2007年6月17日日曜日

共同経験の場としてのマスメディアと情報の効率的収集というインターネット・メディア

TecgCrunch:Revver創始者がパーソナライズできるニュースサービスThoof開設

という記事がありました。
パーソナライズ可能なニュースサイトの新規加入組Thoofについての記事です。
著者はこの手のサービスに批判的で、曰く、

こうしたサイトが何故成功しなかったか?それには私なりの説明がある。人というのはニュースを読むと普通そのニュースについて友だちと語り合いたいと思う生き物なので、一人の人が“おもしろい”と思うものは他のみんながその日何を読んだかにだいぶ影響を受けていると思うのだ。みんな大きなニュースサイトに群がるのは何故か?というと、他のみんながそこに群がるからだしね。なので、本当に自分の興味範囲のニュースだけ求めるニッチな読み手ばかり相手にしてたんでは不十分で、こうしたスタートアップは生き残ってゆけない。

としています。

以前書いたように(マスメディアと共同体的記憶とYouTube)、今日のマスメディアは"共同体的記憶"という重要な社会的役割を担っているために、著者やThoofの創設者のようにこれを個別化を得意とするインターネット・メディアとそのまま比較するのはつらいところがあります。

一斉と個別、PullとPushで、情報配信メディアを分類してみました。(かってなマッピングなので変に感じるところもあるとは思いますが)

■インターネット以前の情報配信


■インターネット後の情報配信


無線による一斉配信というマスメディアのあり方は、いまだインターネット・メディアが及んでいない領域です。
正確には、1996年頃に"プッシュ技術"が現れ、従来のマスメディアの牙城に食い込むかのごとくもてはやされましたが、その後すぐに衰退しています。

野口悠紀夫Online:一世を風靡した「プッシュ」とキム・ポレーゼ

しかし、この領域こそが、よくもわるくも今日の社会の共同体的記憶の役割を担っているのだとも言えます。

インターネット・メディアは、個別化を得意とし、情報の効率的な収集、あるいは専門的/マニアックな情報の配信に効果を発揮していると言えます。

他方で、テレビや映画などの一斉配信方式は、ユーザの共同体験や共同体的記憶を担っています。
映画などのコンテンツは、情報の閲覧ということだけで言えば家でオンデマンドで見ることがもっとも効率的です。ただし、デートで映画館に行ったり、家族で映画館に行ったりする家族や友人との共同経験作りという点では、映画館という場は非常に重要な意味合いをもちます。同様に、テレビは、リビングルームに鎮座することで家族の共同体験作りにいまだ大きな役割を果たしていると言えます。

* 情報やコンテンツを効率的に配信する
* 情報やコンテンツをベースに体験を共有化する

ということをきちんと区別して考えないと、状況を誤って捉えたり、間違ったポジショニングをしてしまうのではないでしょうか。

その意味では、インターネットは、1つ目については現状でかなり成功しているのであり、革命的に便利なツールを多数提供してくれています。

自分が興味があることの1つは、2つ目の部分について、インターネットがどこまで取り込んでいけるのかということです。
この部分にまでインターネットが何かを起こさないと、たとえば「こちら側vsあちら側」という某煽りが、現状追認にすぎないわけではなく、ほんとうにこれから起こるかもしれない革新性を表しているんだということにはならないと思っています。

で、2つ目の体験の共有化をインターネットで取り組もうとすると、持論の1つである、インターネットでの匿名性の部分的除去などにつながっていったりするわけです(インターネットでの情報の集約実現のための真っ白でありえないプラン)。が、それについては、また別に。

2007年6月9日土曜日

年次改革要望書に見る著作権の動き

著作権の非親告罪化やP2Pによる共有の違法化は誰が言い始めたのか?

著作権の非親告罪化(著作権者が訴えなくても警察や検察が捜査や起訴できるというもの)や、P2Pソフトによるファイル共有の違法化(私的複製の範囲外とするもの)の大元に、アメリカ政府が毎年日本政府に出している「年次改革要望書」があるという指摘です。

内容の賛否はともかく、こういうのが無いと国としてまとまって動けないというのが情けないところですが。。。逆にこういうのがあると、それを根拠にどんどん進んでいく、という。

個人的には、著作権の非親告罪化にしろP2Pファイル共有の違法化にしろ、従来の私的複製にはあてはまらないような複製方法が一般化し、収拾がつかなくなってきていることがその根本にあると思います。
これについては、複製を厳格に管理できるようにする、から、いっそ複製を自由に許可するまで、いろんな反応があると思いますが、西欧発の近代的な個人主義の発想で行くと、著作者が自身の著作物に対する複製方法を選択できる、というのが正しいあり方な気がします。

今は法律的には、すべての著作物に著作権が発生し(*1)、その著作権に対しては一律の(国家による)法的規制がかかりますが、そもそもその著作権に対する規制に選択肢を与えるべきという発想です。
そして、それをインターネットの世界で展開している一例が、Creative Commonsだと思います。ただし、法律ではないので国家による規制は働きませんが。

*1 かつてアメリカでは、著作物にコピーライトマーク(Cに○)を明示的につけたものだけが著作権を主張できることになっていました。今は世界的動向にあわせてアメリカでもCマークは必須ではありません。慣例からCマークをつけることがあるようですが。

2007年6月5日火曜日

歴史学という普遍の学問:『歴史学の名著』

歴史学の名著30』山内昌之、ちくま新書、2007

イスラム研究家、国際関係史研究家の山内昌之さんが選ぶ歴史の名著30選です。

いわゆる研究書としての歴史学の名著というよりも、一般の読者を意識した選抜となっています。歴史学的意義よりも読んでのおもしろさに重きをおいているようです。
歴史書が問う意義や、叙述の華麗さ、歴史の中の人間や社会を見つめる視線のおもしろさといったものに重点がおかれているように思います。
フーコーの『監獄の誕生』なども選ばれています。

こういうガイド本を読むと、読んでみたい本がたくさんありますねぇ。

そんな中でも、アイザィア・バーリンの『父と子』が選ばれていて、次のような引用がありました(歴史学の名著としてバーリンが選ばれるのもなかなかおもしろい選択です)。現代の自由主義の停滞というか、すべてが自由になってしまい何も主張できない懐疑主義的状態に陥りがちなわれわれ世代の苦悩をすでに言い表して妙です。

中道の左寄りに位置し、右翼の人相の悪さにも、左翼のヒステリー・非常な暴力・使嗾煽動にも、等しく嫌悪を感じている、この少数で自己批判的で、常に極めて勇敢とは言えぬ一群の人びとは、そう反応するのだ。彼らの祖先たち、およびその伝記執筆者トゥルゲーネフが感じたように、彼らもまたぞっとすると共に強く心を惹かれる。左翼の狂信者たちの激烈な非合理には怖気をふるうものの、さりとて、これら若者や勘当息子を代表すると称する連中、貧困者や社会的に職を奪われまたは抑圧されている人びとのチャンピオンたちを、そっくり一まとめに拒否してしまう覚悟も未だできていない。これが、現代に自由主義の伝統を受け継ぐ者の、われながら意に満たぬ、時には苦渋にみちた立場であることは、言うを俟たぬであろう。

バーリンによれば、トゥルゲーネフに倣って、このような自由の停滞状態は避けて通るべきではなく、あえて引き受けて、教育を、理性を、信じるしかないのだ、としています。

彼は明瞭な脱出路は一切示さなかった。ただ漸進主義と教育とを、ただ理性のみを、提出したのである。チェホフもかつてこう語っている。作家の任務は解決を提供することではない、ただ、ある一つの状況を忠実に描き、問題の諸相を公正に示して、読者にもはやこの問題は回避し得ぬと思わせることだ、と。トゥルゲーネフの提出した疑念のかずかずは何もなお終熄してはいない。道徳的に敏感で正直な、知的に責任をとる人間が、世論の鋭く両極化する時に当たって立たされるディレンマは、彼の時代以後、更に激しさを増し、全世界に拡がっている。当時未だ完全にヨーロッパ的とはほとんど看做されなかった国における、「教養ある一部」と彼には思えた人びとの苦境は、現代ではすべての社会階級に属する人たちの状況となっている。彼はそれを最初期において認識し、類いなく研ぎ澄まされた視線をもって、詩情と真実とをこめてくっきりと描いたのであった。

トゥルゲーネフ的態度は、おそらく正しい態度なのでしょうが、同じ態度は、当時トゥルゲーネフが味わった苦悩を現代において味わうことになるのかもしれません。しかし、『父と子』を歴史学の名著として選んだ山内さんは、あえてそれを主張したいのでしょう。
いずれにせよ、いつの時代にも自由にまつわるこの苦悩は存在するのであり、あまんじて引き受けるにせよ、そこから一歩踏み出すにせよ、自由であることの意味については、重々考えていくべきでしょう。

 
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