著30』
佐々木毅
ちくま新書
『歴史学の名著』と同時期に出た本です。
取り上げられている本は、東西時代問わず多岐にわたるのですが、なんとなくですがそこに書かれていることは次のようにまとめられるかもしれません。
1.理想郷=ユートピアを想定する
1-(1)西洋では、古代ギリシャの都市国家がユートピアかそれに一番近いものとして想定されます。そこでは、市民による直接民主制が実現されており、共同体的強さ、公平さ、繁栄が実現されています。(場合によっては古代ギリシャ都市国家と明記されていませんが、実際に読むと限りなくそれに近いと解釈できます。)
1-(2)東洋では、古代中国国家がユートピアかそれに一番近いものとして想定されます。そこでは、人徳のある王による王制が敷かれ臣民のための政治が行われています。
2.ユートピアを論理的に根拠づける
とくに西洋では、ユートピアの論理的根拠付けが行われます。それこそがその政治本の一番の読みどころの場合も多いです。論理的根拠付けとしては、権利とその委託による国家、慣習と法を実現する国家、理性の要請による国家、歴史の運動の中の国家等々、国家や政体の根拠付けや意味付けがなされます。いずれにしても、一般市民によるコミューンであったり、一般意思による支配であったり、ある前提に基づく仮想実験であったり、ある種のユートピアを想定していると言えます。
東洋では、そこまで抽象化されず、歴史の中に理想を見、倫理や徳を重視してユートピアを形作っているようです。
3.ユートピアと比較して現実を評価する
現在の政治状況をユートピアと比較して評価します。ユートピアに達していないと批判するだけではなくて、ユートピアへの道のりとして描写したり、ユートピアをより現実に引き寄せるようなことも行われます。
とくに西洋政治学本ではそうですが、近代以降の一部の血族だけが有利な権利を持つ状況から一般市民全員の権利を尊重するという流れは高く評価されつつ、他方で、一般市民全員の政治参加、直接民主制には危険性がありそれをどう回避するのかというところに苦心しているということが読み取れます。
具体的には、ルソーが市民の意思を一般化した一般意思はぜったいに正しいとしつつ、その一般意思を制御するための専門機関を想定しだしたり、トクヴィルや多くの政治思想家が一般市民の権利を尊重しつつ実際の政治を代行する貴族階級の存在を評価したりしています。
市民全員参加の政治では、「多数者の専制政治」が起こりえます。衆愚政治と呼んでもポピュリズムと呼んでもよいのですが、多数者が賛成すれば政治的に正しくない政策が実行されうるという危険性です。20世紀の民主主義はファシズムなどによって痛いほどこの危険性を体験していますが、18世紀19世紀の政治学者も近代の権利の拡大を最大限に評価しつつすでにこの危険性を問題視していたわけです。
インターネット時代においても、「多数者の専制政治」はまさに今ここにある問題です。『みんなの意見は案外正しい』にも書かれているように、単純に人が集まるだけだと集団極性化が起こり正しくない選択をしてしまう可能性が高まります。市民全員に権利を広げていって結果として市民から権利が取り上げられ一部の人に集中してしまったという結果が十分ありえますし実際に起こっています。
だからといって、一部の人に権利を独占させておくというのも間違いです。いくら知識や見識がある人でも間違いえます。完璧でぜったいに間違わない人間が存在すれば話は別ですが、そういう人間が存在しえない以上、ある政治問題を参加者全員で判断するのか一部の賢人で判断するのかどちらが正しい結論を出すかはわかりえません。
そこでよく出てくるのが、"教育"です。一般市民を教育することで、全市民参加による判断が間違わないようにしようというものです。これは言ってみれば全員を賢人にするということです。
ところが、賢人でも間違いうるというのは先ほど書いた通りですし、現実問題として全員が賢人になることはできませんしありえません。ある観点で見た場合、賢人とその正反対の間にグラデーションを作るように人々が位置するというのが現実です。逆に、その方が多様性が維持されていて正しい姿だと言えます。
ヒントとしては、ここでも書いたように、民主主義が今回自分の意見が採用されなかったとしても次回採用されるかもしれないという希望を持たせる制度であること、したがってこの制度は維持推進されなければいけないこと、そのために各個人の多様性、独立性、分散性をどう維持するか、そしてそこからの意見をどう集約するかの仕組みをいかにうまく作るかがポイントに思えます。多くの政治思想家もそこに腐心してきているように思えます。
この問題は、政治学や政治思想によって解決されたわけでもありませんし、おそらく解決しうる問題でもありません。問題を整理し精緻化するのには貢献するとしても。
いずれにせよ18世紀19世紀から近代社会は同じ問題を抱えてきているのであり、インターネット時代でも同様です。その意味で、先人の思考を参照するというのは大きな意味を持つでしょう。
2007年8月13日月曜日
Googleでの新人研修
http://googlejapan.blogspot.com/2007/08/mountain-view.html
Googleに入社すると、まずは3ヶ月Moutain Viewの本社で研修だそうです。
その後は、メンターにつくそうです。
やはり、いい企業は、人材育成のシステムもいいものをもっているということでしょうね。
そこで教わるのが、
http://googlejapan.blogspot.com/2007/08/tott.html
こういった内容だとすると、なかなか高度です。「トイレの壁に貼る」というノウハウも含めて。
つねに自分たちが作っているものの品質を高めたり、作業の効率を高めたりする方法を考え、それを他の人たちと共有していくという姿勢がみんなに共有されているというのがすばらしいですね。会社としてシステマティックに。
2007年8月12日日曜日
文体は思考を形成する:『漢文脈と近代日本』
『漢文脈と近代日本 -もう一つのことばの世界』
齋藤希史
NTTブックス
近世から近代の日本が、いかにして「ことば」を獲得していったのかの歴史を、漢文を中心にたどったものです。近代の言語の問題を扱う場合は普通、二葉亭四迷らの"言文一致"運動や夏目漱石らの近代小説がその中心にくると思うのですが、この本では、漢文を中心にその歴史がまとめられているところがポイントです。
漢文は、近代日本がことばを獲得していく上で、訓読体として近代国家の均質的な言語空間の創出に貢献し、そしてその後の新しい国民言語を作り出す際の対概念として機能していったということがわかります。
最近も、教養としての漢文のちょっとしたブームがあったり、漢字をよく知っている人=頭のいい人というような俗信があったり、そもそも国語の教科書には漢文が出てきて大学受験でも漢文が存在したりというように、漢文なるものは現代日本人の中でも生き続けていると言えます。某大学の入試では漢文が必須であり、理系の人(文系でも)の中にはどうして今後一切使用しない漢文なんか勉強しなきゃいけないんだと思う人も多いでしょう。
明治時代までの日本では6種類の文体が存在し、その中で漢文は公の文書で使われていました。
ただし、漢文が広く教養としての知識体系となったのはこの本では江戸時代とされています。寛政の改革で、徳川政府が朱子学を中心に学問の体系化をし異学を禁止したこと、同じタイミングで『日本外史』といった漢文で書かれたベストセラーが広く普及したこと、がその原因です。
すでに兵士ではなく官僚となっていた武士階級の士族は、子供の頃から藩学などで漢文および漢文訓読体を習得していきます。明治初期の政治家を含む文筆家もことごとく漢文訓読体を習得し、それを使って書物を著しました。
この漢文訓読体が、新しい国家の言語として、明治政府のもと推進されていきます。
ここで、漢文や漢文訓読体というのは、古代中国で書かれた漢文が典故としてその参照先となっているものです(近代中国語は参照先となりません)。
したがって、漢文を習得するとはすなわち、古典に現れる紋切り型表現(=クリシェ)を覚えていくということになります。いったん漢文を習得すると、ある感情を表現したり、ある論理を表現したりしようとするときに、この紋切り型表現をいかに組み合わせるかというところが腕の見せ所であり、漢文を読む読者もこの紋切り型表現の使い方でより深く感動したり、よりよく理解できたりするわけです。
ちなみに、英語でもシェイクスピアなどを典故とするクリシェはたくさんあり、辞書も出ているほどです。イディオムなどもその1つと言えるかもしれません。
言文一致運動は、この漢文的表現からいかに自由になるかの運動だったとも言えます。内面を表現したいときに、漢文だと大げさになり、かつ古典の世界のしがらみがどうしても取れません。そうではなく古典に縛られない新しい人間の内面を描くためには、新しいことばが必要だったのです。そのために今まで書き言葉としてはほとんど表現されてこなかった口語体が使われたわけです。
言文一致が達成された後も、支那趣味の作家は漢文調を使いましたし、現代においても、熟語などに漢文が生き続けています。現代日本語と対照しうる一つの自立的言語空間として今後も漢文は存在し続けるでしょう。
文体は思考と結びついており、漢文には漢文的思考というのが確実に存在しました。
今、インターネット文体が創出されつつある過渡期なのかもしれません。漢文訓読体や口語体が成立していったあとを見るに、ある文体が成立するためには、
* 広く読まれること(かつ模倣されること)
* 新しいものを表現しうること
* 権威化(authorize)されること=教科書に載ること
がポイントのように思えます。
インターネットの世界の文体と言えるようなものははたして今後大きな潮流となりうるでしょうか。そのとき、インターネット思考は、従来の思考法とどう異なるものとなっていくのでしょうか。