2007年2月20日火曜日

脳と身体のバランス:情報化社会の病の仮説

『ウェブ人間論』の書評を養老孟司さんが書いています。

「ウェブを面白がる年寄りが面白がった二人の対談」
http://www.shinchosha.co.jp/wadainohon/610193/review02.html

最後の意地悪だというパラグラフが重要だと思います。

最後に年寄りの意地悪を一言。世界は二つに分かれる。「脳が作った世界(=脳化社会)」と、「脳を作った世界(自然、といってもいい)」である。私は「脳を作った世界」にしか、本当は関心がない。本書でいわれる「リアル社会」を、私はかねがね「脳化社会」と呼んできた。ネットの社会は、私から見れば、「リアル社会」がより純化したものである。「ネットに載る以前の存在」を「どうネットに載せるのか」、それだけが私の関心事だったし、いまでもそうである。ネットに載ったらそれは情報で、私の真の関心は情報化そのものにある。なぜなら私は年寄りで、情報化社会以前に発生した人間だからである。山中に閑居した李白は詠む。別に天地あり、人間にあらず。この人間はジンカン、つまり世間のことである。

Webの世界も含めた人間の社会は「脳化社会」なのですが、人間は当然脳だけでなく自然界にも両方に属しています。

Webの世界が拡大しつつある今、脳化社会(=Webの世界を含む人間の社会)の部分がどんどん拡大していっています。このことは、身体や(原始的)心が自然界に属する人間のバランスからすると、非常にアンバランスになっていっていることを意味します。

実は、こうしたアンバランスさが症状となって表に表れてきているのが現代的な諸問題だったりしないでしょうか?

ニート、引きこもり、心の病、いじめ、凶悪犯罪、これらの諸問題は昔からある古くて新しい問題ですが、現代的な特徴として、自然界に対する脳化社会、とくに情報社会の拡大がその原因となってきたりはしていないでしょうか。

昔は、貧乏や差別、制度によるプレッシャーが、それら諸問題の原因だったとも言えると思います。社会が経済的秩序付け、生まれによる区別、個にのしかかる制度から構成されていたので、そこから外れた人が社会に対する挑戦=メッセージとしてそれらの諸問題を引き起こしていました。

現代においては、情報の偏りや情報力による格差、情報によるプレッシャーなどがそれら諸問題の原因となっていないでしょうか。
それらはけっして情報処理能力が欠けていたり足りなかったりするためにおこるのではなく、むしろ情報処理能力が高すぎて起こることもありえます。その分非常に原因がわかりづらいものとなっていますが、情報力のバランスの欠如、情報のフィルター能力の劣化等々、誰にでも起こりうることがその原因になっているとも考えられます。
圧倒的な情報量を前に、自分の身体や心に逆らってなんとか情報を処理しようとするので、バランスを崩し社会から引っ込んだり、非常に偏った考えになってしまったり、情報と身体や心のバランスを欠いてしまって、それが社会への挑戦=メッセージとして現れるのかもしれません。
あくまでも私の感想にすぎませんが。

相対的に小さくなってしまった自然を支点にして、その上でうまくバランスを取っていかないとあっという間に人間としてのバランスを崩してしまいそうです。

もちろん、自然に帰れ、とか、自然との合一を考える神秘主義的なものを重視せよというわけではありません。逆に、これらの"あやしい"思想や宗教にはまってしまわないためにも、自然界についてもなんらかの意識を持っておくことは重要だと思います。

人間論で人間について考えるのであれば、この自然界の部分についても考えないと片手落ちになるというのが、養老孟司さんの指摘ですね。

2007年2月17日土曜日

『「近代日本文学」の誕生―百年前の文壇を読む』

「近代日本文学」の誕生―百年前の文壇を読む』 坪内祐三、PHP研究所
を読みました。
明治32年(1899)から39年(1906)までの文壇の動きを毎月の出来事として描いたもので、当時の文学の動きがよくわかりおもしろかったです。

前世紀末から日露戦争勝利後の時期です。
この頃は、詩や小説を含む文芸誌がそれなりの社会的影響力を持った時期でもあります。
発行部数は今の売れ筋雑誌と比べればはるかに少ないですが、あるいはそれがゆえに社会的影響力は大きかったと言えるでしょう。つまりは、一億総中流な社会で多様な趣味嗜好をもつ集団の集まりというよりも、ある程度共通の土台を持つ全体からすると数の限られた人たちが社会的影響力を持ち、そういう人に文芸誌が読まれていた、ということなのかもしれません。

薩長中心のある種の貴族政治(特権集団による政治)による近代化と富国強兵策が実を結び日露戦争勝利で近代列強の仲間入りをしていく時代と、それ以降の国民の形成と大衆化による民主主義政治の成立と軍国主義化が並行的に進行する時代の狭間に、文学がどのように変容していき、文壇=知識人がどのようにペンを武器に発言していたのかの記録とも言えます。

文芸誌(ペン)が力を持ったような時代の中でも、「昨今の文壇のたるみ具合はなっとらん」という批判があったり、当時は当時なりに苦悩していた有様がよくわかります。

この時代は、日本の浪漫主義文学の美麗体が古臭くなり、自然主義文学が勃興してきた時期でもあり、夏目漱石が『吾輩は猫である』の連載を始めた時期でもあります。その意味で、文学史的にも重要な時代です。

2007年2月2日金曜日

インターネットでの情報の集約実現のための真っ白でありえないプラン

【このエントリの言い訳】
前エントリで、インターネットが社会へ影響を与えるためには、情報の集約方法が、そして、(3)から(2)へ、(2)から(1)への回路をどう開くかが重要である、と書きました。同時に、自分にはそのアイディアが無いとも書きました。

斬新かつ革命的なアイディアはもちろんありません。が、稚拙ながら私なりの考えはないことはないです。恥ずかしながら、ここではそれについて書いてみたいと思います。
もちろん、正しいわけでも実現しそうなわけでもありません。むしろ、ありえないとも言えます。が、まずは自分なりのあるべき論として書いてみます。
「ありえね~」というご批判もどうぞ。


【投票による情報の集約】
インターネットやブログでの情報の集約の最善の方法の1つは投票だと考えています。多数からの投票により、重要だと思われる情報が見えやすい位置にくるというものです。diggなどのサイトですでに実現されているものでもあります。
もっとも民主主義的であり、長期的に見ればもっとも公平な手法です。株式市場における株価が長期的には企業価値を表しているのは、株の売買という一種の民主主義的投票のおかげだと考えています。

ただし、民主主義的投票は、短期的にはときには暴走します。ファシズム政権を選んでしまったりします。株式市場も短期的にはバブルを引き起こしたりします。
いわゆる集団極性化と呼ばれる現象です。

こうした短期的な集団極性化を避けるためには、投票主体の多様性や独立性が重要となります。

また、今回は取り上げませんが、長期的には公平を実現できるというものなので、とくにニュースなど速報性が重要なものについてどこまでうまくいくかは難しいところもあるとは思っています。


【投票の前提としてのアイデンティティ】

投票主体の多様性や独立性を実現するためには、投票主体がアイデンティティをもつ必要があります。アイデンティティのない主体は、あるときはこちらの意見、別のときはあちらの意見と、意見が定まらずにいるような存在です。それは一見多様性を実現していますが、周りの意見に流されだすと一気に同じ方向を向いてしまう非常に危うい多様性です。独立した多様性を実現するためには、主体一人一人がアイデンティティを持ち、自分の意見に一貫性を持ち、社会に対する責任を持つ必要があります。

こうした主体をインターネット上で実現するためには、インターネット上でのアイデンティティを実現しなければなりません。
一番手っ取り早くよい方法は、インターネット上でも実名で活動することです。われわれは名前を持つことで自分のアイデンティティを一貫して保っています。社会的責任も負っています。

実名ではないにしても、固定ハンドルネームで活動することによって、ある程度のアイデンティティは確立できるとは思います。


【インターネットでの情報の集約の実現方法(夢物語)】
そこで、たとえば、pubドメインのような実名または固定ハンドルネームで活動できるドメインを作り、そのドメインではアクセス時に必ずVeriSein (ベリザイン:Seinはドイツ語で「存在」。ここではただのシャレでつけた仮名サービスです)で認証されて個人が特定されるようにするのはどうでしょうか。そして、pubドメイン内に、pubドメインのYahoo!やブログを作ります。pubドメインのYahoo!にアクセスすると自動的に認証されて実名もしくは固定ハンドルネームでサービスを利用することになります。

VeriSeinでは、実名の公表度合いを設定することができ、pubドメイン内のあるサイトでは実名は隠し、別のサイトでは実名を出すなどもできたり、自分が認めた人にはハンドルネームと実名の紐付けを公開することができます。が、実名を明かさないときも、少なくともVeriSeinによってハンドルネームと個人の紐付けが担保されています。

またpubドメイン内で詐欺行為やルール違反を犯すと、現実の個人が罰せられます。

こうしたpubドメイン内では、オークションもe-Commerceもオンライン・バンキングも安心して利用できます(少なくとも現実世界と同程度にという意味ですが)。diggのようなニュース投票も詐欺的行為無くある程度信用できます。相変わらずブログでは自分の好きなことが書けますが、故意に炎上するようなコメントが書かれることも少なく、無関係なサイトからのトラックバックなども発生しません。
友人や同僚とディスカッションしたいときには、認証サイトで実名でディスカッションし、非認証の自分のブログに書き込んだ人が誰か確認したいときにはVeriSeinにアクセスし、自分に公開されていればその人が誰かを知ることもできます。

こういうpubドメインが実現すれば、自由かつ責任を持ったインターネット上のバーチャル社会が形成でき、個人の意見が信頼性を持って社会とリンクしていくのではないでしょうか?

問題は、pubドメインやVeriSeinを誰が運用するのかということですが、これはpubドメインに複数の民間業者が参入できるようにして、人々が自由にpubドメインを変更できるようにするしかないでしょうね。

こういう案はどうでしょう?
多くのインターネット・ユーザにとって、デメリットよりもメリットのほうが多いと思うのですが。
2ちゃんねるのようなところで井戸端会議したいのであれば、pubドメインから出ればもう今までのインターネットと同じです。
pubドメイン内では、安心して各種サービスを利用できますし、個人が発信した情報が信頼しうる投票によって社会的力を得ていくこともできます。

とくに初期からのインターネット・ユーザほど、身元を明かしてインターネットにアクセスすることに抵抗を感じるようですが、ここは今までの慣習に囚われず、ゼロベースで考えてみてください。身元を(少なくとも第三者に)明かしてインターネットにアクセスした方が実はよくないですか?


【夢物語は夢の物語にすぎないけれど】
でも、そういうのは(おそらく)ありえない。

なぜなら、SSQ氏が常日頃言うように、人間は個人としても集団としても社会としても表と裏を持っており、その中間グレーゾーンも持っているからです。表裏はそんなにはっきり区別できるものではありません。

インターネットはエロで普及したといわれています。マスコミもまた、エログロナンセンスを好み、趣味の悪いワイドショーを垂れ流します。一般大多数がそれを楽しんでいるというのも事実です。テロップだらけで騒がしいだけの番組を楽しみ、コメンテーターの情緒的発言に憤怒するのもまた一般大多数です。

過去の歴史を見ても、綺麗な夢物語、言ってみればユートピアはけっして実現されずに来ています。たとえば、武者小路実篤の「新しき村」。理想的な農村生活ですが、けっきょく一部の人しか賛同しませんでした。武者小路実篤自身も数年間しか村に住んでませんし、晩年はぶっとんだ作品を書いたりもしていて、いろんな側面のある人物です。やっぱり、アイデンティティをもつ人間であっても、一色に塗りつぶすことはできないのです。白から黒までカラフルなグラデーションを描いているというのが真実でしょう。

そういう人間を表象するのにデジタルは弱いと思います。
アナログの場合は、境目が曖昧なので、必然的にグレーな部分を含みますが、デジタルの世界では個人を特定しようとすればはっきりできてします。変装などもできません。逆に匿名にすれば徹底的に匿名になってしまう。指紋なども残りません。
こういうデジタルなインターネットの世界でどうグレーゾーンを含むようなよりよいあり方を実現していくか、というのは非常に難しい問題です。

他方で、ありえないと投げやり開き直ってしまってはどうにもなりません。われわれ一般ピープルは俗な人間なのだから俗な世界に生きていればいいんだというような諦念は起こりがちですが、それには個人的には賛同できません。
先ほども書いたように、人間は白から黒まであるのです。つまり、"白い"部分もあるのです。白い部分だけではうまくいかないのはそのとおりですが、だからといって黒い方だけでいいというわけではありません。

遅々とした歩みながらなんとか問題を解決し少しずつ前進してきているのも人間の歴史です。自然科学のようにスパッと道が切り開けるわけではありませんが、白と黒の狭間でもがきつつも、(よくない)現状を変えていくことが重要だと思っています。
そのためにも、恥ずかしながら、真っ白な考えを書いてみました。突っ込みどころ満載だと思いますが。

 
Clicky Web Analytics