ASCII.jp:津田大介に聞く「改正著作権法で何が変わる?」
来年1月から施行されると考えられる改正著作権法について、改正のための小委員会にも参加された津田さんがポイントをまとめています。
今回の改正は無難なところにまとめられたようですが、補償金制度や著作権保護期間など一部積み残し課題を検討する新たな委員会の委員の選定がかなり偏っているようです。思いっきり文化庁寄りの人選ですね。そこにかなりの疑問を感じます。
2009年4月17日金曜日
改正著作権法についての津田氏インタビュー
2009年4月12日日曜日
ヒトゲノム解読の部分最適 〜『 ヒトゲノムを解読した男 クレイグ・ベンター自伝』
『 ヒトゲノムを解読した男 クレイグ・ベンター自伝』
J・クレイグ・ベンター
化学同人
3つの観点で非常に面白かったです。
- 破天荒な個人の伝記(60年代カリフォルニア、ベトナム戦争従軍、医学生物学世界での冒険等々)
- ヒトゲノム競争で悪役を演じてきた側の言い分(ベンチャー企業でヒトゲノム解読に望んだため、大学や政府機関から公共性に欠けると多くの批判を受けてきた)
- 部分最適と全体最適、市場主義と公共性といった観点
2000年6月26日に、クリントン大統領とブレア首相、そしてNIH(アメリカ国立衛生研究所)のコリンズ博士、セレーラ社のこの本の著者であるベンターさんの4人で、ヒトゲノム解読宣言が行われました。
この歴史的共同宣言の背後では、研究者間の熾烈な競争、もっと言えばえげつない誹謗中傷合戦が繰り広げられていたのでした。
自分は5年ほど前に、
『ヒトゲノムのゆくえ』
ジョン・サルストン、ジョージナ・フェリー
を読んでいて、そこでは、線虫学者だったサルストンさんが、どのように資金をかき集め、世界中の研究者と協力協調し、サンガーセンターというゲノム解読センターを運営して、この偉業を達成したのかが描かれていました。非常に興味深く読みました。
そこに悪役同然として描かれていたのが、クレイグ・ベンターさんでした。サルストンさんからすると、本来大学や公共機関が取り組んで世界の共通資産として管理してくべきヒトゲノムを、ベンターという研究者が企業に身を売って金儲けのために独占しようとしている、というような書き方でした。
そしてこの本です。
自叙伝なのでおそらく自分に都合のいいように書かれてはいると思うのですが、ヒトゲノムについて特許を取ったり非公開にしたりするつもりはなかったようで、ただ(ベンチャー)株式会社として出資者のためにある程度非公開の期間をもうけざるをえなかったことが書かれています。真相はわかりませんが、言い分としてはそういうことのようです。
なにより読んでいて興味深かったのが、もともとベンターさんもNIHに所属していたのですが、官僚主義的で、政治で予算配分が決まり、計画から実行まで途方も無い時間を要する研究環境をあっさり見限り、企業からの出資を受ける研究環境に移っていったことです。
目の前にやりたいことと成果が転がっているのに、いちいち他研究機関と調整したり予算をとるためによけいな仕事をすることががまんならなかったようです。
たしかに全体最適という意味では、他国の研究機関含めていろいろ調整して役割分担や研究進捗をあわせていったほうがいいのかもしれません。ただ、非常に時間がかかるし、けっきょく調整などにコストがかかって役割分担がうまくできたメリットを帳消ししているかもしれない。
かたや部分最適じゃないですが、一企業でどんどん進めていけば、他企業とやっていることが重なるかもしれませんがスピードが違うし、差別化のためにイノベーションも生まれたりして、結果としてコストが安く済むかもしれない。
市場主義は言ってみれば部分最適の集積でそのなかでもっとも最適なものだけが残っていくということで、公共性は全体最適のためにある程度自由を制約して歩調を合わせていくということかもしれません。
ヒトゲノム解読について言えば、ベンターさんのセレーラ社があったから解読スピードが速まったのは確実ですし、そのなかでイノベーションも起こったことも事実です。また、官僚的に凝り固まったゲノム研究領域を打破していったという意味でも非常に重要な役割を果たされていると思います。
一方でヒトゲノム情報を一企業で独占するのはやっぱり問題であり、ベンターさんは最初から公開するつもりだったとは書いていますが、大学や研究機関からのプレッシャーがあったからこそ公開されていったのかもしれません。
それにしても、これだけ研究者から非難されながらも、自分の信念をつらぬき、いろいろなリスクを抱えながら(新しい解析方法などを試しながら)プロジェクトを遂行するその行動力にはほんとうにすごいと思います。
2009年4月11日土曜日
コンシューマライゼーションとリテライゼーション
大西 宏のマーケティング・エッセンス:リテライゼーションという新潮流
IT業界にはコンシューマライゼーションという大きな流れがありますが、小売りの世界ではリテライゼーション(Retailization)という大きな流れがあるという記事です。要するに、PB(Private Brand)のことですが。
いずれもメーカー主導から消費者主導という大きな流れに位置づけられる一方で、相違点もいろいろあるように思えます。
今回は、備忘録としてこれだけ。
2009年2月15日日曜日
発育と教育による脳の因果論
昨日は、「ある神経の働きと次の神経の働きがどのようにして意味のある思考の論理展開となっていくのか、それはコントロールされた必然的なものなのか、偶然の連なりがあたかも意味があるかのような論理的思考の脳の働きになっていくのか。」
と書きましたが、子育てをしていると、脳の活動が、当初は単なる神経の働きの偶然の連なりにすぎないというのがよくわかります。幼児がずーっと意味不明語を話しているのを見るに、エピソード記憶に入った音声的記憶をほぼランダムな順番に再生しているにすぎず、そこに意味はほとんどありません。
ところが、そういうランダムな発話行為に対して、大人がいろいろな反応を示すことで、特定の発話行為が現実の意味に結びついていきます。これは、その発話行為に関連する神経の働きと、現実の反応がより強く結びつけられていっているのでしょう。
さらには、子供時代の教育において、これは正しい正しくない、と家庭や学校で規律づけられていきます。それによって、特定の神経の働きが強められていくのでしょう。
というように、偶然の神経の働きが、外からのフィードバックによって強められて残るようになっていくというようには言えます。
ただ、今度は、遭遇するある場面に対してどうして似たような場面に関連づけられた神経細胞が活動し出すのか、あるいはいろいろな意味のあるひらめきや創造はどのようにして発生するのか、ということの説明が難しいです。
これも因果論でコンピュータ処理的に説明しようとすると、ある場面に対して脳内の関連するすべての神経細胞が強い順番に反応していって最適なものだけが残って意識にのぼるとしか説明できないです。本当に脳の中でそういう(無駄な)ことが起こっているのか、それとももっと特定の目的に沿うような働きとなっているのか、ということについてはやはり謎のままです。
2009年2月14日土曜日
科学的因果論をはみ出していく脳〜『心の脳科学』
『心の脳科学 —「わたし」は脳から生まれる』坂井克之、中公新書
心や「わたし」が脳のどのような活動から生まれているのかを、現在わかってきている範囲でわかりやすく説明した本です。非常に興味深いです。
最終章では著者の希望的観測含めた脳科学への想いが記述されていますが、その前までの10章ほどで、現時点でどのような実験によりどこまでわかってきているかがわかりやすく記述されているため、TVによく出ているような脳科学者の結論しか書いてないような本よりは、ずっと良心的で内容も濃いです。
まず、科学的に脳の働きを解明するためには、意識や心といった漠然としたものを特定の現象へと分解する必要があります。そのために、いわゆる「錯覚」のような現象が実験では使われるようです。たとえば、紙の両端に描かれた絵を一定距離から見ると、右目に入ってくる絵と左目に入ってくる絵が交互に意識にのぼり、コントロールできないという錯覚的現象が、意識を分解的に扱うために利用されます。
脳の測定方法は主に2つあるようです。1つ目が主に脳空間の測定です。脳のどこの働きがそのときの現象に関係しているかを明らかにする測定です。そのために、まず科学として、大きさや形に個人差のある脳を平準化し座標化します。その後、MRT装置を使って脳の活動を画像的に処理します。おおよそ1mm程度の精度まで計測できるそうです。ただし、この方法の欠点は、計測間隔が2秒ほどになってしまい、瞬間的な脳活動を測定できないことです。また、測定装置が大きいというデメリットもあります。
もう1つが脳の働きの時間的経過を測定するものです。脳に電極を貼って脳波を測定するタイプのものです。この場合ミリ秒単位で脳の活動を測定できます。逆に脳のどの場所の活動かの空間的測定はかなり曖昧にしかできないようです。
この2つの測定方法を使って、意識や心の動きを分解したような特殊ケースでの脳の働きを測定していきます。
測定結果は必ずしも脳の特定の部位だけが活動したというようにはならないため、統計的に処理されます。統計的に有意な活動分布を示した部位が、おそらくその現象に直接関係している場所だろうということです。
以上は、どういう現象のときに脳がどのように働いているかを計測する方法ですが、逆に、脳がどう動いたときにどういう行動をとりうるかといった測定方法も開発されつつあるそうです。
たとえば、事前に 何十回もウソをついたところの脳活動を測定させてもらい、また何十回も本当を言った時を測定させてもって、そこからウソをついたときの脳活動パターンを抽出します。これにより、脳活動を測定してそのパターンとマッチングさせることで、そのとき嘘をついたかどうかが90%の確率でわかるようになっているそうです。
「わたし」や意識がどのように生まれるのかはまだ科学的には解明されたわけではないですが、脳全体の働きの中でその時点で最も強く働いていた神経信号が意識となっている、と表現できるのかもしれません。それにしてもどのように脳の神経信号の強弱の波が普段意識している論理的な脳の働きになるのかは不明です。この発想でいくと、誰か何かが神経を意味あるものになるようにコントロールしているのではないか、その誰か何かが「わたし」なのではないか、と考えてしまいます。逆に、ただの偶然の神経信号の波の連なりが意識になっているだけで、何もコントロールしている第3者(=「わたし」)などなく、われわれの意識は偶然の神経の積み重ねにすぎない、と言うこともできます。
こう考えると、これは、古くからの哲学的課題である、主体と客体の問題、必然と偶然の問題と同じところにたどり着いているのが分かります。
ある神経の働きと次の神経の働きがどのようにして意味のある思考の論理展開となっていくのか、それはコントロールされた必然的なものなのか、偶然の連なりがあたかも意味があるかのような論理的思考の脳の働きになっていくのか。
近代哲学と近代科学の礎を打ち立てたデカルト的宇宙観の中にいるわれわれにとって、要素を分解し、因果論で考えるという思考方式や認識論では、この問題は解決できないのかもしれません。
量子力学における量子の波的性格の問題などもそうですが、原因があってそれに対応する結果があるという因果論では説明できず(スリットを通り抜けた光が決定論的な因果によってスクリーンのある場所にたどり着くのではなく)、われわれの説明表現では「将来的なある結果を目的として今の活動がある」と表現をせざるをえないような(スクリーンに波上に散らばるという目的に向かってスリットを光が通っていく)、そういう論理、われわれのリニアな思考論理展開ではけっして表現できないような論理でしか説明できないことがこの世にあるかもしれない、というとSFすぎるでしょうか。
そういう未知の論理があるかどうかは別として、少なくとも決定論的な因果では説明のつかない現象が存在しえて、脳の活動などもそういう現象なのではないか、というのがこの本を読んでの個人的結論です。
そうでなくても、そもそも意識や脳へのインプットはそんなに単純に分解できないものです。分解しきれない、あるいは影響範囲を絞りきれない、そういう科学の前提が成り立ちえないのが、現実の現象だとも言えます。社会や人間には、原理として、科学の前提、科学の閉じた論理からつねにはみ出していく要素が存在し得るのであり、そういうことを認識した上で科学の有効性や偉大さがさらに深く認識できるということも言えると思います。
2009年1月20日火曜日
著作権についての津田大介氏インタビュー
津田大介氏にインタビュー 著作権の現在について(1)
http://anond.hatelabo.jp/20090119210533
著作権に関して、国の各種審議会にも出ている津田氏へのインタビューがありました。
Youtubeの著作権物発見の仕組みの実際やら、今後の動向やらが述べられていて、興味深いです。
2009年1月18日日曜日
自由と社会
isologue:「もしアメリカ大陸がなかったら」
http://www.tez.com/blog/archives/001282.html
ご自身も「アホ話」と書かれているのでそういう前提で読んだ方がよいとは思いますが。
大きな人類史の中で、アメリカの出現がどれだけインパクトがあり、特異なものであり、グローバルなものとなってきたのか。
いずれにせよ、まさに今は、「自由」(=アメリカ)と「社会」(=ヨーロッパ)の拮抗時代だというのは一つの捉え方としてあると思います。
昨今の経済状況もあって、新「自由」主義的な考え方の分が悪くなりつつあるようにも思いますが、ことをそう単純に見てはいけません。
いまどきの「社会」主義的な立場は、すぐに情緒に訴えて感情的な反応を示し、ごく一部の出来事を全体の流れかのように喧伝します。
当然、「自由」の根幹には社会の安定や安全が必要であり,人権があるので、こういう危機的情勢のときには「社会」主義的施策も必要となるでしょう。
が、大きな流れで見たときに、今必要な「社会」主義的施策が恒常的に必要かというとそうとはいえません。
逆に、新「自由」主義的立場も、平常時の自らの強力な論理なり原理を、危機的状況にも無理矢理当てはめようとするには無理があります。自由は社会の安定あってのものです。
今は、「社会」的立場が情緒をあおり、新「自由」主義的立場がそれに反発する、というわかりやすいイデオロギー対立でものごとが捉えられがちに思えますが、長い視野でもっと根本から情勢を判断していきたいものです。