2006年11月29日水曜日

オブジェクト指向の真価とは

現在、開発によく使われる言語としては、Javaや.Netが代表的なものとしてあります。
これらに特徴的なのは、オブジェクト指向ということです。

その昔、システム開発に使用されていた言語はCOBOLやCでした。Javaや.Netはこれにとってかわったわけですが、1つには、オブジェクト指向というものが、それまでのプロセス指向の開発言語よりも優れていると理由付けされることが多いです。
オブジェクト指向は、生産性やメンテナンス容易性の面で、それまでの言語よりも優れているそうです。

ところで、これは本当にそうなのでしょうか?開発言語がオブジェクト指向になることでどこまで開発生産性が向上しているのかなどのデータってどこかにあるのでしょうか?

実際この比較は難しいかもしれません。というのも、言語としてJavaを使用しているがとてもオブジェクト指向とは呼べないつくりのものもあれば、C言語でうまく設計され生産性や再利用性の高いプログラムもあるからです。

言うまでもないことですが、どんな言語を使うにしろ、生産性や再利用性を高めるためにはそれを意識した設計が重要です。
しかし、そういった大事なことが無視されてJavaや.Netなどの言語が使用されているのを見かけることがあるのは残念です。

オブジェクト指向の真価については、たとえば、小飼弾さんのブログに解説があります。

オブジェクトは難しくない。難しいのはクラス
Typeとは俺のことかとClass言い

自分なりに理解すると、、、

プロセス指向言語では"関数"を中心に設計された。言語と比較して言うならば、オブジェクトは名詞であり、関数は動詞である。日常使う言語では、名詞はものの数だけ存在するが、動詞はけっこう共通化して使っている。たとえば、犬も"走"れば人も"走"る。この2つは主語となっている名詞は明らかに違うものを指すし、現象を自然現象として見てもかなり違うにもかかわらず、人間の認識=言語化としては"走る"で共通である。
プログラム言語においても動詞(=関数)は共通化したい意識が働く。つまり、生産性を高めるために共通関数を作りたくなる。ところが、関数は引数にとるデータの型(や構造体)によって処理が異なるため違う名前の関数を作らざるをえない。違う名前の関数ということはすなわち異なる関数であり、共通化できていないことになる。データの型(や構造体)ごとに関数を作っていると生産性や再利用性は低下してしまう。
オブジェクト指向であれば、名詞の数だけオブジェクト(を抽象化したクラス)を作ることは人間の感覚として自然である。その上で動詞に当たるメソッドはポリモーフィズムで共通化できる。"走る"の例で言えば、"犬.走る"も"人.走る"も可能でありかつ処理内容は異なることが可能である。これがプロセス指向言語だと、犬というデータ型に対して"犬走る"、人というデータ型に対して"人走る"という関数を個別に作らないといけなかった。
データやデータの集合に対してその操作(動作)もセットに考えることは普通であり、オブジェクト指向ではそれが可能である。かつ、そのことよりも、うまくクラス、親クラスと抽象化(=汎化)することで、メソッド(=動詞)を共通化させ、長大な名前の関数が氾濫するような生産性の低い設計が抑えられることが重要である。

などなど。

もちろん、エントリの中でも指摘されているように、なにより便利で汎用的なクラス群がたくさん提供されていて、それをオブジェクトとして利用できることが最大のメリットではあります。

こうした便利なクラス群を積極的に活用することが重要ですし、汎化を使ったきちんとしたクラス設計ができていることがなにより重要です。
逆に言えば、そのような設計が活きないようなアプリケーション、たとえば共通の関数(=サブルーチン)をひたすら呼び出して処理するだけのようなアプリケーションでは、オブジェクト指向設計はあまり意味がないとも言えるかもしれません。

何度も言うようですが、生産性の高い設計が目指すべき目標であり、オブジェクト指向はそのための1つの手法でしかありません。ましてや、Javaや.Netは、さらにその手法を実現する1つの手法でしかありません。生産性を高めるために必要であればオブジェクト指向の考え方が取り込まれるべきで、すべてオブジェクト指向でいくべきかとか、Javaで開発するかどうかうんぬんということは二の次のはずです。
もちろん、プロジェクトとしてはスキル要員確保のために、どうしても言語は1種類で済ませたいという重要な要求はあるわけで、それには従うべきですが。

実際、日本に多いカスタムSIのアプリケーションがオブジェクト指向で開発されるとき、どこまでオブジェクト指向が意識されているでしょうか?単に関数呼び出しの感覚でクラスやメソッドを使用していないでしょうか。
Web2.0的世界に生きる優秀なプログラマーには意外かもしれませんが、大手SIerの優秀といわれるエンジニアが企業のアプリケーションを開発するとき、まったくオブジェクト指向の真価を無視した設計がなされていることがけっこうある気がします。もしそうなら残念なことですね。

ところで、オブジェクト指向で生産性を高めるためには、なにもJavaや.Netでなくても、RubyやPerl、PHP、JavaScript (ActionScript)のようなLightweightLangageでも可能です。これからはそういった選択肢も考える必要があるのではないでしょうか?

また、あきらかにオブジェクト指向が適さないアプリケーションも存在しうると思います。たとえば、何万件ものレコード同士をがちゃがちゃ組み合わせて処理をするようなアプリケーションなどでは、SQLでの処理が適していると思います。オブジェクトを何十万〜何百万個も作成して何十分〜何時間も処理を行うのは耐障害性の観点から言ってもあまりよい設計とは言えないでしょう(もっとも、最近はJavaでもJavaバッチという仕組みが考えられたりしているようですが)。

2006年11月28日火曜日

分散"と=and"集中

MicrosoftのCTOであり、Lotus Notesの開発者でもあるレイ・オジー氏のインタビューです。

「解雇された才能ある人たち」を救え!:ITPro

前半はLotus退社後自身が開発し、Microsoftに買収されたGrooveというコラボレーション・ソフトウェアの話です。

そして、後半に、コラボレーション技術についての重要な本質とも言えるべきことが語られています。
すなわち、中央集中化と分散化、統制と権限拡大です。

コラボレーションを実現する技術において重要なのは、中央集中化"か=or"分散化ではなく、両方だということです。そして、そのバランスは、ユーザの環境や業務内容によって異なります。
たとえばその企業のコアとなる業務のような部分は中央集中の方が効果が高くそれ以外の業務については分散の方が効果が高いなど、バランスのとり方こそが勘所となります。そして、そのバランスを取れるのは、その技術で何をすべきかがわかるビジネス・エキスパートだ、と指摘されています。

『「みんなの意見」は案外正しい』でも指摘されていることですが(参照エントリ)、分散だけではダメでそれを集約する機能が非常に重要となります。また、もちろん中央集中だけでもダメです。うまく分散させ、かつうまく集中するようなそういう仕組みを作ることが非常に重要となってくるということです。


閑話休題。
オジーさんは、ソフトウェア・アーキテクトとしてすごい人だと思います。Notesもいろいろ問題はありますが、やはりあの強固なレプリケーション機能や非定型文書の取り扱い方法、セキュリティなどについては、いまだWebアプリ系グループウェアの追随を許さない先見性があると思います。
そんなオジーさんを自身の後釜として据えたビル・ゲイツさんもいろいろ言われていますがやっぱりすごいと思います。かつてのライバルであり、GrooveはMicrosoftの現行製品でも競合しているにもかかわらず、おそらくレイ・オジーという人を買収したのでしょう。

2006年11月26日日曜日

広告モデルはパイの食い合いとなるのか

引き続きメディア・パブから。

最近のオンライン広告の好調さが伝えられています。
確実に広告費の何分の一かはインターネット・メディアに流れていっているようです。

メディア・パブ: TV広告費がオンライン広告へ,2010年までに約2割がオンラインビデオ広告に
メディア・パブ: 強気なネット広告予測,メディアのオンラインシフトに拍車
メディア・パブ: 米新聞社,こぞってYahooやGoogleと広告事業で提携へ

気になるのは、最近のWeb2.0的サービスの収入源として広告収入というのが定着してきつつあることです。
社会全体の広告費が増えていないのだとすると、けっきょく既存メディアとパイを食い合っているだけとなり、はたして社会的価値を増加させているのかという点です。
もちろん、Web2.0的サービスを消費者が無料で利用できることにより、他の消費が増える、もしくは給料が減る代わりに企業の広告費が増える、といったことになれば社会的価値の増加に貢献していることになるのかもしれませんが。(よいかどうかは別として)

メディア・パブ: 米新聞社の広告売上高,ネット広告を加えてもマイナス成長に

ということで、少なくともアメリカの新聞社の全体の広告費は増えていないようです。

2006年11月25日土曜日

集約機能の精度の問題

最近のメディア・パブから。

メディア・パブ: ソーシャルニュースが危険性を露呈,偽ニュースがdiggのトップページに

みんなの意見が案外正しくなるためには、「集約」という機能が重要ですが(以前のエントリ参照)、検索エンジンのランキングやFolksonomyといったようなWeb2.0的集約機能はもちろん完全なものではありません。
Folksonomyを活用したソーシャル・ニュース・サイトDiggで、虚偽情報が流されてしまいました。

他方で、編集者が人の手を介して集約機能を手がける韓国発の市民ニュースサイトOhMyNewsですが、こちらについても最近苦戦しているようです。

メディア・パブ: 韓国OhmyNews,今年は赤字転落か

情報の質にあわせてそれぞれの生きる道があるようには思うのですが、今後どうなっていくでしょうか。


また、おもしろい実験も掲載されていました。

メディア・パブ: 津波警報の緊急ニュース,気になるWebニュースの遅さ

先日の地震と津波速報で、Webニュースよりも圧倒的にTVの速報の方が早かったという事実です。
速報性はまだまだTVニュースに分がありそうです。

2006年11月24日金曜日

音楽税とDRM

ある音楽業界関係者が、音楽ファイルに対するDRMへの反発の立場から音楽税を提唱していることに対して、Techcrunchの記者が反対意見を書いています。

TechCrunch Japanese:DRMのかわりに音楽税とはあまりにバカげている

たしかに、音楽を創造することへの対価がすべて一律の税金で支払われることになると、音楽業界の創造性を阻害することにもなりかねません。業界内のパイの奪い合いだけとなり、新規開拓へのインセンティブが低くなるからです。

他方で、現在も、ドイツや日本では補償金制度によって、コピー媒体の価格に著作権料が一律上乗せされています。これは税金ではないですが、"音楽税"の発想と似ているものとなります。
違いは、補償金はコピー媒体となるメディアなどにだけかかるものなので、CDの売り上げなどは実際に売れた枚数に基づくことになり、Techcrunch の記者が批判する音楽業界の創造性はそこで担保されます。他方で、音楽税の場合、もし音楽業界の全ての売り上げを税に依存するとなると、記者の言うとおりの創造性の欠如が問題になるかもしれません。

が、音楽税が、音楽配信に対してのみのものだとすると、それ以外の売り上げ、たとえば、コンサートや関連グッズ販売、さらにはもしかすると細々と残っていることになるかもしれないCDやレコード販売の売り上げは、工夫次第で増やしていけるものとなり、音楽業界の創造性のインセンティブは失われない可能性もあります。
音楽配信はパイの奪い合いだけとなるので、おそらく音楽業界はそれ以外のところに活路を見出し、場合によってはイノベーションを起こしていくかもしれません。
それは、現在、フリーソフトやWebサービスを手がけている企業と同じ発想で音楽を取り扱うということにもなります。


話は少し変わって、他方で、こういう記事もありました。

メディア各社,違法コピー撲滅には法的手段より強固なDRM技術の開発を期待:ITpro

音楽会社も含めてメディア各社はDRM技術に期待しているようです。もちろん、このアンケートの選択肢には"音楽税"はなかったと思われるので、それについてどう考えているかはわかりませんが。

DRM技術は、いちいちネットワークにアクセスして認証を得なければいけなかったり、コピー回数や場所が限定されていたりするために、エンドユーザに不便をかけるものでもあります。

もともと著作権では"私的利用"によるコピーは認められています。
次の記事に、YouTubeでの話としてではありますが、今の日本でどの程度が"私的利用"の範囲になるかある弁護士さんの見解が述べられています。

YouTubeは“包丁”か“拳銃”か? 著作権法の専門弁護士に、YouTubeの合法性について聞く / デジタルARENA

この話に基づくのであれば、極端な話、10回未満のコピーは認められてもよいと思います。それもどんな媒体に対しても。
たとえ10回コピーできるとしても、後で自分で他の媒体にコピーすることを考えれば、10回分を使って10人にコピーするなんてことはなく、せいぜい5人くらいにコピーする程度ではないでしょうか?この程度は、現在の貸し借りの世界でもありえる数字です。
今のDRM技術による回数制限や媒体制限は少し厳しすぎる気がします。

また、配信料が十分安ければ、人は友達からもらってばっかりいることに引け目を感じたりするので、ほんとうに欲しいものは購入するとも思います。今のDVDソフトが低価格なためレンタルビデオ屋で借りずに買ってしまう人がかなりの数いるように。


著作物に対する経済的対価を得る方法については、コンテンツやメディアの違い、および配布規模の違いなどにより、さまざまな手法が模索されています。
1つ言えることは、著作物が広く広まることは、創作者にとっても消費者にとってもよいことだということです。ただし、その際に、創作の労力や価値に対して相応な経済的対価が支払われる仕組みをなんらかの形で構築する必要があるということです。そこの部分の社会的バランスの調整が今求められていることなのでしょう。

2006年11月23日木曜日

画面デザインにおける著作権と特許権

著作権と特許権に関する小ネタを。

画面デザインを著作権で保護するのか特許権で保護するのかということについて、過去の判例もひきつつ解説されている記事がありました。

画面デザインの保護(1)著作権だけで保護できる範囲は広くない:ITpro

画面デザインの保護(2)特許権は新規性・進歩性のあるアイデアを保護する:ITpro

画面デザインを、著作権を元に他に販売したり、特許権を元に他にライセンスするためには、かなりの独創性や新規性がないとなかなか難しそうですね。

一方、あきらかなデザインの不正コピーについては、著作権で保護しうるものと考えます。ちなみに、特許権で保護するためには出願が必要です。

2006年11月22日水曜日

知的財産権と独禁法

独占禁止法と著作権など知的財産権を守る法律との関係について、弁護士さんへのインタビューの形でまとめてあります。

知的財産権は、ときに独禁法に触れることがあります。健全な競争を害することがあるためです。

知財Awareness - アライアンス活動の拡大などで知的財産権をめぐる独占禁止法の問題が深刻化 − 弁護士 雨宮 慶氏インタビュー(上)

知財Awareness - 先進企業が知的財産経営で重視すべき「独占禁止法への対応」 − 弁護士 雨宮 慶氏インタビュー(下)

引用です。

近年の日本では企業が取り扱う事業の大規模化,複雑化,高度化,さらには効率化への要請などに基づいて,他社あるいは産学連携などを通じた「アライアンス活動」や協働が積極的に推進されており,こうした事業環境の変化に伴い,具体的には,(1)共同研究開発活動,(2)「標準規格」の設定とそれに伴うパテント・プールの形成,などが飛躍的に増えている。これらは,「ライセンサとライセンシ」という単純な図式だけでは捉えきれない複雑な事業活動であり,そのような局面に関する知的財産権の行使と独占禁止法の遵守について検討する必要性が非常に高まっている。

「健全な知的財産活動」と「独占禁止法に抵触する不公正な活動」の境界線を明確にする必要性がこれまで以上に増大している。



知的財産権については、次のような分かりやすくまとめてある記事を見つけました。

ITmedia エンタープライズ:これでわかる知的財産権の法律と規制


また、直接関係ないですが、最近の著作権および特許関連の動きとして、

著作権の保護期間にはなぜ制限があるのか:ITpro
「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」というものが設立されています。

日米欧の特許庁,共通様式の特許出願書類を導入へ - 産業動向オブザーバ - Tech-On!
「世界特許制度の第一歩」で書きましたが、現在日欧米を中心に特許制度の統一へ向けての動きが進んでいます。その具体的な方策が見えてきました。

2006年11月20日月曜日

急速に進展する経済的対価のスキーマと著作権の折り合いの模索

下リンク先の池田信夫さんのブログを読んでください。インターネット配信と著作権に関するアメリカのしたたかさを実感できます。

池田信夫 blog:踊る恐竜

「問題は訴訟ではなく、ビジネスなんだよ。訴訟を起こすのは弁護士ではなく顧客なんだから」

「ケーブルはたかだか300チャンネルしかないが、インターネットには無限のチャンネルがある。ハリウッドはネットを選ぶだろう。彼らは強欲すぎて YouTubeを殺すことができないのだ(They are too greedy to kill YouTube)」。彼は具体的には語らなかったが、「コンテンツの送り手が合意すれば、著作権なんて障害ではない」と、ILECとハリウッドの間で P2Pのときのような「取引」が進行していることをにおわせた。


私個人の正論としての意見は、インターネット配信と著作権の問題については、「著作権と著作物に対する経済的対価」で書いたように、権利の問題と経済的対価の問題をきちんと切り分けて、Creative Commonsでもなんでも権利の維持と著作物のコストの低い伝播方法をルールや制度として整えた上でインターネット配信を考えていくべきと思いましたが、アメリカでの現実はさにあらず、もっと早いスピードで現実的な対応が進んでいるようです。

YouTube自身、音楽会社と結んだものと同様の契約をNHL(米ホッケー・リーグ)などとも結んでいっているようです。著作権を音楽会社やホッケー・リーグに持たせたまま、配信方法をインターネット化させることで得られる経済的対価は折半するという方式です。

YouTubeが米ホッケー・リーグと提携,無料映像配信および広告関連で


ただし、「踊る恐竜」記事で取り上げられているハリウッドも、YouTubeが契約する音楽会社やホッケー・リーグも、コンテンツを本当に製作した人たちではなく、著作物を管理・配信してきた団体とインターネット配信会社との著作物の経済的対価に関する契約の話となっています。

つまり、アメリカで現実路線として進められているインターネット配信は、従来の著作権管理団体とそこで管理される著作物についての話なわけです。著作物を実際に製作した個人から合意のもと取り上げた上で著作権を独占的に管理している団体にとってみれば、著作権を確保しつつ経済的対価を得る経路が増えることはメリットの方が大きいと言えるでしょう。
とくに、YouTubeの配信の仕組みは、閲覧者が自由に編集できない形となっているので、著作権管理団体にとってはデメリットが少ないです。
そのあたりについては、「著作権より実をとる:情報の再独占と新しい広告収益モデル」でも書きました。

これはこれで、全員の言い分を聞くことができないような"著作権"などの問題の場合は有効な手段だとも言えます。「みんなが納得する枠組み作りの難しさ」でも書いたようにCreative Commonsであっても全員の言い分を聞くことに苦労しています。それだったら、とにかく大多数の経済的問題だけでも解決して前へ進んでいこう、というのも手段の一つとしては有効でしょう。

他方で、そのような著作権管理団体には所属していなくとも発生する著作権はたくさんあります。たとえば、インディーズ系の音楽作家、映画作家、書籍やマンガの著作者などです。これらの著作権については、上で紹介した現実路線とは別に、あるべき著作権とその対価の取得方法を模索していく必要はあると思います。

ちなみに、Googleは、
グーグル、ユーチューブ買収額のうち2億ドル相当を訴訟対策に
というように、確実に現実的路線で突き進んでいっていますね。その危険性と革新については「Googleは法を骨抜きにするか、新しい正義をうちたてるか」で書いたとおり。

また、日本の放送業界や通信業界での遅れについては、同じく池田信夫blogの「「NHKオンデマンド」の幻想」。

経済的対価については、訴訟による解決も含めてどんどん現実的な方法が進められていくでしょう。他方で、その経済的対価の根拠ともなる著作権のあるべき姿、著作物が文化の発展に寄与しかつ著作者の権利を守れるようなそういう形については、今後も模索が続くでしょう。
いずれにせよ全員が満足する形は困難なのでどこかで現実的な折り合いをつけていく必要があります。そのとき、先に進んだ著作物による経済的対価の現実的なあり方が折り合う着地点を提供するのかもしれません。

2006年11月15日水曜日

ブログと日記サイト

ブログネットワークについて書きましたが、そもそもブログの歴史を振り返っておくのもよいかもしれません。

ウェブログの歴史リンク集

にリンクがまとまっています。

ブログについては日本の特殊性が指摘されることも多いです。

断片部 - いつか作ります - ツールに見る日本のブログの歴史と特殊性

にもあるように、アメリカでのブログは、Webリンクとそれへのコメントというかたちで発展してきました。WebLog(ウェブログ)の由来でもあります。インターネットの世界における、情報発信、情報共有のためのメディアの1つのかたちでした。

一方で、日本では日記サイトが発展していたところに黒船としてブログが到来し、一気に移り変わっていったという歴史があります。

ところで、日本の文学の歴史では、海外と比べての特殊性として、私小説と呼ばれるジャンルが大きなものとしてあります。私小説は、自分のプライベートな生活を描いて公開するような小説です。
日本人は、自分のプライベートを告白することが好きなのでしょうか?どうでしょう?

少なくとも、20世紀の日本の私小説なるものと、21世紀の日本のブログ(日記サイト)に、なにか共通のものを感じてしまいます。

同じブログと言っても、アメリカでは実名で情報を共有するもの、日本では匿名でプライベートを公開するもの、というように、その使われ方の意識は違うということでしょうか。
もっとも、必ずしもそのように綺麗に分けられるわけではないことは言うまでもありませんが。

また、アメリカでは、MySpaceが日記機能を提供し、7000万人とも言われる会員数を集めています。
したがって、日記を公開したがるのはなにも日本人だけではない、ということは言えるかもしれません。
"ブログ"と呼ばれるメディアの使われ方の傾向の違いに過ぎないのかもしれません。

上のリンク集になかったものとして、次のようなものもありました。

日本のウェブログの歴史(詳細版)

2006年11月13日月曜日

ブログ・ネットワークとメディアとしてのインターネット

ブログの倫理についての各国の反応

のコメントで、新しいエントリで返答を書くと言いながら、なかなか書けていませんでした。


Web2.0の時代、いろんな情報がインターネット上に溢れだし、誰もがアクセスできるようになってきています。とくに、ブログという仕組みの成功は、今まで個人の頭の中もしくは小さな集団の中に埋もれていた情報を大量に表舞台に引き出しています。

"情報"がこれだけ引き出されてきているのは、
・人間は何か情報を表現していきたい生き物だから
・情報がなんらかのかたちで自分以外の人の役に立つから
だと思います。

後者の理由は、実利的に役立つだけでなくて、楽しませたり時間を潰させたりということも含まれます。

ただし、情報が人の役に立つためには、情報を正しく取り扱う必要があります。
情報を正しく取り扱うためには、その情報の目的や文脈が明示されている、もしくは了解されている必要があります。
たとえば、新聞の情報は報道という目的のものであるため客観的事実に即している必要があります。大衆小説の情報は娯楽という目的のものであるため事実に即す必要はありません。現実世界では、これらの目的が、メディアの違いや、番組時間枠の違いなどで了解されています。もしくは、明示的に「フィクションです」と断り書きがあります。つまり、情報の目的と文脈が明確なのです。
一般新聞でウソを書けば、その新聞社は批判され、記者はなんらかの制裁を受けるでしょう。逆に言うと、彼らはそういう職業倫理で記事を書き情報を発信しています。他方で、街の落書きを読んでその内容をまともにとる人はいません。

新しく立ち上がってきたインターネットの世界では、境界がより曖昧になってきていると言えます。大手の新聞社のサイトから、市民ジャーナリストのブログ、個人のブログ、匿名掲示板、等々さまざまな形式で情報が発信され、その境目は非常に微妙です。それがインターネットの魅力にもなっているわけですが、どこまで信用してよいのかわかりにくくなっているというのも現状です。それが、市民ジャーナリストの貴重な情報を大量のゴミ情報の中に埋もれさせたり、詐欺などのサイバー犯罪を助長したりしている面もあります。

そこで、最近では、ブログ・ネットワークというものが出現してきています。最近といっても1年ほど前からですが。

ブログネットワークが本格離陸,VCも有望市場として注目

いろんなブログネットワークがありますが、基本的には、登録ブロガーから寄せられるほぼ信頼できる情報を集めて公開することで、集客率のアップと広告費の獲得を目指すものです。
いまや、自分的にも、特定分野での速報性の高い貴重な情報源となっています。

とくにUSでは大手メディアも負けじとインターネット対応を進めていますが、こうしたブログ・ネットワークとの棲み分けは次のとおりのようです。

ロングテールのブログ vs ショートヘッドの主流メディア

このような形で、ブログで発信される情報の"集約"の仕組みが、いろいろなレベルで出てきているのが現状といえます。最初に書いたエントリで引用した記事では、フリージャーナリストによる業界規制のようなものを作ろうという動きもありました。

ここで、"集約"は、先日のエントリで書いたように、「みんなの意見」が案外正しくあるためには必須の条件です。

その他の"集約"の仕組みとしては、たとえば、はてなブックマークのようなFolksonomyもあるし、オーマイニュースのような記者によるレビューつき市民記者ニュースサイトもあると思います。

こうした"集約"のおかげで、信用できる情報の拠点が形成され、そこからのリンクなりトラックバックで信用できる情報をもとにしたブログが書けるようになっています。

もちろん、ブログに真実を書く必要はないわけですが、その場合、それはそのような情報として(真実ではないものとして)発信されるべきです。狙って境界を曖昧にすることもまたブログの内容をおもしろくするためには効果的かもしれませんが、それもまた"曖昧なもの"として発信されるべきです。

昔は、アメリカで、オーソン・ウェルズが火星人襲来のラジオ放送を冗談で流したところ大パニックが起きたそうですが、現代のラジオ放送でそれをやるのは困難でしょう。メディアが成熟するとはそういうことなのかもしれません。

現在のインターネットでの情報発信はまさにその過渡期なのであり、情報発信インフラとして信頼にたるものになるかどうかが試されている時期でもあるのかもしれません。『「みんなの意見」は案外正しい』でも指摘されていたとおり、「みんなの意見」は条件次第で間違いうることもあります。多様性、独立性、分散性、そして集約の仕組み、これらがそろってはじめて信頼にたる情報となりえます。インターネットの世界では、多様性と分散性はある程度成立しているので、あとは、それを集約する仕組みと、独立性、これが重要なポイントとなってくると思います。
そして、集約の仕組みについてはブログ・ネットワークのようないろいろな取り組みが現在進行形で取り組み続けられています。

2006年11月10日金曜日

「みんなの意見」は信用するにたるか

「みんなの意見」は案外正しい』 ジェームズ・スロウィッキー
を読みました。
納得できない部分も多々ありましたが、総じて非常におもしろかったです。

『「みんなの意見」は案外正しい』の主張は、一般的に思われているように大衆は烏合の衆でも衆愚政治の担い手でもなく、好き勝手な個人の意見が集まればなぜか正しいものとなるんだというものです。
ただし、そのためにはいくつか条件が必要であり、あるタイプの問題では必ず正しくなるとも言えないという限定付きです。それは著者自身がその限界を念入りに説明しています。
つまり、この本をよく読むと、「みんなの意見」は正しくもなり間違いもする、ということを言っているに過ぎないということにもなります。ただし、正しくある可能性が高いための条件が具体例とともに整理されている点は興味深いです。

まず、集合知が活用される場として、認知、調整、協調という3つの問題系が取り上げられます。この本の中では、認知と調整については、条件と仕組みさえ整えば、みんなの意見は案外正しくなる、としています。しかし、協調の問題については、人間の向社会性という性質のようなものを想定しないと、みんなの意見が正しくならないとしています。

・認知
ある時期に答えがはっきりするような問題において、評価をするための基準単位を明確にしてなるべく多くの人から数字を集め、その平均値を出せば、正解を出す確度がかなり高いとされます。
ただし、そこで取り上げられる例には偏りがあるような気もしますし、平均値が正しいとされているため、一回一回の予想値は大きくかけ離れている可能性も考えられます。

・調整
正解がない、もしくは時期や状況によって正解が変わってくるような問題において、集団内の各人の意見をうまく集約する仕組みがあれば、正解を出す確度がかなり高いとされます。
集約する仕組みとしては、明示されてはいませんが、読み取りうるのは次の3つです。
-慣習など規範が内面化されていて多くの人が自然と集団として正しい行動を取る
-意見を集めて判断する人なり組織が存在する
-売る買うなど2つの立場から出てくる意見が価格など明確な基準値によってバランスをとる仕組みがある

・協調
税金など公益、公共財の問題です。個人の最適化が全体としての最適化に反するケースです。個人が自己の最適化をはかればフリーライダーと呼ばれる公共財のただ乗りをする人が出てきて公共の仕組みが崩壊します。実際には、社会の構成員は、自己の最適化を追求せずにある程度公益を考えた行動をします。それには、社会の構成員間の信頼関係が重要であり、向社会性と表現するしかない人間の性向が重要です。
ただし、協調の状態は、誰かがズルをしだせば容易に崩壊しうる弱いものであり、状態を維持するためには、不正をモニターし、不正を行った人には罰が下されることが重要だとされます。


3つの問題系で集合知が賢くある条件としては、集団内の各個人が、多様、独立、分散であること、かつ、各個人の知をうまく集約する仕組みがあること、としています。

・多様
特定の偏りがなく、できるだけ多くの意見が取り入れられることが、集団として正しい判断をする条件となります。多ければ多いほど、多様な意見が取り入れられるほどよいとされています。

・独立
お互いが影響を与えず、多様性が維持されることが条件となります。とくに小さい集団には、間違いが伝播する集団極性化のリスクがあります。集団極性化を無くす前提として、各人が独立して意見を言い判断するということが重要になります。

・分散
権限が集中していないこと、独裁者による判断が行われないことが条件となります。ただし、次に述べる集約の仕組みがキーとなり、これがないと分散は縦割りなど逆にマイナス要素ともなりえます。

・集約
単になるべくたくさんの意見があればよいだけではなくて、それらの意見を集約する仕組みが必要です。たとえば、市場は価格という基準によりうまく情報を集約できています。Linuxでの取り組みを見てもそうですが、中央で意見を調整する人は存在するし、しないとうまくいかない、ということです。ただし、それと分散とは矛盾するものではないとされています。


この本で取り扱われているテーマに対する根本的な疑問としては、予測が当たったからといって正しいのか?ということです。社会的に正しい、歴史的に正しいなど、正しさはその文脈により相対的なものとなりえます。
群集の予想がある時期の状態を言い当てたとして、それが正しいと言えるのか、ということが根本的疑問です。


また、理論的反論としては、次のものが興味深いです。

「みんなの意見」は正しいか

Lessig Blog (JP):集団に知はあるのか?

ただし、最初のリンク先で指摘されている、「むしろ重要なのは、間違いを事後的に修正するフィードバック装置だ。」や「代議制民主主義には、投票の個人的便益(1票の差で選挙結果が変わる確率)がゼロに等しいという致命的な欠陥があるので」という点は、すでに本書の中で指摘されており、スロウィッキーさんも意識されています。

両方で指摘されている「コンドルセ定理」については気づいた範囲で本書では触れられていなかったです。これについては、触れるべきだったでしょう。


けっきょく、『「みんなの意見」は案外正しい』という本は、みんなの意見は正しくもあり間違いもするということを周到に述べているのであり、たくさん間違うにもかかわらず、これを信用するに足る何かがあり、現実世界でも「みんなの意見」を信用する方向に進んでいるように見受けられる、と指摘しているにすぎません。「みんなの意見」を信用しうるなんら客観的な根拠は示せていないと思います。
にもかかわらず、この本が興味深く多くの人の共感を呼ぶのは、この本が、よりよい社会にしていくために「みんなの意見」を信用しようと呼びかけているからなのだと思います。それはそれとして、個人的には重要な取り組みであり共感するところでもあります。

著者の主張をまとめると、「みんなの意見」を尊重することは、数々の問題も抱えているが他の仕組みよりも劣っているということはなく、現場の意見を反映させたり、さまざまな意見を取りうるという意味では優れているということなのでしょう。
「みんなの意見」を尊重すれば、それによる数々の失敗も他の人の意見を取り込むために必要なものとなり、「民主主義の経験は」、「いつか自分が勝利する機会もあると信じられる」ような「敗北の経験であり、敗北を受け入れる経験である」のでしょう。


この本の読書メモとしては、次のリンク先もまとまっていて非常に参考になります。

読書メモ:tokuriki.com:The Wisdom of Crowds (みんなの意見は案外正しい)

Casual Thoughts:『「みんなの意見」は案外正しい』の読書上の注意

2006年11月7日火曜日

多数のタスクを前にして(ランチェスターの法則で考えても)

「先送り地獄」でも書いたように、締め切りぎりぎりにならないと仕事ができないことが多々あります。
切羽詰った状況に自分を追い込んでしまうと、何か1つうまくいかなかったり、追加の作業が発生するだけで、あっという間に作業量が溢れかえってしまいます。

そんなことがないように、なるべく前倒しで作業すべきなのですが。

前倒し仕事術(2)──「五条大橋の戦い」に学ぶ

ここでは、多数の敵(作業)と戦うときに、なるべく一対一になる場所に誘い込んでそこで対応する、ということが紹介されています。

実際、たくさんのタスクを目の前にしたときに、やはり一度に全てを取り組むのは不可能で、けっきょく1つ1つ潰していく必要があります。
1つ1つタスクを潰していくためにも、作業のタスク化と順番付けが重要になってきます。

ランチェスターの法則というものがあります。
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/7769/kr/kr6.html

この第2法則によれば、多数の敵(タスク)に一気に対処しようとするれば、単純な引き算ではなくこちらの戦力(精神力)は壊滅的になることがわかっています。
私が、3の作業をこなすことができるとして、5の作業に相向かうとき、1つの作業が終わる間にこちらの精神力(=3)はすべて消耗してしまいます。
これはまずい。

やはり、なるべく一対一の状態にして対処していくべきということがよくわかります。

2006年11月6日月曜日

ネット社会(仮想社会)での調整の難しさ

忙しくてしばらく間があいてしまいました。やっぱりなかなか毎日続けるというのは大変ですね。

コピーライターであり、ほぼ日サイトを98年ごろから運営している糸井重里さんによる、Web2.0をはじめとする最近のWeb動向に対する意見です。

ディズニーランドにキティちゃんが入ろうとしたらどうする? 俺は止めるね
イトイさんに聞く「Web2.0」(その1)


イマっぽい現象をイマっぽい言葉で説明しても、“人体”とは合わないんです
イトイさんに聞く「Web2.0」(その2)


さすがなかなかおもしろい切り口で、Web2.0やITの渦中からはなかなか持てない発想ですね。
もっとも、何を言っているのかわからない(何も意味のあることを言っていない)と思う人もたくさんいるとは思いますが。

個人的には、たとえば、次のような指摘は、的を射ていると思います。


 このネット直接民主主義では、例えば「商品」の良い、悪いという話に関してはみんな割と健康にできるんです。

 商品への投票権はお金です。嫌だという人は買わないだけで、ほかの人が買うことまで邪魔するというところにはいかない。

 ところが、ご意見ものは違う。Aの意見が通ったら、Bの意見が通らないだけじゃなくて、Bは追放されるかもしれない。


ネット社会での調整の難しさですね。
適切な調停者がいなかったり、共通の目的を持たなかったり、共通のコミュニティ的基盤を持たない人同士の相対立する主張は、けっして交わることなく延々と続いていってしまいがちです。

"お金"という共通の指標があれば調整も可能ですが、意見の対立はえてして調整が難しい。

しかも、匿名をよいことに極論を好んだり、果し合い的泥沼を喜んで見る人もたくさんいます。
もうそうなったらどうしようもありません。

ほぼ日では、コメントやトラックバックはもちろん、掲示板機能さえ置いたことがないそうです。

やっぱり、意見の交換は、共通の目的なりコンテクストを持つ人同士でこそ可能なんでしょうね。

糸井さんはそのことを「肉体に近いところで考えないといけない」という表現をします。仮想の中ではなく、生身の肉体で、ということでしょう。
「ディズニーランドにキティーちゃんは入ってはいけない」と表現します。共通のコンテクストを持ったものでないと意見交換できないということなのでしょう。

たとえ、北朝鮮と日本の間でも、二国間の問題を解決する(日本は核問題と埒問題の解決、北朝鮮は経済制裁の解除)という共通の目的があれば議論は可能なんでしょう。
最後は、話が飛んでしまいましたが。

 
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