2008年3月31日月曜日

そもそも特措法って何?

先週の記事ですが。

TechON:誰も言わないガソリン税騒動の真因

ガソリン税の問題については、特定財源か一般財源かという問題と同時に、そもそも「特別措置法」って何?って問題でもあります。
なんで登記税とかガソリン税とかいっしょになっているの?と。(けっきょく、ガソリン税だけ分けて法案化されましたが)

特別措置法は、その名の通り、本来の税法本体に対して特別措置するものです。で、こうした項目が91項目あるらしく、その中で約30項目が30年以上も更改されて続けられているそうです。

30年も同じ措置をとるなら税法本体に組み込むべきなのでは?と思いますが、そこは政治、実はこうした措置を通すために業界からたくさんの献金が政治家に流れていると言います。なので、特別措置としておくことに(政治家にとって)意味があるそうです。

税金は、国民と国家との重要な争点であり、信頼の根拠ともなるものですが、どういう風に使われているのかも分からず(特定財源の問題)、どういう風に取られることになっているのか(特措法)もよく分からないのはよくないですね。

2008年3月29日土曜日

YouTubeとJRCが包括利用許諾契約

同業種のJASRACもYahoo!と協議したりしていますが、JRCがYouTubeと包括契約したという話。

TechON:「YouTube」での楽曲利用を可能に,音楽著作権管理事業者のJRC

これによりJRCが権利を管理する楽曲のコピーをYouTubeにあげても問題ないということなりました。
が、ライブ映像やTV映像などは、隣接権などいろいろあるためやっぱりダメです。

著作権法自体いろいろ問題はありますが、こうした契約でクリアできる部分も多々あります。実際、アメリカではそのようにしてネット活用が進みつつあります。

そのことを指摘しているのが同じ時期に出た次の記事の最初の方。

CNET:IT業界はコンテンツを無料で騙し取っていないか--著作権問題の奥にあるもの

ただし、後半は、既存コンテンツ・ホルダー側からのがっかりな意見多数。「コンテンツホルダーは魅力ある提案を待っている」って、なんて後ろ向きな殿様商売的態度。。。言ってることは間違ってはないのだろうけれど、これでは前向きな擦り合わせはできそうになさそうですね。
ネット業界もそうなのだろうけれど、お互いに仮想敵化して歩み寄る気配が感じられないのはがっかりです。
地方の知事が「道路は必要だ」と言い、民主党議員が「必要な道路を作らないと言ってるわけじゃない、特定財源でやるべきでないと言っているんだ」とお互いに噛み合ない発言を繰り返しているのとダブついてしまいました。

2008年3月27日木曜日

死と抽象化

最近、(おそらく個人的にだと思いますが)新聞やネット記事で"死"について扱った物を読む機会が多かったです。

たとえば、本は読んでませんが、
NBonline:烏賊から学ぶ平和〜『イカの哲学』

中沢新一さんの新書の紹介です。イカと平和の結びつきという意外性がおもしろいですが(中沢新一さんお得意ですが)、キーテーマは、"死"をどう意識するのかということだと思います。"死"を意識させないようにしがちな近代社会の功罪が、イカと平和にからめて語られているようです。

これをはじめとして、最近読んだ記事では、現代においては"死"が日常生活から遠ざけられ、その結果、"死"にまつわる戦争や犯罪が抽象的に語られ、極論に走ることが多いという批判が多かったです。

正しいとは思いますが、抽象化(結果として原始的な生命現象からの隔離)は現代人の最高のツールなのであり、このおかげで高度な社会生活が営めています。
なので、そこのバランスをどう呼び起こすのかということが重要に思えます。

また、まだ読んでいませんが今年『死刑』という本を出した森達也さんへのインタビュー記事もありました。
(まだ読んでいませんが)バランスという意味で、興味深い内容になっているように思えました。

NBonline:誰かを「死刑」にすると言えますか〜『死刑』森達也さん【前編】
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080324/150968/

NBonline:日本人は「死刑」をなぜ支持するのか?〜『死刑』森達也さん【後編】

「死刑」という事態に対して、揺れる当事者、関係者、被害者へのインタビューからなる本です。"死"というものに対峙して揺れざるをえない。それは死刑賛成論者も反対論者も同じでしょう。

「死刑」は、アクチュアルな"死"から切り離した社会的機能として論じることができる、そして論じなければいけない一方で、どうしてもアクチュアルな"死"を呼び起こしてしまうというところが特異な社会的機能なのであり、難しい問題なのだと思います。

2008年3月25日火曜日

共通感覚としてのアダム・スミスの「神の手」

引っ越して早2週間。
そろそろ再開しようと思いつつも、家具などが到着せずまだ地べたMacで、なかなか再開できていませんでした。

が、なかなか興味深い記事があったので、ここから再開。

池田信夫blog:「見えざる手」は誰の手か

アダム・スミスが『国富論』で、「人々が利己心にもとづいて行動すれば、おのずと秩序が成立するという」有名な「見えざる手」を説きました。
かたや、『道徳感情論』では、「他人に対する共感(empathy)が秩序の基礎だ」とも説いています。

アダム・スミスが「見えざる手」で想定したのは、池田信夫さんが指摘する通り、理神論というのが素直な気がします。神の手です。
同時代、ニュートンは自然法則を科学的に明らかにしながら、こうした完璧な法則は神が作ったのだと理神論を唱えています。
同じようにアダム・スミスも、社会現象(経済)を科学的に明らかにしながらその根本原因を神に求めたのでしょう。これは(ニュートンも含めて)、本心から神を根本原因と信じたというよりも、この時代のレトリックだとも言えると思います。

アダム・スミスが扱ったような、個と集団(社会)の矛盾は、人文科学の主要テーマです。
そして、結論から言ってしまうと、多くの人文科学の大家がそう説くように、社会が小悪を含みつつも総じて正義を実現したり、少しずつ発展したりするのは、人間が(たとえ自分の損になっても)人を信じたり、共感したりする"傾向"があるという事実なのだと思います。それは、ある社会での共通感覚(common sense=常識)や公正につながります。
どうしてそういう"傾向"があるのかまでは誰も明らかにはできていません。ただ言えるとすると、共同体的慣性のようなものがあり、昔からの傾向はそのまま引き継がれがちだということなのかもしれません。なので、反発したくなる気持ちとは裏腹に"伝統"や"共同体"が重要なのです。(自分は保守ではないつもりですが、やはり大事だとは思います)
池田信夫さんの言葉で引用すると、

ではスミス自身は、この矛盾をどう理解していたのだろうか?一つのヒントは、本書の指摘するように、『道徳感情論』にも「見えざる手」という言葉が1回だけ出てくることだ。これは資本家が労働者を雇う際に、利潤最大化のためには労働者をフェアに扱わないと逃げてしまう、といった文脈で使われている。つまり公正(fairness)の感覚を共有していることが均衡を実現するというわけだ。これはRawlsの『正義論』の考え方に近い。


blog休んでいる間に読んだ本で、『自由はどこまで可能か—リバタリアニズム入門』森村進というのがあります。また、ここで読書メモを公開したいですが、この本は、国家は最小でよくすべては自由市場で解決できるという自由主義を解説した本ですが、そうしたリバタリアン(自由主義者)がどうして国家の介入なくうまくいくのかの最終根拠にいつも社会の"共通感覚"のようなものをあげていたのは興味深かったです。

自由主義者(=社会よりも個人を最大限に重要視する)であっても、社会がうまくいくためには、ある共同体での共通感覚が重要だということになります。

リンク先の池田信夫さんのblogでは、利己心を求めながらも公正な均衡を求める社会が生き残ってきたと進化論的結論を出しています。
一見わかりやすいですが、どうして公正な均衡が淘汰されて残るのか、社会の進化とは何か(社会進化論などもありますが)、といったようなところの論理は省略されているように思います。進化論的マジック(論理の飛躍)があるように思えます。このあたりについて、個と社会の論理を深めていけるのかもしれません。

 
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