2009年2月15日日曜日

発育と教育による脳の因果論

昨日は、「ある神経の働きと次の神経の働きがどのようにして意味のある思考の論理展開となっていくのか、それはコントロールされた必然的なものなのか、偶然の連なりがあたかも意味があるかのような論理的思考の脳の働きになっていくのか。」

と書きましたが、子育てをしていると、脳の活動が、当初は単なる神経の働きの偶然の連なりにすぎないというのがよくわかります。幼児がずーっと意味不明語を話しているのを見るに、エピソード記憶に入った音声的記憶をほぼランダムな順番に再生しているにすぎず、そこに意味はほとんどありません。

ところが、そういうランダムな発話行為に対して、大人がいろいろな反応を示すことで、特定の発話行為が現実の意味に結びついていきます。これは、その発話行為に関連する神経の働きと、現実の反応がより強く結びつけられていっているのでしょう。

さらには、子供時代の教育において、これは正しい正しくない、と家庭や学校で規律づけられていきます。それによって、特定の神経の働きが強められていくのでしょう。

というように、偶然の神経の働きが、外からのフィードバックによって強められて残るようになっていくというようには言えます。

ただ、今度は、遭遇するある場面に対してどうして似たような場面に関連づけられた神経細胞が活動し出すのか、あるいはいろいろな意味のあるひらめきや創造はどのようにして発生するのか、ということの説明が難しいです。

これも因果論でコンピュータ処理的に説明しようとすると、ある場面に対して脳内の関連するすべての神経細胞が強い順番に反応していって最適なものだけが残って意識にのぼるとしか説明できないです。本当に脳の中でそういう(無駄な)ことが起こっているのか、それとももっと特定の目的に沿うような働きとなっているのか、ということについてはやはり謎のままです。

2009年2月14日土曜日

科学的因果論をはみ出していく脳〜『心の脳科学』

心の脳科学 —「わたし」は脳から生まれる』坂井克之、中公新書

心や「わたし」が脳のどのような活動から生まれているのかを、現在わかってきている範囲でわかりやすく説明した本です。非常に興味深いです。

最終章では著者の希望的観測含めた脳科学への想いが記述されていますが、その前までの10章ほどで、現時点でどのような実験によりどこまでわかってきているかがわかりやすく記述されているため、TVによく出ているような脳科学者の結論しか書いてないような本よりは、ずっと良心的で内容も濃いです。

まず、科学的に脳の働きを解明するためには、意識や心といった漠然としたものを特定の現象へと分解する必要があります。そのために、いわゆる「錯覚」のような現象が実験では使われるようです。たとえば、紙の両端に描かれた絵を一定距離から見ると、右目に入ってくる絵と左目に入ってくる絵が交互に意識にのぼり、コントロールできないという錯覚的現象が、意識を分解的に扱うために利用されます。

脳の測定方法は主に2つあるようです。1つ目が主に脳空間の測定です。脳のどこの働きがそのときの現象に関係しているかを明らかにする測定です。そのために、まず科学として、大きさや形に個人差のある脳を平準化し座標化します。その後、MRT装置を使って脳の活動を画像的に処理します。おおよそ1mm程度の精度まで計測できるそうです。ただし、この方法の欠点は、計測間隔が2秒ほどになってしまい、瞬間的な脳活動を測定できないことです。また、測定装置が大きいというデメリットもあります。

もう1つが脳の働きの時間的経過を測定するものです。脳に電極を貼って脳波を測定するタイプのものです。この場合ミリ秒単位で脳の活動を測定できます。逆に脳のどの場所の活動かの空間的測定はかなり曖昧にしかできないようです。

この2つの測定方法を使って、意識や心の動きを分解したような特殊ケースでの脳の働きを測定していきます。

測定結果は必ずしも脳の特定の部位だけが活動したというようにはならないため、統計的に処理されます。統計的に有意な活動分布を示した部位が、おそらくその現象に直接関係している場所だろうということです。

以上は、どういう現象のときに脳がどのように働いているかを計測する方法ですが、逆に、脳がどう動いたときにどういう行動をとりうるかといった測定方法も開発されつつあるそうです。

たとえば、事前に 何十回もウソをついたところの脳活動を測定させてもらい、また何十回も本当を言った時を測定させてもって、そこからウソをついたときの脳活動パターンを抽出します。これにより、脳活動を測定してそのパターンとマッチングさせることで、そのとき嘘をついたかどうかが90%の確率でわかるようになっているそうです。

「わたし」や意識がどのように生まれるのかはまだ科学的には解明されたわけではないですが、脳全体の働きの中でその時点で最も強く働いていた神経信号が意識となっている、と表現できるのかもしれません。それにしてもどのように脳の神経信号の強弱の波が普段意識している論理的な脳の働きになるのかは不明です。この発想でいくと、誰か何かが神経を意味あるものになるようにコントロールしているのではないか、その誰か何かが「わたし」なのではないか、と考えてしまいます。逆に、ただの偶然の神経信号の波の連なりが意識になっているだけで、何もコントロールしている第3者(=「わたし」)などなく、われわれの意識は偶然の神経の積み重ねにすぎない、と言うこともできます。

こう考えると、これは、古くからの哲学的課題である、主体と客体の問題、必然と偶然の問題と同じところにたどり着いているのが分かります。

ある神経の働きと次の神経の働きがどのようにして意味のある思考の論理展開となっていくのか、それはコントロールされた必然的なものなのか、偶然の連なりがあたかも意味があるかのような論理的思考の脳の働きになっていくのか。

近代哲学と近代科学の礎を打ち立てたデカルト的宇宙観の中にいるわれわれにとって、要素を分解し、因果論で考えるという思考方式や認識論では、この問題は解決できないのかもしれません。

量子力学における量子の波的性格の問題などもそうですが、原因があってそれに対応する結果があるという因果論では説明できず(スリットを通り抜けた光が決定論的な因果によってスクリーンのある場所にたどり着くのではなく)、われわれの説明表現では「将来的なある結果を目的として今の活動がある」と表現をせざるをえないような(スクリーンに波上に散らばるという目的に向かってスリットを光が通っていく)、そういう論理、われわれのリニアな思考論理展開ではけっして表現できないような論理でしか説明できないことがこの世にあるかもしれない、というとSFすぎるでしょうか。

そういう未知の論理があるかどうかは別として、少なくとも決定論的な因果では説明のつかない現象が存在しえて、脳の活動などもそういう現象なのではないか、というのがこの本を読んでの個人的結論です。

そうでなくても、そもそも意識や脳へのインプットはそんなに単純に分解できないものです。分解しきれない、あるいは影響範囲を絞りきれない、そういう科学の前提が成り立ちえないのが、現実の現象だとも言えます。社会や人間には、原理として、科学の前提、科学の閉じた論理からつねにはみ出していく要素が存在し得るのであり、そういうことを認識した上で科学の有効性や偉大さがさらに深く認識できるということも言えると思います。

 
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