2007年7月24日火曜日

最近遊んだソフト2:Joost インターネットTVの可能性

最近遊んだソフトもう1つ。

■Joost
P2P技術を使った動画配信の仕組みです。
インターネットTV(IPTV)の試みとして注目されているようです。
当然まだ英語の番組しかありません。また、個人的にはとくにこれが見たいという番組があるわけでもありません。英語の勉強がてら番組を垂れ流す程度でしょうか。(PRIDE!だっけか?に出てしばらく休養しているはずの五味の海外での試合などがありました。ボコボコにされてましたが。。。)
ユーザインタフェースはかっこよくておもしろく、この辺もいままでのこの手の取り組みとの差異化となっていると思います。なかなかワクワクするようなUIです。

@ITP2Pテレビの「Joost」を試してみた

ITPro P2P動画配信の「Joost」が台風の目に

開発者は、P2Pソフトで有名なKaZaAを作り、その後Skypeを作ったルクセンブルグのNiklas Zennstrom氏とJanus Friis氏です。
KaZaA を作ったものの違法コンテンツ交換が行われてやがて廃止に追い込まれ、その後著作権のないIP電話に移り、さらに合法的な動画配信の仕組みに戻って来るというその経歴もまたおもしろいです。いずれのソフトでもP2P技術が基盤にあります(がんばれ、日本の47氏)。

JoostはしばしばYouTubeと比較されます。
が、そもそも別物と捉えた方がよいのかもしれませんね。

YouTubeの核心はマッシュアップで、それはいわばインターネットの世界を動画に広げたものとなると思います(本来的には)。人がタダで情報を発信して作られてきたインターネットを動画の世界にも広げるというものです。

対して、Joostは、今まで無線やケーブルTVでブロードキャストしてきたコンテンツをオンデマンドで配信するための基盤となるものです。TVの世界をインターネット上に持ち込むことでオンデマンドかつインタラクティブにするというものになります。

YouTubeは、基本的には、デジタルビデオカメラの普及による動画というコンテンツフォーマットの広がりに対応したものとなります。
もちろん、その狙いの先には、法人自体がYouTubeのようなメディアを使って情報配信するようになることで、TVとの垣根を崩そうというものも見え隠れしてはいると思いますが。あるいはさらにもっと先を行って、今の著作権のあり方自体の根底を揺さぶる可能性を秘めたものでもありますが。

他方で、Joostは、今までも試みられてはいまだうまくいっていないインターネットとTVの融合を目指そうというものになります。
たとえば、下リンク先のようなTVの側からの取り組みも平行して行われており、現時点ではどのような形が主流となるのかははっきりしていません。

ICTV―すでにユーザーがもっている普通のテレビ上の対話的テレビ

Joostは、Viacomなど優良動画コンテンツオウナーの賛同を得ていることが最大の強みです。他にも多くと提携しており、コンテンツオウナーと広告主、およびユーザの両方に配慮したコンテンツ配信の仕組みが目指されているそうです。

日本のTV局もぜひこのような方向に一歩踏み出していってほしいものです。別に自前のものでもなんでもいいので。海外ではどんどん進んでいっているのに、国内ではどこもだれも一歩を踏み出さないというのがユーザにとって一番不幸ですね。

2007年7月21日土曜日

国連重視が憲法改正を促し、国防軽視が護憲を促す

我、自衛隊を愛す故に、憲法9条を守る 防衛省元幹部3人の志
小池清彦、かもがわ出版

自衛隊としては自分たちの立場を守るために改憲を求めていると思いがちですが、必ずしもそうではなく、自衛隊の中にも護憲派が少なからずいるということがよくわかりました。そりゃあ、隊員の命を預かる立場としてみれば、戦争は反対なのでしょう。当然ですね。

書かれている内容は、講演やインタビューをまとめたものが多く、論理的とはとても言えませんが、なかなか考えさせられるところもあります。3人がとりあげられていますが、3人ともとくに重装備での海外派兵(を可能にする法律化)に強く反対しています。祖国を守るために志願してきた若い自衛隊員を、自分たちとは関係のない土地で無為に死なせるわけにはいかない、という思いのようです。

孫氏の兵法やクラウゼヴィッツの戦争論を引くまでもなく、戦争をしないことが最大の戦勝だとはよく言われます。
その意味で、現在の日本で本当に国防を考えるのであれば、憲法改正や軍備の拡張よりも近隣諸国との関係を改善していく外交を展開することが一番です。拉致問題さえ取り下げて、六カ国協議を進めることが現実的な国防につながるとさえ言い得ます。

他方で、戦後の日本はずっと国連主義と親米で来ました。その外交路線をより強化するためには、国連軍に参加できる組織と仕組みの保持は必須でしょう。ついで、米軍へ協力できる体制も重要となります。つまり、憲法九条は改正せざるをえません。

軍隊をもたない、したがって現実的強制力を持たない国連を通して国際的影響力を持っていくためには、国連軍に参加できる組織を作ることが急務です。
湾岸戦争のとき、日本は巨額の資金を投じましたが国連軍に参加しませんでした。その結果、日本の貢献は国際的には一切無視されてしまいました。そこから日本政府の方針が変わり、自衛隊の海外派兵が始まります。最初は戦後の治安維持に。ついで、イラク戦争のサマワに。国民の反応も批判的でなくなり、その頃から右傾化と言われるようになりました。

でも、よく考えると、国連主義の追求が、憲法改正を促していると言えるのです。
逆にアジア主義で考えると、憲法改正や軍備拡張を急ぐことはマイナスでしかありません。そして、日本の国防ということで考えると、戦争する可能性のある近隣諸国を逆なでする行為は百害あって一利無しです。

今の日本はこのようなジレンマに陥っているのであり、それを国民投票という国民の判断に押し付けようとされているわけです。
あくまで国連主義で、国際社会への貢献を重視していくのか(=憲法改正)、それとも現実的な国防優先で近隣諸国との関係重視で行くのか(=護憲)。

両方大事なことなんですけどね。憲法改正するならいかにアジア近隣諸国との外交をうまくやるか、護憲で行くならいかに国連や米軍と関わっていくのか、どちらを選ぶにしても、その反対の立場への十分な配慮が必要そうです。

しかし、こんな大事なことを選択できる能力というか資格がわれわれ一般国民にあるのでしょうか。こんなときは、一線を退いた、でも過去を背負ってきたお年寄りの意見を尊重するのが一般的だったりしますね。歴史や組織を見ても、こんなときのために老中や会長がいるんですもんね。

2007年7月2日月曜日

自由意志、慣習、インセンティブ(倫理学、法学、経済学):市場主義とその境界

ちょっと古いですが、日経新聞の6月24日(日曜)号の書評欄に、
「経済論壇から 市場重視の経済学を問う」松井彰彦
というものがありました。
要するに、市場と規制(=慣習や法律)は相反するものではなく互いに補い合うものだ、という論旨です。
そこで、大竹文雄氏の論座7月号の論文からの引用で、当たり前のことかもしれませんが、経済学なるものを言い得て妙な部分があったので引用します。

主流の経済学が市場を重視する理由として、人々がインセンティブに基づいて行動していること、そして市場が人々のインセンティブをうまく利用する点を挙げる。反対に、「人々のインセンティブを無視して組織や制度をつくると必ず失敗」するし、「最悪の場合、規制の意図とは全く逆のことが発生」してしまいかねないという。

まったくそのとおりだと思うのですが、他方で、こう言えるのは一般論としてであって、すべてがこう言えるわけではないし、例外的な状況でこうは言えない場面もある、とも思います。つまり、一般論としてあるいは大枠として、市場原理を適用するのは正しいのですが、社会の中にはそれでは不足な部分もあるのではないか、と。

科学としては、一般化は当然の手続きであり、そうしないと帰納法的な"科学"になりえません。とはいうものの、自然世界においては小さい誤差を無視できるとしても、人間社会における小さい誤差は無視できない場合があります。たとえば、殺人や戦争など例外的状況をインセンティブだけで説明すると不足があるのではないか、と思います。他方で、組織論や政策実行論などにおいてインセンティブを語ることは非常に重要です。

話は少しそれるかもしれませんが、たとえば、フロイトは、無意識やエゴなどの概念を使って人間心理をインセンティブで客観的に描写しようとしたのだとも言えます。が、晩年のフロイトの著作の中には、『快感原則の彼岸』のように、快感(インセンティブ)に流れるはずの心理がどうしてもそれに抗するような動きをすることがあることを、半ば困惑的に指摘しているものもあります。

人間は、合理的=理性的(reasonable)であるはず、まさに日本語英語としての"リーズナブル"な方に流れて行動するはずですが、たしかに大枠としてはそう描写できるのですが、例外的にそうは行動しないことがありえます。
そこにこそ、単なるインセンティブに対する条件反射動物ではない人間の自由意志を認め、倫理の立ち上がり(善く行動する)を認識するのが、近代哲学が長年取り組んできた主要なテーマの一つです。

と書くとあまりにも我田引水なので、元々の文脈に沿って書くと、合理的な人間はインセンティブにのっとって行動するが、過去の慣習や規制にのっとって、あるいは慣習や規制に引っ張られて一見"非"合理的な行動をとることもある、ということになります。
ただし、慣習/規制がイコール自由意志や倫理ではないので、我ながら論理がねじれているのですが("自由意志/倫理"、"慣習/法律"、"インセンティブ/経済学"という3つを三位一体として論じられればいいですねぇ、自分には力不足です)。

さらに付け加えるならば、インセンティブが"善い"方向に向かうインセンティブであるためには、合理的=理性的なだけでは十分でなく、慣習や規制に基づくインセンティブである必要があります。その場合の慣習や規制は、単なるしがらみなのではなく、"善い"という価値判断が、その社会が育み形成してきた過去からの遺産(=慣習)に基づいてしか最終的に判断できないというような、そういう慣習や規制を指します。
合理的=理性的な思考は、必ず現実からのフィードバックによる補正が必要です。フィードバック無いまま思考を走らせると暴走してしまうというのは歴史を紐解けば多数見つけることができます。つまり、合理的=理性的なだけではダメなのです。そういう合理的=理性的な思考にフィードバックを与えるもの、それこそが慣習に他ならない、とここでは言い切っておきます(ちゃんと考えたわけではない)。

 
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