2009年7月14日火曜日

具体的感情と抽象的論理の狭間に入り込む死刑制度

■序

自分は死刑に反対ですが、死刑の意味や価値についてはある程度認めています。死刑廃止国にも死刑賛成(復活)論者がいるとおり、必ずしもどちらかが絶対に正しいというわけではなく、それぞれの観点なり立場からの主張はあります。それらを統合して考える必要があります。
今回は、主に基本的人権の観点から死刑廃止の根拠について考えを記述します。


■死刑廃止の根拠としての基本的人権

まず、基本的人権は最大限尊重されるということを前提にします。基本的人権は近代国家成立の過程で確立されてきており、現在近代国家の枠内で生活している我々にとっては前提となりえるものです。基本的人権の尊重を認めない近代国家以前やアナーキストについては別の議論が必要だと思われますがここでは触れません。

基本的人権には、平等権や自由権、社会権などがありますが、それらは人間が生まれながらにして持つ権利であり、「公共の福祉を乱さない限り」誰にでもつねに尊重されるべきものです。

したがって、公共の福祉を乱すものには基本的人権が剥奪されえます。ただし、一切合切の人権が剥奪されるかというとそういうことではなくて、基本的人権を最大限尊重するのであれば適切な範囲で剥奪されると考えるのが順当です。被疑者や囚人にも一定程度の基本的人権はあります。「公共の福祉を乱さない限り」ということであるならば、公共の福祉を乱せなくなるまで剥奪されれば十分なはずです。どの程度剥奪すれば公共の福祉を乱せなくなるかの加減は難しいところですが、いずれにせよすべてを剥奪すべきとはならないということです。

一方で、論理的には、特殊な場合には基本的人権をすべて剥奪してもよいという考え方もあるでしょう。
ここで、「公共の福祉を乱さない限り」という部分の解釈を整理すると、
  1. 「公共の福祉を乱せば部分的またはすべての基本的人権を剥奪できるという解釈」
    すべての基本的人権を剥奪することは、そもそもの基本的人権と真っ向から対立します。つまり、基本的人権には重大な制限があるという立場、もしくは基本的人権よりも上位のより重要な規律を要請する立場です。
  2. 「公共の福祉を乱せなくなる範囲で基本的人権を剥奪できるという解釈」
    最大限基本的人権を尊重する立場です。

殺人は、ある個人の基本的人権をすべて剥奪することです。死刑も、たとえ悪人であってもその人の基本的人権をすべて剥奪します。したがって、殺人も死刑も基本的人権の侵害にあたります。ただし、死刑の場合は、「公共の福祉を乱さない限り」で(1)の解釈をすれば基本的人権の尊重と両立が可能です。一方で(2)の解釈ではすべての人権を剥奪する死刑は基本的人権の尊重と並立しえません。
ここでは基本的人権を最大限尊重するということを前提にしているので、(2)の解釈となり、死刑は基本的人権と両立しえない否定されるべき制度となります。

と、結論づけられれば話は簡単なのですが、 (1)の解釈の基本的人権よりも上位の規律の要請、ということから死刑が基本的人権と並立しうる可能性があると考えています。そうした上位の規律としては、
  • (A)具体的な命や人格は、抽象的な基本的人権という概念よりも重要であり、これの侵害については基本的人権の尊重とは区別して考える必要がある。
  • (B)抽象的な基本的人権などという概念よりも、具体的な遺族の感情や考えの方が重要であり、そちらを尊重すべきである。

つまり、抽象的な基本的人権の尊重という論理を展開する限り死刑は否定されるべき制度です。実際、基本的人権の尊重という考え方は18世紀の啓蒙思想以来正しい考え方としてあるものの、参政権や男女雇用機会均等化や差別撤廃などさまざまな制度の修正や改革によって戦後になっても徐々に整備されてきているのであって、その中で死刑についても昨今になって制度として整備(廃止)されてきているというのが世界的な流れの現状です。
けれども、現実社会においては、抽象的で普遍的な論理よりも重視すべきローカルで具体的な考えや感情があるというのも事実で、それも無視できない要素としてあります。ただし、それでも死刑に関しては普遍的論理を重視すべきと考えています。その理由は、次のとおりです。


■社会を前向きにするために

人権思想の対極にあるものの1つが、命に関する復讐権(報復権)だと考えています。人権思想は抽象的普遍的なものですが、復讐感情は具体的個別的なものに端を発します。
人間には恨みつらみや怨恨が根源の感情として存在します。これは否定できません。ほとんどのつらさや嫌なことはそれを解消するためのバイパスや代替策、見返りがあります。どんなに嫌なことでも金銭的見返りがあれば我慢できたり、つらさもその後の成功という報酬で耐えられたりします。が、怨恨についてはなかなか他のもので置き換えることができません。とくに命に関する怨恨は、死んだ(消えた)本人がもうどういう感情も意識も持てない分、解消するすべもなく遺族に重くのしかかります。その感情のそのままの吐露が、復讐(報復)ということになります。たとえば、子供は殺されたのに殺した側が生き残っているのは許せないという感情です。

けれども、怨恨とそれに基づく復讐は、敵対心を煽ることも事実です。復讐が世界史を血塗られたものにしてきているのはまぎれもない事実です。ほとんどの戦争や内乱、虐殺は、復讐がベースです。しかも、近代国家になって、そうした市民の具体的個別的な復讐心が集団心理となり、抽象的・部分普遍的な国家を動かして、大量殺戮という事態を生んできたのでした。
死刑もまた、国家による殺人です。上の(A)や(B)といった具体的個別的なものごとや感情をベースに、それを抽象的(国家内)普遍的に実現する制度としての殺人行為です。具体的個別的な復讐心は認めざるをえませんが、それを国家制度として成り立たせることに疑問を抱きます。国家制度として成り立たせることで集団心理としての復讐心につながる可能性があります。復讐は復讐を呼びます。敵対心は集団の憎悪を増幅します。人々の心理として復讐心が生じることは否定しようがありませんが、これを国家/社会が支持すると社会の中の憎悪が増幅されてしまいます。
平和な社会を実現するために国家が成すべきことは、社会を前向きにすることであって、復讐心や怨恨といった否定的感情を噴出させないようにすることです。

また、死刑判決は、その人に生きる価値がないことを、人間が人間に対して判断していることになります。つまり、死刑は、生きる価値がないという考えを肯定するものになっています。しかしながら、生きる価値がないとはどういうことでしょうか?そんなことは本人であっても判断できないことです。生きる価値がないという否定的な気持ちを拒否し、すべての人間に生きる価値を認める前向きな社会を肯定していくためには、死刑という制度は矛盾を持ったものになってしまいます。国家として、すべての人に生きる価値を認め、制度としての復讐を認めないこと、その表明が、死刑の廃止という制度的変更には含まれていると思います。

こうした社会を前向きにする力や制度設計というのは侮れないもので、人文社会科学や経済学でも最近注目されてきています。まさに、今国家に求められているものは社会を前向きにするための制度です。


■犯罪抑止力に関して

補足として。
このエントリーは、「naotokの朝トレ日記:死刑制度存置を支持します」を参照先としています。(トラックバック機能がないため)
そこでは、犯罪抑止力が死刑の根拠としてあげられています。
しかし、コメントのやり取りで明らかになったとおり、死刑が積極的に犯罪抑止力として意味を持つケースは非常に限定的であり、実際問題として年何回あるかわからない程度です。しかも、論理的には終身刑で代替可能で、死刑である必然性は象徴的な意味合い以外ほぼありません。犯罪抑止力を高めるためには死刑制度を維持するよりもっと他にやるべきことはたくさんあります。基本的人権の尊重という観点から死刑が論理的に矛盾するのであれば、特殊なケースでしか犯罪抑止力を持たず、かつ代替手段のある死刑は廃止した方がよいということになります。

28 コメント:

naotok さんのコメント...

とりあえず、最後の部分だけにコメントします。
「naotokの朝トレ日記」で明らかになったのは、
「死刑が積極的に犯罪抑止力として意味を持つケースは非常に限定的であり、実際問題として年何回あるかわからない程度」
の部分のみです。
「しかも、・・・」以降の部分は明らかになっていません。(むしろ代替性については否定しました)

しかし、この記事を読んで、「「犯罪者の隔離」という観点で死刑と終身刑は代替性がある」といった考え方であろうことは理解できました。特殊予防の効果ですね。
観点が違うと考えますが、これについては他の部分と合わせて別途コメントします。

qog さんのコメント...

明らかになったのは、〜です。までというのはそのとおりです。書き方が不明瞭だったかもしれません。

代替性については否定の根拠までは(少なくとも自分には)明確でないです。

たしかに、この記事では特殊予防の観点が強いと思いますが、そもそもこの記事は犯罪抑止の観点では書いていません。基本的人権の尊重というまったく別の観点で書いています。
ただ、犯罪抑止の目的は安全な社会の実現であり、人権の尊重だと考えられるので、犯罪抑止よりも上位の観点で書いていると言えるかもしれません。

また、元記事の方では、一般予防の観点でも代替性があると主張しています。

naotok さんのコメント...

「■死刑廃止の根拠としての基本的人権」の部分についてのみコメントします。
「■社会を前向きにするために」の部分も同意はできませんが、議論するほどの興味が持てません。(必要であれば後で議論しましょう)

まず、犯罪者であっても基本的人権を尊重する立場であれば、公共の福祉を乱した人(犯罪者)の基本的人権を国家が剥奪するのは何のためでしょうか。
記事を読んだ限りでは特殊予防(犯罪者を隔離することで、再犯による被害を防ぐ)の観点で考えられているように読み取りましたが、コメント欄を見ると違うようです。
一般予防の観点だとすれば、どこに出てきていますでしょうか。
それとも別の概念でしょうか。

qog さんのコメント...

すみません。「元記事」というのは、「naotokの朝トレ日記」の方でした。

犯罪者に対して一定程度基本的人権が剥奪されるのは特殊予防のためです。また、犯罪者に対して自由が制限されることは一般予防にもつながると思います。

naotok さんのコメント...

では、ここでの考え方としては
「刑罰はもっぱら特殊予防を意図するべきで、一般予防は副次的な効果に過ぎない。公共の福祉を乱した者(犯罪者)は、二度と公共の福祉を乱さないように更生させるのに必要最小限の分だけ基本的人権を制限できる」
という主張だと理解したのですが正しいでしょうか。
このような立場に立つならば、
「更生不能な犯罪者が公共の福祉を乱さないようにする刑罰として、死刑よりも終身刑が適切である(制限する人権の範囲が小さい)」
という主張は筋が通っており、理解できます。

もし、ここでの主張がこの理解で正しいのだとすると、財産刑(罰金など)や名誉刑(公民権の停止など)はどのように位置づけられるのでしょうか。
死刑の話をしているのに、この質問は死刑から離れてしまいますが、本記事では自由刑と生命刑に限った話ではないように思いましたので確認させてください。

qog さんのコメント...

>刑罰はもっぱら特殊予防を意図するべきで、一般予防は副次的な効果に過ぎない。

違います。刑罰を受ける人にも基本的人権はあると言っています。
財産刑や名誉刑は基本的人権を一定程度しか剥奪しません。
ここで言いたいのは、人権を完全に剥奪するような刑罰は、基本的人権の尊重の考え方からは問題だということです。

naotok さんのコメント...

私の想定は違っていたというご指摘ですね。どのように違っていたのかが分かりませんのでもう少し質問させてください。

被疑者や受刑者にも、刑罰などによって制限されていない範囲での人権があるというのは同意します。財産刑や名誉刑が一定程度しか人権を制限しないというのも理解しています。

ただ、一般予防と特殊予防の考え方については示されておらず、本記事では一般予防についての言及が見当たりませんでした。(見落としならすみません)

本記事中に犯罪者の人権の剥奪について「公共の福祉を乱せなくなるまで剥奪されれば十分なはずです」とあるのですが、これは正に「特殊予防の要件だけを満たせば十分である」という主張に見えます。

「刑罰はもっぱら特殊予防を意図するべきで、一般予防は副次的な効果に過ぎない。公共の福祉を乱した者(犯罪者)は、二度と公共の福祉を乱さないように更生させるのに必要最小限の分だけ基本的人権を制限できる」という前回の想定が間違っているならば、本記事の立場からは一般予防の効果をどのように位置づけるのでしょうか。

また、前回の最後の質問ですが、質問の仕方が悪かったようですので質問しなおします。
財産刑や名誉刑を受けた犯罪者はなぜ「公共の福祉を乱せなくなる」のでしょうか。それとも、財産刑や名誉刑にはそういった機能はないのでしょうか。

qog さんのコメント...

たぶん、自分が「naotokの朝トレ日記」でコメントしていたのと同じことになっているのですが。

このエントリでは、基本的人権の観点から死刑を論じているのであって、一般予防特殊予防の観点ではないです。なので、元記事で一般予防は言及していません。それはこの先のトレードオフの議論のところで議論すべき内容です。

とはいっても関心はそこだと思うので、基本的人権のロジックが正しいと仮定して少し議論を先に進めると、、、
一般予防としての刑罰は必要です。特殊予防としての刑罰も必要です。ただし、それらは基本的人権をできるだけ尊重する範囲で執り行われるべきです、というのがここでの主張です。そこにトレードオフがあるのだと思います。

なので、財産刑や名誉刑は一般予防として「公共の福祉を乱せなく」なります。

逆に、基本的人権の観点からは、財産刑や名誉刑は明らかに人権の制約が限定的なため大きな問題になりません。
もっと言うと、基本的人権を尊重する近代国家では刑罰を、身体刑のような直接的・報復的なものから、財産刑や禁固刑に修正してきています。(禁固刑も再犯防止というよりも一般予防の観点もあると思いますので)
なので、基本的人権の観点から死刑を論じた元記事では財産刑や名誉刑を言及していません。

naotok さんのコメント...

> このエントリでは、基本的人権の観点から死刑を論じているのであって、一般予防特殊予防の観点ではないです。

それにしては、特殊予防のみに暗に触れています。コメントの中でもそれは認めていたと思います。
少なくとも、一般予防に関する立場は明確にする必要があるのではないですか。繰り返しになりますが、「基本的人権の観点からは一般予防効果の必要性は認められない」という立場なら筋が通ります。

> 元記事で一般予防は言及していません。それはこの先のトレードオフの議論のところで議論すべき内容です。

違います。
以下の部分は、終身刑の十分性を訴える本記事の主張の礎となる部分です。
「公共の福祉を乱せなくなるまで剥奪されれば十分なはずです」
つまり、これは本記事の主張の成否についての議論です。主張が成立しなければ、トレードオフの考慮の対象にはなりません。

> 一般予防としての刑罰は必要です。

とありますが、ではなぜ「公共の福祉を乱せなくなるまで剥奪されれば十分なはずです」と言えるのですか?
一般予防の観点からの必要性や十分性を考慮する必要があるのではないですか?
この観点を加えた場合に本記事の終身刑の十分性の主張は崩れませんか?

> なので、財産刑や名誉刑は一般予防として「公共の福祉を乱せなく」なります。

本気ですか?
財産刑や名誉刑の一般予防効果でそこまでの効果があるなら、財産刑や名誉刑が設定された犯罪は根絶するはずです。(というか、死刑も終身刑も懲役刑も禁固刑もいらないですね)
でも、実際にはそういう犯罪はたくさんあるじゃないですか。全然「公共の福祉を乱せなく」なってません。

長文コメント失礼しました。

qog さんのコメント...

犯罪を犯した人への刑罰の与え方として、「公共の福祉を乱せなくなるまで剥奪されれば十分なはず」なのであって、それと一般予防は話が違います。

基本的人権の観点から一般予防を論じるなら、公共の福祉を勝手気ままに乱せなくするために一般予防的刑罰は必要です。ただし、その刑罰を受ける人にも人権はあるので、その人権を完全に否定するような刑罰は避けるべきです。公共の福祉を乱そうという気が起きない程度の刑罰となります。死刑でないとそういう気が起きてしまうようなケースがあるのであれば、そこにトレードオフが発生します。ただし、「naotokの朝トレ日記」の方で主張しているように、論理的には死刑でないといけないケースはないと考えています(終身刑で代替可能で、万が一終身刑で代替不可能なケースがあったとしてもそうとう特殊です)。もっとも、感覚論として死刑の方がよいという考え方はあると思いますのでそこはトレードオフです。


>財産刑や名誉刑の一般予防効果でそこまでの効果があるなら、財産刑や名誉刑が設定された犯罪は根絶するはずです。

財産刑や名誉刑ですべてが予防できるとは言っていません。
逆に、死刑があってもたくさん犯罪はあるじゃないですか。簡単に死刑になる中国とか昔の共産主義国でも犯罪はたくさんあります。

naotok さんのコメント...

> 犯罪を犯した人への刑罰の与え方として、「公共の福祉を乱せなくなるまで剥奪されれば十分なはず」なのであって、それと一般予防は話が違います。

どういう意味でしょうか?
一般予防は罪を犯す前の状態で罪に対する刑罰が決まっていることによって発生する効果ですが、これと「犯罪を犯した人への刑罰の与え方」の話が別なのですか?
罪刑法定主義を否定するのでしょうか。

> 財産刑や名誉刑ですべてが予防できるとは言っていません。

下↓の文章はどう読んでも、言っていますよ。少なくとも、財産刑や名誉刑が設定された犯罪については言っています。

「財産刑や名誉刑は一般予防として「公共の福祉を乱せなく」なります」

言っていないなら、この文章を撤回もしくは訂正してください。

(他の部分へのコメントはとりあえず保留します)

naotok さんのコメント...

連投すみません。長くなるので省略しようかとも思ったのですが、大事な内容に思えたので指摘します。

> その刑罰を受ける人にも人権はあるので、その人権を完全に否定するような刑罰は避けるべきです。

前半は同意できますが、前半と後半は論理的に繋がっていません。
また、死刑は「人権を完全に否定する」ものでしょうか。
別に死刑囚の臓器などを本人の意思と関わりなく提供しろと言っているわけでもないですし、著作権がいきなり消滅するわけでもないですし、財産も相続されます。つまり、死刑によって全ての権利が失われるわけではありません。生命権が剥奪され、それに伴い自由権などのほとんどの権利が失われるだけです。

ここの議論から逸脱気味になりますが、なぜ生命権が特別なのかがポイントなのではないのでしょうか。

> 逆に、死刑があってもたくさん犯罪はあるじゃないですか。簡単に死刑になる中国とか昔の共産主義国でも犯罪はたくさんあります。

それこそ死刑でどんな犯罪でも防止できるなんて主張はどこでもしていません。

qog さんのコメント...

>「犯罪を犯した人への刑罰の与え方」の話が別なのですか?

基本的人権を尊重する観点からは、公共の福祉を乱すと逮捕拘束や刑罰という形で人権が制限されるが、公共の福祉を乱さない範囲で制限すればよいということが大原則になります。特殊予防にしろ一般予防にしろ、それらはその後の制度設計の議論で、先の大原則に従いつつもっとも効果的な量刑を決めていきます。

なので、先に刑罰の必要性を考える立場からは、刑罰がもっとも有効に働く状態の範囲で基本的人権を考えることになると思いますが、ここではその逆で人権が先にあってそれを最大限尊重する範囲で効果的な刑罰を考えていくということを主張しています。したがって立場の違いからトレードオフになると思います。


>下↓の文章はどう読んでも、言っていますよ。

文章表現は修正します。意図を汲み取っていただきたかったですが、まさかすべてを防げるなんて考えていません。
「なので、財産刑や名誉刑は一般予防として「公共の福祉を乱せなく」なる一定の効果があります。」


>死刑は「人権を完全に否定する」ものでしょうか。
>なぜ生命権が特別なのかがポイントなのではないのでしょうか。

はおっしゃるとおりですね。
人の命を奪うことが人権を否定することではないというのは「感覚として」同意できませんが、ここで証明はできていません。
生命権を特別視しているというのもそのとおりだと思います。生命権より特別視すべき権利があるなら示していただきたいですが、ここで生命権を特別視する根拠を説明できていないのはそのとおりです。感覚的なままです。


「naotokの朝トレ日記」では怒りを買ってしまったようですが、代わりにここで説明します。

最初に思考実験が提示された時、終身刑と死刑の差がほとんどないとして扱われていることに気になっていました。が、それ以上に、どうしてこういう特殊なケースで成り立つことを一般論として語ることができるのかが最大の疑問で、最初は論理的に説明されていると思っていたので、特殊なケースには特殊な反例をあげられれば否定できるのではないか等考えていろいろ議論をしました。一般論として言うのに特殊なケースで証明してみせるその論理の組み立てに問題があると思ったので、論旨の枠組みに問題があるのではといろいろ言及しました。が、最終的には特殊なケースでの論旨の組み立てに問題があるのではなく、一般化の部分を直感的に言及されているから理解できない部分があったのだと納得しました。
ただ、その間、私のコメントの地の文では、終身刑に言及するとしても必ず死刑と同列で扱っています。反論として思考実験をとりあげるときは、最初の思考実験をまねるために終身刑と死刑を分けていますが、その場合でも説明文では分けていません。跡づけでもなんでもありません。最初からそこは意識していたからです。が、それよりも一般論として論じられている方が問題だと考えていたのでそこには触れていませんでした。最終的に合意したのも、一般論ではなく特殊なケースで死刑に抑止力があるということです。
もちろん文章でやり取りしているときに文脈の読み違えというのはお互いあると思いますので、そういう読み違えが重なって1つの結論を別々に理解していたのでしょう。自分にもミスがあったのは、終身刑と死刑が同程度だという意見を最初に明示していなかったことです。それは議論を一般化のところに集中したかったからでご容赦いただきたいのですが、その部分を持って後だしと言われるのであればそうかもしれません。が、逆に文脈を読み取っていただければ、私が終身刑と死刑を同列に扱っていて懲役刑と死刑の差にのみ注力していることがわかっていただけると思います。

また、もしかすると「感覚論」だという指摘に憤慨されたのかもしれませんが、自分は「感覚論」をけっして劣っているものと考えていません。それはずっと死刑の議論で、感情的な根拠も重要と指摘してきているとおりです。ただし、論理的な部分と感覚的な部分を混同するのはよくないと思っていますのでそこは指摘します。自分の中では、どこまでが論理的でどこからが感覚的なのかが重要なポイントなのであって、感覚的なものが劣っているとは思っていません。

実際、このエントリも、ご指摘いただいたとおり、生命権の特別視は感覚的なものですし、親エントリでも人権の論理的展開と、それ以上の社会への副次効果という感覚論を述べています。

とはいえ、「感覚的」という表現が気に食わないということであれば申し訳なかったです。

Unknown さんのコメント...

こちらでの議論はやはり平行線ですね。
量刑をどのように設定するべきかの議論と、極刑をどこに設定するべきかの議論が混ざっているように思います。量刑の観点で素朴に人権尊重と犯罪抑止をトレードオフにかける場合、犯罪としては無限に大きいものを想定できるので、死刑を排除するには生命権の議論に正面から取り組むしかないのではないでしょうか。
また、素朴な意味での人権尊重自体は結構なことですし異論があるわけではありませんが、特殊予防や一般予防を「別の話」とするのではなく、人権尊重を立脚点としてそれぞれに関する立場を整合性を取りつつ導出する必要があると思います。再三指摘しましたが、元記事は特殊予防にのみ隠喩的かつ唐突に触れているだけであり、コメント欄での補足内容についても表現や論理の曖昧さが大きく不十分と考えます。


私のブログでの話をここでするのは気がひけますが、振りをいただいたので少しだけ書きます。
そもそも、論理的に死刑の必要性や優位性を導けるならそうすればいいだけなので、思考実験のような枠組みは導入しません。論理的には導けないのです。また、同記事への私のコメントで明らかにしたように、国民(もしくは犯罪予備層の方が適切かもしれない)の感覚によっては死刑と終身刑の抑止力は入れ替わり得ると考えています。
私があのような措置を取ったのは「感覚的」という批判自体に憤慨したわけではなく、この批判が議論の枠組みを逸脱していること、および合意事項に関する認識の受け入れがたい不一致ためです。
「懲役刑 vs 死刑」でコメントされているという認識があれば、主要な論点を外れているということでもっと早くに同様の措置を取っていました。

qog さんのコメント...

忙しさにかまけて放ったままになってしまいました。すみません。
今更ですが。


>量刑をどのように設定するべきかの議論と、極刑をどこに設定するべきかの議論が混ざっているように思います。


量刑の議論と極刑の議論を区別されていたという認識はありませんでした。量刑の議論だったのでは???


>死刑を排除するには生命権の議論に正面から取り組むしかないのではないでしょうか。

親文書の前提として(生命権を含む)人権を最大限に尊重するとしています。その前提でいくなら、死刑とトレードオフになるということです。
逆に、生命権を特別視しなくてよいという論理は私には皆目想像もつかないので、特別視しなくてもよいケースや論理を示していただけますか?「naotokの朝トレ日記」で書かれた人質犯のようなケースでしょうか?

たしかに、あのケースは、人権原理主義のような立場があれば、そのような人たちは「それでも人質を殺していなかったかもしれない」と言って警察による狙撃を非難する可能性はあります。そんなバカなことはないので、そこまで人権を固執する理由はありません。そこは人質犯の人権よりも人質の命を重視すべきです。
ただし、それと死刑はまったく異なります。人質犯を狙撃するのは「公共の福祉を乱さない範囲」に矛盾しません。一方で、死刑はすでに拘束されて「公共の福祉を乱」せない人をさらに殺すことになります。
生命権の特別視はあくまで「公共の福祉を乱さない範囲で」です。

生命権と死刑の効果のトレードオフとして考えると、死刑に生命権を否定しうるだけの効果があるのかということになります。(一方で、人質犯の狙撃は犯人の生命権を否定しうるだけの効果があります。)
私の論理と感覚では、論理的に死刑があるから犯罪が起こらなかったケースがかなり限定的で、かつ死刑を廃止した世界各国で死刑の犯罪抑止効果が有意に出ていないという事実を踏まえれば、生命権を否定してまで実施すべき策には思えません。生命権を重視しつつ犯罪抑止力を考えれば、死刑よりももっとすべきことがあります。あえて生命権に反する死刑を存続させる理由は小さいです。
ただし、死刑の効果がゼロだとは言えませんし(私が考える効果は犯罪抑止力より遺族感情です)、国民性などもありますので、そこのトレードオフをどう考えるかです。


>また、素朴な意味での人権尊重自体は結構なことですし異論があるわけではありませんが、特殊予防や一般予防を「別の話」とするのではなく、人権尊重を立脚点としてそれぞれに関する立場を整合性を取りつつ導出する必要があると思います。

その整合性をとりつつ導出する部分がトレードオフだと言っています。親文書は、人権を最大限尊重すればどうなるかということを言っているに過ぎません。

Unknown さんのコメント...

> 量刑の議論と極刑の議論を区別されていたという認識はありませんでした。量刑の議論だったのでは???

え、死刑廃止論というのは量刑の議論だったんですか!?
(少なくともこのブログでは)極刑は死刑のままでも、殺人罪の法定刑が死刑じゃなくなればOKなんですか???
それならそれで話は終わりです。量刑の議論は私の能力を超えます。考えてはみたいですが。

以下は量刑の議論であれば意味を失いますが、違うと思うので続けます。


> 逆に、生命権を特別視しなくてよいという論理は私には皆目想像もつかないので、特別視しなくてもよいケースや論理を示していただけますか?

端的に言えば生命権を特別視する理由がないからです。

一般に「BはAに属する。Aに属するものはXである」という状況で「BはXである」と主張する理由を問われているように思います。
普通は「Aに属するにもかかわらずBがXでない」と主張するなら、つまりBを例外視する理由が必要ですよね?
その根拠が、「死刑は人権を全て否定する」という主張だったのではないでしょうか。

> その整合性をとりつつ導出する部分がトレードオフだと言っています。

いやいや、一つの基準となる原理から立場を導出する過程がトレードオフというのは論理的におかしいです。
トレードオフは異なる基準から生まれる立場と立場、価値観と価値観が対立して生まれるものです。

そもそも「人権尊重」というのは、「人権保護」と「刑罰による人権制限」のトレードオフを解決する基準として導入したんですよね?
前も書いたと思いますが、「一般予防効果の考慮は不要」という立場が導かれるなら、それも一つの立場です。
せめて、一般予防に関する立場を導く過程で何と何がトレードオフになるのかを知りたいです。

> 親文書は、人権を最大限尊重すればどうなるかということを言っているに過ぎません。

ここでいう「人権」というのは、受刑者の人権だけじゃなくて、被害者を含むその他の全ての人の人権を含んでいるんですよね?

qog さんのコメント...

>(少なくともこのブログでは)極刑は死刑のままでも、殺人罪の法定刑が死刑じゃなくなればOKなんですか???

「naotokの朝トレ日記」では量刑の話をされていたように見えたので量刑の話だと思っていましたが、極刑としてふさわしいのは何かの議論だったのでしょうか?

死刑廃止論は2段階あって、刑罰(極刑)として死刑が残っても裁判で死刑判決が出なかったり死刑が執行されなかったりすることは(実質上の)死刑廃止の第1段階としてあります。過去からのつながりで考えても日本ではこれが現実的と思っています。


>端的に言えば生命権を特別視する理由がないからです。

一般市民に対しても生命権を特別視する必要が無いということでしょうか?犯罪者には生命権を特別視する必要がないということでしょうか?
一般論として、犯罪者に対しても生命権含めた人権は尊重されるべきとされていますが、すべてもしくはある段階からの犯罪者にはそういった人権がなくてもよい、という考え方は、犯罪者に対する人権配慮と整合しないのではと考えています。

B,A,Xの議論はよくわかりませんでした。すみません。


>そもそも「人権尊重」というのは、「人権保護」と「刑罰による人権制限」のトレードオフを解決する基準として導入したんですよね?

そこが違っていて、人権保護を主張しているだけです。「naotokの朝トレ日記」で自分がはまったのと同じですが、あそこでも、自分の立場からはいろいろな検討ポイントがありましたが、それらはすべて後に議論すべきトレードオフで、特殊な犯罪抑止力があることを主張されているだけだったと思います。それを人権保護の立場からやってみただけです。
ですので、2つの立場が出てきたので、次に、特殊な犯罪抑止力と人権保護のトレードオフをどうつけるかの議論がようやくできるようになったということです。
まずは別の立場を明確にして、そのあとにトレードオフの議論をすることを求められているのだとおもっていましたが。


>せめて、一般予防に関する立場を導く過程で何と何がトレードオフになるのかを知りたいです。

つまりは、死刑に特殊な犯罪抑止力があるということと、死刑は人権保護に反するということのトレードオフを考えるという次のステップのことだと思いますが。それをここでやってみると、

刑罰には一般予防の効果も当然あります。社会の自由度や歴史的経緯から一般予防効果として最適な量刑が決められていくと思います。人権保護の立場からは、たとえ一般予防効果があるとしても人権を著しく侵害するような種類の刑罰は認められないということになります。身体刑や陵辱刑、死刑などです。ただし、人権保護も一般予防も社会を安全安定的にするためのものだとすれば、一般予防効果が著しく高い場合、人権保護よりも優先するという判断もありえるとは思います。そこで、具体的に身体刑や陵辱刑、死刑を考えた場合、それぞれで特殊なケースで一般予防効果は期待できますが、論理的にはすべての刑罰で禁固刑など代替の刑罰が想定できますので、それらの刑罰を廃止しても一般予防効果はほぼ維持しつつ人権保護が実現されます。よって、現時点で残存している死刑についても廃止が望ましいです。

Unknown さんのコメント...

量刑としての死刑の適否を議論しているか、極刑としての死刑を議論しているかは非常に重要なポイントです。
自分は当初に量刑についての立場を表明したこともありますが、死刑存廃の議論に関して一環して極刑としての死刑の適否について論じています。

> 死刑廃止論は2段階あって、刑罰(極刑)として死刑が残っても裁判で死刑判決が出なかったり死刑が執行されなかったりすることは(実質上の)死刑廃止の第1段階としてあります。過去からのつながりで考えても日本ではこれが現実的と思っています。

つまり、立法が伴わなくとも、最低限として司法の裁量の範囲で死刑判決が下されない、もしくは行政の裁量の範囲で死刑執行がされないようになればよいということでよろしいですか?
(ちなみに、現行法では後者は行政の違法行為です)

「制度的な担保はあるのが望ましいが、必ずしも必要でない」と言っているに等しいです。
また、あえてうがった言い方をすれば「何人とか何十人とか何百人程度の人を殺した程度で死刑(極刑)を適用するのはふさわしくない」という主張とも言えます。

もしこの通りであれば、これはこれで尊重すべき一つの立場ですが、自分は賛同しかねます。

(「生命権」以降の部分にもいろいろありますが、まずは量刑か極刑かの整理が重要なのでとりあえず差し控えます)

qog さんのコメント...

>極刑としての死刑の適否について論じています。

極刑としてふさわしいかどうかの議論に、あの思考実験は適切なのでしょうか?と思いました。あの思考実験では死刑に一定の犯罪抑止力があるということを言っているだけですよね?一定の犯罪抑止力があることと極刑としてふさわしいことの論理的関連がよくわかりませんでした。


>「制度的な担保はあるのが望ましいが、必ずしも必要でない」と言っているに等しいです。

法律を変えなくてよいとは言っていないです。また、死刑囚として影響力をもって公共の福祉を乱す可能性があるような犯罪者(たとえば反体制テロリストリーダー等)には死刑を残す必要があるという判断もあるかもしれません。(そういう理由で死刑を法律として残している死刑廃止国はあります)

あと、(執行を法律どおり執り行っていないという意味では)今も法律違反していますが。


>また、あえてうがった言い方をすれば「何人とか何十人とか何百人程度の人を殺した程度で死刑(極刑)を適用するのはふさわしくない」という主張とも言えます。

言い方がちょっとあれですが、死刑適用の可否は殺した人数ではないとは思っています。

あと、この主張はべつに特殊なものではなく、世界的な流れです。死刑のあるアメリカでも9.11で捕まった人も死刑にはなっていません。死刑を完全に廃止したフランス等の国では死刑にしようがありません。

たくさん殺したら死刑にすべきという考えは、報復権や復讐権の主張のようにもとれますが、そういうわけではないのでしょうか。

Unknown さんのコメント...

極刑としての死刑は容認するわけですね。了解しました。
量刑は結局のところ相対的なものです。殺人罪が死刑に相当するかどうか、その他の重大犯罪がそれぞれ死刑に相当するかどうかは、民意が反映される形で移ろうべきと考えますので、これ以上議論する意味がありません。
また、極刑として死刑を容認するのであれば、生命権を特別視する必要はありません。よって、この点もこれ以上議論する意味はありません。
ここでの死刑廃止論が量刑の議論であり、極刑の議論でないことに気付かず大変失礼しました。

qog さんのコメント...

>また、極刑として死刑を容認するのであれば、生命権を特別視する必要はありません。よって、この点もこれ以上議論する意味はありません。

生命権を特別視する必要はあります。したがって、死刑廃止論で許容される極刑としての死刑は、執行されない象徴的な刑としてです。
実際死刑を法として残している国が国連の死刑廃止条約を批准できるのも執行されていないという事実のためです。
そこは死刑廃止論にとって重要です。

もし執行されなくても死刑が法として存置されればよいとお考えなら、それは死刑廃止論です。

Unknown さんのコメント...

極刑として死刑を存置し、量刑としての死刑を排除していくのであれば、罪刑法定主義の観点からどの犯罪の法定刑から死刑を排除するかを個別に議論する必要性が発生すると思います。
しかし、私は量刑は移ろうものと考えているので、それは民主的に決めていけばよいことだと思います。

「象徴としての死刑」の意味合いがよく分からないのですが、全ての犯罪の法定刑から死刑を排除されれば結果的に死刑は極刑ではなくなります。

それは民主的なプロセスを経ればよいことで、別に生命権を特別視するロジックは必要ありません。
(あった方がプロセスは進めやすいでしょうが)

qog さんのコメント...

死刑廃止論の立場に立てば、たとえば死刑は内乱罪や外患罪のようにほぼ適用されたことのない重罪のみに限定したり、判決するために国民投票が必要とするというようにプロセスを重くしたり事実上ほとんどのケースで死刑を判決できなくすること、もしくは法定刑として存在するが実際の裁判では適用されないことが、象徴としての死刑になります。

最終的には量刑はもちろん移ろうものですが、その上で、死刑を廃止するべき(有名無実化含む)なのか存置するべき(執行していくべき)なのかのべき論を議論していたのではないということでしょうか?法定刑として死刑があるべきというのが主張で、それが判決としてどう適用されるかや執行されるかは民主的プロセスを経ればどちらでもよいということでしょうか?

あとは、マスコミが記者クラブを通じて法務省の情報リークを増幅して撒き散らしているだけの現状で、司法制度自体に関して民主的プロセスがどこまで有効なのかはちょっと疑問ですが。やっぱりこれについてはべき論を議論していかないといけないと考えています。

Unknown さんのコメント...

いいえ。極刑は死刑であるべきとは主張しました。
量刑に関する立場としては殺人罪の法定刑は死刑であるべきと考えていることは明らかにしました。理由は以前に自分のブログで書きましたが、これは感覚的なものでしかなく、議論しようとは思いません。議論の枠組みが思いつかないためです。

死刑に見合う(現実的な)犯罪がないという結論が民主的なプロセスによって得られたなら、別に死刑が極刑である(=死刑を法定刑とする法定犯罪が存在する)必要はないとも考えます。

qog さんのコメント...

極刑って、法律で定められたもっとも重い刑という意味ですよね?

法定刑として最も重い刑は死刑であるべきということまでが主張で、それが限定的なものであったり実運用で使われなかったりしてもよいが、感覚的には殺人その他の罪には死刑が執行されるのが妥当と思う、ということでしょうか。

であれば、やっぱり論理的に説明しようとされている範囲を勘違いしていたかもしれません。「死刑存置」というのは法定刑としての存置だったということですね。もしくは「死刑存置」の立場だが論理的に説明したのは法定刑としての存置までだということでしょうか。

生命権含めた人権の観点では、論理的に死刑(の執行)は否定されます。死刑は人権の完全な否定だからです。一方でたとえば禁固刑は自由権等制限しますので人権の制限ではありますが否定ではありません。たしかに以前指摘されたとおり、死刑が人権に含まれる全要素を否定するわけではないかもしれませんが、著作権等一部の権利は残っても生命権と自由権を奪われれば(それらが制限されるのではなく取り上げられれば)人権の否定ということができると思います。

それを踏まえて死刑の一般予防効果と死刑による人権否定のトレードオフで考えると、死刑の一般予防効果は別の刑で代替可能なので、少なくとも代替不可能な部分以外は適用すべきでないです。代替不可能な部分があるかは、個人的にはないと思っていますがまだ十分検討はできていないです。たとえば、現政権が転覆させられたら釈放されてしまうようなケースが代替不可能なものとして思いつきますが。

Unknown さんのコメント...

> 極刑って、法律で定められたもっとも重い刑という意味ですよね?

「極刑」と「最高刑」を意識的に区別してきたわけではありませんが、どうもその違いのようです。また、どちらも刑法上の用語ではないようです。
http://cocoroe.jp/pub/qualification/legal_work/LAWLAW/Difference_between_maximum_penalty_and_capital_punishment

「個別の刑法で設定可能な最も重い刑罰」というニュアンスで極刑という言葉を使用していました。
実質的には「法律で定められたもっとも重い刑」と同じですが、「法律で定められたもっとも重い刑」を字句通りに捉えて議論しようとすると少なくとも現行法での法定刑が死刑である犯罪を個別的かつ網羅的に取り扱う必要があります。
殺人罪だけでも手に余ると思いますが、これでは負担が大き過ぎます。ですので、「個別の刑法で設定可能な最も重い刑罰」というような考え方をしていました。

私にとっての発見は、少なくともここでの「死刑廃止論」が
「国家は人が犯罪を犯したことを理由としてその人を殺してはいけない」
という主張ではなく、
「国家は死刑以外の刑で抑えられないような犯罪者は殺すことができるが、殺人罪などだけを理由に人を殺してはいけない」
という主張であったということです。
であれば、再度生命権について述べられていますが、それについては極刑としての死刑存廃を考える上では無意味ですので、反論すべき点はありますが不毛なので控えます。

なお、立法措置を伴わない死刑廃止の実現(特に条約の批准)は、三権分立や罪刑法定主義との間に深刻な対立をもたらすと考えられますが、生命権の尊重はこれらの対立する概念に優先すると考えられているものと理解し、ここではこれ以上の議論を求めません。
また立法措置を伴う場合でも、犯罪そのものではなく、犯罪者もしくは犯罪者の組織性などを基準に死刑かどうかを決めるような法体系は罪刑法定主義と深刻な対立を生じる可能性があります。これも立法の段階での工夫により回避可能であるかもしれませんので、議論を求めません。

qog さんのコメント...

言い方が逆方向なのだと思いますが、ここでの主張は、
(1)基本原則として、国家は人を殺してはならない
(2)ただし、殺す以外に公共の安全を守れない場合はその限りではない
ということです。
(2)にあてはまるものは、戦争であったり、内乱罪や外患罪に相当するような組織的な重罪です。人質犯の狙撃もこれに入るでしょう。
通常の殺人犯罪は(2)に当てはまりません。
これは多くの死刑廃止国でも採用されている原則です。

(1)の根拠が「基本的人権の尊重」です。

逆に、国家が人を殺してよい根拠が知りたいです。

極刑は自分も勘違いしていました。たしかに、英語でCapital Punishmentというと、これは死刑をイメージしますね。

あと、法律上死刑しか適用できない罪ってほとんどないと思うので、運用で事実上の死刑廃止に近づけることは可能と考えています。その場合も執行の停止という法律違反はどうしても発生してしまうのですが。

Unknown さんのコメント...

すみません、誤記訂正のみですが。

2009/09/04 23:15の投稿で
「極刑としての死刑存廃を考える上では無意味」
と書いた部分は
「量刑としての死刑存廃を考える上では無意味」
の間違いでした。
お詫びして訂正します。

 
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