2007年12月10日月曜日

携帯小説と電子書籍

TechCrunch:「日本ではベストセラーの半分は携帯で執筆されている」

AmazonのKindleと関連させて、日本の携帯小説(携帯で配信された後に単行本化される小説)が述べられていて、自分にはそういう観点がなかったのでちょっとなるほどと思いました。

ebook(電子書籍)はなかなか普及しないですが、よく考えると日本では、携帯でダウンロードして小説を読む人が急増しているのでした。携帯がebookとなっているわけです。

SonyのLibroやAmazonのKindleなどといった電子書籍は、いかに小説を読みやすくするかで解像度やページめくりインタフェース等を工夫してきているわけですが、日本の小説事情としては、逆に、いかに携帯で読みやすい小説を書くかという創意工夫がなされてきているわけです。

先日、『現代日本の小説』(尾崎真理子)という本を読んで興味深かったのですが、そこでも、最近の日本の小説において、PCでの執筆、さらには携帯での配信といった、書いたり読んだりするメディアの変遷が、小説(というシステム)に大きな影響を与えているのではないかという指摘がありました。

携帯ではかつての重厚な小説世界は望むべくもないですが、たしかにメディアの変遷に合わせて人間の表現は変わってきているのであり、その意味で携帯小説というのも興味深い現象ではあるのでしょう。携帯というメディアでどこまで表現できるのか。

2007年12月6日木曜日

私的複製について文化庁の小委員会でもめています

ちょっと前の記事ですが。

ITPro:「議論かみ合わぬまま、期限切れ迫る私的録音録画小委員会」

文化庁長官の諮問機関、文化審議会著作権分科会私的録音録画小委員会で、私的複製についてもめています。
まったく結論がまとまらず時間切れに。

ぜんぜん議論がまとまっていませんね。これは土俵を変えないと。

2007年12月3日月曜日

日本の検事事情

「検察の実情、バブルのあやうさ:『反転』を読む」で、検察の実情について書かれている本を紹介しましたが、先週末の「朝まで生テレビ」で、元検事も出席しての、日本の検事、とくに特捜と政治犯罪についての問題が取り上げられていました。

田原総一朗自身が取り上げたリクルート事件や、鈴木宗男事件、賄賂の現場にいた人たちが起訴されず落選中の元議員が有罪になっている日歯連事件、そして冤罪が確定した志布志事件、等々。

日本の検事が、当初作った犯罪ストーリーが検挙後うまく成立しなかったときに、かなり無理に事件をこじつけてきていることが分かります。その際には、精神的にも肉体的にも威圧的な取り調べが行われることも多々あるようです。志布志事件では、拘留期間が1年を越えています。重大な人権侵害でしょう。

日本では、起訴された事件の有罪率が99.5%を越えますが(ヨーロッパ等では5割を割るらしい)、そもそもこの構図がおかしいですね。

元検事の方々のもっともな言い訳としては、とくに政治犯罪や経済犯罪に関して、日本では、司法取引もおとり捜査も盗聴も禁止されている、もしくは事実上実施できないため、拘留中の供述調書が唯一の証拠となることが多く、供述調書をいかにうまく作るかに検事の全精力が注がれ、しばしば恐喝じみた取り調べになってしまう、という指摘がありました。

また、検事と司法の結びつきも強いため、通常、いったん検事の取り調べで供述してしまったものは、裁判の中で否定しても覆ることは稀だと言います。
閉じた空間で行われる取り調べの方が、開かれた場で行われる裁判よりも優先されているわけです。

こう書くと、日本の司法の仕組みが、非近代的というか非民主的というか、けっこう危険な方に転がりやすいようにも思えてしまいますね。
もっとも、裁判では、被告は弁護士の助言をもらって発言するため、たとえ開かれた場とはいえ真実を語っているとはかぎらないわけで、そう考えると、検事による取り調べとどちらが真実なのかはやはり難しいところですが。

などと考えてくると、日本でもおとり捜査を認めてなるべく客観的証拠を押さえやすくしたり、司法取引を認めたりすることで、長期間の拘留という半分拷問とも言える非人道的手法は減らすべきなのではないかと思えました。
そうすることで、より供述調書の信憑性が増えるのではないかと。そして、取り調べと裁判でのねじれも減るのではないかと。
というのも、日本のこの手の事件では、取り調べによる虚偽の自白→一転裁判での否定→でもやっぱり有罪、というパターンが非常に多いようですので。

あと、この手の政治事件を並べると、ロッキード事件以来の特捜vs旧田中派という図式がものの見事に現れるという指摘もありました。

2007年11月28日水曜日

戦争を現実論で考える(という視点が優勢な時代)

『新戦争論』
伊藤憲一
新潮新書

著者はまず、国際関係や平和を考えるにあたって、法制的思考、観念論ではなく、戦略的思考、現実論で世界を考える必要があるとします。
法制的思考、観念論とは、まず理想を描いて法律として整備していくというやり方です。そして法律や条約が平和をもたらすという考え方になります。正論ですが、これにこだわりすぎると現実に対応できません。また、現実の平和に対して片手落ちの議論となります。

それに対して、筆者は、今までの歴史上簡単に破られてきた法律や条約の世界よりも、実際に戦争を押しとどめてきた力の均衡を現実として認識し、そうした力による戦略論を考えていくべきだとします。

筆者によれば、戦争と紛争は異なるもので、戦争は、国家(あるいは政治的主体)が行う紛争であり、クラウゼビッツを引用して「戦争とは政治におけるとは異なる手段をもってする政治の延長にほかならない」とします。単なる個人間、集団間の争いである紛争(そしてこうした紛争は人類の歴史と同じだけ古い物ですが)と、国家間の政治の延長は違う、という主張です。

そう考えると、人類は生まれながらに戦争をしてきているわけではなくて、あるときから戦争を開始し、そして現在は戦争をしない時代になっている、とします。
つまり、紛争はあったが戦争はなかった「無戦争時代」、人類が定住を初めて土地の所有から共同体間の戦争が始まった「戦争時代」、そして核兵器の開発により現実問題として戦争が行えなくなってしまった「不戦争時代」という3つの時代区分を提示します。

現代においては、アメリカの核の威力のもと、国家間の戦争は不可能となっており、各地での紛争があるだけだということになります。

冷戦という「不戦争時代」の始まりにおいては、ソ連とアメリカで核の均衡がとれていました。他の国にも核兵器はありましたが、第一撃で90%の戦力が失われても第二撃で敵国をも壊滅させてしまう報復能力を持つ国はこの2国だけでした。
その後、ソ連邦崩壊で、現在では実質この戦力を維持できているのはアメリカだけとなっています。

国連のような形での「世界政府」の樹立による平和の実現が人類にとっての理想ではあります。が、現実的にはそのような世界政府は存在したことがないし、国連の力もそこまではいたっていません。
他方で、現実的にはアメリカがその経済力や軍事力で事実上の「世界帝国」となって、その帝国のもと世界不戦体制ができあがりつつあります。

著者の主張では、こうした世界不戦体制のもと積極的平和主義を追求しなければならない、ということになります。
そのためには、日本は、憲法第九条第一項の不戦事項は順守しつつ、その不戦体制を維持するために第二項は変えて集団的自衛権は認めなければいけないとします。

つまり、国家間の戦争が起こらない体制を維持するために、紛争を解決する手段を持つ必要があるというものです。現代においては、ならずもの国家やテロ集団による紛争が起こりえ、これが不戦体制を脅かしています。日本は、積極的平和主義のためにこれに抗する手段を持たないといけない、ということになります。

また、現代の不戦体制ができてきた理由の一つとして、最終兵器としての核の威力以外に、戦争は土地の所有と結びついて発展してきて最終的に世界の土地を取り合う世界大戦へといたったものの、グローバリズムの時代では土地の所有が相対的に小さいものとなってきているということもあげられています。

こうした世界観はいわば、ドゥルーズ=ガタリの戦争機械論からネグリの帝国論を敷衍したものにも見えますが、ちなみに本書にこれらからの引用はありませんでした。

筆者の主張に賛否両論あるとは思いますが、現実の世界を考えるためには有益な視野を与えてはくれます。
他方で、この本ではまったく触れられない理想論は語っていかなくてもよいのか、という疑問もあります。

歴史にはいろいろな波があるのだと思いますが、少なくとも現在では、こうした現実論、パワーポリティクスが支持を得ているし、信憑性も増していますね。
それがどうしてかは非常に面白いテーマだとは思いますが。


NBonline:「消極的平和主義を捨てて〜『新・戦争論』伊藤憲一著(評:小田嶋隆)」
に書評がありました。
評者はわかりにくいと言っていますが、けっしてそんなことはなくむしろわかりやすい本だと思いました。評者は左翼史観に偏りすぎているのでそう思われたのではないでしょうか。古い左翼史観のままこの本を読むと、そもそも概念の使い方が違うので納得がいかず(同じ議論の土俵に立てず)、たしかにわかりにくいかもしれません。

他方で、イラク戦争等が著者の言う"戦争"ではない紛争だとしたところで、"戦争"と同じく多くの若者や一般市民が死んでいっているのは確かで、そうした視点も見失ってはいけないでしょう。
この本の主張と相反するものではないと思っていますが。

2007年11月27日火曜日

CD販売とネット配信の関係

池田信夫blog:「ネットはクリエイターの敵か」

CD販売とネット配信の関係と現状が効果的にまとめられています。
ミリオンセラーを連発するようなCD販売ビジネスモデルが崩壊し、別の(より裾野の広いロングテールな)音楽配信モデルが登場しつつあります。

科学的質感の重要さ:『生物と無生物のあいだ』

「科学と非科学のあいだ:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 1」と「反復できない時間を生きる生物:『生物と無生物のあいだ』を読んで Part 2」で紹介した『生物と無生物のあいだ』について別の観点で紹介してある記事がありました。

Tech-On:藤堂安人の材料で勝つ「偉大な発見を実現する「条件」とは」


科学の世界における競争の話や、輝かしい科学的発見(しばしば演繹的な思考によるもの)の背後にある帰納的発見の重要性、帰納的発見の過程における科学的 "質感"による自信の話など、たしかにこの本のメインテーマ(が、自分は取り上げなかった)が取り上げられ紹介されています。

「価格はファンが決定」のレディオヘッドの最新アルバム、日本でもネット販売

CNet:「「価格はファンが決定」のレディオヘッドの最新アルバム、日本でもネット販売」

Radioheadの中抜きネット販売(「レディオヘッドが音楽レーベルなしの楽曲ダウンロード」)が日本でも12月3日から販売開始するそうです。
www.inrainbows.jp

 
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