2007年3月4日日曜日

国際的であるために:『右であれ左であれ、わが祖国日本』

右であれ左であれ、わが祖国日本』 船曳建夫、PHP新書

を読みました。

右翼か左翼か、保守か革新か、といったあまりにも手垢のついた概念ではなく、もっと別の概念で日本の立場を語ろうという試みです。
船曳さんは、戦国時代からのタイムスケールで、次の3つの概念で日本の立場を表現します。

* 国際日本
* 大日本
* 小日本

「国際日本」は、世界の視野で、複数の国家間での関係を重視する立場、「大日本」は、近隣諸国との関係や近隣への勢力拡大を重視する立場、「小日本」は、国内の充実を重視する立場です。それぞれ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に対応するものとされていますが、けっきょく戦国時代から今まで、それぞれの立場のどれが強いかによってその時代日本の対外的立場が決まってきているとします。

また、日本に関係する主体を次の3つとしてまとめます。

* 中国
* ロシア(ソ連)
* 西洋(ヨーロッパ→アメリカ)

これらの主体との関係で日本の立場と歴史を分析していきます。

以下、この本を読んでの自分の感想です(内容の要約ではありません)。

戦後の日本が、国際日本のふりをして、実は国際連合一本槍で国際日本たろうとしたというのは重要な指摘です。他の地域では、NATOとかワルシャワ条約機構、ASEANなど、その地域の複数のステークホルダー間での調整を行う機構を設けています。ところが、日本は、国連と日米安全保障条約のみで戦後を送ってきました。安保というアメリカとの二国間条約は、国際的というよりも、太平洋を挟んだ隣国との条約にすぎません。それはまた、一種の大日本的立場だと言えます。

ということもあり、日本は国際的であることについて国連1つに命運をかけ、お金をつぎ込み、常任理事国入りしようとして失敗しました。常任理事国入りは常識で考えたら無理でしょう。5ヶ国でさえ自由が利かずにアメリカ等の国連離れが進んでいるというのに、これ以上常任理事国が増えるはずがありません。
国連は、理念としてはすばらしく、またこういう機関の必要性は高いといえますが、これだけで国際問題を解決できるかというとそういうものでもないと思います。

ヨーロッパは、何百年来の戦争と、2つの世界大戦を経て、それでもなお、経済や鉄鋼の貿易調整をする機関からEU共同体を作ってきました。同時に軍事的にもNATOを組織しています。
アメリカ大陸やアフリカ、東南アジア、太平洋地域でも調整機構が設けられてきています。
ところが、東アジア、極東地域には、そういう機構が存在せず、戦争の遺恨だけが残っています。

今回の北朝鮮問題に関する六カ国協議が、戦後初の東アジアでの調整会議かもしれないと本書では指摘されています。そこからどのような東アジアでの国際関係が発展していくのか、その中で日本がどのように立ち振る舞えるのかは重要だといえます。今のところ、中国、ロシア、アメリカの影に隠れて、「拉致問題」と叫んでいるだけで国際間"交渉"しているのかどうか怪しいところですが。

この本は、新しく提示された概念に多少振り回されている気もしないでもないですが、興味深いタイムスケールと概念枠組みで日本のパワーポリティクスを論じたものとなっていておもしろいです。

意地悪な見方をすると、もっとおもしろいのは、現実的なパワーポリティクスで論じてきて、読者からすると、日本がもっと東アジアとの関係を重視して、日米安保(憲法九条の裏返しとしての)だけでない国際関係をつくっていくべきだという結論になりそうだと思ったところで、憲法改正反対という具体論に入っていくところです。あれ?そうなの?となってしまいます。

船曳さんがあえて避けた今までの左右の議論でいくと、健全な保守主義的パワーポリティクス議論がなされてきて、最後の具体論のところでくるっと左よりの憲法反対に落ち着くところがおもしろいなぁと思いました。
船曳さんの議論を読み取ると、憲法改正絶対反対ではなく、時期尚早という風には読み取れますが。

船曳さんは、元々文化人類学者で、東大教養学部の教授です。最近、日本についての著作が増えてきています。
この本でも、大学の授業で日中戦争の可能性などを話し出すと学生の態度が変わるという逸話が紹介されています。学生にその理由を聞くと「みんな日本が悪いという左翼的な議論にはうんざりしているからじゃないか」と言われたそうです。つまり、第二次世界大戦は日本が悪かった、戦争反対、軍隊不要、という学校で習ってきた議論は、今の時代では単なるオウム返しのようになってしまっていて、真の議論になりえなくなってしまっているのではないか?と考えこのような本を書かれたんだと思います。もっともな反応だと思います。
今の時代に戦争反対と言うためには、もう一度そういうためのロジックを深め積み重ねていく必要があるでしょう。今までの繰り返しではもう通用しないのです。戦争反対を当たり前とせず、もう一度戦争反対の考えを深化していく必要があります。

2007年2月20日火曜日

脳と身体のバランス:情報化社会の病の仮説

『ウェブ人間論』の書評を養老孟司さんが書いています。

「ウェブを面白がる年寄りが面白がった二人の対談」
http://www.shinchosha.co.jp/wadainohon/610193/review02.html

最後の意地悪だというパラグラフが重要だと思います。

最後に年寄りの意地悪を一言。世界は二つに分かれる。「脳が作った世界(=脳化社会)」と、「脳を作った世界(自然、といってもいい)」である。私は「脳を作った世界」にしか、本当は関心がない。本書でいわれる「リアル社会」を、私はかねがね「脳化社会」と呼んできた。ネットの社会は、私から見れば、「リアル社会」がより純化したものである。「ネットに載る以前の存在」を「どうネットに載せるのか」、それだけが私の関心事だったし、いまでもそうである。ネットに載ったらそれは情報で、私の真の関心は情報化そのものにある。なぜなら私は年寄りで、情報化社会以前に発生した人間だからである。山中に閑居した李白は詠む。別に天地あり、人間にあらず。この人間はジンカン、つまり世間のことである。

Webの世界も含めた人間の社会は「脳化社会」なのですが、人間は当然脳だけでなく自然界にも両方に属しています。

Webの世界が拡大しつつある今、脳化社会(=Webの世界を含む人間の社会)の部分がどんどん拡大していっています。このことは、身体や(原始的)心が自然界に属する人間のバランスからすると、非常にアンバランスになっていっていることを意味します。

実は、こうしたアンバランスさが症状となって表に表れてきているのが現代的な諸問題だったりしないでしょうか?

ニート、引きこもり、心の病、いじめ、凶悪犯罪、これらの諸問題は昔からある古くて新しい問題ですが、現代的な特徴として、自然界に対する脳化社会、とくに情報社会の拡大がその原因となってきたりはしていないでしょうか。

昔は、貧乏や差別、制度によるプレッシャーが、それら諸問題の原因だったとも言えると思います。社会が経済的秩序付け、生まれによる区別、個にのしかかる制度から構成されていたので、そこから外れた人が社会に対する挑戦=メッセージとしてそれらの諸問題を引き起こしていました。

現代においては、情報の偏りや情報力による格差、情報によるプレッシャーなどがそれら諸問題の原因となっていないでしょうか。
それらはけっして情報処理能力が欠けていたり足りなかったりするためにおこるのではなく、むしろ情報処理能力が高すぎて起こることもありえます。その分非常に原因がわかりづらいものとなっていますが、情報力のバランスの欠如、情報のフィルター能力の劣化等々、誰にでも起こりうることがその原因になっているとも考えられます。
圧倒的な情報量を前に、自分の身体や心に逆らってなんとか情報を処理しようとするので、バランスを崩し社会から引っ込んだり、非常に偏った考えになってしまったり、情報と身体や心のバランスを欠いてしまって、それが社会への挑戦=メッセージとして現れるのかもしれません。
あくまでも私の感想にすぎませんが。

相対的に小さくなってしまった自然を支点にして、その上でうまくバランスを取っていかないとあっという間に人間としてのバランスを崩してしまいそうです。

もちろん、自然に帰れ、とか、自然との合一を考える神秘主義的なものを重視せよというわけではありません。逆に、これらの"あやしい"思想や宗教にはまってしまわないためにも、自然界についてもなんらかの意識を持っておくことは重要だと思います。

人間論で人間について考えるのであれば、この自然界の部分についても考えないと片手落ちになるというのが、養老孟司さんの指摘ですね。

2007年2月17日土曜日

『「近代日本文学」の誕生―百年前の文壇を読む』

「近代日本文学」の誕生―百年前の文壇を読む』 坪内祐三、PHP研究所
を読みました。
明治32年(1899)から39年(1906)までの文壇の動きを毎月の出来事として描いたもので、当時の文学の動きがよくわかりおもしろかったです。

前世紀末から日露戦争勝利後の時期です。
この頃は、詩や小説を含む文芸誌がそれなりの社会的影響力を持った時期でもあります。
発行部数は今の売れ筋雑誌と比べればはるかに少ないですが、あるいはそれがゆえに社会的影響力は大きかったと言えるでしょう。つまりは、一億総中流な社会で多様な趣味嗜好をもつ集団の集まりというよりも、ある程度共通の土台を持つ全体からすると数の限られた人たちが社会的影響力を持ち、そういう人に文芸誌が読まれていた、ということなのかもしれません。

薩長中心のある種の貴族政治(特権集団による政治)による近代化と富国強兵策が実を結び日露戦争勝利で近代列強の仲間入りをしていく時代と、それ以降の国民の形成と大衆化による民主主義政治の成立と軍国主義化が並行的に進行する時代の狭間に、文学がどのように変容していき、文壇=知識人がどのようにペンを武器に発言していたのかの記録とも言えます。

文芸誌(ペン)が力を持ったような時代の中でも、「昨今の文壇のたるみ具合はなっとらん」という批判があったり、当時は当時なりに苦悩していた有様がよくわかります。

この時代は、日本の浪漫主義文学の美麗体が古臭くなり、自然主義文学が勃興してきた時期でもあり、夏目漱石が『吾輩は猫である』の連載を始めた時期でもあります。その意味で、文学史的にも重要な時代です。

2007年2月2日金曜日

インターネットでの情報の集約実現のための真っ白でありえないプラン

【このエントリの言い訳】
前エントリで、インターネットが社会へ影響を与えるためには、情報の集約方法が、そして、(3)から(2)へ、(2)から(1)への回路をどう開くかが重要である、と書きました。同時に、自分にはそのアイディアが無いとも書きました。

斬新かつ革命的なアイディアはもちろんありません。が、稚拙ながら私なりの考えはないことはないです。恥ずかしながら、ここではそれについて書いてみたいと思います。
もちろん、正しいわけでも実現しそうなわけでもありません。むしろ、ありえないとも言えます。が、まずは自分なりのあるべき論として書いてみます。
「ありえね~」というご批判もどうぞ。


【投票による情報の集約】
インターネットやブログでの情報の集約の最善の方法の1つは投票だと考えています。多数からの投票により、重要だと思われる情報が見えやすい位置にくるというものです。diggなどのサイトですでに実現されているものでもあります。
もっとも民主主義的であり、長期的に見ればもっとも公平な手法です。株式市場における株価が長期的には企業価値を表しているのは、株の売買という一種の民主主義的投票のおかげだと考えています。

ただし、民主主義的投票は、短期的にはときには暴走します。ファシズム政権を選んでしまったりします。株式市場も短期的にはバブルを引き起こしたりします。
いわゆる集団極性化と呼ばれる現象です。

こうした短期的な集団極性化を避けるためには、投票主体の多様性や独立性が重要となります。

また、今回は取り上げませんが、長期的には公平を実現できるというものなので、とくにニュースなど速報性が重要なものについてどこまでうまくいくかは難しいところもあるとは思っています。


【投票の前提としてのアイデンティティ】

投票主体の多様性や独立性を実現するためには、投票主体がアイデンティティをもつ必要があります。アイデンティティのない主体は、あるときはこちらの意見、別のときはあちらの意見と、意見が定まらずにいるような存在です。それは一見多様性を実現していますが、周りの意見に流されだすと一気に同じ方向を向いてしまう非常に危うい多様性です。独立した多様性を実現するためには、主体一人一人がアイデンティティを持ち、自分の意見に一貫性を持ち、社会に対する責任を持つ必要があります。

こうした主体をインターネット上で実現するためには、インターネット上でのアイデンティティを実現しなければなりません。
一番手っ取り早くよい方法は、インターネット上でも実名で活動することです。われわれは名前を持つことで自分のアイデンティティを一貫して保っています。社会的責任も負っています。

実名ではないにしても、固定ハンドルネームで活動することによって、ある程度のアイデンティティは確立できるとは思います。


【インターネットでの情報の集約の実現方法(夢物語)】
そこで、たとえば、pubドメインのような実名または固定ハンドルネームで活動できるドメインを作り、そのドメインではアクセス時に必ずVeriSein (ベリザイン:Seinはドイツ語で「存在」。ここではただのシャレでつけた仮名サービスです)で認証されて個人が特定されるようにするのはどうでしょうか。そして、pubドメイン内に、pubドメインのYahoo!やブログを作ります。pubドメインのYahoo!にアクセスすると自動的に認証されて実名もしくは固定ハンドルネームでサービスを利用することになります。

VeriSeinでは、実名の公表度合いを設定することができ、pubドメイン内のあるサイトでは実名は隠し、別のサイトでは実名を出すなどもできたり、自分が認めた人にはハンドルネームと実名の紐付けを公開することができます。が、実名を明かさないときも、少なくともVeriSeinによってハンドルネームと個人の紐付けが担保されています。

またpubドメイン内で詐欺行為やルール違反を犯すと、現実の個人が罰せられます。

こうしたpubドメイン内では、オークションもe-Commerceもオンライン・バンキングも安心して利用できます(少なくとも現実世界と同程度にという意味ですが)。diggのようなニュース投票も詐欺的行為無くある程度信用できます。相変わらずブログでは自分の好きなことが書けますが、故意に炎上するようなコメントが書かれることも少なく、無関係なサイトからのトラックバックなども発生しません。
友人や同僚とディスカッションしたいときには、認証サイトで実名でディスカッションし、非認証の自分のブログに書き込んだ人が誰か確認したいときにはVeriSeinにアクセスし、自分に公開されていればその人が誰かを知ることもできます。

こういうpubドメインが実現すれば、自由かつ責任を持ったインターネット上のバーチャル社会が形成でき、個人の意見が信頼性を持って社会とリンクしていくのではないでしょうか?

問題は、pubドメインやVeriSeinを誰が運用するのかということですが、これはpubドメインに複数の民間業者が参入できるようにして、人々が自由にpubドメインを変更できるようにするしかないでしょうね。

こういう案はどうでしょう?
多くのインターネット・ユーザにとって、デメリットよりもメリットのほうが多いと思うのですが。
2ちゃんねるのようなところで井戸端会議したいのであれば、pubドメインから出ればもう今までのインターネットと同じです。
pubドメイン内では、安心して各種サービスを利用できますし、個人が発信した情報が信頼しうる投票によって社会的力を得ていくこともできます。

とくに初期からのインターネット・ユーザほど、身元を明かしてインターネットにアクセスすることに抵抗を感じるようですが、ここは今までの慣習に囚われず、ゼロベースで考えてみてください。身元を(少なくとも第三者に)明かしてインターネットにアクセスした方が実はよくないですか?


【夢物語は夢の物語にすぎないけれど】
でも、そういうのは(おそらく)ありえない。

なぜなら、SSQ氏が常日頃言うように、人間は個人としても集団としても社会としても表と裏を持っており、その中間グレーゾーンも持っているからです。表裏はそんなにはっきり区別できるものではありません。

インターネットはエロで普及したといわれています。マスコミもまた、エログロナンセンスを好み、趣味の悪いワイドショーを垂れ流します。一般大多数がそれを楽しんでいるというのも事実です。テロップだらけで騒がしいだけの番組を楽しみ、コメンテーターの情緒的発言に憤怒するのもまた一般大多数です。

過去の歴史を見ても、綺麗な夢物語、言ってみればユートピアはけっして実現されずに来ています。たとえば、武者小路実篤の「新しき村」。理想的な農村生活ですが、けっきょく一部の人しか賛同しませんでした。武者小路実篤自身も数年間しか村に住んでませんし、晩年はぶっとんだ作品を書いたりもしていて、いろんな側面のある人物です。やっぱり、アイデンティティをもつ人間であっても、一色に塗りつぶすことはできないのです。白から黒までカラフルなグラデーションを描いているというのが真実でしょう。

そういう人間を表象するのにデジタルは弱いと思います。
アナログの場合は、境目が曖昧なので、必然的にグレーな部分を含みますが、デジタルの世界では個人を特定しようとすればはっきりできてします。変装などもできません。逆に匿名にすれば徹底的に匿名になってしまう。指紋なども残りません。
こういうデジタルなインターネットの世界でどうグレーゾーンを含むようなよりよいあり方を実現していくか、というのは非常に難しい問題です。

他方で、ありえないと投げやり開き直ってしまってはどうにもなりません。われわれ一般ピープルは俗な人間なのだから俗な世界に生きていればいいんだというような諦念は起こりがちですが、それには個人的には賛同できません。
先ほども書いたように、人間は白から黒まであるのです。つまり、"白い"部分もあるのです。白い部分だけではうまくいかないのはそのとおりですが、だからといって黒い方だけでいいというわけではありません。

遅々とした歩みながらなんとか問題を解決し少しずつ前進してきているのも人間の歴史です。自然科学のようにスパッと道が切り開けるわけではありませんが、白と黒の狭間でもがきつつも、(よくない)現状を変えていくことが重要だと思っています。
そのためにも、恥ずかしながら、真っ白な考えを書いてみました。突っ込みどころ満載だと思いますが。

2007年1月31日水曜日

Somethingとなりうる情報の流れ

前々回のエントリのコメントで考えていたことを図示するとこのようになるでしょうか。
この絵でもすべてを言い切れていませんが。
(画像をクリックすると拡大したものが見れます)

『Web進化論』で言う「(≒無限大)×(≒無)=Something」となりうるためには、ただ単に情報を垂れ流すだけでなく、情報の流れ方、集約のされ方が重要なのではないか?と考えています。
まずは、その問題点の指摘のエントリです。


・インターネット以前の情報の流れ

極論すると、今までは、マスメディアにしか社会への影響力はありませんでしたし、人々にとっての情報収集源の主なものもマスメディアでした。
ただし、人々は選挙によって社会に影響を与えることができました。
また、マスメディアに対しても投稿やアンケートなど限られて入るものの意見を吸い上げるパスはありました。



・初期インターネット時代の理想

そこにインターネットが登場してきて、すべての人の有象無象の意見が発信され、その中のいくつかが社会に影響を与え、極端な場合マスメディアはもはや不要になる、という夢のような物語が語られるようになりました。




・インターネット時代の情報の流れの現実

ところが、インターネットが普及した現在でも、実際には、

(1)マスメディアは依然として社会に大きな影響力があり、人々の主な情報源のままです。ブログ等で話題になるのもマスメディアによって報道されたニュースが中心だったりします。

(2)ごく一部のブロガー達は、自身のブログで意見を発信し、マスメディアや社会に影響を与えています。私の個人的な観察では、ここに所属するのは、元マスコミにいたフリーのジャーナリストの人々や学者(の卵含む)が個人名で発信しているものがメインです。あとは、フリーウェアなどを公開している方々でしょうか。ここの予備軍となるようなブログは数多くあるもののなかなか吸い上げ影響力を持たせるようになるようなパス/回路が少ないのが現状です。

(3)言い方は悪いですが、不特定多数の意見は、自己撞着的かつ情緒的に閉じたコミュニティ内で垂れ流されています。
かつ、ここに所属する人々がもし選挙に行かないとすると(ここは私の勝手な想像です)、これらの人々の意見は選挙を通しての社会への影響もまったくないことになります。



もともとインターネットの力として夢みられていたのは、(2)のような形態なのだと思いますが、実際に(2)と(3)の格差/壁は想像以上にあるのではないでしょうか?

別に(3)で井戸端会議をインターネットでしようがいいじゃないか、というのはそのとおりです。このブログ自体がそうですし。インターネットのおかげで会ったこともない人とも井戸端会議ができるようになったのは、それはそれでよいことでしょう。

それを踏まえたうえで自分がまずは言いたいのは次の3つ。
少々過激かつ扇動的な言い方で書くと。

■幻想を捨てよ、現実へ出よ
有象無象の情報の錯綜こそが力を持つという初期民主主義の幻想は捨てよう。インターネットがそういう力を持ちうる初期段階は脱したのではないか?そんな夢に甘んじている間にも、旧来のマスメディア勢力が着実に地盤を築いていっており、そうなるとインターネットの本当の力が骨抜きにされる可能性もある、ということです。そうなると、けっきょくインターネットは"サブ"カルチャーであり、"アングラ"である、ということになりかねません。

■開き直ってとどまらず、回路を開こう
(3)から(2)への回路を開くことが重要です。そして、(2)の力の増強のために(2)から(1)への回路を太くしていくことも重要です。
(3)は(3)で存在価値はありますしよいのですが、少なくとも(3)にとどまることが情報を発信しているのではない、という認識が必要なのではないでしょうか。
つまり、多くの人が、(2)と(3)の壁を乗り越え両方にまたがった活動をするということこそ、初期インターネットの理想に近いのだと思います。
(3)にとどまることで開き直ることも可能ですが、そのままなにもせずにSomethingの情報となることはよっぽど幸運な場合だけじゃないでしょうか。

もちろん、必ずしも(2)に活動領域を広げなくとも会社などの実社会や選挙で社会に関係していくこともできるので、私も含めて(3)にとどまっている人がぜったいに(2)に出て行く必要は無いとは思います。ただし、インターネットの世界の中だけで考えるとそれは必ずしもインターネットの力の増大には手伝っていないかもしれません。

いずれにせよ、どうやって回路を開き太くしていくのか、というところがポイントですが、すみません、このエントリではそこまで触れられません。(私自身答えもありませんし)

■情報を保護しつつ共有できる社会へ
実は(3)の人が一番情報の所有権に反発しているのかもしれません。が、何も発信しないのにタダで情報を得ようというのはムシがよすぎると言われてもしょうがないかもしれません。事実上、公共物のフリーライダーです。
他方で、マスメディアや情報の卸となっているところが、情報の所有権をたてに情報を独占し、情報の自由な流通を妨げている、というのも事実です。

情報を自由に共有するためには、まずは情報を保護し(少なくとも作品と創作者のクレジットが紐づくようにし)、その上で対価を得る仕組み(対価を得ない仕組みも含めて)を作っていく必要があります。
それについては、これまでも著作権がらみで私の意見は述べてきていますし、今後考えていきたいテーマでもあります。ので、このエントリではこのくらいで。


少々扇動的だったかもしれませんが、インターネット時代に夢描ける状態と現実にかなりの乖離があり、実はその乖離を固定化しようとしているのがインターネットの夢を見続けている初期インターネット・ユーザ達で、そうこうしている間にも、インターネットの夢は押しつぶされていくのではないか、という危機感からのエントリのつもりです。

「イノベーションのジレンマ」*1と呼ばれるものにインターネットが囚われないことを祈りつつ。

-
*1 イノベーションを起こした当初の成功戦略や体験に居座り続けることで、イノベーションの普及期に後続に追い抜かれたりシェアを落としてしまったりすること。しかも居座り続けることが正しい戦略であるというのがジレンマとなっています。

2007年1月28日日曜日

進化論と歴史は価値判断をどう取り扱うのか

前エントリでどうしていまさら『Web進化論』を取り上げたかというと、『日本の200年』のエントリと並べたかったからです。
どうして並べたかったかというと、「進化論」に対して「歴史」を対置したかったからです。


■進化論における真理は物理的因果関係の解明
前エントリで書いたように、正統派進化論は自然科学であり、きわめて機械論的に現象を捉える考え方です。この考え方にのっとれば、人の意思の入る余地はなく、物理現象として生物の変化を捉えることができます。
進化論においては、そこに起こった変化や現象の価値判断は行われず、その現象を物理的要素に還元しその因果関係を解明していくことになります。


■歴史における真理は歴史的意味付けの発見
歴史もまた、いろんな方法論が混在しています。だれそれという偉人がどんなことをしたというような属人的(非科学的)歴史から、技術の革新による歴史の進展を描くような科学的歴史までいろいろあると思います。
正統派(と私が考える)歴史学では、科学的方法論に立脚し客観的描写を行いますが、人間の意志を完全には排除しません。というのも、歴史は人間が営むものだからというのもありますが、歴史を人間の意志の及ばない物理的要素に還元するのが難しいからだと思います。
歴史学においても、現象をある要素に分解してその因果関係を解明していくのですが、そこで分解されたAtom(要素)は、自然科学における物理的なものにはなりえません。もちろん、歴史においても最小まで分解していけば物理的要素に還元できるのでしょうが、その因果関係では歴史的スパンを描けないのだと思います。実際、きわめて科学的方法論に忠実に歴史を描こうとされた試みもあると思いますが、それが歴史的真実を捉えているとは言いがたく、現在まで正統派にはなりえていません。

何を還元された歴史的要素とするかということがその歴史家におけるスタンスであり価値観の反映でもあります。物理的現象に還元できない以上、要素の捉え方は歴史家の意識に影響されます。
正統派の歴史学では、この部分を可能な限り客観的なものとするために、歴史書などの当時の文献、歴史的データ、今まで正しいとされてきた歴史的見解などに依拠しつつ、自らが打ち立てる歴史的要素の因果論を展開することになります。

進化論などの自然科学における真実は、物理的因果関係の解明なのだと思いますが、歴史における真実は、今まで無かった歴史的事実(歴史的要素)や見解(歴史的因果関係)の発見なのであり、それは新たな文献の発掘によらないのであれば、新しい価値観やものの見方の提示となります。

過去の変化の現象を扱う「進化論」と「歴史」の違いは、扱う対象が自然か社会かという違いとともに、そもそもの方法論が異なっているのだと思います。


■「Web進化論」と「Web歴史学」の想像
ということを踏まえたうえで、ありうべき「Web進化論」を想像するに、たとえば、HTML、SGML、XML、RSS、AJAX、、等々の多様なWeb 技術の変遷とどのように採用されてきたかについて記述することになるでしょう。Web技術系統樹のようなものが作成されるはずです。
あるいは、ホームページ、BBS、CMS、Blog、SNSなどの変遷によってどのように人々の意識が表出されるようになってきたかの因果関係を記述することになるでしょう。
ただし、進化論の範疇ではその価値判断はなされないはずです。

「Web歴史学」のようなものがあるとすれば、そうした「Web進化論」に価値判断を載せていくことになると思います。いわば「Web進化論」の後日談のように、けっきょくその技術がどうして出てきて何を変えていったかの描写となります。さらには、人類の歴史にとってどのような意味合いを持っていたのかが記述されていくでしょう。

過去に起こった変化に対して、自然科学である進化論は物理的因果関係の解明を、人文科学である歴史学は歴史的意味付けを行うことでそれぞれ真理を見出していくのです。


■進化論的自由主義と歴史学的社会民主主義
「進化論」も「歴史学」も過去の現象を扱うものなのですが、これを現在や未来に適用してみるとどうなるでしょうか。

進化論的立場では、何でもありの多様化を肯定し、これが後々には淘汰(自然選択)されていくことが期待されます。これはいわば自由主義的立場に近いでしょう。

歴史学的立場では、将来のありうべき姿に対しての意味のある活動を肯定していきます。その中には最初から弱者救済も含まれます。これは社会民主主義的(人権主義的)立場に近いものとなるでしょう。

ただし、実際には、自由主義立場であっても、人間社会は自然界のような完全な弱肉強食は人権上許されず、最低限のセーフティーネットを設けることで弱者も救出していくことになるでしょうし、社会民主主義的立場であっても、すべてにおいて全国民一致した将来のありうべき姿を描けるわけではなく部分的には自由主義的競争を取り入れていかざるを得ません。

個人的には、新しいものを創出する分野では自由主義的(進化論的)多産多死モデルが有効だと思いますし、成熟分野での価値配分は社会民主主義的(歴史学的)価値判断が必要だと思っています。
Webの世界1つをとってみてもどちらか一方だけでうまくいくというものではなく、新しいものの自由な多産とその価値付けによる平等の実現という両輪を回していかないといけないのでしょう。

強引にまとめるのであれば、社会における革新と保守、自由と平等の相互作用、闘争は、進化論と歴史の相互作用でもあると言えるかもしれません。

2007年1月25日木曜日

進化論のあやうさ:コンサルワークとしての『Web進化論』

いまさらですが、梅田望夫さんの『Web進化論』について。随分前に読んだものの記憶に頼ってですが。

まず、あっという間に読めて、かつ今のインターネットがいったいどういう状況なのかをざっと知ることができるという意味では、非常に良い本だと言えると思います。(いちおうITという)専門の内容について「読める」本を書くというのは実は非常に難しいので、その点では良書です。また、ベストセラーになって専門外の非常に多くの人に読まれたという意味でも、画期的な書物だと思います。

私個人的には、池田信夫blog(「ウェブ進化論」)にもあるように、正直「何をいまさら」、「ティム・オライリーがうまく概念化してまとめたもの(「Web 2.0:次世代ソフトウェアのデザインパターンとビジネスモデル訳」)と、その後にWeb上で展開された議論がうまくまとめられただけで、とくに新しい情報はないなぁ」というものでした。
でも、うまくまとめる、というのがすごいことではあるので、画期的な本であることは間違いないのですが。

この本で気になったことは、

* 二分法による煽り
* 現状追認 - 分析のなさ
* 進化論というタイトル

です。


■二分法による煽り
阿部重夫編集長ブログ「最後から2番目の真実」ウェブ進化論1――梅田望夫氏の「神の視点」」でも指摘されているとおり、梅田氏は、「こちら側」と「あちら側」の単純な二分法で現状をとらえようとします。これ自体は、非常にわかりやすくてよいのですが、それが「煽り」に結びついていることにすごく引っかかりました。
つまり、「もうインターネットの新しい世界は「あちら側」に行ってしまってるのですよ、それに気づかずまだ「こちら側」にいる人は早く「あちら側」に行くようにしてください。」と言っているのです。

私のようなひねくれ者は、このような「アゲアゲ」感、煽り感にはすごく反発してしまいます。「あなたに言われなくても自分の行くところは自分で決めます」と。
しかも、社会現象として煽りをかけていて、素直な人や気の弱い人は「わー自分はこんなに遅れてるんだ。まずいなぁ」と思ってしまうかもしれません。

その上、どうやって「あちら側」に行くのかについては、がんばって追いついてください、としか言ってない。ん~、これでは「こちら側」の人も動きようがないですね。
結果、この本に煽られた人も、少しだけ危機感が高まっただけで、けっきょく日常に戻って具体的なアクションは何も取れてないのではないでしょうか。新書なんてそんなもんだと言えばそうなのかもしれませんが。


■現状追認 - 分析のなさ
次に、現状追認です。この本でなされていることは、インターネットで今起こっている現象をただただ「良いもの」として認めていく作業です。多くの現象を後追いで認めていっているだけ(と言ったら言い過ぎかもしれませんが)で、1つ1つについて分析を深めるということがなされていません。

たとえば、ブログ1つ取ってみても当然メリット/デメリットがあったり、今までの多くのメディアとの違いがあるはずですが、ひたすら、みんなが発信できるのはすばらしい、取るに足らない情報が無限に発信されることで何かが生まれる、『みんなの意見は「案外」正しい』を実現していっている、と現象を賞賛し追認しているだけです。
自分のブログで『みんなの意見は「案外」正しい』について書きましたが、正直、梅田さんははたしてこの本をちゃんと読んだのかな?と思いました。タイトルだけで引用してないか?と。

新しいものに対して、その価値がまだわからないため保守的についつい反発しがちなところをとりあえず認めて受け入れていく、という態度はよいことだと思います。実際、私もそれを心がけているつもりです。

しかし、ここまで新しいことの負の面を見ず、ひたすら賞賛していくだけだと、またまた私のようなひねくれ者は眉唾に感じてしまいます。もう少し1つ1つ深めて分析していくべきなのでは?と思ってしまいました。


■進化論というタイトル
進化論は、いまや小学生でも知っている考え方かもしれませんが、実は非常にあやうい考え方です。正しく進化論を捉らえられている人は案外少ないのではないでしょうか?(私自身正しく捉えているかあやしいですが)

進化論にもいろんな亜流があるようですが、正統派はきわめて機械論的に進化論を捉えています。目的論的ではありません。
何を言っているかというと、進化は、ある環境に適応しようとして起こるのではなく(=目的論的)、たまたま起こった多様な形態の変化のうち環境の制約によって数多く残ったものが結果として進化した形態なのだ(=機械論的)、ということです。
現代的な科学者にとって受け入れやすいのは、ほぼすべてを物理現象として表現できる機械論的なものの方でしょう。目的論の立場を取ると、どうしても最終的には人の意志や意識、あるいは神的なものまで出てきてしまう、トンデモの方向に走る可能性があります。

進化論は、生物学だけではなくて、社会学やその他の分野にも影響を与えています。マルクスも、自身の唯物史観がダーウィンの進化論の影響を受けていることを認めているようです。
いろいろ与えた影響のうち、最悪の影響だったのが、優生学です。雄と雌の脳は遺伝構造的に異なり、雄の方がより進化した優れたものだ、とかいうようなものです。科学者がまじめにこういう議論をしていた時代もあったのです。
こうした優生学は、後にナチスに利用されて民族の優劣付けが行われました。

もちろん、本来の多様性を認める進化論と、優劣を固定的に考える優生学は似て非なるものではあります。

進化論については、
ウィキペディア:進化論
はじめての進化論


と、ここまで進化論のことを書いてきて、何が言いたいかもうおわかりだと思います。
『Web進化論』の考え方が、正統派の進化論というよりはむしろきわめて優生学的なものに考え方が似通っていると思えてこないでしょうか?
と書くと梅田さんが見たら怒るかもしれませんが。

『Web進化論』は遺伝や民族によって優劣を固定化していないので、その意味では優生学なんかとはぜんぜん違いますが、でも、「あちら側」と「こちら側」で明らかに優劣をつけています。そして、まだ「こちら側」にいる人は遅れているからはやく「あちら側」に上がって来い、と言うのです。
こういう考え方は、正統派の進化論の考え方とは相容れないものです。

「進化論」というメタファーは非常に強力なのですが、人文系で下手に使うとトンデモない方向に走ってしまいます。強力なだけに使用には注意が必要な概念です。
人文系の本で「進化論」という概念が出てきたときは、非常に緻密かつ周到に概念が練られた良書か、何も考えずに強力なメタファーとして使った愚書かの両極端に分かれてしまいがちだと思います。

そういう観点でも、私はこの本のタイトルを見た段階で、すでに身構えて読み始めてしまっていたのでした。
あまり、こういう読み方が良いとは思いませんが。でも、自分の予想通りだったと思います。


実は、最初、この本を読んだときは、梅田望夫という人はてっきり学者なんだと勘違いしていました。
それで、学者でこんないい加減でアゲアゲなことを書く奴はぜったい信用できんと勝手に思い込んでいました。(すみません)
でも、よく見てみると、梅田さんという人は、コンサルな方なんですね。
二分法で分かりやすく説明し、かつ強力なメタファーなどを使いながら自分の主張を強く主張する、というのは、まさにコンサルの王道ですし、コンサルとはそういう仕事なので、この本は見事なコンサルの成果だと言えると思います。これだけ影響も与えたのですから、コンサル冥利につきるでしょう。私も、コンサルの方が書いた本だと最初から思って読めば、ここまでひねくれた態度は取らなかったかもしれません。(重ねてすみません)

ちょっと否定的に書きすぎたかもしれませんが、ブログ肯定者の梅田氏ならこんな愚ブログも許してくれることを期待しつつ。

最後に、繰り返しになりますが、この本が社会に与えた影響は他に比肩できるようなものはなく、その意味ではすばらしい出版だったということは言うまでもありません。ということを付け加えておきます。

 
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